joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

なんか不思議

2007年05月21日 | 日記



私の姉が今年の春から就職しました。

彼女は40歳を超えていて、大学を出た後3年ほどOLをして、20代で結婚してからは主婦になり、30代の後半からパートで働いていました。

今回は別の会社に正社員として就職したとのこと。お給料がどれほどかは知りませんが、若い女性と一緒に採用されたそうです。

その会社は本社が東京にあります。今度その本社での研修にも行くように言われているとのこと。

一緒に採用された女性たちは、もう辞めてしまったそうです。仕事は事務なのですが、その会社が扱う商品の種類を覚えるのが大変なんだそうです。

姉は夫一人と子供一人の三人夫婦。炊事洗濯は(おそらく)彼女がしているのですが、会社の人には6時には帰ってよいと言われているそう。

あまりビジネスには縁がないように見えた人ですが、今になって会社勤めをまた始めるのですから、人生って不思議です。


Acknowledging having lost the game

2007年05月19日 | reflexion

以前、ある人が「人を許すということは、不可能だ。もし人を許すことがあるとすれば、それは忘却したときだ」という意味のことを言っていました。

人を許すことが不可能だと言う場合、そこには、意図的に人を許すことは不可能だという意味が含まれているのでしょう。

たしかに、こころの中のスイッチボタンをポン!と押すと人を許すことができるほど、私たちのほとんどは悟っていません。

人を許すマニュアルのようなものが本当にあるかどうかは、誰にも分かりません。いや、ないでしょう。ないからこそ、「許しのためのレッスン」といったセルフヘルプの本が売れ続けるのです。それは、簡単にダイエットできることはありえないからこそ、ダイエットの方法を説く本やDVDが売れ続けるのと同じです。

ただ、「ゆるし」のためのインスタントな解決策がないことは、実はほとんどの人が知っていることです。だって、「ゆるす」ための方法を実践してみれば、それが簡単ではないことは誰にも分かるのですから。

分かっているのだけれど、それでも私たちは「ゆるす」ことを追い求め続けています。

今日、ふと私が思ったのは、というより思い出したのは、人を「許せない」と怒っているとき、私たちは、その人に「負けた」という事実を中々受け入れることができていないということです。

自分が相手に「負けた」という事実に直視できないとき、私たちはその「負け」を何とか心の中で覆そうとします。そこで、相手を道徳的に劣った者とみなすことで、なんとか相手に勝とうとします。

しかしこの試みは上手くいきません。そもそも自分が「負けている」という事実を直視していないので、いくら心の中で「勝つ」ことを繰返しても、意識の奥には「負けた」という敗北感が感じられないまま残っているからです。

逆に言えば、相手に「負けた」という事実を受け入れることができるとき、私たちは、勝ち負けのゲームから脱することができ、心の中で相手に道徳的に勝つ必要などないのだと悟ることができるのでしょう。

現実での敗北を、心の中での道徳の勝負にすり替えても、勝ち負けに拘っている限りは、私たちは負け続けます。私たちに必要なのは、自分が勝ち負けのゲームのこだわり、それゆえに負けたことを認識することです。その敗北の事実をしっかり直視できたとき、私たちは勝ち負けのゲームを手放すことができます。

絵本 『ピアノ調律師』 M.B. ゴフスタイン(作)

2007年05月19日 | 絵本・写真集・画集
M・B・ゴフスタインによる絵本『ピアノ調律師』を読みました。

人々が子供にかける期待と、しかし子供自身がもともと持っているものとの対比が鮮やかに描かれています。

私たちは、主人公の少女デビーよりも、そのおじいさんのルーベン・ワインストックの気持ちにより感情移入しやすい。しかしワインストックさんの感情がデビーによって裏切られるとき、私たちは本当はデビーによって人生の真実を教えてもらっているのです。

とても素晴らしい絵本です。


ピアノ調律師

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to+動詞の原形の謎

2007年05月18日 | 語学
英語の to+不定詞 と、~ing との違いを、大西泰斗さんは次のように説明しています。

I like playing with my kids.
I like to play with my kids.

