60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

納得しやすい説明

2006-03-08 23:03:48 | 視野とフレーム
 E.アデルソンのデモ図形ですが、チェッカー盤上のAとBの面は同じ明るさなのにBのほうがっずっと明るく見えます。 
 Bの部分は円筒の陰になっているのでAと同じ明度ならAよりずっと暗く見えるはずだと普通は無意識のうちに感じます。
 ところが画面上では同じ明るさに描かれているので相対的に明るく見えるのです。
 つまり、AよりBのほうが明るく見えるのは錯覚だというのです。
 なかなか信じられないかもしれませんが、ためしにAとBの部分をコピーして図の左上に貼り付けてみました。
 たしかにAとBは同じ明るさです。

 Bが明るく見えるのは円筒形の陰になっていると解釈するために起きる錯視だという説明に対し、Bが黒い四辺形に囲まれているために相対的に耀か組みえるのではないかと疑問に思う人もいるでしょう、
 そこでBを含む黒い部分をコピーして左上に貼り付けてみました。
 上のBの部分と下のBの部分は同じものからのコピーなのですが、やや下のほうが明るく見えます(Bという文字を比べると下のほうがハッキリ見える)。
 やはり周りの黒い四辺形との対比でやや明るく見えるのですが、左上のAと比べるとあまり明るさの差は感じません。
 チェッカー盤上のAとBのようにはっきりとした明暗差は感じられません。
 
 やはり円筒の陰になっていると解釈しているためにBが明るくみえるのだと思われます。
 しかし、これは右側に円筒が描かれていて、円筒が光の方向を示唆しているためにそう思うのであって、円筒が描かれていなくてもやはりBのほうが明るく感じられます。
 AやBの周りのの市松模様の濃淡のつけ方で明るさが変わって見えるのであって、円筒は意味づけの道具に過ぎないのです。
 実際、円筒の部分を紙か何かで隠してみれば分かります。
 AとBの見え方は変わらないのです。
 さらに円筒の部分を回転させて光が逆の方向から当たるように描いてもA,Bの見え方は変わりません。

 円筒の陰になっているという解釈は見え方の原因ではなく、BがAより明るく見えることを納得するための手段となっているのです。
 おそらく円筒の陰が逆の右側になっていても気がつかない人のほうが多いと多いと思います。
 実際の因果関係がなくても、もっともらしい理由が示されれば、それが思い込みになって見方が変わってしまう例です。
 

現実問題と論理学の推論

2006-02-27 23:31:33 | 視野とフレーム
 「20歳以上なら酒を飲んでもよい」という問題ならほとんどの人が4枚カード問題を正解します。
 問題が具体的で、常識の範囲にあるからとも思われますが、「18歳過ぎると酒を飲む」ということを確かめる場合はどうでしょう。
 未成年者は禁酒と言っても、実際は18歳から飲酒していますから、具体的で常識的な問題です。
 論理学的には1枚目と4枚目をめくるというのが正解だということになるのですが、多くの人は1枚目と3枚目をめくるでしょう。
 「18歳過ぎれば酒を飲む」という場合、論理的には18歳未満については何も言っていないので、18歳未満が何を飲もうと関与していません。
 したがってビールを飲んでいるのが18歳以上でも未満でもどちらでもよいことになります。
 つまり、2枚目と3枚目をめくる必要がないということになります。
 要するに普通の4枚カード問題と同じで、具体的な問題でも論理学的に誤りやすいものは誤りやすいのです。
 しかし、3枚目をめくる人は形式論理的な問題でなく、実証的な問題として考えていて、実例を調べることが確かめることだと前提しているのです。

