60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

子供は印象で考える

2006-10-31 22:22:19 | 脳の議論

 市川伸一「考えることの科学」には上の問題を小学校二年生の生徒たちに答えてもらった話が出ています。
 この問題は子供にも分かりやすく作ったはずの問題なのですが、質問の意図が分かりにくいところがあります。
 先生の指示に従わなかったかもしれないのを探し出そうとするのか、先生の言うことを誤解したかもしれないのを見つけるのか、どちらとも取れるからです。
 指示に従ったかどうかを調べるなら、女の子なのに赤い帽子をかぶっていないのを捜すので、3番と4番。
 先生の言うことを誤解したという場合なら、男の子が赤い帽子をかぶってきたというのも調べることになるので、1番と2番も調べることになります。

 この本の著者は「女の子は赤い帽子をかぶってきて」と先生が言ったということは「男の子は青い帽子をかぶるべき」と生徒たちは解釈するだろうと予想したそうです。
 ところが生徒たちは「この子は、ずるそうな顔をしているからあやしい」とか「この子はまじめそうだから大丈夫」などと述べ立てたそうです。
 出題者としては論理的な問題を現実にありそうな具体的な形にすれば子供でも論理的な正解が得られると思ったのが、問題自身が理解されなかったのです。
 この結果についての著者の解釈は、学校教育がまだ浸透していない小学校低学年の段階では、論理的な推論の問題を出されても、事実的な根拠を探し出すものと受け取ってしまうというものです。
 
 そういうと事実に密着する考え方ということで、子供は右脳で考えるというふうにも見えます。
 しかしこの場合、子供は感覚的に理解して感覚的に答えを出してしまっています。
 識字率の低い社会での大人が、経験によって考えて解答しようとするのとは異なり、子供は印象や直感で答えてしまっています。
 抽象的に問題を考えないという点では、文字を知らない人たちと共通するのですが、事実的あるいは現実的に考えるのではなく、感覚的なとらえ方をするのです。
 したがって右脳で考えるというようなことでなく、考えるということについて未熟な段階なのです。

 この例は論理的な問題というのは、現実的な問題の形に見せようとしてもうまくいかないということを示しています。
 論理的な問題というのは学者が工夫を凝らしても、「何でそんなことを考えなければいけないのか」ということを相手に分からせることが出来ないで、想定外の回答が出てきてしまって面食らうということになるのです。


文盲と右脳の考え方

2006-10-30 21:50:01 | 脳の議論

 「白熊の三段論法」というのは1930年代に旧ソ連のウズベク地方で、心理学者のルリヤが現地人の推論法を調べるために提示した質問です。
 旧ソ連の辺境であったウズベク地方は、住民のほとんどが文盲であったため、知覚やものの考え方が文字の文化のものといかに隔たっているかが示されています。
 
 上の質問に対して読み書きの出来ない村民の答えの例は
 「それはわからないな、黒い熊なら見たことがあるが、他のは見たことがないし、、、それぞれの土地にはそれぞれの動物がいるよ」(文盲者)
 「60歳とか80歳の人で、その人が白熊を見たことがあって喋るならば信用できるが、私は白熊を見たことがないんだよ、だから話すことは出来ないんだ。」(文盲者)
 「熊が寒さで白くなるというのならそこでは白いに違いない。おそらくはそこでは熊はロシアのよりももっと白いだろう」(識字者)
 「きみの言葉に従うならば、みな白色でなくちゃいけないね」(識字者)
 などといったものです。

 これらの答えを見ると、いわゆる三段論法の問題に対する現代人の答えとはまるで違います。
 現代人のように「熊は白い」などと論理的にまともな答え方をしないで「分からない」といったり、「白い」ということを認めたとしても質問者がそういうならばとわざわざ断りを入れています。
 要するに彼らは経験に基づいて考え、架空の問題でなくて現実の問題として考えようとしているのです。
 抽象的な問題のとらえ方をせず、具体的、経験的に考えるのですからこれはまさに右脳の考え方です。

