joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

ガーナ2-0チェコ 予選2巡目

2006年06月18日 | スポーツ


ガーナってあんなに上手かったんですか?アフリカ勢ではコートジボワールばかりが評判になっていましたが、ガーナの攻撃におけるパスワークと波状攻撃はたしかに見事でした。

しかしそれはチェコの守備もかなりガタガタだったせいもあるんじゃないでしょうか。どうしてあれだけ常にゴール前で数的に不利な状況を何度も作ってしまったのか不思議です。それともそれだけガーナの攻撃が強力だったんでしょうか。

スコアは2-0ですが、ガーナはまともにシュートを打っていたら7点ぐらい入ってもおかしくない勢いでした。逆に言えばそれだけフィニッシュに問題があったということですが。ただそれも、日本のように根本的な問題というより、昨日の試合は「そういう日だった」という問題のようにも思えます。

チェコは1点差だけだったのに全然落ち着きがなく、攻撃で上手くパスがつながりませんでした。どこかちぐはく。欠場したコラーとのコンビネーションを私は知りませんが、それまでの評判のよさを考えるとコラーの欠場は相当響いていたのでしょう。

ガーナは昨日のような試合をすれば十分決勝トーナメント進出に値すると思います。ただ相手は何気に実力のありそうなアメリカです。どんな相手でもつねに昨日のパフォーマンスを維持できるかどうかが、ガーナにとっては強豪になれるかどうかの試金石なんでしょう。

チェコは昨日の敗北でガーナ以上に崖っぷちです。最終戦はイタリアですから。引き分けで決勝Tに進めるイタリアのゴールをこじ開けられるかはドキドキの注目です。

対するイタリアもチェコに敗れれば予選敗退です。日本にいては想像が難しいですが、あれほどの伝統国ですから予選で去るのはかなりの屈辱だろうし、選手もそれだけは絶対に避けたいでしょう。

次のイタリアvsチェコは、決勝トーナメント並みのプライドと恐怖の入り混じったガチンコ対決が見られると思います。


涼風

『福祉NPO―地域を支える市民起業』 渋川智明(著)

2006年06月17日 | Book


渋川智明さんという新聞記者の方が2001年に著した『福祉NPO―地域を支える市民起業』 という本を読みました。

この本は『はばたけスワンベーカリー』という本を読んだときに、アマゾンの「この本を買った人はこの本も買っています」で紹介されていたので手に取ってみました。

主に老人介護をサポートする福祉団体がNPOとして自立していく事例をレポートした本です。福祉NPOが介護保険制度(2000年から)を介して事業として成立する際に直面する問題を人財・法制度などの点から紹介しています。

私自身は元々こういった問題について無知に近かったので、この本が紹介するNPO団体の事例を読みつつも、今これらの団体が直面する問題が何なのかはまだわかりません。

ただ、老人介護・医療はこれまでも問題だったでしょうが、これからは国家の財政と社会の運営にとってもっとも中心的な問題になってくることは確かなのでしょう。「老い」ということが、人生からの引退・余生の時期であった時代は過ぎ去り、「老い」の時期が社会の成員全体にとって再検討すべき時代に入っています。

端的に言えばこれまでのように「老人」の医療費をこれまでのように社会(国家)が支えることは不可能であり、もはや「老人」は「老人」として存在することが許されなくなりつつあります。少なくとも国家からの支給はこれからは期待できなくなります。

にもかかわらず、では国家に頼らずに社会が「老人」の介護・医療を支えなければならないとするとき、NPOはひとつの解決策になりうることをこの本は紹介します。「老人」の数が大量になっていくことで、社会の側が自分たちの介護・医療を自分たちで支える試みが多くの場所で起こっているそうです。

また「福祉」といったことが特別な人が行うものではなく、主婦(夫)やサラリーマン(ウーマン)が関わる際に、NPOはひとつの足がかりとなりやすいこともわかります。

一番気になるのは、経済的にどのようにペイしているのかということですが、それは詳しくは述べられていません。全面的にボランティアで無償で関わっている人もいれば、ある程度お金をもらっている人もいて、最近は後者が増えているそうです。当然常勤の職員がいる団体もあるのですが、福祉NPOで働いて高給を得ることは難しいでしょうし、社会全体の平均的な給与額(ある試算では一世帯800万/年)を得ることも困難でしょう。