②は推論の問題ですが、「太郎君は答えがわかった」という推論は論理的には誤りとされます。
 先生は「答えがわかった人は手をあげて」といっただけで、わからない人が手をあげてはいけないとは言ってないからです。
 たいていの人は「ソンナ馬鹿な」と、思うでしょう。
 そう思うのは、先生がそういわなくても、分からなければ手をあげないのが常識だと無意識のうちに思っているからです。
 しかし、みんなが手をあげるので、つい太郎君も分からないのにあげたという場合もありえます。
 アメリカ人のように、よく分からなくてもともかく手をあげると、積極的だと評価される場合もあります。
 あるいは、太郎君は分かったと勘違いしているのかもしれません。
 またあるいは、太郎君は分からないので、質問しようとして手をあげたのかもしれません。
 「分からなければてをあげないはずだ」という思い込みが現実的かどうかは分からないのです。
 だからといって、「手をあげない生徒は分かっていない」というのは論理的には正しくても、現実はそうとは限りません。
 面倒だとか、目立ちたくないとかさまざまな理由で手をあげないことが考えられるので、論理的な推論が正しいとは限らないのです。
 推論を行う前に隠れている前提条件を明らかにしないと結論は出ないはずだからです。


4枚カード問題2

2006-02-26 21:38:52 | 視野とフレーム
 ①はシアーズ問題というのを変形したもので、「5万円以上の伝票は主任が裏にサインする」という規則があるとき、裏返して確認する必要のあるものはどれかというものです。
 この問題の正解は表が¥88000の伝票と、裏にサインのない伝票ということで、ほとんどの人が正解するそうです。
 形式論理では、「5万円以上→裏にサイン」なら「裏にサインがない→5万以下」だから1枚目と4枚目をめくればよいということになります。
 そうすると、普通の人も形式論理を使って正解するように見えますが、これは抽象的な例でなく経験に即した具体的な問題だからだとも考えられます。
 
 ところが、この問題は解釈によって正解は違ってきます。
 5万円以上ならサインするという規則があるとき、形式論理では5万円以下のときサインしていてもかまわないので、2枚目と3枚目はめくる必要がないとしています。
 しかし、実務上はそれでは困るのです。
 たとえば主任が3万円以上ならサインすると思い込んでいれば「5万円以上にサイン」という規則が乱されているということになります。
 この場合(イ)サインをネグっていないか(ロ)基準額を間違えていないか、のどちらを調べるかによって正解は変わってきます。
 つまり、問題をどのようなものとしてとらえるかということを抜きにして問題の解法を知っているかどうかを評価しても仕方がないのです。

 ②は「20歳以上なら酒を飲んでよい」という規則が守られているかどうか調べるにはどれをめくればよいかという問題です。
 この場合もほとんどの人が「20歳未満が飲んでいるもの」と「ビールを飲んでいる者の年齢」を調べるということで、2枚目と3枚目を選びます。
 多くの人が正解する理由は形式論理を使うからではなく、「やってよい」とか「やってはならない」といった許可や禁止という日常生活ルールを適用するときの考え方をするからだといいます。
 「法律上、未成年は酒を飲んではいけない」と現代の日本の社会では理解されているので特に考えなくてもこの問題は正解できるのです。
 「20歳以上ならよいといって、20歳未満については述べられていないけれども、20歳以下は禁止ということが分かっているからです。
 
 普通の問題は自然言語で表現されていて、論理学で使われる言葉とは同じではありません。
 論理学的な形にすると何か変だなとか、問題が単純化されすぎているとか、すりかわっていると感じたりします。
 論理学の場合は示されている文字通りの意味だけで推論し結論が出るようになっていますが、日常問題では問題の前提とか目的とかを考えないと意味のある解決は得られません。
 したがって形式論理だけで日常的な問題が解決されるケースは少なくなります。

4枚カード問題の問題

2006-02-26 00:07:48 | 視野とフレーム
 「表がKならば裏は偶数である」という規則が成り立っているかどうかを調べるには,最低どのカードとどのカードをめくったらよいか。
「4枚カードの問題」という心理学や論理学などで見かける問題です。
正解は「K]と「7」をめくるというのですが、「K]と「4」と答える人もいます。
 「表がKなら裏は偶数である」ということは「裏が奇数なら表はKではない」ということなので「K]と「7」をめくるのが正解と考えるべきだと論理学ではなっています。
 この問題の正解率は20歳代と比べると40歳代はかなり低くなるとかで、年をとると推理能力が落ちてくるなどといわれています。
 ソンナふうな事を聞けば答えを間違えた人は、「年のせいで考える力が落ちたのかな」などと落胆するかもしれません。

