60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

脳と読書

2009-01-13 22:38:58 | Weblog

 図はメアリアン.ウルフ「プルーストとイカ」から。
 上は大人の英語の読み手が文字を読んでいるときの脳が活動している場所を示したもので、左側の脳の一部が主に使われていることがわかります。
 右下の図は子供など、文字の読みについては初心者の場合の脳の活動領域を示したものです。
 これらのずを見ると、文字を読む能力が発達している場合に比べ、能力が未発達の場合のほうが広い範囲にわたって脳を使っていることがわかります。
 子供が文字を読むときは大人よりも脳の活動は左右両半球のハタラキが広い範囲で、はるかに活発な働きをしています。
 このことについての説明は、どんな技能もそれを身につけるときは、脳のいろんな部分を使い多大のエネルギーも必要ですが、上達につれて無駄なハタラキをしなくなり効率が向上するからだとしています。

 これはもっともな話で、体の運動の場合でも技術が身につかないうちは無駄な筋肉を使ったりするため、効率が悪くエネルギーを余分に使うので疲れます。
 多くの筋肉を使ってくたびれるからといって、より身体が活性化しているというふうには思わないでしょう。
 筋肉を効率的に動かせるようになれば、あまりエネルギーを使わずに効果的な運動が出来るのですから、筋肉をやたらに動かしているほうが活性化していると評価することはありません。
 脳の場合も使い方が効果的かどうかを無視して、単に広い範囲で血流量が多い、つまり活性化しているといって喜ぶというのはどうかしているのです。

 日本では、文字を音読しているときに、広い範囲にわたって脳が活性化しているということから、脳を鍛えるには音読が良いという風に信じられるようになったのですが、これはもう一度考え直す必要があります。
 まず、脳を鍛えるというのですが、目的は何なのか、またどのような状態が鍛えられた状態なのかあいまいです。
 身体の場合にたとえれば、特定のスポーツの能力を身に着けるのであれば、それぞれに応じて鍛え方が違うはずです。
 相撲とマラソンでは訓練方法は明らかに違いますし、結果としての身体の形も違います。
 ばくぜんと身体を鍛えるというと、ボディビルのようなものをイメージする人もいるかもしれませんが、ボディービルダーが身体の望ましい鍛えられ方だというわけではありません。
 そのボディービルにしても、筋肉の鍛え方はシステマティックで、単に多くの筋肉を同時に動かせばよいというものではありません。

 音読をしているときは脳の多くの部分の血流量が増し、それも速く音読するときに著しく脳が活性化するということで、音読で脳を鍛えようとするらしいのですが、この活動は長くは続けられません。
 10分もやれば相当に疲れてしまいますから、本などを読むという目的には適いません。
 速く音読したところで10ページともたないだけでなく、意味の理解もおぼつかないので、読書としては不適格です。
 身体を動かす場合でもやたらに速くいろんな場所を動かせば、全身に血が回るということにはなりますが、すぐに疲れてしまいますし、運動能力は向上しません。
 ともかく脳の血流量が広い範囲にわたって増えたのだから、脳が鍛えられているに違いないというのは粗雑な考えです。
 脳の血流量を増やすために音読するというのは、脳をほとんど使わなくなった人には意味があるかもしれませんが、普通の人間には意味がありません。


縦の視野を広げる

2008-11-01 23:18:24 | Weblog

 図Aの四角形の中の縦線は、同じ長さで等間隔に同じ高さで並んでいるのですが、上端の位置はでこぼこのように見えます。
 直線を囲む四角形の影響で、縦線は等間隔に整列しているようには見えないのです。
 縦線の上端はそろっているのだということを知っていても、やはり上端は一致していなくてずれがあるように見えます。
 これは、中の縦線とそれを囲む四角形を切り離して見るのが難しいためです
 そこでB図のように、枠の四角形の色を変えて、赤くしてみると同でしょうか。
 A図の場合よりも、四角形と縦線を切り離してみることができるので、縦線が同じ高さで並んでいるいるように見えやすくなります。