この経済的な問題のクリアはおそらくこれからますます求められてくるでしょう。若い人たちの間で一方では高給を得られる仕事を追い求める傾向はありますが、こうした福祉団体に仕事の場を求める人は増えているでしょうから、NPOがひとつのキャリア形成の場になることが考えられます。しかしそれもその団体が経済的に自立できるかどうかが鍵であって、そのあたりの事情はどうなのだろうと思いました。

また、こうした市民福祉においては、日本では生協や農協、社会福祉協議会という行政とつながる組織などが日本ではすでに浸透しており、これら既存の組織の役割が改めて見直されているそうです。

この本では、市民福祉が特定の人々がかかわる活動であった時期から、その必要性から誰もが関わるようになっている時期に転換していることをよく表していると思います。私自身が無知だっただけですが、行政に全面的に依存しない人々の自立的な福祉運営が社会に行き渡っていることを教えてくれます。



アルゼンチンvsセルビア・モンテネグロ

2006年06月17日 | スポーツ


なんとなく、ちょっとサッカーを見飽きてきたかもしれない。ワールドカップが始まってから一日一試合のペースで見てきたから。義務で夜10時にテレビの前に座っていると言えば大げさだけれど。試合が始まった途端に気分が疲れている。今日の試合はポルトガルvsイラン、チェコvsガーナ。ポルトガルもチェコも僕はまだ見ていないのでチェックする価値はあるのだけど、見ないかもしれない。


さて、昨日のアルゼンチンの試合。アルゼンチンが2点決めた時点で試合は実質終わっていました。勝たなければほぼ終わりのセル・モンはアルゼンチンから3点入れる必要があるのですから。

セルビア・モンテネグロもペネルティエリア付近まではゴールを持っていくのですよ。しかしその密集した地帯でも相手を崩すようなパス交換がうまくいかない。ミロシェビッチもケシュマンもいいFWかもしれないけど、中盤も含めてのいい化学反応が起きない。サイドからの突破など局面ではいいプレーをしても、ゴールを奪えるような危険な匂いが漂ってこないのです。

ストイコビッチの国だし、内戦から立ち上がろうとしている国だから応援していたんだけど…

昨日のアルゼンチンはサッカー監督たちにとっては理想のチームなのかな。全員でなだれ込むように華麗なパスワークで攻撃をしかけ、相手にボールが渡ると素早くチェックが行き全員がさっと守備に体制に入る。まさに全員攻撃・全員守備。いくら昨日のセルビア・モンテネグロが本調子ではなかったと言っても、ヨーロッパの強豪を完全に手玉に取るようにトリッキーなプレーと連携でゴールを次々と決めていきます。

僕はケシュマンが退場になった時点でテレビを消しましたが、その後にテベスとメッシが入ったんですね。毎年のようにマラドーナ2世が出現してくる不思議な国。

僕は今大会のブラジルを見ていないんですが、昨年のコンフェデのブラジルを思い出せるようなアルゼンチンの攻撃力です。


涼風

イングランドvsトリニタード・ドバゴ 予選2戦目

2006年06月16日 | スポーツ


2000年のユーロの後、塩野七生さんが感想を述べていて、「ポルトガルの活躍は私を喜ばせました。フィーゴは本当に顔が“男”ですね」「ジダンを見ていると、この男に愛される女性はなんて幸せなんだろうと思います」「(準優勝の)イタリアと(優勝の)フランスの差はジダンとデル・ピエロの差です。あのおぼっちゃん(デル・ピエロのこと)は代表を背負う責任がわかっていないとファンなら言うでしょう」といった興味深い感想を述べていました。

彼女の小説と同じく、彼女は勇気があり人望があり現実的でありかつ困難に打ち克つ強い精神力をもつ泥臭い男が好きみたいです。

そんな塩野さんにとって、今回のイングランドはきっと魅力的なチームに違いない。とにかく“男”を感じさせるヤツが揃っているのです。30歳になり顔に皺が増え、チームのために必死に守備もするベッカム。ジェラードとランパードという強力なダブル・ボランチ。後ろで構える大男、テリー。どいつもこいつも渋い男が揃っている。

