フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 2007年4月21日(土)に東京大学国語国文学会の公開シンポジウムがおこなわれ、その発表者の一人として参加しました。
 この会では毎年シンポジウムがおこなわれ、一つのテーマに関して、古典文学・近代文学・国語学の研究者が一人ずつ発表をおこない、それに基づいて会場の参加者と議論するという方式がとられています。今年度のテーマは「表現の演技性」というもので、古典文学から立教大学の小嶋菜温子教授、国語学から大阪大学の金水敏教授、そして近代文学から私が参加することになりました。
          
 小嶋先生は「源氏物語」松風の巻の一部分を取り上げ、その会話文が近年の研究者の説と古注釈とで異なっていることを指摘。そこから物語文学の語りという「演技」が時代によって異なる解釈をされる、という興味深い実例を提示されました。また、金水先生は現代語において性差を指し示す表現を役割語という観点から考察され、日本語の中でクロスジェンダー(たとえば男性歌手が女性の気持ちを歌うなど)の表現が持つ意味など、豊富な実例を使いながら発表されました。いずれもたいへん示唆に富む重要な問題提起があり、私もおおいに刺激を受けました。
 一方私は、与えられた「表現の演技性」という課題を近現代小説の語り方の問題としてとらえ、近現代の小説を出発期・展開期・現代の3期に分けて考察しました。そして、映画における演技の性格が時代によって変化するように、小説の語り方も時代によって変化するという私の考えを提示してみました。
 通常の学会と違って古典や国語学の方とのシンポジウムということで、私は大きな問題設定での発表を試みたのですが、小嶋先生や金水先生の具体的な考察に比べてやや枠組みの提示だけになってしまったかもしれません。しかし、司会の渡部泰明先生や会場からの有意義な御意見のおかげで、3つの発表のそれぞれの意図が質疑応答の中で関連してくるところがあり、私にとっては今後の研究につながる多くのヒントをいただいた公開シンポジウムとなりました。その後の懇親会を含めて、貴重な御意見をいただいた皆様には御礼申し上げます。
          



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コメント
 
 
 
私/「私」の間 (M.T)
2007-05-02 04:06:29
シンポジウム「表現の演技性」を興味深く拝聴させていただきました。古典、近代、国語の御三方の発表はどれも面白く、且つフロアーとの討議も刺激的でした。全体としても予定調和的にまとまることなく、今後への可能性に満ちたシンポジウムで多くのヒントを戴いて帰りました。
さて帰ってシンポ思い出しながら「表現の演技性」について考えてみると、はてさて「表現の演技性」って何だ?ということになってしまいました。今日の三発表全体としてどのような思考可能性が照射されていたのだろう、とか考えている間に感想を記すのが遅れてしまい申し訳ありませんでした。以下私なりに発表全体を通して「表現の演技性」について考えたことを摘記してみます。
恐らく「表現」にはそれを「する側」と「される側」が存在し、「演技性」とはその二者間の距離に生じる「ねじれ」のことではないか。小嶋先生の示されたように表現者と作中人物との間の距離によって生じる「演技性」(~のように語る)の把捉が時代によって変化することで読者の間に読みのずれが生じてしまう。そして宇佐美先生の発表からは、「近代」という時代に「表現」の抱え込む二重性がメタレベルで問われるという事態が生じ、その事で「表現」の距離における「演技性」の消去と顕現を同時に行おうとしたのではないかということを考えました。そして金水先生の発表でその様な「表現」に纏わる距離が日常のコミュニケーションにおいてもずれを呼び込みその様な行為性において日常の規範を捉え返す可能性が含まれていることが示されていると受け取りました。しかし、秋山先生と小嶋先生の対話によって示されていたように、「表現の演技性」は決して固定したヒエラルキーを帯びているのではなく極めて抗争的な場であるのではいか。書くという行為が作品世界を統括していながらしかし作品内からの文化的な力が「表現」へ介入していく。それは宇佐美先生、金水先生によって示されたとおり「私」という発言にも帯びてくる。私・僕・あたし等の発話が発話主体と発話された「表現」の距離の間に様々な文化的な意味が付与されいきながら、表現主体の私は「表現」を統括しようとする。「演技」とは表現主体が自由に行う行為ではなく、「表現」が内包するねじれの場であると考えました。文学がその様な「表現」の問題に直面していることを改めて認識させられたシンポジウムだったと思います。
 
 
 
M.Tさん、ありがとう (宇佐美)
2007-05-03 08:54:15
 M.Tさん、コメントどうもありがとうございました。シンポジウムを聞きに来てくださっただけでなく
、内容を真摯に受け止めていただき、感謝します。
 今回のシンポジウムの場合、事前に詳しい打ち合わせはしておらず、司会者に個別に「こういう話をしようと思います」ということを話して、調整した程度でした。
 そのために各発表者がテーマをどのように受け止めたかが、かなり異なっていました。しかし、そのことでかえってテーマ「表現の演技性」の持つ可能性や発展性が追究できたようにも感じました。
 M.Tさんが言われるように、このテーマが「する」側と「される」側のねじれであるのと同時に、時代的・文化的・性的差異を浮き彫りにする装置でもある。そういうことが、各発表者の発表とその後の質疑によってわかってきたように思います。
 当面、私はこのテーマを小説の語り手の問題として考えていくつもりですが、それにとどまらない大きな発展性を持っていることを、シンポジウムとM.Tさんの御意見とであらためて感じることができました。
 ありがとうございました。
 
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