日本語に訳せば、どちらも「子供と遊ぶのが好きだ」になります。

しかし、playing with my kids は、まさに生き生きと子供と遊んでいる姿を思い浮かべるときに使う言葉なのです。~ingとは、「進行形」ですが、この「進行形」は、まさに今その場所で動作が行われている臨場感を表現します。

たとえばbe動詞 + ~ing とは、be動詞という「事実」を表す動詞と、~ingという「ワシャワシャワシャ」とした臨場感のある動きのある表現を結びつけて成り立っています。

I like playing with my kids.

は、そのように子供と遊んでいる情景をリアルに思い浮かべるときに使う表現だといえます。

それに対して

I like to play with my kids.

のto play with my kids には、大西さんに拠れば、playing~のような臨場感を話者は感じていません。

to+不定詞 は、もっと無気質な、具体的な情景とは結びつかない、「一般論」というニュアンスを帯びています。「そもそも子供と遊ぶこと」というニュアンスです。

このようにplaying with my kidsもto play with my kidsも、どちらも訳は同じなのですが、では何が違うかというと、その言葉を使っているときの話し手の感覚に違いがあると言えます。

これが大西さんの説明なのですが、最近私はある方が書いた文法書で次のような説明をみかけました。その方の説明によれば、

to+不定詞と~ingとの違いは、to+不定詞の場合、それは「未来」に行われることを表現しようとしているのに対し、~ingは自分が経験したことのあることを表現している、ということです。例えば

It's very hard to cook it.
Cooking is very hard.

これも、日本語訳は同じになります。しかし、その方の説明によれば、

「to+動詞の原形」は、主語のときは「これから~するとすれば」を意味する。

「動詞ing」は、「これまでやってきた動作」と「これまでやってきた動作をこれからも~すれば」を意味する。

とのことです。

この説明を読んだとき、私は「おお、そうかぁ!」と思いました。

大西さんの説明も分かりやすいのですが、もう一人の方の説明を読んだとき、私はingとto動詞原形との違いがより分かった気がしました。

上の説明では、「主語のときは」という限定がついていますが、主語以外のとき、例えば「主語みずからが動いて~する」「~して~する」を意味する動詞で「動詞+to不定詞」の形を取る場合も、to不定詞は、「これから~する」という意味を表現します。例えば

Please remember posting the letter.

上の文章では、「手紙を出したことを覚えていて」となるのに対し、

Plaese remember to post the letter.

では、「手紙を出すことを覚えていて」となります。

別の例としては、

I stopped eating hamburger.

は「ハンバーガーを食べるのをやめた」となるのに対し、

I stopped to eat hamburger.

は「ハンバーガーを食べるために、立ち止まった」となります。

ここでも、動詞ingが、「それまで行っていて、それ以降も続くであろう動作」を表現しているのに対し、to動詞の原形は、「これから行うこと」を表現しているのです。


しかし大西泰斗さんは、『英文法をこわす』の中で次のようにおっしゃっています。「しばしば「toは未来志向である」という主張が見られる。…しかしこの議論はいささか乱暴だ」と。

例えば 

I want to go to the zoo.

のto goを「未来の出来事」と呼ぶことはできます。しかしこれがそう見えるのは、wantの「~したい」という意味自体が、未来を指し示すからであって、to goそれ自体に「未来」の意味があるわけではないとのこと。

例えば上に上げたもう一人の文法書を書いている方は、先ほど述べたように、「自動詞+to不定詞」は「~して、これから~する」という「未来」の意味を表現すると説明されています。

例えば、come, go, run, swim, walk, forget, remember, climb, start, stopなどにto不定詞が続いた場合ですね。その場合に「~して、これから~する」の意味が出てくるのは、二つの動詞をtoで関連させることによって、その二つの動詞の因果関係をハッキリさせているためです。

I remember to see you.
Dont't forget to do homewok.
He is running to catch the train.
She starts to date with him.

どれもto不定詞は「未来」を表現しています。ただ、これらが「未来」を表現するのは、come, go, run, swim, walk, forget, remember, climb, start, stopなどの動詞が自動詞として最初に主語の動作を表現しており、to不定詞はその最初の動作を主語に行わしめている原因を表したり、あるいはその動作を補足して説明する機能を担っているからです。

何を言いたいのか、読んでいる人は分かりにくいと思うのですが(書いている私も分からなくなってきた)、私には、大西さんの言い分は正しいように思えるし、もう一人の方の言っていることも正しいのだと最初は思いました。

ただ、大西さんが、to不定詞の機能一般を説明しようとしているのに対し、もう一人の方は、to不定詞が主語になる場合、あるいは「自動詞+to不定詞」の場合のto 不定詞の機能を説明されようとしています。

大西さんが言うように、

He is easy to please.
It is kind of you to take care of us.
I was shocked to hear the news.

