フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 今年もあとわずかとなりました。何か忘れていることはないかと思ったときに、今年後半になっていただいた多くの本のことを書いていないことに気づきました。それぞれ個別に御礼は申し上げたのですが、このブログには紹介していなかったので、それらをまとめて紹介させていただこうと思います。ほんの簡単な紹介にとどまることを御容赦ください。
               
千田洋幸『テクストと教育 「読むこと」の変革のために』 (渓水社、2,940円)

 島崎藤村研究から出発して研究範囲を広げていった千田さんですが、この本は千田さんの国語教育関係の論文を集めています。この本のおかげで千田さんの論文を体系的に読めるようになり、私と同じように歓迎している人も多いでしょう。所収論文は、現在までの国語教育の偽善性や欺瞞性を考察する論文が多く、共感するところが多くありました。私自身、子どもの頃に教師から不可解な「読み」を押しつけられて、今でも思い出すような不愉快な経験をしたことがあります。その意味で、現在までの国語教育への批判には共感するところが多くありました。
 その一方で、批判の先に必要なはずの方向性をもっと示してほしいという感想も持ちました。現在の文学教育の偽善性・欺瞞性を暴いて、言語能力の向上だけを考えろというのであれば、どうやって言語能力の向上をさせるのかという千田さんの提案も聞きたいところです。私は千田さんに共感しつつも、さまざまな権力や欲望がまとわりついているからこそ文学を教室で扱いたい、と考えているので、文学を排除した後の国語教育のありかたについて、千田さんの考えを教えてほしいと
感じました。

石原千秋『読者はどこにいるのか 書物の中の私たち』 (河出書房新社、 1,260円)

 石原さんは近年も続けて本を出版していますが、今回の本は石原さんの研究姿勢のエッセンスを集めた本だと思いました。「ケータイ小説論」も「Jポップ論」も石原さんの研究姿勢が見事に応用されていますが、今回の本はそうした石原さんの姿勢の根底にあるテクストと読者の関係を凝縮して論じています。その意味では、何に関心を持っている学生・院生であっても、「この本は読んでおきなさい」と勧められる本でした。
 また、私も柄谷行人『近代文学の終り』には違和感を感じるところがあったので、この本の中で石原さんが「内面の共同体」という概念を使って柄谷への異論を提出し、問題提起をおこなっているところが、特に興味深く感じられました。
 中央大学での私の授業で、この本を使ってみようかと思っています。

石原千秋『名作の書き出し 漱石から春樹まで』 (光文社新書、 861円)
石原千秋『あの作家の隠れた名作』 (PHP新書、 735円)
 それぞれ本のタイトルからわかるように、前者は名作の書き出しから作品を論じた本、後者はあまり有名とは言えない作品を読み直した本です。石原さんは、日本文学研究者としては特に新書本の著書が多い研究者ですが、新書が多いということは、一般読者向けに文章が書けるということ。言い換えれば、研究者という狭い世界でしか通用しない文章を書くのではなく、その他の人たちにもわかる文章が書けるということです。私も日本文学研究者ながら、「どうしてこんなわかりにくい文章で論文を書くんだ!」と怒りたくなるような論文を読まされることが多々あります。そういう人たちは石原さんの本を読んで少し勉強すると良いでしょう。

紅野謙介『検閲と文学 1920年代の攻防』 (河出書房新社、1,260円)
 私は本をいただくと、失礼ながら全体をざっと斜め読みします。しかし、紅野さんの今回の本を斜め読みしようとして、その密度の濃さに驚かされ、とても斜め読みできるような本ではないことに気づきました。綿密な資料調査の迫力と同時に、検閲が転移するといった、私には思ってもいなかった発想が提示されていることにおおいに刺激を受けました。以前、朝日新聞でも特集があったように、検閲が過去のもののように思ってしまいがちな現代においてこそ、検閲の意味を問い直さなければならず、この御本がそのための貴重な役割に担うに違いないと感じました。

竹内栄美子『戦後日本、中野重治という良心』 (平凡社新書、882円)
 この本の「序」には、次のように書かれています。
「戦後日本を見直すさいに中野重治の著作によるのは、中野がそれぞれの時期に取り組んだ問題を追うことで、戦後の流れや相が見えてくると考えるからである。この作家は、文学という藝術にしたがって、戦後史のそれぞれの局面をどのように描き、批評したのか。文学表現による歴史批判・社会批判をいま取り上げるのは、残念なことに、現在、そのような作家や文学者がほとんどいなくなり、文学は、さきの戦争の語り方と同様、大きく変質してきたという私自身の思いに従っている。」
 この文章に、本の意図が明確に示されています。近年、学術出版が不況な中で新書本ブームが続いていますが、品のないタイトルや記述で読者を引きつけようとしているものが少なくありません。その中で、実に志の高い新書本と言えるでしょう。

細江光『作品より長い作品論 名作鑑賞の試み』 (和泉書院、15,750円)
 タイトルの通り、また価格の通り、猛烈に分厚い本です。まず「はじめに」「おわりに」と『地獄変』論を読んでみたところ、厚さだけでなく、中身もそれに相当するくらい濃い本でした。『地獄変』は私も従来の研究に違和感を持っていましたが、今まで考えをまとめられてませんでした。細江さんの論を読んで、そのように考えれば多くの点で合点がゆくという思いがしました。
 細江さんは「おわりに」で記号論の流行や作者の意図の軽視を批判しており、私も記号論的研究をしているわけではないのですが、細江さんほど丹念に作品を読んでいるのを見ると、かえってテクスト論者のような読み方と共通点を持ってくるようにも思いました。そう言われるのは細江さんの本意ではないでしょうけど、記号論的か作家論的かということよりも、作品を丹念に読んでいけば、読み方は同じ方向を示すように感じたところがありました。