 現代人から見れば未開拓地方の文盲者は、三段論法が通じないで、わけのわからない答え方をすると感じるかもしれませんが、彼らの答え方は常識的でまともです。
 「雪の降る極北では熊はすべて白い」というのは常識的には「どうしてそんなことが言えるんだ」と疑問視されて当然で、よく調査すればそうでない可能性だってあります。
 だから「わからない」というのが論理的に正しい答えでもあるのです。
 これがもし仮定の話だというならば、その論理的な答えは分かりきっているけれども、事実としては真でないとすれば、それは仮定した人の責任です。
 文盲であれ、識字者であれ、村の人々は常識的に答え、内容的には馬鹿げた質問に対しても感情的にならず応対しているのです。

 現代人は論理学的な問題などを出題されると、何の抵抗もなく論理的な答えを出すのですが、この問題にどんな意義があるのだとか、論理的な答えがどんな意味を持っているかということは考えません。
 言葉の理屈だけで答えてしまうという左脳の働きを当然と考えて、それ以外は非論理的で遅れているとか、アタマが悪いとか思い込んでしまいがちなのです。


経験論の右脳

2006-10-29 22:27:11 | 脳の議論

 上の質問はクリス.マクナス「非対称の起源」にあるもので、左右の脳の働きを見るためのものです。
 電気ショックで脳の片側を一時停止した場合、左脳にショックを受けて右脳しか使えなかった人は「私はザンビアに行ったことがないので、国旗については何も知りません」と答えたそうです。
 質問Aは普通の人にとっては「ハイ」というのが当たり前の答えで、簡単な論理の問題ですが、右脳には単純な三段論法が通じないようです。
 右脳だけで考える場合は経験の範囲だけで考えようとするので、ザンビアのことを知らないから分からないと答えてしまうというのです。
 
 それに対し右脳にショックを受けて左脳しか使えなかった人は「各国家は国旗を持っていて、ザンビアは国家だと書いてあるので当然国旗を持っています」と答えたそうです。
 左脳だけで考えると、現実とは関係なく言葉の論理だけで考えるようです。
 普通の人の答えも同じではあるのですが、何か変な質問だなというとまどいがなく、表面的な論理を追うだけのようです。
 そこで、左脳で考える人はBのような質問にもためらいなく「ヤマアラシは猿だと書いてあるからそりゃ木に登りますよ」と答えるようです。

 ところが右脳だけで考える人は「ヤマアラシですって、そんなものが木に登るもんですか、そりゃ間違いでしょう」と答えたということで、ヤマアラシについての知識があるために憤慨して否定するのです。
 左脳は抽象的な論理で考えることは出来るけれども、右脳は具体的な経験に基づいて考えるという違いがこのような例で分かります。
 左脳も右脳も使う普通の大人であれば、Bのような質問には(変な質問だな、ヤマアラシが木に登るわけはないが、論理だけで言えば木に登ることになる。どう答えることを要求しているのだろうか)などと迷いながらも、質問に対する文字通りの答えとして「木に登る」と解答するでしょう。

 普通の大人には簡単な三段論法なので戸惑いはあっても「木に登る」と答えるのですが、幼児の場合はそうとは限りません。
 5,6歳の幼児に「ハイエナは笑います。レックスはハイエナです。レックスは笑いますか」とか「猫は吠えます。レックスは猫です。レックスは吠えますか」とかいう質問に答えさせると正解率は低いそうです。(ウーシャ.ゴスワミ「子供の認知発達」)
 それに対し「猫はニャーと鳴きます。レックスは猫です。レックスはニャーと鳴きます」といったような質問には正解するので、三段論法で答えるとは限らないのです。
 ところがおもちゃの犬や猫やハイエナを使って笑ったり、吠えたり、鳴いたりして見せた後テストをするとほぼ正解するそうです。
 
 遊びでハイエナが笑ったり、猫が吠えたりしているのを見れば、仮の世界ではハイエナが笑うとか猫が吠えるということが頭に入り、言葉だけの論理が分かるということでしょうか。
 経験を離れて言葉だけを操作する能力は後から出てくるもので、子供のうちは右脳のほうが優勢なのかもしれません。
 