 A図の場合は四角形と縦線が同じ色であるため、縦線を四角形から切り離してみることが難しくなっているのです。
 漫然と見れば縦線の上端は不ぞろいに見えるのですが、縦線を四角形から切り離して見ることができれば、上端はそろって見えるだろうということは予測できます。
 縦線だけに注意を向けて、六本の縦線を同時に見ることができれば、、縦線の上端はそろって見えるのですが、視線を動かすと集中が切れて、また縦線の上端は不ぞろいに見えるようになります。

 ここでA図の縦線部分を左から順に一秒ぐらいの間隔を置いて、見ていくとします。
 最後まで行ったら、また元に戻って縦線を一秒ぐらいの間隔を置いて見ていきます。
 これを二三度繰り返すと縦線は上端がそろって見えるようになります。
 これは一つ一つの縦線を注意深く見ていくと、それぞれの縦線の上端の位置は同じなのですから、視線は同じ高さに向けられていたわけですから、視線の動きが無意識のうちに記憶されていて、その結果上端の位置がそろって見えるようになるためです。
 目の動きを意識的にコントロールして注視していくと、その記憶が残っていて、六個の縦線を同時に見たとき上端がそろって見えるようになるのです。

 これ以外にも、目の力を抜いて六本の縦線全体に注意を向けて見ると、上端部分の高さはそろって見えるようになります。
 この場合は視線を動かさないで見るので、縦線の上端の位置はありのままに見えるようになるのです。
 同じことを、Bを使ってやれば、四角が赤線なので、縦線に中位を向けて見ることが容易で、縦線が整列していること見やすくなります。

 
 C図はA図をちょうど90度回転したものですが、今度は四角形の中にある直線は水平になります。
 六個の横線の左端はそろっているのですが、なかなかソウは見えません。
 A図のときと同じように見ていっても、なかなか左端がそろって見えるようにはなりません。
 目は左右に二つついているため、横視野は広いのですが、縦の視野は横の場合と比べ狭いのです。
 そこで、六個の直線を同時に見ようとしても、視野が狭いためよく見えないので、つい視線を動かしてしまうためです。
 そこで、縦に順に横線を注視していくという、意識的な目の運動をしてから、目を見開いたうえで、縦の視野を広げてみると、だんだん左端がそろって見えるようになります。
 目の力を抜いて全体を見ようとするときも、目を見開いて縦の視野を広げておかないと全体が見えなくなり、つい視線動かしてしまいます。
 日本語の本は多くが縦書きなので、縦の視野を広げる習慣をつけないと、読みにくく疲れやすいのです。


会意文字が多い

2008-09-16 23:18:21 | Weblog

 「翠」と「みどり」と読み、青緑色を意味しますが、「羽+卒」がなぜ「みどり」という色になるのか、字面からは読み取れません。
 字典を引けば「翠」は「かわせみ」の雌で、雄の「かわせみ」を指す「翡」と合わせて「翡翠」が「かわせみ」を指します。
 かわせみの色が鮮やかな青緑色であることから、青緑色を意味し、そこからこの色の宝石である「翡翠輝石」をも意味します。
 日本語では「翡翠」を「かわせみ」と読めば鳥の名で、「ひすい」と読めば石の名ですが、色名のときは「翠」だけを表示して「みどり」と読みます。
 中国では「翠」(スイ)が「翡翠」を代表し、鳥の名、色名、石名を兼ねているのですが、日本ではバラバラになっています。
 日本では「かわせみ」が青緑色を連想させ、それが翡翠輝石を連想させるというふうになっていないので、読み方がバラバラになるのです。
 漢字の解釈といっても、中国と日本では発想が違うので、中国式の連想のつながりで説明されても日本人が納得できるとは限らないのです。

 「翡翠」については「翡」がオス、「翠」がメスだというのですが、なぜメスの「翠」が「翡翠」を代表するのかわかりません。
 一般的には雄と雌があってどちらかでその種を代表するとすれば、目立つほうで「かわせみ」の場合は、どちらかといえばオスのほうが色鮮やかだそうですから、本来ならオスの「翡」で代表してもよさそうなものです。
 「鯨」などは雄の鯨だそうですから、オスが種を代表しています。
 「かわせみ」は小さくてかわいらしいからメスで代表させると、理由付けしようとしても、「おしどり」はオスの「鴛」が代表していますから、「かわせみ」だけがなぜ?という感じです。