山下真史『中島敦とその時代』 (双文社、 3,360円)
 私の同僚でもある山下真史さんの長年の中島敦研究の成果をまとめた本です。山下さんの研究は、一言でいって「奇をてらわない」ということでしょう。あるいは「奇をてらうことがいっさいない」と強調してもいいように思います。私が研究者を目指してからの30年くらい、文学研究の方法に関してはさまざまな議論がなされてきましたが、山下さんの研究に接すると、そうしたさまざまな議論がいっときの流行にすぎないのではなかったかという気がしてきます。
 また、前から感じていたことですが、山下さんも私も大学院生時代に教えを受けた故・三好行雄さんの学風を一番受け継いでいるのが、山下さんなのではないかと思っていました。作品を緻密に論理的に読み進め、そこから作家論へ進み、さらには大きな文学史を構想するという三好さんの研究者としての姿勢を一番体言しているのは、教え子の中で山下さんだということを、この本を読んであらためて思いました。
 

藤井淑禎『高度成長期に愛された本たち』
(岩波書店、2,415円)
 タイトルの通り、『点と線』『砂の器』、『愛と死を見つめて』、『野菊の墓』、『徳川家康』『宮本武蔵』といったベストセラー作品が取りあげられ、論じられています。この本の「まえがき」のところで指摘されていることですが、「あの時代の文学状況はこうだった」ということが安易に言われることをあります。しかし、何を持って「あの時代の文学状況はこうだった」などということが言えるのか。この本はそのことを追究していて、さまざまな資料やデータを駆使して、その時代の文学状況を再現する方法を提示してみせてくれています。
 私は先日松本清張記念館で研究発表をしたので、特に清張作品を論じているところは興味深く、通常は「社会派ミステリー」といった括りでまとめられてしまう清張作品を、日本文学全体の中で「構造的小説対私小説」という対比として考えているところが興味深いところでした。

疋田雅昭/日高佳紀『スポーツする文学 1920-30年代の文化詩学』 (青弓社、2,940円)
 共同執筆者の1人である西川貴子さんから本をいただいたので、まずは西川さんの「「わたし」と「わたしたち」の狭間─「走ることを語ること」の意味」を読みました。
 私はスポーツをするのも見るのも好きで、実は中学高校時代に(長距離ではありませんが)陸上部でした。そのせいか、西川さんが論じている陸上競技(特に長距離)の、スポーツでありながらスポーツでない特殊性がよくわかる気がしました。どこか「道」「修業」といった文脈で語られることが、特にマラソンにはつきまとっていて、それが政治性と結びつくことの必然性と危険性を、西川さんの論文から勉強させていただいたと思います。

中村昇『ウィトゲンシュタイン ネクタイをしない哲学者』 (白水社、 3,045円)
 私の専門外の哲学書ですが、中央大学の同僚(そして研究室が隣)の哲学者・中村昇さんからいただきました。これまでにも、わかりやすい日本語で書かれた哲学書はあるのでしょうけど、ただわかりやすいだけでなく、面白く書かれた本と言えます。
 中村さんによると、ウィトゲンシュタインという哲学者のドイツ語はたいへんわかりやすく、ネクタイをしたウィトゲンシュタインなんて想像できないと、彼の学生(だったマルコム)が言っているそうで、彼の文章もいつも普段着なのだとのことです。
この本も、ウィトゲンシュタインに習って、いわば「カジュアルの極北」を目指した本と言えるでしょう。その文体はカジュアルというだけでなく、かけ合い漫才のようでかなり笑えます。たとえば、次のような感じです。
 「
ざっくばらんに、楽屋(たいした楽屋じゃないけれど)も見せながら、書いていきたい。」「高校のころ(今日は、よく高校のころを思いだすなぁ)」「哲学に興味のない人にこの手の文章を読ませるのは、犯罪のようなものですね。でも私は、そんなデリダが大好きなんですよぉ。(なんじゃ、そりゃ?)」
 哲学を面白く読みたい人にお薦めです。

 この他にも多くの研究論文や本をいただきました。紹介しきれない点はお許しください。
                
 ちなみに、今年のブログの更新は今日で終了です。読んでくださった皆様、ありがとうございました。来年の皆様の御多幸をお祈り申し上げます。
               



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


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コメント
 
 
 
ありがとうございます (中村昇)
2010-01-19 00:44:39
拙著ご紹介いただき、本当にありがとうございます。
いつも感謝しています。

今度は、(私の大好きな)安吾の「石の思い」のような切実な本を書きたいと思っているのですが。
無理でしょうね、私には・・・
 
 
 
中村さん、コメントありがとう (宇佐美)
2010-01-19 22:34:51
中村さん、コメントありがとうございました。
専門外ですが、中村さんのお仕事の幅広さには感嘆していますので、「切実な本」もいけるんじゃないでしょうか。個人的には「佐世保弁」の文章も期待したいです。本1冊全部だと読むのがきついから、1章ごとに文体が違う本とか……。
中村さんにあやかって私も頑張ります。
          
 
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