などの表現では、to不定詞は「未来」を表しているは言えません。

あっ、It is kind of you to take care of us.では、to以下の文章は主語だけれど、to以下は「未来」というよりも、過去に行われた事実を表現しているな。

ふさわしいかふさわしくないか

2007年05月18日 | 日記



ある場所に行きたい。けど、その場所に自分は相応しいのだろうか?という問いを寝る前に意識してそのまま布団に入ります。

すると、その場所にいる人との相性があまりよくないというイメージの夢が現れます。

そういうことが、もう5回ぐらいあります。

ということは、やっぱり僕はその場所に相応しくないということか?

それとも、その夢はべつのことを示唆しているのか?


池田晶子さん

2007年05月17日 | 日記
今日、ネットを徘徊していて、池田晶子さんがお亡くなりになっていたことを偶然に知りました。

かつて私が、問題の答えを探し求めるというより、何を考えればいいかすら分からなくて焦燥感をもっていたときに貪り読んだ本の一つが、池田晶子さんの一連の著作でした。

私は彼女のベストセラー『14歳からの哲学―考えるための教科書 』は読んでいませんが、それ以前に出たものはほぼ目を通していると思います。

私は彼女の考えには納得できなかったのですが、それでも彼女の何かに惹きつけられるように、その著書を読んでいきました。意見には首肯できず、その語り方に反発を覚えても、それでもまったく無視することができない何かが彼女の文章にはあったのだと思います。

彼女の考えには納得できなくても、彼女の表現スタイルに、どこか憧れに似たものをもっていたのかもしれません。

アカデミズムの世界の規則には従わず、自分の考えを直接的に文章として原稿にぶつける彼女のスタイルは、誰もがそうしたいと思っている文筆の仕方です。

ただ、それを本当にやってのけている点で、彼女の中には彼女なりの動かしがたい確信があったのだと思います。

彼女の文章は、その確信の中で、もはや他者の意見によっては左右されない境地に至っていたのだと思います。

彼女にとっては、自分が正しいかどうかについて考える必要もなくなっていたようでした。自分の確信の中にいることにより、その確信の強さで彼女の文章は一つの芸術のようになっていました。

ご冥福をお祈り申し上げます。


ことば

2007年05月16日 | 日記
言葉というものに積極的な機能があるとすれば、それは断言を避けることにある。

いや、断言を避けることは、私たちはできません。すべての言明は断言だと言われれば、そうだから。

でも、言葉は、その断言の上にさらに言葉を重ね、「でも」「しかし」「詳しく言うと」などと付け加え、さらなる考察を加え、それまでの言明をより内容豊かにしたり、あるいは軌道修正することができます。

言葉を重ねれば、断言を自動的に修正できるとは思えません。どれだけ言葉を尽くしているように見えても、単に最初の断言を強化しようとしているだけに見えることもあるから。

おそらく、言葉を用いようとする感情・情動の動きをより内省し、その情動を掘り下げることに言葉が役立っている限りにおいて、言葉は最初断言を修正できるのでしょう。

最初に言葉があるのか、それとも最初に情動があるのか。

私は、ケース毎に違うということなのだと思う。

言葉があることで私たちの感情が作られていると実感することはあります。

しかし自分の情動の動きを抑えようとすることで初めて、それに適切な言葉が選ばれることがあります。その情動の動きを抑えようとする際に内省が加えられるとき、そこに言葉が作用していると考えることもできます。しかし、その内省の言葉を慎重に用いようとする情動の動きがあって初めて、適切に内省が加えられているように思います。

逆に言えば、最初の情動を抑えようとする慎重な態度がない場合には、どれだけ言葉を尽くしても、自分の情動を変化させることはできません。

言葉は、それだけでは、私たちの感情を上手に調節することはできません。言葉の巧みな操り手が、かならずしも自身の情動をうまくコントロールしているわけではないように思うことがあります。