 また「翠」は「羽+卒」という形になっていて、羽は鳥を意味するので分かるのですが、「卒」はどういう意味なのか分かりません。
 いわゆる形声文字であれば「卒」は音符、羽が意符ということで、「卒」の意味まで考えなくても良いのですが、「卒」は字典を引いても「ソツ、シュツ」という読みがあるだけで「スイ」という読みはでていません。
 字典では「翠」の「卒」は音符(シュツ)で「小さくしまっている」意味で小鳥のことだと説明しています。
 つまりここでは「卒」は意味を示していて、「スイ」という音は示していないので、「翠」は形声文字でなく会意文字だということになります。
 
 それでは「卒」の部分は「スイ」と読むことはないのかというと「純粋」「酔態」「憔悴」などは「スイ」と読んでいるので、「スイ」と読むときもあります。
 単独では「ソツ、シュツ」としか読まなくても、他の意符と組み合わさったときは「スイ」と読むことがあるのです。
 「粋」「酔」「悴」「翠」などには字典を引けば、「ちいさい」という意味が含まれていて、「卒」にも「ちいさい」という意味があります。
 「スイ」という音声言葉があってこれを文字にしようとするとき、「卒」の意味を借りて「羽+卒」、「米+卒」のように作ったものと思われます。
 文字より先に音声言葉があるので、「翠」は「ウ」とか「ソツ」と読まず、「スイ」と読むのですが、文字面に音声は表示されていません。
 字典では「翠」は会意兼形声文字とされていますが、実際上は会意文字であるようです。
 そうすると、漢字は形声文字が大部分と言われるのですが、会意文字が考えられていたより多いということになります。
 日本で作られた漢字が会意文字が主であるのは、中国の漢字も形声文字ばかりでなく会意文字がかなり多いと感じていたためかもしれません。


旧字体の文字の形

2008-09-10 00:06:14 | Weblog

 「学」という字は旧字体では「學」という字になっています。
 漢和辞典の説明では上の部分は図にあるように、「身ぶり手ぶりをならわせる」という意味だそうで、そのしたは屋根を表わしその中に子供がいるということで、学校を意味し、さらに学ぶという意味を持つということだそうでです。
 現在使われている新字体の「学」では、このような意味が字面に表現されていません。
 これは旧字体が良いという人がよく例に挙げる例なのですが、これだけ見ればもっともらしいのですが、現在ではこの知識はほとんど他に適用できないので役に立ちません。
 
 たとえば「撹乱」とか「撹拌」という字も、旧字体では「攪」となるのですが、この場合は「みだす」とか「かきまわす」という意味で、「学ぶ」という意味とは関係がありませんし読みもガクではありません。
 ふつうは「カクハン」とか「カクラン」と読んでいますが、漢字にうるさい人は「コウラン」「カクハン」が正しい読みだといいます。
 手偏に覚で「カク」とあとから読み慣わすようになったのでしょうが、音符の「覚」を「カク」と読むという知識が逆に作用してしまったようです。
 「撹」を「カク」読んだところで不都合はないのですが、「撹乱」いうような言葉を最初に導入したときは「コウラン」という読み方をしたということです。
 しかし「撹拌」のような言葉を使い始めたときには「コウハン」と言う読み方が定着していたかどうかは分りません。

 では「覚」は「カク」としか読まなかったかというと、実は「コウ」という読み方もあって、「覚醒」のように「さめる」という意味の場合は「コウ」という読みが漢和辞典を引くと出ています。
 「発覚」「覚悟」のように「あらわれる」とか「おぼえる」といった意味の時は「カク」という読みが当てられています。
 しかし現在では「覚醒」も「カクセイ」と呼んでいますから、すべて「カク」という読み方になっています。
 それで別に不都合はないのですから、「カクセイ」「カクラン」「カクハン」と言う読みが定着していても追認すればよいと思います。
 もちろん「覚」には「学ぶ」という意味とは直接関係がないのは明白ですが、字典では意味のつながりを何とか説明しようとするものがあります。
 それでも「覚」を「まなぶ」という意味とつなげるのはむずかしく、説明を読んでも論理がつながっていません。