前頭葉への思い入れ

2006-10-28 22:57:58 | 脳の議論

 脳が大きければそれだけ賢いのかとは必ずしもいえないのですが、人間が他の動物より賢いことを証明するのに脳の大きさが使われます。
 小さな政府の国より大きな政府の国のほうが優秀とは必ずしもいえないのですが、脳は大きいほうが優秀として疑問には感じないようです。
 絶対的な脳の大きさで言えば、象やクジラには負けてしまうので、体重との比較での脳の大きさを考えればやはり人間が一番と説明されました。
 ところが体重との比較で言えば、テナガザルとかネズミのほうが人間より脳の割合が大きいということが分かって、他の決め手が捜されるようになりました。
 そこで目をつけられたのが前頭葉で、人間の前頭葉はとくに発達していて、脳に占める前頭葉の割合は普通の動物はもちろんのこと、類人猿などと比べてもはるかに大きいという風に説明されていました。
 
 前頭葉というのは自分の脳を操作するので、脳の中心、会社で言えば取締役会のようなもので、人をして人たらしめるものとかいわれ、動物との違いは前頭葉の発達の違いだとか言われています。
 人間の特徴はまさに前頭葉の進化だというような説明が今でも常識のようになっています。
 だから現生人類ではないが3万年ほど前に絶滅した、ネアンデルタール人の脳が現人類のものより10%ほど多いと分かったとき、ネアンデルタール人は脳は大きくても前頭葉は未発達だと計測したわけでもないのに断定する学者もいました。
 前頭葉が小さいのに脳がわれわれより大きかったのはなぜかという疑問が当然出てくるのですが、彼らはヘラクレスのように筋骨たくましかったので筋肉を動かすに使ったなどと言ってしまう人もいました。
 筋力が強いから脳が大きくなるというならゴリラなどはものすごく大きな脳のはずで、こんな説明が出てきたのも人間が一番という結論が先で、脳による説明はこじつけ立ったのです。

 ところで人間だけが前頭葉が発達していたのかというと、実際にサルや類人猿の前頭葉の割合などを、どの程度正確に測ったのかは明らかではなかったようです。
 その後MRIなどを使って測った例がありますが(1997年と2002年)いずれの例でも人間と類人猿の間でほとんど差はないという結果となっています。
 図は澤口俊之「脳の違いが意味すること」(赤澤威「ネアンデルタール人の正体」所収)からのものですが、ここではネアンデルタール人の前頭葉は現人類と脳に対する割合は同じだとしているので、結果的に絶対的な大きさでは上まわっていることになります。
 ただ澤口氏はネアンデルタール人は体格が良いので、体重に対する前頭葉の割合で比較すればげんじんるいより40%も劣るとしています。
 そうすると戦前の日本人と比べたアメリカ人は前頭葉の体重日がかなり少なかったとみられるので、の脳の働きが悪かったということになるのでしょうか。
 前頭葉は脳を操作するものだというのがこの著者の主張だったはずがいつの間にか、体重比を持ち出しているのが不思議です。
 どうでも現人類が最高という結論に結びつけたいのは人情ですが、説明としては疑問です。


左右対称だから好まれるのか

2006-10-27 22:38:17 | 視角と判断
 図はクリス、マクマナス「非対象の起源」から。
 AとBを比べた場合ほとんどの人がBを好むというのですが、どうなのでしょうか。
 答えたのはイギリスの学生たちのようですから、学生以外とか他の国の人がどう感じるかは分かりません。
 しかし一応Bのほうが好まれるということにして、次にAとCを比べたらどうでしょう。
 その結果は分からないのですが、BとCとでは見た感じがだいぶ違うので、Aのほうが好ましいと感じる人が多いのではないでしょうか。
 
 じつは、この三枚の写真はもとがAで、Bは顔の右半分をコピーして左半分と交換して左右対称に作ったものです。
 同じようにCは左半分を基にして作った左右対称の顔です。
 一般的に左右対称の顔のほうが魅力的で好まれるということが言われているので、そのことを確かめようとしてBのような合成写真を作って実験したようです。
 ところが、顔の半分を取って左右対称顔をつくるのであれば、2種類の合成顔が出来るはずなのですが、なぜか1種類だったのでもう一つを作ってみたのがCです。