こいつらは、映画で言えば『グラディエーター』のラッセル・クロウ、『トロイ』のエリック・バナ、『オーシャンズ・イレブン』のジョージ・クルーニーを思わせる男たちです。こんな渋い男たちに支えられてオーウェン、ルーニー、クラウチらが自由に動きます。

今度のイングランドはとても魅力的なチームだ。優勝候補に挙げられるのもうなずけます。

昨日の試合はトリニタード・ドバゴの堅い守りで攻めあぐねましたが、あれだけ守り一辺倒ではロジカルに考えればそのうち点が入るのも不思議じゃありません。

ベッカムのクロス、ジェラードのミドル・シュート、どちらもシビレれましたねぇ。

結果的にヘディングを決めたクラウチを残したエリクソン監督の采配が当たったわけですが、ミーハー・ファンとしてはオーウェン・ルーニーの2トップをやはり見てみたいですね。タイプが似ているかな。でもオーウェンがゴール近くで仕事をするのに対し、ルーニーは中盤からボールを持ちたがるタイプみたいだから共存すると思うのだけど。

ドイツは場合によっては決勝Tの一回戦でイングランドに当たりますが、現状ではxちょっとドイツにとって厳しいでしょう。またイングランドにとってもチーム力は自分たちが上でも地元のドイツとは避けたいはず。予選の3戦目は両チームともトップ通過を目指すべく勝ちを取りにいくんじゃないかと思います。

イングランドが次に対戦するのは、これも崖っぷちのスウェーデン。こちらはイングランドに勝たないと駄目なので、次の両者の対戦は見応えのあるものになりそうです。


涼風


スペインvsウクライナ

2006年06月15日 | スポーツ


いやぁもうびっくりしたなぁ。スペインの強いのなんのって。攻撃のときはみんなが走り、その中でボールをまわしてフィニッシュまでもっていく。その攻撃迫力満点。個の力ではなく前線の選手が集団でボールを回してあっという間に相手を崩してしまう。

僕はこの試合をみて99年のワールドユース決勝での日本・スペイン戦を思い出しました。あのときも日本はなす術もなく次元の違うサッカーでスペインにコテンパンにやられました。決勝進出にすっかり浮かれたわたし(たち)は、「やっぱり世界とはまだ差があるんだ」と現実を知らされました。

当時のニュースでは荒井義行さん(毎日新聞)が「世界に追いつくにはまだ10年必要なのか」と書いていました。しかしあれから7年。昨日のスペインを見ていると、7年前と差が縮まっているかと聞かれるとどう答えたらいいのだろう?

僕はこれまで全試合見ていないのだけれど、今大会は強豪国がちゃんと実力を出し切る大会になるのかもしれない。もちろんまだ慣らし運転の国もあるけれど、それでもヨーロッパと南米の一流国はちゃんと勝ち点を取っている。

かなり面白い大会になるのではないんでしょうか。

涼風

アンソニー・ロビンズのメッセージ 13

2006年06月15日 | 日記


13.あなたが誰かに答えたくない質問をされた時には、微笑みながら「なぜ知りたいんですか?」と聞いてみよう。


答えたくない質問をされたときって、相手には邪気が無くても、攻撃された感じがする。どう対応していいてかわからなくなる。質問に答えたくはないが、自分は冷静だというポーズは採っていたい。

微笑みながら「なぜ知りたいんですか?」と聞くと、少しは違った展開が訪れるのだろうか?

涼風


フランスvsスイス 

2006年06月14日 | スポーツ


ちらっと部分的にだけ見るつもりが、ジダンのボールタッチに惹きこまれて全部観てしまいました。

たしかに全盛期の2000年ユーロの時のようではないかもしれませんが、それでも彼にボールが渡るとあっという間にチャンスを作り出します。アンリが好調なら3、4点入っていてもおかしくない試合でした。

ただ見ていて何となく複雑な気分になったのも事実。ジダン・マケレレ・ヴィルトール・テュラム・ヴィエイラ・アンリといった黄金時代を支えた主要メンバーに変わりがないのは、フランス国民としても複雑なんじゃないでしょうか。幾人かはおそらく明らかに全盛期を過ぎているわけで、彼らの最高のパフォーマンスが発揮されているわけではありません。