 市川伸一「考えることの科学」によれば、大学生を対象にして正答率を見ると欧米の場合は10%足らずで日本の大学生は文科系で30~50%、理科系で70~90%だということですが、高校数学で形式論理を勉強した影響があるかもしれないとしています。
 そういわれれば40歳から正答率が低くなるのも形式論理を習わなかっただけで考える力が落ちたとは限らないのかもしれません。

 それはそうとして、この問題を間違える人が多いのはなぜなのでしょうか。
 人間は勉強しなければ論理的に考えることが難しいということなのでしょうか。
 常識的に考えるということは非論理的で、間違いが多いということでしょうか。
 
 ②は同型の問題の内容を変えたもので、「両親が天才ならば、子供は天才である」ということが成り立っているかどうかを調べるにはどれとどれをめくればよいかという問題です。
 普通の人は「天才両親」と「天才少年」をめくるでしょう。
 形式論理なら「天才両親」と「凡才少年」をめくるのが正解ということになるはずなのですが、「ヘンダナ」と思うはずです。
 「凡才少年」をめくれば大抵「凡才両親」となるはずですから、この法則が否定はされなくても確かめる有力材料とはいえません。
 「天才少年」をめくってその裏が「天才両親」であれば、やはりそうかと思うし、「凡才両親」であれば、そういうこともあるかと思う程度です。
 「両親が天才であれば子供は天才」というような法則を(もしあるとして)確かめる場合、実例を探すのが普通で、凡才の両親が凡才であるという例をしらみつぶしに探すというようなことはしないでしょう。

 「タバコをすいすぎると癌になる」ということを確かめるという場合でも、「タバコをすいすぎている人」かあるいは「癌になった人」を調べるのが普通で、「癌になっていない一般人」を調べることはないでしょう。
 普通何らかの法則が成立するかどうか確かめるときは、まず実例を探すもので、該当しない例を一つ一つあたるというようなことはあとまわしです。
 詐欺は特殊な実例をあげてさも一般的なことのように信じ込ませようとするのが常套手段ですが、新しい法則や規則の発見が実例のを確かめることから始まることが多いのも事実なのです。

 

注視範囲を広げる

2006-02-24 22:55:11 | 視野とフレーム
 小さな正方形にはさまれた線と大きな正方形にはさまれた線は同じ長さなのですが、小さな線にはさまれたほうが長く見えます。
 二つの線を比べようとするとき、片方を見てから視線を移してもう片方を見ます。
 同時に両方を見るというのでなく、かわるがわる片方づつ見るのが普通でしょう。
 そうすると、線をはさんでいる正方形の大きさとの比較で、大きな正方形に囲まれているほうが狭く感じるので、線は短く感じてしまいます。
 二つの線を比べるのですから同じ条件で見るようにしなければならないはずなのですが、かわるがわる見るという習慣にとらわれて見るために同じ長さに見えないのです。

 両方の線を同じ条件で見るには、同時に見るのが一つの方法です。
 図のx1、x2、x3、x4の4点に同時に注意を向けて見ると、二つの線は内側にあるので同時に見えるようになります。
 一度に4箇所を同時に注視することが難しければ、まずx1とx2を同時に見ます。
 そうすると、左側の二つの正方形の右辺がそろって見えるようになりますから、二本の線の左端がそろって見えます。
 つぎに、x3とx4を同時に見ると、右側の二つの正方形の左辺がそろって見えますから、二本の線の右端がそろって見えます。
 左端と右端がそろって見えるのですから、二つの線は同じ長さであることが分かります。
 右側の図は左側の図を90度回転させたものですが、同じように見方を変えることによって、二本の線が同じ長さに見えるようになります。

 二つの同じ大きさの図形が違う大きさに見える場合、二つの図形が同時に見えるように注視範囲を広げるとたいてい同じ大きさに見えます。
 逆に言えば、注視範囲を広げられたかどうかは、二つの図形が同じ大きさに見えたかどうかで確かめることができるわけです。
 文字を読んだりするときも、普通はどうしても狭い範囲の文字列を注視してしまいがちで、そのため目が疲れ、理解力も落ちます。
 一度に見ることのできる文字数を多くすれば目が疲れにくい上に、理解力も向上するのですが、習慣でつい狭い範囲を注視してしまうのです。
 したがってまずは注視範囲を広げる練習をして目の使い方のくせをかえるのがよいと思います。