 顔の表情というのは左半分が右脳に支配され、右半分が左脳に支配されるといいます。
 左右どちらが表情豊かで情緒的に好まれるかというと、右脳に支配されている左側のほうだといわれているので、Bのほうが好まれるというのは妥当だともいえます。
 つまり左右対称が原因というよりも好ましいほうの半分だけで合成したから好まれたのだともいえるのです。
 左右対称が好もしさの原因だというのであれば、CのほうがAより好ましいということになるはずですが、おそらくそうはならないでしょう。

 もともと動物にせよ人間の顔にせよ、基本的には左右対称に出来ているので、著しく非対称になっていれば不自然で魅力がないのは当然です(動物などの場合人間が見たら左右対称でないも固体を見つけるのが困難です)。
 右と左が少し違っていた場合、どちらか片方が崩れたと考えるなら、対称的であるということが魅力的であるというよりも、非対称というのは魅力が失われることだということに過ぎません。
 対称的であることが魅力を作るというならば、この写真の例で言えばCのほうがまぎれなく選ばれるはずです。
 Bのほうだけを示して対象性のあるほうが選ばれると説明するのはうっかりミスか、あるいは結論が先にあるトリックかです。

音読は理解力が落ちる

2006-10-26 22:42:26 | 文字を読む

 上図のような文章を音読してみたとします。
 たいていの人はどういう意味なのか分からないのではないでしょうか。
 分からないのでもういちど音読してもやはり分からないでしょう。
 この文章は理解しやすくするため意味単位ごとに行を変えてあるのですが、それでもなかなか意味が頭に入りにくいと思います。
 意味を理解しようとすれば途中で止めて考えたり、あるいは前の部分に戻ったりして意味のつながりをつかもうとしなければなりません。
 意味が分からなくても文字が読めれば音読できるので、前に進んでいくことはできるのですが、意味を理解しようとして考えるととまってしまいます。
 音読というのは音声化するのに脳を使う分意味をつかみとるのが、黙読に比べ難しくなります。

 複雑な構造の文章とか、読み手にとって内容が難しい文章を読むときはどうしても、途中で止まって考えたり、前にもどって読み返したりすることになります。
 速読法などでは途中でとまったり、前に戻ったりすることはスピードを落とす原因となるので禁物なのですが、これは大意をつかめばよいということで目的が速度になっています。
 音読も似たようなところがあり、一定のペースで前に読み進めるので、途中で考えたりすると声が止まってしまいます。

 上の文章の例では、黙読であれば「彼女の意図は(  )私に知らしめることである」と目でとらえることができるので間の(  )の意味を考えれば分かります。
 (  )の部分は「彼女が考えているのだという旨」でその内容は「もう家に帰る時間だということを私が考える」ということです。
 この文章を頭から読んでいって全体の意味をつかむというのは難しいのですが、文の並びを見ながら関係を考えれば理解は出来ます。
 
 音読をすると脳が活性化するというふうに言われていますが、音読をしたほうが意味の理解が困難になるので、そのぶん理解のために脳ががんばっているのかもしれません。 
 その結果疲労度も激しいので、ある程度少ない量でなければもちません。
 文章を読む目的が、内容の理解であるならばエネルギー効率からいっても黙読のほうが有利です。
 


注視したときのイメージ

2006-10-25 22:21:48 | 視角と判断

 図Aは図Cの二つの顔を半分づつとって合成した顔です。
 つまり悲観的な顔と楽観的な顔の半分づつで合成した顔です。
 Aの顔を正面から見ると上の顔と下の顔とではどちらが楽観的に見えるでしょうか。
 正面から見るというのは、ちょうど鼻が真ん中にあるので鼻のあたりに視線を向ければよいのですが、下の顔のほうが楽観的な顔に見える人が多いといいます。
 上の顔と下の顔は左右が逆になっているだけなので、同じように見えてもよいはずなのですが、正面から見ると別の表情に見えます。

 下のほうが楽観的な顔に見えるというのは、左側の表情が楽観的に見えるからですが、左視野は右脳が処理をしており、右脳は感情を判断するからだといいます。
 多くの人は右利きで、ものを見るとき左側に注意が向きやすいということと、顔の表情は右脳で判断するということもあり、上の顔が悲観的、下の顔が楽観的に見えるということです。
 図を見るとき左側から先に見る習慣の人が多いので、左側のイメージが先に入ってしまうからだとも考えられますが、右側から先に見てから顔の中心に視線を向けて注視すればやはり左側のイメージが支配的になるでしょう。

