joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

日本vsオーストラリア戦

2006年06月13日 | スポーツ


キーワード:
トップになればなるほど、能力の差よりも、心の持ちようが勝敗を決める。

解説:
ランキング200位に入る世界クラスのテニス選手は、技術的には同じ。
明らかな違いは、ボールを打ち合うコートにはなく、
試合の間の休憩時間にある。
負ける選手は、そのたびごとの結果に一喜一憂するが、
勝つ選手はうまくやろうが、ミスしようが、結果にとらわれず、
たんたんと最後までプレイする。

┃--「仕事のヒント」神田昌典365日語録--     No.331



オーストラリアに同点にされた時点で選手はがっくり来ていたんじゃないかと思います。あの暑さで耐えて耐えていただけに、集中力が途切れたように見えました。

1点を守ろうと集中していたのが、点を取られて緊張の糸がぷっつり切れてしまった。それに対して豪州は追う立場だったので攻めの姿勢を維持できました。終盤のゴールラッシュはそうしたメンタル面での差が大きかったのでしょう。

リードしていたときにもう1点を取れるチャンスが確かにありましたが、日本の得点力不足は日本サッカー全体の問題なので、個人を批判するのは意味ないでしょう。

日本のFWをみていると、確実にゴールを決められる状況にならない限りシュートをしないというのは、多くに人が思っていることでしょうが、日本のここ数十年の文化と関係しているのかもしれませんね。

船井幸雄さんはある対談の中で、昭和35年以後に生まれた日本人はすぐに諦める癖がついている。それは日本の教育制度と関係があると述べています。

例えば現在の大学アメフトは関西では立命館が強く、京大はかつての栄光もないそうですが、その原因は今の学生はすぐに諦めるからだと船井さんの知り合いの京大アメフト部の監督は考えているそうです。

立命館のアメフト部員は大学に入る前からアメフトをしているエリートなのに対し、京大はみんな素人。京大のアメフト部員で立命館でレギュラーになれるのは一人ぐらいだそうです。この差を見て京大の部員は最初から諦めるそうなんですね。

確実に勝てる状況にならなければ諦めるというのは、紋きり型の言葉ですが、「偏差値教育」の弊害かもしれませんね。地方国立大学の学生は旧帝大の学生より自分達は「頭が悪い」と思わされ、旧帝大の学生は東大・京大・早稲田・慶応の学生より自分達は「頭が悪い」と思わされ、一流大学の学生は自分達は東大の法学部と医学部の学生より「頭が悪い」と思わされているのが日本の教育制度であることは確かでしょう。自分で限界を作っちゃうのです。

日本では強引にシュートに持ち込むストライカーに見えた高原ですら、国際舞台では気持ちに躊躇しているように見えました。

船井さんは、本当に死ぬ気になればなんとでもなる。一旦死ぬ気になればどんな相手でもケンカに勝てる、とおっしゃっています。


涼風

アンソニー・ロビンズのメッセージ 10

2006年06月13日 | 日記

10.意見が合わない時には、フェアに戦うこと。相手を罵倒しないこと。


この「罵倒」というもには、僕の経験ではいわゆる“論理的”な議論も場合によっては含まれるんじゃないかなぁ、という気がする。

もちろん論理的なことが悪いのではなく、論理によって相手をねじ伏せようと言うエゴが入り込む危険があるという意味です。

議論は“論理的”に行われるからこそ、その論理に自分のエゴ・相手をやっつけたいというエゴが入りこむ危険があるし、それはつねにチェックしなければなりません。そしてそのチェックをできるのは本人だけだからこそ、議論には高い倫理が要求されます。

どんなに内心で「相手を破壊しよう」というエゴをもっていても、論理的に議論している間は、「中立に議論している」とごまかし切ることができます。でも、それは他人をごまかしているだけでなく、自分をもごまかしてしまうことになります。

どうしても議論しなければならないときは、自分に誠実になること。また相手と自分との間に感情的な闘いがあると感じられるときは、たとえ表面上は中立でも、それは無駄な議論になること。