しかし同時に、私たちは、言葉を利用することで、自分の慎重な態度・情動の修正を方向づけることができます。

そして、さらに言葉を重ねることで、その修正をより進めることもできます。

その意味で、言葉とは、断言した際の感情・情動を修正するときにこそ、最も私たちの役に立っていると言えます。

他人とコミュニケーションをするというのは、この断言を修正するという言葉の機能を使うときなのだと思います。断言を修正し、自分の言った動機を掘り下げていくために、言葉が使われることです。

言葉による対立が行われるのは、どれだけ言葉を尽くしても、最初に断言を下した際の感情のレベルに停滞しているときです。

それに対してコミュニケーションとは、最初の断言を行った際の感情・情動を変化・修正していくことです。

自分の言ったことの動機を掘り下げるために言葉を使うことは、関心を再度自己に向けなおし、自分を内省することです。そこでは、他者への攻撃ではなく、関心が自分に集中しています。すると、相手を攻撃するために使った意見が、それは自分の感情に由来することを発見できます。

コミュニケーションとは、意見の一致を目的するものではありません。むしろ、感情の調和を目指すものととらえることができるでしょう。自分の動機を委細を尽くして語る過程で、意見の不一致を認め合うことができる次元です。

「対立」しているのは、自分の動機をまだうまく掘り下げることができていない状態なのではないでしょうか。自分が相手に起こったり攻撃したりしている原因が、自分に(も)あるということを見つめるのに脅えている状態です。

コミュニケーションとは、意見の一致ではなく、感情の調和を目指すためにするもの。

ドラマ 『吾輩は主婦である』

2007年05月15日 | 映画・ドラマ
ドラマ『吾輩は主婦である』を見ました。DVDで。

面白かった。内容は、とにかく面白い。

お話は、家計のやりくりでノイローゼ気味になった主婦に、千円札の夏目漱石がのりうつるというもの。37歳の主婦みどりの体に、37歳の夏目漱石がのりうつります。

宮藤官九郎の脚本は、才能のある俳優の才能を最大限に発揮させることができるのでしょう。

元々才能があっても凡庸な脚本のドラマでは光ることのなかった俳優の人たちが、
宮藤官九郎の脚本ではホントにいきいきとしているのです。

竹下景子さんがこんなにノリのいい女優さんだったなんて知らなかったよ。

それに斎藤由貴。その演技はまさに渾身のもの。

及川光博という人は、このドラマを見ていると、とても頭のいい人なんだな、と思います。自分のしていることがどういう効果を持ち、まわりからどう見られているかを、ひじょうに客観的に見つめることができる人なのです。このドラマは、そういう彼の頭の良さがとても発揮されている。

そして、池津祥子。上の三人と同じ存在感を醸し出している。すごい。

忘れていけないのが、本田博太郎。夏目漱石の内面の声を演じているのですが、表に出ない分、このドラマを影でコントロールしているのは、この人なのです。


脚本の奇想天外さと、あっと驚く各エピソードのつながりは、まさに宮藤官九郎の頭の柔らかさが発揮されたもの。もうこれは、彼にとっては勝手に発想が湧いてくるのでしょう。こんなお話、計算していたらできないもの。

脚本家と俳優の才能が爆発している、そんな作品です。



参考:『やな家 - 家庭内デートPV』

“Mind Mapping” Michale J. Gelb(著) 2

2007年05月15日 | Audiobook
“Mind Mapping” (Michale J. Gelb)というオーディオブックを聴きました。と言っても、これは二年ほど前に買ってそのときにも聴いていたのですが、思うところあって再聴。

英語は以前よりも聞き取れましたが、内容はどれほど理解しているのだろう?マインド・マップとは魅力的なツールにたしかに見えますが、どこか私には難しく感じられます。

マインド・マップはご存知神田昌典さんが広め、今では多くの人が思考整理のためのメモとして活用している方法です。公立の中学でも教えられ始めているそうです。

ここで私がマインド・マップの特徴を説明できればいいのですが、私自身はCDを聴いても本を読んでもイマイチ理解していません。

その上で印象を話すと、マインド・マップとは、思考を整理する際に、キーワードを用い、色々な項目のキーワードのつながりを線で表現します。その際には、中心に核となるキーワードを用い、そのキーワードと他の項目との関連がどのように結びつくのかを、線で結ぶことによって、頭の中を整理します。