 図Bは図Aの顔を横にしたものですが、どちらが楽観的に見えるでしょうか。
 普通図を見るときは最初に上のほうから見ていくので、上の顔が悲観的、下の顔が楽観的に見えるのではないでしょうか。
 ところが顔の真ん中に視線を向けて見るとどうでしょうか。
 あごのくぼみと鼻を結ぶ線に注意を向けて見ると、上の部分より下の部分のほうが印象が強いのではないでしょうか。
 そうすると最初は悲観的に見えた上の図は顔の真ん中に注意を向けて見た場合は、楽観的な顔に見えるようになるのです。
 逆に下の顔は最初楽観的に見えるのですが、顔の真ん中に注意を向けて見ると下半分のイメージが優勢となり、悲観的に見えるようになります。
 A図の場合は最初の印象とよく注意して見た印象とが一致したのですが、B図の場合は印象が逆になってしまうのです。
 


心理的な説明と因果関係の説明

2006-10-24 22:51:15 | 視角能力

 図Aでは左の同心円の外円は右の円と同じ大きさなのに少し小さく見えます。
 また内円のほうは下の円と同じ大きさなのに少し大きく見えます。
 心理学ではこれを同化効果と呼んでいます。
 同心円の内側の円は外側の円の影響で大きく見え、外側の円は内側の円の影響で小さく見えるので、お互いに同化していると解釈しているわけです。
 このような現象は円でなくてもおきるということはB図を見れば分かります。
 左にある内側の正方形は少し大きく見え、外側の正方形はやや小さく見えます。
 やはりこれも同化効果の一種だと納得するでしょうが、同化効果という表現での説明には引っかかるものがあります。
 同化というのは心理学的あるいは比喩的な表現で具体性がありません。

 たとえばC図では内側の正方形の二辺だけ(つまり二本線)を描いてあります。
 左の正方形の場合、内側の線に外側の正方形の辺が同化しようとするなら、この正方形は上下に縮んで横長に見えるはずですが、逆に縦長に見えます。
 右の正方形の場合は左右に縮んで縦長になるはずが、逆に横長に見えます。
 内側の二本の線に外側の辺が近寄って見えるのではなく、二本の線に注意が行きその方向に注視範囲が広がるのです。

 これは内側の図形が線でなくて小さな円にしたD図のような場合でも同じです。
 左側の図形は縦長に見え、右側の図形は横長に見え、さらに円が外側に出ればよりはっきりと縦長と横長に見えます。
 つまり新しい刺激物が描かれればそちらに注意が向いて、注視範囲が変わるのです。
 こうしてみると正方形の近くに描かれた線や円の刺激が注意を引き、注意の方向をきめるので見え方が変わるのだという事が分かります。
 
 同心円や同心正方形の場合は、刺激図形が相似形なのでいかにも同化しているという表現がふさわしく思えるのですが、内側や外側に相似形でない刺激を描き加えても同じ効果が得られるので、同化というのは原因ではないことが分かります。
 表現によって心理的に納得させるというのでは、因果関係の説明をしたということにはならないのです。


注意の向け方で見え方が変わる

2006-10-23 22:12:57 | 視角能力

 図Aではaとbはともに左上の正方形と同じ正方形です。
 ところがaは横長に見え、bは縦長に見えて同じ正方形には見えません。
 近接して刺激(この場合は長方形)があるとその方向に図形が引き伸ばされて見えるので、aの場合は横に、bの場合は縦に伸びて見えるのです。
 
 図Bの場合はcとdは同じ長方形で、dはcを縦にしたものですが、とても同じ長方形とは見えません。
 c、dともに上下に近接して刺激があるため上下に引き伸ばされて見えます。
 そのためcは長方形の二辺の比が弱く感じられ、dでは強く感じられるので、まるで違った図形のように見えます。

