市川伸一「考えることの科学」には上の問題を小学校二年生の生徒たちに答えてもらった話が出ています。
この問題は子供にも分かりやすく作ったはずの問題なのですが、質問の意図が分かりにくいところがあります。
先生の指示に従わなかったかもしれないのを探し出そうとするのか、先生の言うことを誤解したかもしれないのを見つけるのか、どちらとも取れるからです。
指示に従ったかどうかを調べるなら、女の子なのに赤い帽子をかぶっていないのを捜すので、3番と4番。
先生の言うことを誤解したという場合なら、男の子が赤い帽子をかぶってきたというのも調べることになるので、1番と2番も調べることになります。
この本の著者は「女の子は赤い帽子をかぶってきて」と先生が言ったということは「男の子は青い帽子をかぶるべき」と生徒たちは解釈するだろうと予想したそうです。
ところが生徒たちは「この子は、ずるそうな顔をしているからあやしい」とか「この子はまじめそうだから大丈夫」などと述べ立てたそうです。
出題者としては論理的な問題を現実にありそうな具体的な形にすれば子供でも論理的な正解が得られると思ったのが、問題自身が理解されなかったのです。
この結果についての著者の解釈は、学校教育がまだ浸透していない小学校低学年の段階では、論理的な推論の問題を出されても、事実的な根拠を探し出すものと受け取ってしまうというものです。
そういうと事実に密着する考え方ということで、子供は右脳で考えるというふうにも見えます。
しかしこの場合、子供は感覚的に理解して感覚的に答えを出してしまっています。
識字率の低い社会での大人が、経験によって考えて解答しようとするのとは異なり、子供は印象や直感で答えてしまっています。
抽象的に問題を考えないという点では、文字を知らない人たちと共通するのですが、事実的あるいは現実的に考えるのではなく、感覚的なとらえ方をするのです。
したがって右脳で考えるというようなことでなく、考えるということについて未熟な段階なのです。
この例は論理的な問題というのは、現実的な問題の形に見せようとしてもうまくいかないということを示しています。
論理的な問題というのは学者が工夫を凝らしても、「何でそんなことを考えなければいけないのか」ということを相手に分からせることが出来ないで、想定外の回答が出てきてしまって面食らうということになるのです。