一番いいのは、お互いが自分を疑うために議論をすることかもしれません。自分の正しさを証明するために議論をすると、自分に都合のいい証拠だけを見るようになります。


涼風

『売られるアジア―国際金融複合体の戦略』

2006年06月13日 | Book
2000年に出版された『売られるアジア―国際金融複合体の戦略』を読みました。著者は経済学者の本山美彦さん。

以前、国際金融の仕組みを知りたいと思いつつ『貨幣と世界システム―周辺部の貨幣史』を読もうとしましたが、私には難しくてついていけませんでした。

その本に限らず、経済に関する本を読むと、数字と論理についていくのが私には困難です。そういう書で要求されるのは、一つの論理でそれまでの背景を考慮して“ぱっ”と著者のイメージする図を把握することで、それには怖れずに論理から論理へと飛んでいくことが必要ですが、僕にはその力が欠けている。一つ一つ論理を追って行って間違うのが怖いので、細かい論理になると頭が怖くて前に進まなくなるのです。いわゆる「右脳」の発達した人は、論理から論理へと続く議論を、躊躇なく進めていく勇気(本人は勇気と思っていないだろうけど)と、自分は適切に議論している信頼感をもっているんじゃないかと思うのですが。こうした論理的・数学的(?)思考の柔軟さと、その人の持つ自己へのある種の「信頼感」(人間がもつ「信頼感」のすべてをカバーしているわけではなくとも)との関連について論じている議論ってあるのかしら?

本山先生自身は正統派経済学の人とは違うと思うし、またこの『売られるアジア』はいわゆる「経済学」的分析ではなく、1997年に端を発したアジア危機をめぐる各国とIMFとの制度改革をめぐる政治的な駆け引きを追ったものです(素人向けに書かれた本だと思いますが、こういう本でも私にはついていくのは簡単じゃなかった)。

基本的には、あえて負債を抱えながら高い投資比率によって製造部門を軸に経済成長を遂げてきたアジア各国と、各国の銀行の負債を強引に減らすことで外国から資金流入が入る条件が整って経済は成長するものだというIMFおよびアメリカの立場の対立を描写しています。

この銀行の負債の比率を適性な水準にすることで国際的な信用業務が達成されると取り決めたのが、いわゆるBIS規制ですね。これは一見中立な議論に見えますが、増田俊男さん・吉川元忠さん・そしておそらく本山先生も、この取り決めにはアメリカの思惑が反映しているとみなします。

つまり、もともと負債をある程度多くすることで投資を活発にし成長を遂げてきたのがアジア諸国の特色だったのに対し、一方的に銀行の取るべき負債の比率を通達してそれの満たない銀行を国際的な信用取引から排除すると決めたのがBIS規制だからです。

各国の経済の文脈を顧みずに、いきなりこのような通達が出されたことで、銀行の活発な融資と株式の持ち合いで成り立っていたアジア諸国の経済構造は破壊的な打撃を被りました(「9.株式持ち合いの今後」『株式会社 為替ドットコム』

BIS規制により、企業の株を保有していた銀行は、その株が時価評価で下がっている場合それを手放さなければ会計上損失を計上しなければなりません。それを避けるには株式の持合を解消することを強いられてきました。これによるアジアの経済成長を支えた巨額の融資は不可能になり、同時に株式の持ち合いの解消も余儀なくされたため、欧米外資によるアジア企業の買収も容易になったのが、90年代以降のアジア経済経済の状況です。

こうしてファンドが主体になった欧米各国がアジア企業で株取引を活発化させる状況が整ってきました。

いわゆるアジア危機は、こうしたファンドの短期取引の流れがあまりにも急で、一度それらが資金の引き上げを開始すればあっという間に株式市場の暴落を経験することを示しました。それから10年がたっていますが、現在の日本の証券取引の多くを外資が担っていることを見ても、つねに株価暴落の危険に曝されているのが、グローバル経済の現状です。

アメリカの大学で経済学を修めた研究者から成るIMFは、こうした暴落の原因を、株式の持ち合いと縁故によって企業間が結びつくアジア経済の状態が公正な市場取引を阻むため、外資の信用を得ていないから起こったことだと説明します。同様のことはベストセラー『レクサスとオリーブの木』でもアメリカ人・ジャーナリストによって主張されています。

日本における“不良債権の危機”も、BIS規制に見られる人為的な制度設定によって、それまでの日本経済の文脈が無視されて、無理やりな貸し剥がしを起こし、多くの企業が倒産に追いやられたのだとしたら、そこには国際政治経済の政治的な力学が国民個人の生活に大きな影響を及ぼしたことになります。