このメンバーで優勝することはあるかもしれませんが、現状では“優勝すべき”チームには見えません。ファンから見れば、優勝して欲しいが、優勝に値するチームかと問われれば複雑になるんじゃないでしょうか。

ちょっと厳しすぎかな。

アンリが爆発すればまた雰囲気も変わってくると思いますが。

涼風

日本vsオーストラリア戦

2006年06月13日 | スポーツ


キーワード:
トップになればなるほど、能力の差よりも、心の持ちようが勝敗を決める。

解説:
ランキング200位に入る世界クラスのテニス選手は、技術的には同じ。
明らかな違いは、ボールを打ち合うコートにはなく、
試合の間の休憩時間にある。
負ける選手は、そのたびごとの結果に一喜一憂するが、
勝つ選手はうまくやろうが、ミスしようが、結果にとらわれず、
たんたんと最後までプレイする。

┃--「仕事のヒント」神田昌典365日語録--     No.331



オーストラリアに同点にされた時点で選手はがっくり来ていたんじゃないかと思います。あの暑さで耐えて耐えていただけに、集中力が途切れたように見えました。

1点を守ろうと集中していたのが、点を取られて緊張の糸がぷっつり切れてしまった。それに対して豪州は追う立場だったので攻めの姿勢を維持できました。終盤のゴールラッシュはそうしたメンタル面での差が大きかったのでしょう。

リードしていたときにもう1点を取れるチャンスが確かにありましたが、日本の得点力不足は日本サッカー全体の問題なので、個人を批判するのは意味ないでしょう。

日本のFWをみていると、確実にゴールを決められる状況にならない限りシュートをしないというのは、多くに人が思っていることでしょうが、日本のここ数十年の文化と関係しているのかもしれませんね。

船井幸雄さんはある対談の中で、昭和35年以後に生まれた日本人はすぐに諦める癖がついている。それは日本の教育制度と関係があると述べています。

例えば現在の大学アメフトは関西では立命館が強く、京大はかつての栄光もないそうですが、その原因は今の学生はすぐに諦めるからだと船井さんの知り合いの京大アメフト部の監督は考えているそうです。

立命館のアメフト部員は大学に入る前からアメフトをしているエリートなのに対し、京大はみんな素人。京大のアメフト部員で立命館でレギュラーになれるのは一人ぐらいだそうです。この差を見て京大の部員は最初から諦めるそうなんですね。

確実に勝てる状況にならなければ諦めるというのは、紋きり型の言葉ですが、「偏差値教育」の弊害かもしれませんね。地方国立大学の学生は旧帝大の学生より自分達は「頭が悪い」と思わされ、旧帝大の学生は東大・京大・早稲田・慶応の学生より自分達は「頭が悪い」と思わされ、一流大学の学生は自分達は東大の法学部と医学部の学生より「頭が悪い」と思わされているのが日本の教育制度であることは確かでしょう。自分で限界を作っちゃうのです。

日本では強引にシュートに持ち込むストライカーに見えた高原ですら、国際舞台では気持ちに躊躇しているように見えました。

船井さんは、本当に死ぬ気になればなんとでもなる。一旦死ぬ気になればどんな相手でもケンカに勝てる、とおっしゃっています。


涼風

アンソニー・ロビンズのメッセージ 10

2006年06月13日 | 日記

10.意見が合わない時には、フェアに戦うこと。相手を罵倒しないこと。


この「罵倒」というもには、僕の経験ではいわゆる“論理的”な議論も場合によっては含まれるんじゃないかなぁ、という気がする。

もちろん論理的なことが悪いのではなく、論理によって相手をねじ伏せようと言うエゴが入り込む危険があるという意味です。

議論は“論理的”に行われるからこそ、その論理に自分のエゴ・相手をやっつけたいというエゴが入りこむ危険があるし、それはつねにチェックしなければなりません。そしてそのチェックをできるのは本人だけだからこそ、議論には高い倫理が要求されます。

どんなに内心で「相手を破壊しよう」というエゴをもっていても、論理的に議論している間は、「中立に議論している」とごまかし切ることができます。でも、それは他人をごまかしているだけでなく、自分をもごまかしてしまうことになります。