これは、キーワードとキーワードを「てにおは」でつなげるよりも、見取り図で各項目間との関連を示すので、話の内容を早く頭で整理できるということです。

少し長い話をメモしようとすると、これまで私たちは、項目を一つ一つ並べて、その関連を言葉で説明しようとしました。

 A
 B
 C
 D
 E

のように。しかしこれでは、AとBのつながりは分かっても、AとCのつながりは分かり難いし、BとDのつながりも分かり難いし、A とEのつながりも分かりにくい。

これらの項目のつながりが分かりにくいということは、このABCDEと続く話は、全体として何が言いたかったのか?ということも分かりにくいということです。

そこでマインドマップは、これらの内容(項目)のつながりを、一目でイメージできるように図で示します。

GH
|
M-A-B-C
N   E-IJ
F-KL

こういう感じで(と言っても分かりづらいと思います。ここに理想的なマインドマップの図があります)、キーワードのつながりを描き、話の内容の一つ一つがどのように関連し合っているのかを表現します。

ただ、元々ぼくがメモを取らない人間だということもありますが、と言うよりそれが大きな原因だと思いますが、僕自身がマインドマップを描こうとしても、なかなかうまく書けない。書いていても自分で「なるほど」と思えないのです。

おそらくマインドマップは、自分の理解した話の根本的なテーマをはっきりさせ、そのテーマに沿って全体の話の流れを再整理するツールなのだと思います。

このオーディオブックで挙げられている例で、ビジネス上で対立していた二人の人が、自分たちの考えをマインドマップで表してきました。

マインドマップを書く際には、中心に自分にとってコアとなる価値・ゴールを設定し、そのゴールにとって一つ一つの問題がどう関連するかを線で結びます。

ふたりがそのマップを付き合わせると、一つ一つの言葉では対立していても、相手が本来目標としているゴールが何かが図によってすぐに分かり、自分たちの意見対立は何が原因で、お互いが有している意見のどこか同じなのかがより分かるようになるということです。

これはありうる話だと思う。「意見」の対立というのは、続けていると、お互いの言葉尻の対立を延々と続けています。

しかし自分たちの考えを図で表すことで、そもそも二人の価値は何であり、諸々の項目はその価値とどう関連するかを示してくれると、相手の意見の背景がより分かりやすくなるのです。

この例ではマインドマップの活用例が分かりやすいのですが、それでもいざ自分でマップを作ろうとしてもうまくいかないのです。書いていてもしっくりこないというか。納得感がないというか。

まぁ、ちゃんとまだ理解していないだけなんでしょうけど。

ちなみに、精神科医の中井久夫さんは、1980年に出した彼の著書『分裂病と人類』の中で、このマインドマップとほぼ同様のメモを、読者が理解しやすいように付けています。おそらく、大量の知識を瞬時に整理できる天才型の人たちは、マインドマップ(とフォトリーディング)と同様の思考方法を身につけているのでしょう。

マインド・マップというツールがビジネスとして喧伝されることの意味は、このような天才だけが知っていた方法が私たちにも知ることができるようになったということなのでしょう。

それが、天才だから活用できた方法なのか?あるいは本当は誰でも使える方法なのか?私にはまだ分かりません。

なぜ私がマインドマップに馴染めないかというと、元々図形に弱いからだと思う。言葉と言葉を線で結び付けられても、そのつながりにある関連が頭にすぐに入ってこないのです。

でも、もう一度このマインドマップについては、少しずつでも勉強してみたい(勉強法の勉強だ)。

マインドマップが描く図には馴染めない私ですが、このCDを聴いていても、その発想は分かる気がします。何かを考えるときは、一つ一つの文章で考えるのではなく、イメージとイメージのつながりを意識することで、物事の関連を早く整理するのです。

また、自分が物事を考える際の価値・究極のゴールは何かをはっきりさせるというのも、思考においては有効だと思う。


 “上田義彦写真集 at home”

2007年05月13日 | 絵本・写真集・画集



写真家・上田義彦さんの写真集『上田義彦写真集 at Home 』を見ました。

上田さんが、妻の桐島かれんさんとの子供の成長過程を写真に撮りためたものが収められています。お子さんは、女の子三人に末っ子の男の一人。

まず思ったのは、とても素敵な家に住んでいるということ。最初は葉山(葉山ってどこ?逗子や横須賀の近くなのね)で、次に麻布なのですが、(おそらく)木造の広い家で、落ち着きが漂っている感じです。

写真は、撮る人の家族への愛情がつまっているというより、家族の間の愛情が写真の中に浮き上がっているという感じです。見ていくと、撮っている人が夫でありお父さんである上田さんであることを忘れています?これはどういうことだろう?

