joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

ことば

2007年05月16日 | 日記
言葉というものに積極的な機能があるとすれば、それは断言を避けることにある。

いや、断言を避けることは、私たちはできません。すべての言明は断言だと言われれば、そうだから。

でも、言葉は、その断言の上にさらに言葉を重ね、「でも」「しかし」「詳しく言うと」などと付け加え、さらなる考察を加え、それまでの言明をより内容豊かにしたり、あるいは軌道修正することができます。

言葉を重ねれば、断言を自動的に修正できるとは思えません。どれだけ言葉を尽くしているように見えても、単に最初の断言を強化しようとしているだけに見えることもあるから。

おそらく、言葉を用いようとする感情・情動の動きをより内省し、その情動を掘り下げることに言葉が役立っている限りにおいて、言葉は最初断言を修正できるのでしょう。

最初に言葉があるのか、それとも最初に情動があるのか。

私は、ケース毎に違うということなのだと思う。

言葉があることで私たちの感情が作られていると実感することはあります。

しかし自分の情動の動きを抑えようとすることで初めて、それに適切な言葉が選ばれることがあります。その情動の動きを抑えようとする際に内省が加えられるとき、そこに言葉が作用していると考えることもできます。しかし、その内省の言葉を慎重に用いようとする情動の動きがあって初めて、適切に内省が加えられているように思います。

逆に言えば、最初の情動を抑えようとする慎重な態度がない場合には、どれだけ言葉を尽くしても、自分の情動を変化させることはできません。

言葉は、それだけでは、私たちの感情を上手に調節することはできません。言葉の巧みな操り手が、かならずしも自身の情動をうまくコントロールしているわけではないように思うことがあります。

しかし同時に、私たちは、言葉を利用することで、自分の慎重な態度・情動の修正を方向づけることができます。

そして、さらに言葉を重ねることで、その修正をより進めることもできます。

その意味で、言葉とは、断言した際の感情・情動を修正するときにこそ、最も私たちの役に立っていると言えます。

他人とコミュニケーションをするというのは、この断言を修正するという言葉の機能を使うときなのだと思います。断言を修正し、自分の言った動機を掘り下げていくために、言葉が使われることです。

言葉による対立が行われるのは、どれだけ言葉を尽くしても、最初に断言を下した際の感情のレベルに停滞しているときです。

それに対してコミュニケーションとは、最初の断言を行った際の感情・情動を変化・修正していくことです。

自分の言ったことの動機を掘り下げるために言葉を使うことは、関心を再度自己に向けなおし、自分を内省することです。そこでは、他者への攻撃ではなく、関心が自分に集中しています。すると、相手を攻撃するために使った意見が、それは自分の感情に由来することを発見できます。

コミュニケーションとは、意見の一致を目的するものではありません。むしろ、感情の調和を目指すものととらえることができるでしょう。自分の動機を委細を尽くして語る過程で、意見の不一致を認め合うことができる次元です。

「対立」しているのは、自分の動機をまだうまく掘り下げることができていない状態なのではないでしょうか。自分が相手に起こったり攻撃したりしている原因が、自分に(も)あるということを見つめるのに脅えている状態です。

コミュニケーションとは、意見の一致ではなく、感情の調和を目指すためにするもの。