DVDで、映画『博士の愛した数式』 (小泉曉史監督、寺尾聰・深津絵里主演)を見ました。
もちろん、小川洋子の小説の映画化作品です。はらはらどきどき等はいっさいない淡々とした映画で、人によっては「退屈」「凡庸」という印象が残るかもしれませんが、私の印象は,、しみじみとした雰囲気の、良くできた「大人の映画」というものでした。
配役の印象。私の作品を読んだイメージでは、博士はもっと威厳のある強面の人という印象で、寺尾聰さんはそれよりかなりソフトな印象の俳優さんですが、博士の数学への厳しさと同時にもう一つの慈愛に満ちた面をよく表現していたと感じました。深津絵里さんは、作中の家政婦さんのイメージよりも若くてきれい過ぎるようにも思いますが、博士の数学や人間への愛情を理解して、次第に博士を敬愛するようになる重要な役柄を十分に表現していたと感じます。
脚本・演出の面で気になったのは、原作からの幾つかの改変でした。まだ映画を見ていない人のために詳しい説明は省きますが、淡々とした原作の中で数少ない「事件」となる、ルートが病院へ行く場面。病院へ行くことになる理由が原作と映画とではかなり違っています。私は、なぜ映画でそのような変更を加えたのか、その理由がよくわかりませんでした。映画という「視覚的」なメディアを意識してそうしたのかもしれませんが、私は原作の意味がかなり変わってしまうので、この改変にはあまり賛成ではありませんでした。
もう一つ、博士と義姉との関係。これが原作ではぼかされていて読者にほのめかされる程度なのですが、映画ではこれをかなりはっきりと見ている人に明示しています。これは観客にわかりやすいようにするという意図なのだと思いますが、これもわかりやすくなる反面、少し安っぽくなってしまった面があり、あまり賛成できませんでした。私は小説の研究者で、やはり原作を大切にしたい方なので、どうしても映画には辛くなっている面があるかもしれませんが。
しかし、そういう不満はあるものの、やはりこの映画はいい映画だったと思いました。それは、この映画が「大人の映画」に仕上げっていたからだと思います。この場合の「大人の映画」という意味は、特定の個人の感情だけを追うのではなく、もっとひろく人間への愛のようなものを感じさせるという意味です。
これは原作者の小川洋子さん自身がテレビ番組(「爆笑問題のススメ」)で言っていたこととも重なるのですが、若い人の「泣ける」というのは「あの人が好きだ」とか「自分の思いが伝わらない」といった自分中心の感情。それに対して大人の「泣ける」はもっと広く人間そのものの「けなげさ」とか「はかなさ」とか、そういうものに対してそっと祈るように涙を流すのが大人の「泣ける」なのだということでした。
小川洋子さんの作品にはもっとエロ・グロの強いものもありますが、この『博士の愛した数式』は、まさに大人をしみじみとさせるような作品なのだと思います。誰かに感情移入するというよりは、人間にとってとても大切な「記憶」というものを失っても人と人は結びつくことができる、そういう人間のいじらしさや美しさに対してじわじわと泣けてくる感じがこの映画の真骨頂なのでしょう。「大人と子どもの違い」というフレーズがいっときドラマ(「サプリ」)で流行りましたが、そんなことを思わせる映画『博士の愛した数式』でした。
僕も以前小説の方を読んだことがあります。感想としては正直それほど好みの作品ではありませんでしたが、この記事を読んでぜひ映画も見てみたいと思いました。機会があったらレンタルしようと思います!
突然のコメント失礼しました。ではまた。
それから、コメントどうもありがとう。
年齢・性別・国籍などで作品の感想が変わるということを決めつけてはいけないのですが、私自身ふりかえってみると、やはり年齢によって作品への印象が変わっていくことがあります。『博士の愛した数式』などは、若い頃に読んでいたらきっと少し退屈したかもしれません。矢野君がこの小説をそれほど好きでないなら、映画もあまり面白くないかもしれませんね。
私も若い頃は自分の「記憶」の力への懸念なんてあまりなかったと思うのですが、人生で体験したことや感じたことのほんの僅かなことしか記憶にとどめておくことができない、ということを今は強く感じます。きっとそういう「記憶」への愛惜のようなものが『博士の愛した数式』の世界をよりいとおしいものにしているのではないかと思います。
「年寄り」トークでごめんなさい。これに懲りずに、よかったらまたコメントしてください。