どうしても議論しなければならないときは、自分に誠実になること。また相手と自分との間に感情的な闘いがあると感じられるときは、たとえ表面上は中立でも、それは無駄な議論になること。

一番いいのは、お互いが自分を疑うために議論をすることかもしれません。自分の正しさを証明するために議論をすると、自分に都合のいい証拠だけを見るようになります。


涼風

『売られるアジア―国際金融複合体の戦略』

2006年06月13日 | Book
2000年に出版された『売られるアジア―国際金融複合体の戦略』を読みました。著者は経済学者の本山美彦さん。

以前、国際金融の仕組みを知りたいと思いつつ『貨幣と世界システム―周辺部の貨幣史』を読もうとしましたが、私には難しくてついていけませんでした。

その本に限らず、経済に関する本を読むと、数字と論理についていくのが私には困難です。そういう書で要求されるのは、一つの論理でそれまでの背景を考慮して“ぱっ”と著者のイメージする図を把握することで、それには怖れずに論理から論理へと飛んでいくことが必要ですが、僕にはその力が欠けている。一つ一つ論理を追って行って間違うのが怖いので、細かい論理になると頭が怖くて前に進まなくなるのです。いわゆる「右脳」の発達した人は、論理から論理へと続く議論を、躊躇なく進めていく勇気(本人は勇気と思っていないだろうけど)と、自分は適切に議論している信頼感をもっているんじゃないかと思うのですが。こうした論理的・数学的(?)思考の柔軟さと、その人の持つ自己へのある種の「信頼感」(人間がもつ「信頼感」のすべてをカバーしているわけではなくとも)との関連について論じている議論ってあるのかしら?

本山先生自身は正統派経済学の人とは違うと思うし、またこの『売られるアジア』はいわゆる「経済学」的分析ではなく、1997年に端を発したアジア危機をめぐる各国とIMFとの制度改革をめぐる政治的な駆け引きを追ったものです(素人向けに書かれた本だと思いますが、こういう本でも私にはついていくのは簡単じゃなかった)。

基本的には、あえて負債を抱えながら高い投資比率によって製造部門を軸に経済成長を遂げてきたアジア各国と、各国の銀行の負債を強引に減らすことで外国から資金流入が入る条件が整って経済は成長するものだというIMFおよびアメリカの立場の対立を描写しています。

この銀行の負債の比率を適性な水準にすることで国際的な信用業務が達成されると取り決めたのが、いわゆるBIS規制ですね。これは一見中立な議論に見えますが、増田俊男さん・吉川元忠さん・そしておそらく本山先生も、この取り決めにはアメリカの思惑が反映しているとみなします。

つまり、もともと負債をある程度多くすることで投資を活発にし成長を遂げてきたのがアジア諸国の特色だったのに対し、一方的に銀行の取るべき負債の比率を通達してそれの満たない銀行を国際的な信用取引から排除すると決めたのがBIS規制だからです。

各国の経済の文脈を顧みずに、いきなりこのような通達が出されたことで、銀行の活発な融資と株式の持ち合いで成り立っていたアジア諸国の経済構造は破壊的な打撃を被りました(「9.株式持ち合いの今後」『株式会社 為替ドットコム』

BIS規制により、企業の株を保有していた銀行は、その株が時価評価で下がっている場合それを手放さなければ会計上損失を計上しなければなりません。それを避けるには株式の持合を解消することを強いられてきました。これによるアジアの経済成長を支えた巨額の融資は不可能になり、同時に株式の持ち合いの解消も余儀なくされたため、欧米外資によるアジア企業の買収も容易になったのが、90年代以降のアジア経済経済の状況です。

こうしてファンドが主体になった欧米各国がアジア企業で株取引を活発化させる状況が整ってきました。

いわゆるアジア危機は、こうしたファンドの短期取引の流れがあまりにも急で、一度それらが資金の引き上げを開始すればあっという間に株式市場の暴落を経験することを示しました。それから10年がたっていますが、現在の日本の証券取引の多くを外資が担っていることを見ても、つねに株価暴落の危険に曝されているのが、グローバル経済の現状です。

