joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『楽しみの社会学』

2005年11月12日 | Book
   
最近このブログでちょこちょこ取り上げるている(「『フロー体験 喜びの現象学』」 「自己と“流れ”」 「政治と外発的動機」)チクセントミハイについて、また少し書きたいと思います。

簡単に言えば、チクセントミハイが言うのは、人は自分の能力の限界を試すことに喜びを感じるものであること。その能力の方向性は各人によって違うけれども、自己の能力よりやや高いハードルを設定することで、それに取り組む動機が刺激され、達成したときには大きな充足感を得る。そのハードル越えの欲求は富や名声といった外発的な誘引ではもたらされないし、食欲や性欲といった単純な欲求とも異なる。言うならばそれは自己をより複雑にしていく行動である。一つ一つの障害をクリアすることで、その行為に関するより高いレベルのノウハウが身体に蓄積され、心身がより複雑に秩序化されていく。これはチェス・ロッククライミングから数学までじつに幅広い分野でみられる現象である。

こうした“内発的動機”にもとづく行為が人間の幸福の源泉の一つであることを彼は主張するのですが、この行為は本人には「仕事」とも「遊び」とも明確に認識されていないそうです。形式上はどちらかに分類されていても、実際にその行為をしているときは本人はまさにその行為に没頭し、自分が遊んでいるとか仕事をしているということは意識されていません。

たとえば私たちが仕事の重要性を言うとき、社会的責任や家族への責任とそれにともなう人間的成長といったことが考えられています。しかし幸せに仕事をしているひと、“フロー”な状態にある人は自分が仕事をしている意識をもたずに仕事をしている人ということにチクセントミハイにとってはなります。幸せな行為とは、そうした“責任”といったものとは無縁だし、ましてやその反対の“余暇活動”といったものでもありません(たとえそれが余暇時間になされていたとしても)。

このときチクセントミハイは、この“フロー”な行為を思わず子供がしているような行為としてもイメージしているのではないかと思います。ではその子供のような行為とは何なんでしょう?

ちょっと長くなりますけど次の文を引用します。


「この研究の結果は、子供に教えるべき最も基本的なことは、行為への挑戦の機会を、彼らの環境の中に認識させることであることを示唆している。これが他のすべての基礎的技能というものである。・・・

(例えば)ヨガの訓練は、自己の生理的支配を挑戦の中心的狙いとする。健全な教育は―簡易なヨガ、武術、タンブリング、手の動きの巧緻性を要する運動、アイソメトリック運動、ダンス等を通して―自分の身体で何ができるかを子供たちに示すことから始められよう。次の子供は、自分の身体の個々の特殊な機能の発見へと導かれるであろう。彼は呼吸によって多くのことができることを教えられよう。歌、叫び、詩の朗読などである。指を使って何ができるか。粘土細工、絵の具を塗りつけること、あやとり、道具の使用などである。

更に最も重要なことは、心は何ができるかということである。・・・真の教育の基礎的作業は、子供にイメージや類推、言葉の遊びや定義づけを通して、心がいかにして環境を秩序づけるかを教えることである。・・・

心の限界を試すため、最初の教育は芸術的なものでなければならない・・・。雲が心の中に絵として描き得ることを知ることが、子供たちにとって重要である。身の周りの音にパターンをききわけることを知ることが重要である。彼らは言葉で遊ぶこと、言語という道具を支配する自信が発達するまで、奔放な言いまわしや、荒っぽいだじゃれを組み立てることを学ぶことが必要である

自分の身体や心が必要とする技能のすべてを発展させるように訓練された子供は、けっして退屈や頼りなさを感ずることはなく、従って、彼の環境から疎外されることはない」

『楽しみの社会学』

ここでチクセントミハイは、なにか心と身体の筋肉を解きほぐすような、規律とのびやかさの同居した行為を指摘している。

彼が子どもに教えるべきとしていることは、従来の教育とは何がちがうのだろう?ダンス、粘土遊び、芸術、言葉遊びなどに共通することは何だろう?

子供を遊ばせようと言うのは簡単です。ただ彼は、活動を通して自己が律せられる(外から規律を押し付けられるのではなく)ような行為を想定しているのだと思います。

絵を描いたり粘土遊びをしている子供を叱る親はあまりいないと思います(余程の受験信者の親でないかぎり)。しかしテレビゲームやテレビをずっとしている子供には多くの親が眉をひそめる場合が多いでしょう。それは、テレビをみるという行為には、心と身体を能動的に発動させて活動するような活発さが親には感じられないからです(実際に子供がテレビを見る際に能動性を発揮していないかどうかは別として)。

自己の中から積極的に湧き上がる能動性によってより高いハードルを目指すこと。そうした能動性は、心と身体という二分法をこえるのかもしれません。身体を動かしているだけにみえて、ダンスやサッカーの熟達者は知性を駆使して創造性を産み出しているかもしれません。頭だけを使っているようにみえて、将棋の名人は駒を指すときに身体全体が興奮でみなぎっているかもしれません。

ただ現代の教育では、知能を教育する際に子供が身体で興奮することはほとんどないと思います。心・頭と身体を分離させてしまうような教育だからです。チクセントミハイが「イメージや類推、言葉の遊びや定義づけを通して、心がいかにして環境を秩序づけるかを教えること」が重要だと言うのは、頭を駆使することは、生身が接する環境に“芸術的に”“スポーツのように”接触することと両立することを言いたいがためのような気がします。

概念・イメージが“言葉”としてのみ教えられると、普通の子供は無味乾燥な記号の羅列にウンザリし、その“言葉”の組み合わせを学ぶ教育に遊ぶように取り組むことはできなくなります。

しかし数字の掛け合わせ、社会の物事が絵画として・イメージとして“芸術的”に理解できるものだとわかるとき、子供は日々の生活で視覚神経で見ている色彩豊かな世界と勉強とが密接に結びつくことを肌で感じることができます。

こういうことは、以前見学させてもらった右脳幼児教室(「見る力」)ですでに行われていることのように思うし、大西泰斗さんが英文法教育でずっと主張し続けていること(「《感覚》で学ぶと...(!!!)」)もそういうこと(どういうことだ?)と思います。


涼風

参考:「Flow ~ 今この瞬間を充実させるための理論」『CD、テープを聴いて勉強しよう!! by ムギ』

   『スポーツを楽しむ―フロー理論からのアプローチ』 チクセントミハイ/ルイス(著) joy -a day of my life-

   自己と“流れ” joy -a day of my life-

   『フロー体験 喜びの現象学』 チクセントミハイ(著) joy -a day of my life-

   “Good Business” by Mihaly Csikszentmihalyi

   “The Evolving Self” by Mihaly Csikszentmihalyi

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