60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

言葉の情報量

2007-08-28 23:00:23 | 言葉とイメージ

 言葉の情報量を文字数で計算する方法というのがあります。
 たとえば200ページの本一冊に含まれる情報量を計算するのに、1ページ20行、1行45文字として、日本語の場合なら1文字2バイトとして36万バイト、つまり360kバイトというふうに計算します。
 これに対して写真の場合は図のようなカラー写真で180kバイトなので先の本の情報量の半分の情報量だということになります。
 ほんの100ページ分の情報量は小さな写真1枚分の情報量しかないということになってしまいます。
 
 文字を読むといった言語情報の処理は左脳で、写真などの映像情報を処理するのは右脳なので、右脳の情報処理能力のほうが左脳の情報処理能力よりはるかに大きいなどという説はこうしたことを根拠にしています。
 極端な言い方では右脳の情報処理能力は左脳の10万倍だとか、もっと極端には100万倍だとか言う主張まであります。
 左脳を鍛えるより右脳を鍛えるべきだというために主張されているのですが、すこし考えればこうした説明は間違っていることが分ります。

 言葉の情報量を文字数で計るというのは、言葉の入れ物である文字と、言葉の意味する情報を混同しています。
 文字数で情報量を計るなら名前の長いものの情報量は、名前の短いものの情報量より多いということになってしまいます。
 たとえば「小笠原島」は4文字で「宇宙」の2文字の2倍の情報量だというふうに例をとれば、誰でも文字数で言葉の情報量を計るのは滑稽であることが分ります。
 
 言葉が持つ意味情報というのは、辞書に載っているから、その辞書の説明の文字数で言葉の情報量を計算できるというふうに考えられなくもありませんが、辞書を引いてみればそうはいかないことが分ります。
 たとえば「岩」という言葉を辞書で引くと「石の大きいもの、特に加工せず表面がごつごつしているもの」などとあって、それでは「石」とはなにかというと「岩より小さく砂より大きい鉱物質のかたまり」といった具合でわけが分らなくなります。
 つまり「石」を知っている人にしか「岩」の意味は説明できないし、「石」の意味は「岩を知っている人にしか説明できないのです。
 知らない人に言葉で説明しようとすれば、際限なく説明しなければならないのです。。
 「石」を知っている人にしても、なんとなく道に転がっている石しか知らない人もいれば、岩石学者のように、いろんな石を知っている人もいて、同じ「石」という言葉を聞いても受け取る意味の量つまり情報量はかなり違います。
 言葉の持つ情報量というのは、客観的に計算するというわけには行かないのです。


言葉による識別

2007-08-27 22:23:21 | 言葉とイメージ

 「首と肩はどこが境目か」といわれれば「はてな」と迷ってしまいます。
 首と肩はつながっているのに言葉では別になっているので、どこが境目かといった質問が出されたりするのです。
 学者は「自然は連続しているのに、言葉はものを切る性質がある」などというので、いかにもそうだと妙に納得させられたりします。
 たとえば図のように赤と黄色の中間をオレンジと名づけていますが、赤とオレンジの境目はどこか、オレンジと黄色の境目はどこかといわれても答えに窮します。
 赤とかオレンジとか黄色というのは人間が作った色の名前で、自然にそういうものがあるわけではなく、人間が言葉を作って連続している自然の色を切り分けて分類しているのだということができます。

 しかし赤とかオレンジとか黄色とかいった言葉は人間が勝手に作ったものだから意味がないのかというとそういうわけではありません。
 赤とかオレンジとか黄色といった名前は、人間が作ったものですが、勝手に作ったものだというわけではありません。
 サルとかチンパンジーに色の識別をさせると、人間と同じように色を見分けるので、色の識別は人間だけのものではありません。

 サルやチンパンジーは言葉を持たないのですが、色の識別はしているので、分類とか区別というのは言葉がなければできないということではないのです。
 サルやチンパンジーは果実などの食物を色で見分けるでしょうから、言葉がなくても色を見分けるということは生きるために必要なのです。
 オレンジと黄色の境目はどこかということになれば、チンパンジーも迷うでしょうが、だからといってオレンジと黄色を見分けないなどということはありません。
 
 ものを区別したり分類をしたりするというのはどんな動物でもすることで、人間の場合は主に言葉を使って分類するということに過ぎません。
 オレンジとか黄色とかいう言葉自体はそれぞれはっきり分かれていますが、言葉の示す内容は境界がぼやけていてどっちつかずの部分があります。
 オレンジという言葉は赤っぽいオレンジとか黄色っぽいオレンジとかをまとめてオレンジといっているので、見方によっては色を切り取るというより、まとめているということもできます。

 眼を閉じてオレンジ色の四角形をイメージせよといわれたとき、どんなオレンジ色をイメージできるでしょうか。
 赤に近いとか黄色に近いとかはっきりしないのではないでしょうか。
 具体的なオレンジ色を見てそれを想起することは何とかできても、言葉でオレンジをイメージしろといわれてもあいまいな色しかイメージできないでしょう。
 日常的な言葉の場合は、色の名前のようにその示す内容は境界がはっきりしないのが普通で、学問用語のように厳密に定義できないのです。