アメリカの大学で経済学を修めた研究者から成るIMFは、こうした暴落の原因を、株式の持ち合いと縁故によって企業間が結びつくアジア経済の状態が公正な市場取引を阻むため、外資の信用を得ていないから起こったことだと説明します。同様のことはベストセラー『レクサスとオリーブの木』でもアメリカ人・ジャーナリストによって主張されています。

日本における“不良債権の危機”も、BIS規制に見られる人為的な制度設定によって、それまでの日本経済の文脈が無視されて、無理やりな貸し剥がしを起こし、多くの企業が倒産に追いやられたのだとしたら、そこには国際政治経済の政治的な力学が国民個人の生活に大きな影響を及ぼしたことになります。



オランダvsセルビア・モンテネグロ ドイツ・ワールドカップの思い出

2006年06月12日 | スポーツ
隣同士の国だからというのもあるでしょうが、オレンジ軍団を見ていると98年フランス大会での彼らを思い出します。細かい戦術は分かりませんが、今回のチームも98年ととても似ているんじゃないでしょうか。

当時はベルカンプ、クライファート、オーフェルマウス、コクー、ダーヴィッツ、デブール兄弟と、素人の僕でも知っている豪華な名前が並んでいました。そのときのスター軍団に比べると名前では今回はやや見劣りするかもしれません。しかしコンピュータでプログラミングしたかのように各選手がつねにプレッシングと正確なパスをするところは前回と同じ。一人一人はワールドクラスの才能であろうのに、個が突出することなくチームの意図を優先させます。その中でロッベンだけは前線で自由にボールをもっていましたが、それもみんなの了解事項なのでしょう。

でも僕はみていてオランダは好きになれないな。なんというか、やっているサッカーがあまりにも“精確”で、人間ではなくコンピュータ(機械ではなく)がサッカーをしているみたいなのだ。チェスでもコンピュータが人間に勝つ時代からコンピューターがサッカーでも勝ってもおかしくない。

でもそのあまりにも統率の取れた完璧なチームプレーとスタンドでマス・ゲームのように一様にオレンジのシャツを着ているサポーターを見ていると、「自由の国・オランダ」というのはじつは幻想なんじゃないかと思います。

最初からプログラミングされたかのようなサッカーをするというのはオランダの強みですが、昨日の後半のように弦がゆるんだり体力が落ちたりすると臨機応変にスタイルの変化ができないのもオランダの弱点のようにも思います。

98年のブラジル戦では優勢に攻めながら決勝点を奪えませんでしたが、当時のブラジルのキャプテンのドゥンガは「オランダはずっと同じプレーばかりするから対応しやすかった」と言っていました。このあたりがオランダと対戦する国の留意すべき点かもしれません。


涼風

“Good Business” by Mihaly Csikszentmihalyi

2006年06月12日 | Audiobook


心理学者チクセントミハイが2003年に出した著書“Good Business: Leadership, Flow, and the Making of Meaning”オーディオCDを聴きました。

チクセントミハイのフロー理論とビジネスとの関係については、ソニーコンピュータサイエンス研究所代表の天外司朗さん(本名は土井利忠さん)が著書『運命の法則』の中で指摘しています。

フロー理論とは、その人にとってなにか“しっくりくる”ような分野や思わず夢中になってしまうことに関わっていて、我を忘れてその行為に没頭しているときの心理的状態を分析した理論です。チクセントミハイは60年代からシカゴ大学で“フロー”な状態についてアンケートなどを用いて分析してきました。

別のオーディオブック“Flow : The Psychology of Optimal Experience”で著者は、フロー理論について分析を始めたきっかけについて、第二次大戦での母国ハンガリーでの悲惨な状況の中で、それでも日々を過ごしていく人々を目の当たりにして、なぜこういう状況で人は生きていけるのか、こういう状況でも人が幸せを見出すとすればそれは何になのかを探求しようと思ったと述べています。

彼によれば、人はその人にとってどこかしっくりしていることをしているとき、内面が充実した感覚で満たされ、外からの刺激(食欲・性欲・金銭欲など)を求めることが少なくなります。

