いやあ。この本は面白かった。
いわゆる、古今東西の哲学や人生論に関する名著を紐解きながら、筆者なりの人生論を語ってゆくという方法は、これまでにもよくあったパターンで別に新味はない。
ただ、この「結論で読む人生論」が並みの人生論を超えているのは、勢古浩爾が自らの言葉で自分自身を曝け出しているからにほかならない。
それも、真摯に。
勢古浩爾は、1947年、大分県生まれ。明治大学大学院を卒業してから、現在は洋書輸入会社に勤務しているらしい。
つまり普通のサラリーマンである。その「ふつうの人」としてを立ち位置に据え、独自の批評活動を展開していて、「思想なんかいらない生活」(ちくま新書)と「まれに見るバカ」(洋泉社文庫)と「生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語」(二見書房)の三冊を僕はこれまで読んできた。
今回の「結論で読む人生論」。
本の帯を読んだだけで、もう惹かれてしまった。
いわく「結局、何かいいたいのか? 紀元前から現代までのあらゆる『賢者たち』が考えた、約50通りの『何のために生きるのか?』」。
この文章を読むだけでそそられた。
しっかし、勢古浩爾。よくまあ、これだけの文献を読破したものだ。感服する。
トルストイ、アラン、セネカ、老子、ショーペンハウエル、鴨長明、などなど。有名な哲学者だけに止まらず、ホリエモンの「稼ぐが勝ち」まで俎上に乗せる。
でも、例えばトルストイの「人生論」。
「人はだれでも自分の幸福のために生きている。一人ひとりの人間にとって生きるということは、幸福を望み・・・」まあ、ここまではいい。
ただ、このあと、人は「人間の幸福」を追求してゆくだの、「人類の進歩」を希求することこそが人間として生きる価値などと言われると、急に萎えてくる(勢古浩爾も同じような意見だけれど)。
理論としては解るし、最終的にはそこに到達すべきなのだろう。でも、やっぱり頭でっかちの感は否めない。理想論過ぎないか。
逆に、ちゃんとその著書を真面目に読んでみたいと思ったのは、「森の生活」を書いたソローである。
僕は、ソローが28歳でこの「森の生活」を書いたということをまったく知らなかった。確かに名著ということで、様々な本などによく登場するけれど、豊かな自然の中で暮らしている老人による貴重な体験記のたぐいなんだろうぐらいのイメージしかなかったのである。本当にごめんなさい。
ところがである。触りを読んで驚愕した。
「わたしが森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学びとれるか確かめてみたかったからである」などと語るのである。
うーん。これは凄い。真剣である。
よし。ソローの「森の生活」。読むぞっ!
この本には、その他たくさんの「人生論」が出て来る。
素晴らしい言葉もあれば、表層的な上っ面だけの言葉もある。しかしながら、そのどれもが結局、人生そのものを語ってはいる。そういうしかない。だって、普遍的な、誰にでも通用する「人生論」など有り得ないからだ。
すべては、自分自身が自分なりに咀嚼して、それを自ら身に付けてゆくしか道はないのである。
つまり。その「武装」された言葉を、自分だけの身の丈に合うように羽織りながら・・・。
いわゆる、古今東西の哲学や人生論に関する名著を紐解きながら、筆者なりの人生論を語ってゆくという方法は、これまでにもよくあったパターンで別に新味はない。
ただ、この「結論で読む人生論」が並みの人生論を超えているのは、勢古浩爾が自らの言葉で自分自身を曝け出しているからにほかならない。
それも、真摯に。
勢古浩爾は、1947年、大分県生まれ。明治大学大学院を卒業してから、現在は洋書輸入会社に勤務しているらしい。
つまり普通のサラリーマンである。その「ふつうの人」としてを立ち位置に据え、独自の批評活動を展開していて、「思想なんかいらない生活」(ちくま新書)と「まれに見るバカ」(洋泉社文庫)と「生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語」(二見書房)の三冊を僕はこれまで読んできた。
今回の「結論で読む人生論」。
本の帯を読んだだけで、もう惹かれてしまった。
いわく「結局、何かいいたいのか? 紀元前から現代までのあらゆる『賢者たち』が考えた、約50通りの『何のために生きるのか?』」。
この文章を読むだけでそそられた。
しっかし、勢古浩爾。よくまあ、これだけの文献を読破したものだ。感服する。
トルストイ、アラン、セネカ、老子、ショーペンハウエル、鴨長明、などなど。有名な哲学者だけに止まらず、ホリエモンの「稼ぐが勝ち」まで俎上に乗せる。
でも、例えばトルストイの「人生論」。
「人はだれでも自分の幸福のために生きている。一人ひとりの人間にとって生きるということは、幸福を望み・・・」まあ、ここまではいい。
ただ、このあと、人は「人間の幸福」を追求してゆくだの、「人類の進歩」を希求することこそが人間として生きる価値などと言われると、急に萎えてくる(勢古浩爾も同じような意見だけれど)。
理論としては解るし、最終的にはそこに到達すべきなのだろう。でも、やっぱり頭でっかちの感は否めない。理想論過ぎないか。
逆に、ちゃんとその著書を真面目に読んでみたいと思ったのは、「森の生活」を書いたソローである。
僕は、ソローが28歳でこの「森の生活」を書いたということをまったく知らなかった。確かに名著ということで、様々な本などによく登場するけれど、豊かな自然の中で暮らしている老人による貴重な体験記のたぐいなんだろうぐらいのイメージしかなかったのである。本当にごめんなさい。
ところがである。触りを読んで驚愕した。
「わたしが森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学びとれるか確かめてみたかったからである」などと語るのである。
うーん。これは凄い。真剣である。
よし。ソローの「森の生活」。読むぞっ!
この本には、その他たくさんの「人生論」が出て来る。
素晴らしい言葉もあれば、表層的な上っ面だけの言葉もある。しかしながら、そのどれもが結局、人生そのものを語ってはいる。そういうしかない。だって、普遍的な、誰にでも通用する「人生論」など有り得ないからだ。
すべては、自分自身が自分なりに咀嚼して、それを自ら身に付けてゆくしか道はないのである。
つまり。その「武装」された言葉を、自分だけの身の丈に合うように羽織りながら・・・。