 それぞれの文字の意味が違うのですから、こレらの背景に統一的な意味を感じ取ることは出来ません。
 したがっても字面が一緒でも意味も一緒というふうに考えないで、それぞれ個別に意味を覚えるしかないのです。
 「學」と同じ意味を持つ字としては「黌」という字があり、これだけ見てもややこしい字で意味が分からなくても「昌平黌」というふうに示されれば「ショウヘイコウ」と読むことはできるかもしれません。
 「黌」の上の部分は「學」と同じで、「学ぶ建物」という意味ですが、下の「黄」という部分が分りにくいものとなっています。
 まさか黄色い色をした建物という意味ではないでしょうから、あらためて字典を引けば「黄」は「ひろい」という意味で「広」の旧字体の「廣」と同じ使われ方です。
 したがって「学ぶための広い建物」ということで「ガッコウ」を意味することになります。(それでもこの場合は読みが「コウ」で学とはなぜか違います。

 「学」「覚」「撹乱」などは上の部分からは意味の共通性が見渡せないので、共通の意味をさぐろうとせずに個別に意味を覚えることになり、かえって好都合ですし、音読みも個別に覚えたほうが無難です。
 旧字体は文字の意味が字の形に埋め込まれているというのですが、この例でも見られるように同じ形が同じ意味とは限らないのです。
 「学」という字でも字源的な説明にある「身ぶり手ぶりをならう」というような意味は 「科学」や「数学」などの「学問」という場合にはなくなっています。
 言葉の意味が変化してきて元の意味から離れてきているのですから、文字の形が元の意味を反映していないほうが便利なのです。
 


ルビの不思議

2006-04-21 23:59:45 | Weblog

 どの言語でも言葉の意味は一通りではありません。
 「そら」という言葉でも日本語のばあいでも主な意味で五通り以上あります。
 日本語の場合は、空、宙と書いたり、諳んずる(暗誦)、うわの空(放心)、虚言(そらごと)などと書き方を変えて意味を明示しようとするので、漢字がないと意味が分かりにくいような気がしたりします。
 中国では「空」は空と表記するだけで、意味が違う場合に別の表記をすることはありません。
 英語の場合でも「air]は「そら」という意味のほかにいくつもの意味があるのですが、意味が違う場合には別の表記をするというようなことはなく、「air」は「air」と表記します。
 
 日本語は漢字で意味を書き分けるから、漢字がないと意味が通じにくいとか、しゃべっているときに漢字を思い浮かべているというような説がありますが、本当にそうなのでしょうか。
 そうであれば、漢字を知らない人は言葉が満足にしゃべれないということになってしまいます。
 漢字を知っていたほうが意味が分かりやすくハッキリするということであれば、日本語のほうが英語などよりよほど意味が分かりやすい言語だということになります。
 
 日本語に漢字を当てるというのは、実は二重表記をしていることで、諳んずると書けば本来なら、「諳」は「しょう」というような音読みしかないはずなのに、「そらんずる」と読ませています。
 「諳」は意味として当てた漢字なのに日本語のほうが隠れてしまっています。
 そのため読み仮名という形式でルビを振るようになったのですが、おかしな風習だとは言え、外国語がたくさん入り込んでくるときには結構役立つものです。
 明治時代には外国の物や概念をさかんに漢字に翻訳しましたが、もとの外国語を振り仮名の形で表記するようなことも行われています。
 現在のようにカタカナ語が急増している状況では、カタカナをカタカナでそのまま表記するだけでは意味が分かりにくくなってきています。
 アメリカなどでも社会や技術の変化によってたくさんの新語が出来、頭文字による略語が急増して困っているようです。

 カタカナ語に漢字による翻訳をあて、二重表記をするのは苦し紛れかもしれませんが、大量に外国語が入ってくる状況ではよい方法です。
 振り仮名などをすると、細かい字になるので高齢者には特に読みにくいと思われますが、カナばかり並べるわけではないので、それほどでもありません。
 図に示している例では、ルビを振った場合と、ルビと同じ大きさでかな書きしたものを並べていますが、ルビの場合は小さくてもはるかに読みやすくなっています。