天外伺朗さんによれば、そのような心理的状態に人が入っていた典型的な事例が創業時のソニーの技術者たちだったそうです。当時のソニーは、市場のシェアを奪うためではなく、まさに技術者たちが自分の情熱をもてる対象に打ち込み、新しい技術を次々と開発していたそうです(昨日『HPクラッシュ』で紹介したhpも創業時からある時期まではそういう幸福な状態が続いていたのでしょう)。

また天外さん自身もコンパクトディスクの開発でフロー状態に入り、次々に難問を解決してCDの発明に至ったそうです(『光の滑翔―CD開発者の魂の軌跡』)。

チクセントミハイの“Good Business”は、こういったフローをめぐる議論を背景にして出るべくして出たのでしょう(チクセントミハイと天外さんの出会いについても『運命の法則』で述べられています)。なぜなら、「どうすれば人は幸せを見出せるか?」という問いは、現実の社会に生きる人々にとって「仕事と幸せはどうすれば結びつくのか?」という問いだからです。

この問いは“働いている”人だけに関わるわけではありません。なぜならすべての人が、たとえ自分自身は働いていないとしても、身内や社会の“働いている”人たちとの関わりで生きているからです。家庭の主婦や子供は働いている夫・父と関わって生きているし、その家族関係には夫・父と仕事との関係が大きく影響しています。

例えば不登校・イジメ・家庭内暴力といった問題を起こす子供の家庭の父親は、必ずと言っていいほど仕事での悩みを抱えているそうです。逆に言えば、人が仕事上で幸せに生きることができるなら、現在の社会の多くの問題が解決するのではないかと私は思います。

“Good Business”は“幸せに働くこと”とはどういう心理的状態を指すのかを素描した本だと言えます。これまでフロー理論を見聞きした人にとっては意外な議論は出てきません。

人がフローな状態に入っている際に見出されるメルクマールの一つは、自分がしている仕事の意味が明確になっていること。「意味」と言ってもこれはべつに深遠な思想を指しているのではなく、要するに自分がしていることは何なのかををその人が納得していること、という意味だと思います。

例えば和田裕美さんは、新人のセールスマンに対して経営者の感覚を付けさせることの大事さを説いています。社員を単に給料をもらう存在にするのではなく、会社の経営にはどれだけのお金が必要であり、どれだけセールスをすればどれだけ会社の運転資金となり、そこからどれだけ社員に給料として回るのか、、会社におけるお金の流れをハッキリさせることで、一人一人の社員の働きが会社にとって不可欠であることを意識させます。それによって社員は自分が割り当てられた仕事の“意味”を明確にでき、“納得”した感覚で仕事に向うことができます。

べつにチクセントミハイがこういう事例を述べているわけではありません。良くも悪くもこの本は抽象的な話に終始しているので、現場で働いてる人にはじれったいかもしれません。ただ、彼の言うフロー理論の要件である、仕事に対して主体的にかかわるということと、和田裕美さんが実践していることとは結びついているように私には思えました。

また、チクセントミハイは仕事の目標をハッキリさせることの大事さも説きます。ただこの目標というのも、単に「前年比売上何%アップ!!!」という数値を指しているのではなく、むしろその仕事上の技能・力量・ノウハウの向上といったことを意味しているのだと思います。

数値ではなく技能・ノウハウの向上と言うのは、後者ではそれによって主体の「内面が複雑化していく」ということが観察されることがポイントです。「内面の複雑化」とは、その仕事に深く関わることで、技能が向上するのに応じて、能力の向上という充実感と、それに伴う生の充実感とが感じられ、自分が人間としてより高度化していくような感覚です。このような状態が目標として設定されることで、社員は自分が進むべき道を“納得”することができます。

こうした目標の設定とリンクするのが、周りがその人に対してつねにフィードバックを与えることです。周りから仕事の評価についてフィードバックをもらうことで、社員は自分が行った仕事についてより詳細で多面的な解釈をすることができ、自分が行ったことの“意味”をより正確に理解し、自分の位置を把握でき、自分の行為について“納得”した感覚を得ることができます。

これらのフローのメルクマールを見ていくと、それは社員が自分がしていることに対する“納得”の感覚を得ることだと言えるかもしれません(“納得”という言葉をチクセントミハイが使っているわけではありません)。単に馬車馬のように道具として働かされるのではなく、“納得”という主体的・能動的な感覚を社員が持ち、自分の仕事をコントロールしているのは自分であると理解できることが大事なのでしょう。