典型のイメージ

2007-08-26 22:53:18 | 言葉とイメージ

 文章を読むとき言葉をイメージ化すると理解しやすいという風に言われます。
 速読法などの解説にも言葉をイメージ化するほうが速く意味が理解できるというようなことが言われています。
 ところがイメージというのは一つの言葉について一つというわけではなく、言葉に対応数理めー時というのはそれこそ無限にありますから、イメージ化といわれても迷ってしまいます。
 たとえば「鳥」という言葉に対してイメージを思い浮かべるといっても、鳥は何千種類もあり、個別の鳥となれば無数ですから、単純に考えると途方にくれます。

 こういうと「鳥」のイメージというのはどれでも良いというのではなく、「鳥といえば***というように鳥らしい鳥、つまり典型的な鳥」のことを言うのだという説があります。
 ダチョウとかペンギンは鳥には違いないが、鳥を代表するようなとりではなく、イギリスの学者の研究ではイギリス人の学生を対象にした調査では、鳥といえばロビン(こまどり)だそうです。
 イギリス人ならばこの結果で納得するかもしれませんが、日本人なら納得はできないでしょう。
 ロビンなどといえば日本人は犬の名前と思う人のほうが多いくらいで、「鳥」と聞いて「こまどり」をイメージする人はほとんどいないのではないでしょうか。

 つまり「イメージ」というのはたぶんに経験に依存するので、地域とか生活環境や個人的経験の影響を受けるので、広く一般的に共有させるものとは限らないのです。
 日本人なら「鳥」と聞けば鳩とかカラスなどを思い浮かべる人のほうが多いと思いますが、それにしてもどれか一つの種類の鳥が代表とされるわけではありません。
 それでも「鳥」と聞いて何らかの鳥をイメージすることはメリットがあります。

 むかしなら「鳥」という言葉の意味を辞書的に「脊椎動物の一種で、温血。卵生で、角質のくちばしを持ち、歯はない。体は羽毛に覆われ、前肢は翼に変じ多くは飛ぶに用いる。」などと覚えこんでいて、いちいちこれを想いだしていたのでは読みはひどく遅くなってしまいます。
 「鳥」というのはどれか特別の鳥を指しているのではなく、すべての鳥が共通して持っている性質をそなえた、「鳥一般」を指すなどと、難しいことをいわなくても、鳥らしい鳥をイメージすればそれらの性質は、典型的な鳥のイメージに含まれているというわけです。
 しかし典型的な鳥といっても人によってイメージの違いはあるので、読む人のすべてが同じ解釈をするとは限らないので、大体の意味の共有をすることができてもまったく同じというわけではありません。
 


記憶にあれば分かった感じ

2007-08-25 22:54:21 | 言葉の記憶

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり.沙羅双樹の花の色.盛者必衰の理をあらわす.」という平家物語の冒頭部分は多くの人の頭の中に入っています。
 しかし祇園精舎とはなにか、沙羅双樹の花とはどんな花かなど、分らないまま覚えているのではないでしょうか。
 「ずいずいずっころばし」という昔の童謡の歌詞にしても、江戸時代の御茶壷道中に関係したものだという風に解説されていますが、ほとんどの人は知りません。
 意味を知らないまま覚え、歌ってきていたのです。
 こうしてみると、わたしたちは多くの言葉を記憶していますが、同時にすべてその意味を記憶しているわけではないことに気がつきます。

 昔は漢文の素読というのがあって、意味が分からないまま何度も音読させるという教育法がありました。
 何度も音読するうちに独特の韻律と同時に、漢字や漢語を覚えこむのですが、最初から意味を教えたりしないので、一部の人を除けば、意味の分からないまま覚えているということも多かったようです。
 「門前の小僧習わぬ経を読む」という言葉があるように、経文の意味を知らないまま暗記するということにも別段不審を感じなかったようです。
 つまり言葉の意味を知らないまま言葉を覚えこむことがむかしは当たり前だったのです。

 意味が分からないで言葉を覚えていても役に立たないではないか、というと必ずしもそうではありません。
 文章を読んだり、話を聞いているとき、知らない言葉ばかりが出てくると全体の意味が分りにくくなります。
 「分る」感じがするのは、聞いたり読んだりする言葉の多くが記憶と照合できるからです。
 読んだり、聞いたりした言葉を記憶と照合したとき、意味と照合できればよいのですが、中には言葉が記憶されているだけで、意味は記憶されていない場合があります。
 それでも見慣れているとか聞きなれているとか、記憶とうまく照合できると何となくわかったような気がして落ち着きます。
 要するにまったく知らない言葉にぶつかったときに比べ「分らない感」が薄れるので、全体の意味を把握しやすくなります。

