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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』 大竹文雄(著)

2006年06月03日 | Book
経済学者の大竹文雄さんの近著『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには』を読みました。

この本を読んでいて、いかに自分が著者の言う「経済学的思考」に馴染めないか、その感覚に違和感をもつのかに気づきました。ただ、それはわたしの側に原因があるのだとは思います。

著者は次のように言います。

「「経済学的思考のセンス」がある人とは、インセンティブの観点から社会を視る力と因果関係を見つけ出す力をもっている人だと筆者は考える」

たしかに人は誰でもインセンティブをもっているだろうし、そのインセンティブはなんらかの結果を引き起こしているでしょう。ただ経済学は、社会と人について説明する際に、そのインセンティブにのみ着目します。その「人」を視るのではなく、視るのはあくまでインセンティブであるようにわたしは受け取ってしまいます。「人」というものが消され、インセンティブのみがこの世に存在するように記述されているように感じてしまいます。

お金が欲しいというインセンティブでも、それをもつ原因は複雑です。両親が借金まみれになったので、安定してお金が欲しいという人。父親が公務員で面白みのない人生を送っていたので自分は起業して大儲けしたいという人。母親が浪費家だったので、お金はつねじ切り詰めて使いたいという人。遺産相続で親類同士の争いが絶えなかったために、お金は災いの元だから必要最低限は欲しくないという人。自己否定のメンタリティが身につき、「お金が欲しい」けれどもホームレスに身を置く人。

一口にお金が欲しいと言っても、お金にまつわる人々の観念の背景には複雑な事情があります。しかし経済学では、そうした事情は考慮せずに「金銭を欲するというインセンティブ」と一言で説明され、そのインセンティブが社会の制度を形作る“要素”として取り出されます。そこでは、「人」が消され、社会と人ではなく、社会と“要素”(インセンティブ)のみがあるようにわたしは思ってしまいます。

これは要するに単なる言い方かもしれません。また、目的が社会制度の科学的な説明にあるのだから、目的にはインセンティブにのみ着目するのが理に適っているとも言えます。

だから、なぜわたしが感情的にこうした思考に違和感をもつのかと探ると、そもそもそのような科学的態度をもつことに対する違和感だといえます。要するに著者の責任ではなく、わたしのメンタリティの問題なのでしょう。

ただ著者は、すべての経済学者がそうなのかは知りませんが、議論の仕方は慎重で断定や独断よりもバランスを重視します。

例えばインセンティブと言っても著者は様々なことがあることを認め、金銭欲・名誉欲・安全など複数指摘しています。

わたしの最初の思い込みとは多少異なり、著者にとっての経済学とは、科学者が想定する単一のインセンティブ(ex. 「金銭欲」)である社会現象を説明して終わるのではなく、むしろその社会現象を説明するのに最も相応しいインセンティブを幾つか探ることで適合的な説明を試みる学問です。また、そのインセンティブの想定を正しいとして、だとすればより望ましい社会制度設計とは何かを提唱する学問だともいえます。

例えば著者は、年功賃金が存続してきた理由として、4つの仮説を提示する。

・人的資本理論:経験の積み重ねで社員の生産性が高まり収益が増えるので、企業は年功賃金を可能にできる。

・インセンティブ理論:社員が長期にわたって真面目に働くことへの報酬として、中高年に会社は高給を保証する。その場合、社員が若いときに稼いだお金が、中高年になって会社から返されることになる。

・適職探し理論:人的資本理論と発想は同じ。ただ、年齢を経るごとに人は適職を見いだして中高年で生産性が上がると考える。

・生計費理論:これはインセンティブ理論と同様に若い時に稼いだお金を後で返してもらう仕組み。ただインセンティブ理論が会社の側の都合から説明していたのに対し、生計費理論では労働者の側から説明する。独身→結婚→家庭といった生活スタイルの変化に合わせてより多い収入を社員が求めるため、と説明する。

これが経済学が「理論上」年功賃金が成り立つ原因として説明する四つのモデルです。この4つのモデルのどれかが正しければ年功賃金も終身雇用も日本では存続可能でしょう。しかし現実にはそうなっていないのは、このモデルを成立させない条件が今の日本社会にはあるからです。

例えば、消費者の嗜好の変化に激しい社会では、これまでの経験が役立たなくなります。そういう社会では人的資本理論も生計費理論も成り立ちません。また、同じく企業が長期にわたって存続し利益を生み続ける保証のない変化の激しい社会では、若い時にプールした利益を中高年になって返してもらうインセンティブ理論と生計費理論も成り立ちません。

こうやって今書いていて思ったのは、理論経済学って、要するにあるモデルを成立させる条件を考えて、その条件が現実の社会でも成り立つかどうかを考える学問なんですか?これってヴェーバーが考えた「理念型」とおんなじじゃん。ヴェーバーと同じだからいいわけではないが、こうみるとなかなか有益な学問のようにも思えてきた。


この著書では、年功制崩壊の他に、未納年金や格差の問題がハイライトとして取り上げられています。これらの現象に共通するのは、団塊の世代が大きな役割を果たしていること。

年功制にしても年金にしても、若い人が稼いだ分を中高年に委譲している現実があります(それは上記の年功制モデルの理想とは違うのですが)。しかし自分達の状況が良くなる見込みのない若者・企業はこうしたシステムを維持するインセンティブをもちません。少子化もそれにより齎されます。

だとすれば、これからの社会科学の役割は、この不確実な時代でも、人間の中に残り続けるインセンティブは何なのかを探り出すことだとわたしは思います。

それは金銭的報酬ではないと、最近のライブドアや村上ファンドの事件を見ると、わたしは思わされます。単純な金銭への強欲が多くの人を動かし続ける要因になるとは思えないのです。

人々の中に残るインセンティブとは何なのか。安全なのか、勝利なのか、博愛なのか。そのことを探るには、経済学だけではない、多くの人の学問・経験・知見が必要なのだと思います。


参考:『大竹文雄のブログ』

   「経済学はじめの一冊」“404 Blog Not Found”