もちろんどんな仕事でも主体性・権限をもたせればいいわけではなく、あくまでその人のその時点の力量に見合った任務を与えることが重要です。言い換えれば、どんなに未熟に見える人でも、その人が自律的に行動する自由を得られるような課題を与えることが会社にとって重要になります。

また同時に、その人の力量に合った仕事でなければ、その社員は仕事から喜びを得ることができません。

“Good To Great”の中で著者のジム・コリンズは、経営にとって大事なのは仕事に合った人を採用すること、こちらからモチベイトしなくても動いていく人を選ぶことだと述べ、またその仕事に合わない人を雇い続けることは、その社員の有限な貴重な時間を奪っているのだから、そういう人は仕事から外すべきと言います。一見厳しい言葉ですが、“幸福の感覚”を分析するフロー理論の立場からは正しい指摘だと言えます。

このことは、もちろん会社の側からの解雇を一方的に正当化するわけではありません。むしろ会社には、雇った人が幸せになれる任務を与える責任があると言えます。この点から見れば、会社の目的とは利益の最大化ではなく、社員に自分の仕事への納得した充実の感覚、技能・力量の上達と結びついた幸福の感覚を与えることになります。上場による資金集めは、そのための手段です。

こう書いていて思ったのは、成果給と仕事との関係。大竹文雄さんは『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』のなかで、仕事の成果が分かりにくい若年労働者には年功賃金がよく、成果がわかりやすい管理職には成果主義がよいと述べています。

これはようするに、自分の仕事を自分でコントロールできる立場(管理職)とできない立場(若手社員)との違いと置き換えられるかもしれません。もう少し言えば、自分で自分の仕事をコントロールしているという感覚を得られている場合には、ひょっとしたら人は成果主義を素直に受け入れられるのかもしれません。スポーツ選手のように。

しかしこの“コントロールしている”という感覚は、単なる権限の問題ではなく、フロー理論の立場から言えば“どこかしっくりくる”ことをしていることがポイントになります。

人は自分の資質に合うことをしているとき幸せになれるのだとすれば、その人にとってもはやお金は重要だけど二次的なものになるかもしれません。そういう人は能力給でも年功賃金でも受け入れられます。

しかし自分にあったことをしていると思えず、どこかいつも疲れている人は、仕事の内容が自分に合っていないのにさらに成果主義ではとてもついていけないでしょう。

重要なのは成果主義か年功制賃金かではなく、その人に合った仕事を人は見つけられるか、また会社はそういう仕事を与えることができるか、のように思えます。


参考:・『楽しみの社会学』 チクセントミハイ(著)

   ・『人材は「不良(ハミダシ)社員」からさがせ―画期的プロジェクト成功の奥義 』 天外司朗(著)

   ・心理的な安心感の大切さ 『「フロー経営」の極意』 天外伺朗(話し手) 

   ・「Flow ~ 今この瞬間を充実させるための理論」『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』

イングランドVSパラグアイ ドイツ・ワールドカップの思い出

2006年06月11日 | スポーツ
前半はイギリス選手のハイレベルなプレーをじっくり堪能できました。ランバート・ジェラートが中盤から正確なフィードでボールを広く回し、隙があればどんどんミドルシュートを打ってきます。ベッカムのピンポイントクロスも健在、サイドもとくに左はスピードで突破し、クラウチは器用な足技でポストプレーを堅実にこなしていきます。

最近は日本代表の試合ぐらいしか観ていなかった私にとって、久しぶりに一流のサッカーをみさせもらったという感じがしました。高級料理に舌鼓を打った、というか。

しかし後半になるとバッテリーが切れたのか、パラグアイに押し込まれる場面が増えます。パラグアイは特別テクニックのある選手は目につきませんが、FWのバルデズが運動量豊富で何度もペナルティエリア付近で危険な動きをしていました。

結果は1-0でイングランドでしたが、パラグアイはいいチームですね。実力チームです。このグループにはスウェーデンもいるので、この3つのうち確実に一つは予選落ちするのですから、じつはかなり厳しいグループですね。


涼風

参考:「英国の電柱と南米の古典芸能」