joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

Acknowledging having lost the game

2007年05月19日 | reflexion

以前、ある人が「人を許すということは、不可能だ。もし人を許すことがあるとすれば、それは忘却したときだ」という意味のことを言っていました。

人を許すことが不可能だと言う場合、そこには、意図的に人を許すことは不可能だという意味が含まれているのでしょう。

たしかに、こころの中のスイッチボタンをポン!と押すと人を許すことができるほど、私たちのほとんどは悟っていません。

人を許すマニュアルのようなものが本当にあるかどうかは、誰にも分かりません。いや、ないでしょう。ないからこそ、「許しのためのレッスン」といったセルフヘルプの本が売れ続けるのです。それは、簡単にダイエットできることはありえないからこそ、ダイエットの方法を説く本やDVDが売れ続けるのと同じです。

ただ、「ゆるし」のためのインスタントな解決策がないことは、実はほとんどの人が知っていることです。だって、「ゆるす」ための方法を実践してみれば、それが簡単ではないことは誰にも分かるのですから。

分かっているのだけれど、それでも私たちは「ゆるす」ことを追い求め続けています。

今日、ふと私が思ったのは、というより思い出したのは、人を「許せない」と怒っているとき、私たちは、その人に「負けた」という事実を中々受け入れることができていないということです。

自分が相手に「負けた」という事実に直視できないとき、私たちはその「負け」を何とか心の中で覆そうとします。そこで、相手を道徳的に劣った者とみなすことで、なんとか相手に勝とうとします。

しかしこの試みは上手くいきません。そもそも自分が「負けている」という事実を直視していないので、いくら心の中で「勝つ」ことを繰返しても、意識の奥には「負けた」という敗北感が感じられないまま残っているからです。

逆に言えば、相手に「負けた」という事実を受け入れることができるとき、私たちは、勝ち負けのゲームから脱することができ、心の中で相手に道徳的に勝つ必要などないのだと悟ることができるのでしょう。

現実での敗北を、心の中での道徳の勝負にすり替えても、勝ち負けに拘っている限りは、私たちは負け続けます。私たちに必要なのは、自分が勝ち負けのゲームのこだわり、それゆえに負けたことを認識することです。その敗北の事実をしっかり直視できたとき、私たちは勝ち負けのゲームを手放すことができます。

絵本 『ピアノ調律師』 M.B. ゴフスタイン(作)

2007年05月19日 | 絵本・写真集・画集
M・B・ゴフスタインによる絵本『ピアノ調律師』を読みました。

人々が子供にかける期待と、しかし子供自身がもともと持っているものとの対比が鮮やかに描かれています。

私たちは、主人公の少女デビーよりも、そのおじいさんのルーベン・ワインストックの気持ちにより感情移入しやすい。しかしワインストックさんの感情がデビーによって裏切られるとき、私たちは本当はデビーによって人生の真実を教えてもらっているのです。

とても素晴らしい絵本です。


ピアノ調律師

すえもりブックス

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