 C図はアメリカのシェパードが考案した図形でeとfは同じ形の平行四辺形です。
 cとdもかなり違って見えたのですが、これはさらに極端で、とても同じ形とは思えないでしょう。
 この場合は机のような形で描かれ、下辺に刺激が描き加えられているのでB図のような効果が半分はあります。
 平行四辺形は奥行き感を感じさせるのですが、それに加えテーブルの形で描かれているので奥行き感が強く感じられるようになっています。
 そのため、平行四辺形は前後に伸びているように感じられ、eの場合は短辺が長く見え、fの場合は長辺が長く見えるのです。。
 したがって、この場合は二つの要因が重なって縦横の比が強調されて見えるのです。

 それではなぜ図形の横に付加的な刺激が加えられると、その方向に引き伸ばされて見えるかといえば、それは注意の幅が広げられるためです。
 たとえばA図のaの場合、この図形を見るとき自然に注意は左右に広げられます。 
 そのため正方形aは横に広がって見えるのですが、bの場合は注意が上下に広げられるので縦に広がって見えるのです。
 そこで正方形aの上辺と下辺に同時に注意を向けて見るとどうでしょうか。
 同時に注意を向けて見ることが難しければ、まず下辺を注視し、そのまま視線を動かさずに上辺を見るようにすると上下に注意を向けて見ることが出来ます。
 そうすると、先ほど横長に見えていた正方形はほぼ正方形に見えるようになります。

 同じようにbの場合は左右の辺に注意を向けて同時に見れば、bは縦長の四辺形でなく正方形に見えるようになります。
 B図の場合でも左右両辺に注意を向けて同時視すれば、cもbも横に広がって見えるようになるので、同じ形の図形であることが実感できるようになります。
 つまり、注意の向け方で見え方が変わるのです。
 (ただしeとfの場合は遠近感が関係しているので違いが少し弱められるだけでなくなって見えるということはありません。)
 


素直に考えたほうが良い説明となる

2006-10-22 22:17:41 | 視角能力

 図A-1は遠近法で描いた部屋の隅と、角の前から見た四角い建物です。
 遠近法の絵の中では同じ長さの線は奥のほうに描けば長く見え、手前のほうに描けば短く見えます。
 左のほうの図では奥に見える部屋の角の線と同じ長さの線を左側に描いて見ると、角の線のほうが長く見えます。
 右の方の図ではビルの角の線は手前に見えるのですが、左横に同じ長さの線を描いて見ると角の線のほうが短く見えます。
 
 図B-1はミュラー.リヤーの錯視図で、上の図の軸線は下の図の軸線より短く見えます。
 その理由をグレゴリーという心理学者は遠近感によって説明しています。
 上の図の形はA-1のビルの角に見られる形で手前にあるように感じるので短く見え、下の図は部屋の角に見られる形で奥に引いたように感じるので長く見えるというのです。
 図B-1の場合は絵画的な手がかりがないので、遠近法による遠近感というものは直接はないのですが、A-1のような視覚経験が積み重なって、B-1のような矢羽の形を見ると遠近感を感じるというのです。
 この説明はスマートで、普通では思いつかない気の利いた説明なのですが、難点があります。
 
 ミュラーリヤーの錯視図は矢羽の角度が狭いほうが錯視の度合いが大きいのですが、現実の三次元空間では鋭角の矢羽は不自然になります。
 図A-2は少し矢羽の角度を鋭角にしたものですが、この程度角度を狭めただけでもかなり不自然な画像となります。
 まして図B-1のように角度が鋭角になった場合は、現実の世界ではビルの角とか、この形を部屋の隅に見出すことはありません。
 B-1のような線だけからでは遠近感がもたらされるわけではありませんから、A-1のような絵画的な類似がイメージされにくいとなると、遠近感による説明は成り立たないのです。

 素直に考えれば、ミュラー、リヤーの錯視図は軸線の両端が矢羽と融合するためにおきるものです。
 B-1の上の図は矢羽と軸線の両端の融合は軸線の内側で起きているので軸線は短く見えます。
 それに対して下の図の場合は融合は軸線の両端の外側で融合が起きているので、軸線は長く見えるのです。
 したがってB-2のように矢羽の半分を除いた図形をイメージすれば、軸線の両端がイメージされるので、融合から開放されて両方の軸線は同じ長さに見えます。
 このように図形の一部分を全体から切り離して見ることが出来れば、錯視が減少あるいは消滅するのですが、子供や老人がこの錯視の度合いが大きいというのは、このようなの視覚能力が不足しているということなのです。