おそらく上田さんは、自分の家族を撮るときでも、限りなく客観的になれる人なのじゃないだろうか?自分の愛情を写真や被写体に押し付けることはせず、カメラをもった途端に、被写体である家族の人たちが感じている愛情をつかまえることができているみたいです。家族の人たちがお互いの家族や上田さんに対して感じている喜びや愛が収められているのです。

写真集としてもすごく分厚い本ですが、最初から最後まであっと言う間に見てしまいます。一つ一つの写真が、見ていてとてもほっとします。

とても素晴らしい写真集だと思います。



上田義彦写真集 at Home

リトルモア

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Das funktioniert nicht.

2007年05月12日 | 家電製品にかかわること
プリンタが故障しました。

購入した家電屋さんに保証書と一緒に持って行きました。

修理になるか、あるいは後継機種と交換になるとのこと。

問題は、結構時間がかかりそうだということ。ちょうどプリンタを使おうとしているところなのに、困った。困った。

みんなプリンタぐらいは二台以上持っているものなのかな。でも、僕にはそれは贅沢だと思う。

仕方がないので、プリントサービスのお店を使いたいと思います。

でも、新品と交換されるなら、それはそれで嬉しいかも。早く来ておくれ。

写真

2007年05月12日 | 日記



最近はなかなか写真を撮りに出るきっかけがつかめない。

これは、家の近くは大体もう歩いて撮ったということもあるかもしれない。もっとも、季節が違えば同じ風景もまったく違ったように見えるから、同じところを歩き回るのもそれはそれで楽しいはずなのだけれど。

あるいは、これまで同じような日常の風景ばかり撮ってきたけれど、別の類の写真を撮ることもいいのだろうか?人物とか。

でも町で歩いている人の顔を撮るのは失礼だし、撮られる人撮られる人一人ひとりに「お写真いいですか」と言って、しかも相手に受けいれられるほど、僕は愛想が良くない。

どこか写真を撮りに行くとしたら、どこに行きたいだろう?思いつくのは、富士山の近くかな。富士山を撮りたいというよりは、あのあたりの雰囲気が好きなのだ。富士山とか、長野県の避暑地とか、いいかもね。そういう場所で、お土産物のお店がないような所。

不思議な痛み

2007年05月12日 | 日記
一昨日に長時間立つことがあったので、その影響で背中の痛みがかなり戻ってきて、と言うよりさらに痛みが増しています。

正確には右の脇腹から背中にかけてが痛みます。

この痛みは何なんだろう?やっぱり筋肉痛かな。

数年前に私は椎間板ヘルニアになったのですが、そのときと同じようなイライラ感が襲ってきます。

いつかは治ると期待しているのだけど・・・

阪神

2007年05月11日 | スポーツ

今日、阪神電車に乗っていたら、阪神ファンがたくさんいました。

そう、甲子園には阪神電車でしか行けないので、試合の夜には阪神ファンがたくさん阪神電車に乗っています。

よく関西以外の人が関西人の関西弁を生で聞いて「関西人は本当に関西弁をしゃべるのか」と感動するらしいです。

阪神ファンを生で見るというのも、それと同じようなものかもしれない。

阪神戦なんて小学校6年のときに行った巨人戦以来見ていないので、タイガースのはっぴを着た阪神ファンを見たのもそれ以来かもしれない。

今日は久しぶりに勝ったそうです、阪神。井川君の穴が大きかったということですね。よく考えたら、長いイニングを計算のできるピッチャーというのが井川君と福原君で、片方はアメリカに行き片方は故障なのだから、現在の苦戦も当たり前といえば当たり前だったわけです。

今年の阪神は、ピッチャーが二人か三人ぐらい「大化け」してローテーションの一角を担うように成長してもらわなければならなかったのですが、それは要するにペナントが始まってみないと分からないということだったわけです。

と、わかったようなことを言っていますが、僕は最近は野球はまったく見ないので、阪神のチーム状態の経緯もよく知らなかったのですが。

井川君は大丈夫かなぁ。いいピッチングをする時もあるみたいだから、やっぱり調整次第なんでしょうね。