 世の中が安定しているときは新しい言葉が出てくる量が少ないので、意味の分からないまま受け入れていてもそのうち消化できたのですが、最近のように激しい勢いで新しい言葉がでてくると消化できません。
 英語など外国語をカタカナで表記すると、とりあえずその言葉を受け入れることができ、何度か見慣れていくうちに抵抗感が薄れて分ったような気がしたりします。
 意味が分からないままに覚えてしまう言葉があまりに増えすぎれば、あたまの中が混乱してくるので、辞書を引く習慣が必要になっています。


分からないで言葉を覚える能力

2007-08-21 22:53:47 | 言葉と意味

 道具を使ってえさを引き寄せるといったことはサルでもすぐ真似をします。
 サル真似といえば、自分で工夫をしないで真似をして目的を達成するという意味で卑しめられますが、実際はサルは同じ道具を使っても自己流の使い方ですから、本当の真似ではないといわれたりもします。
 これに対し人間は方法もそっくり真似ようとして、どうかするとすぐに目的が達成されない場合もあります。
 サルが真似をするのははえさを手に入れるとか、気持ちがいいとか何らかの目的と結びついたときですが、人間はこれといった目的がなくても真似をします。
 なぜ真似をするかといった理由付けができなくても、つまり意味が分からなくても真似ができるのです。

 普通の人が覚える言葉の数は4万以上といわれていますが、これほどの数の言葉を覚えるのは大変なことです。
 なぜそれほどの言葉を覚えられるかというと、脳が発達しているからですが、意味が分からないままに人の言葉を真似る能力を持っているからです。
 日本には文字がなかったので漢字を取り入れた際に、たくさんの漢語を受け入れてきていて、中には完全に日本語化して気がつかないものもあります(たとえば、菊、梅、馬、気、絵など)。
 漢語を受け入れてきているといっても、意味が分からないまま使っているというものも結構あります。 
 たとえば卓袱(しっぽく)はテーブルクロスのことですが、卓袱料理といえばやや高級なイメージで卓袱台となればごく当たり前の低い食卓のことでいずれも卓袱の意味など知らないで遣っている人が多いようです。
 よく病コウモウに入るなどといいますが、コウモウというのはコウコウの間違いだなどと説明されてもソノコウコウの意味など頓着しません。
 知らなくても口真似で言葉を覚えてしまっているのです。

 かつては英語などのヨーロッパ語が入ってきた場合、いちいち漢字によって訳語を作っていたのですが、現在はストレートに英語などの単語を受け入れるようになっています。
 日本人は外国語を取り入れるのに抵抗が少なく、意味が分からないでも受け入れる能力があるのでいわゆるカタカナ語が急増しています。
 新しいことばが入ってくる場合はまだ良いのですが、最近は訳語があって、訳語のほうが分りやすいのにカタカナ語にする例があります。
 
 たとえばガバナビリティなどという言葉がどういうわけか使われ、しかもご丁寧に反対の意味に使われたりしています。
 辞書ではガバナビリティとは「統治されやすさ」ということで日本人はガバナビリティが高いなどといわれたら、大変屈辱的です。
 どうやら統治されるという意味でなく、統治能力と誤解して、政府のガバナビリティなどというような使われ方をしていますが、いったいなぜこんな言葉を使い出したのか不審です。
 
 コンプライアンスという言葉を使うのもいやみな感じで、辞書ではcompliance with the lawといえば法令遵守のことですが、コンプライアンスだけでは従順とか追従つまりおべっかのことでイヤなことばです(ついでに和英辞典で「お世辞」をひくと、complimentというのがでてきます)。
 普通の人はガバナビリティとかコンプライアンスとかいわれてもぴんとこないまま受け入れているのですが、政治化とか役人がこういう言葉を多用すると、国民に従順になれとかいうことを聞かなければいけないと、コッソリ説得しようとしているように感じてしまいます。


真似をする能力

2007-08-20 23:25:25 | 眼と脳の働き

 猿真似といえば独創性がないということで、否定的なイメージがありますが、実際には猿は人間に比べれば真似をすることが少ないことがわかってきています。
 最近ではむしろ、猿に見られる真似は本当の真似でなく、人間だけが本当の真似ができるのだという説のほうが有力になっています。
 学ぶという言葉は「マネブ」からきているので、学ぶの基本はまねることにあるという説が昔からありますが、これは日本語の上のことでどこの国でもそういえるわけではありません。
 漢字で「模(倣)」は真似る意味ですが、「学」という意味はなく、「学」にも「模」という意味がありません。
 また英語で「真似」といえばcopyとかimitateですが、これらは「学ぶ」という意味につながっているわけではありません。
 「学ぶ」はlearnとかstudyでcopyやimitateが語源になっているわけではありません。
 「真似」を重視するのは日本の文化的特徴なのかもしれません。

 上の図はチンパンジーと人間の二歳の幼児の模倣を直接比較した実験です。
 手の届かないところにある食べ物をひきよせて見せてから、同じことをそれぞれにさせましたが、チンパンジーも赤ん坊も引き寄せには成功しています。。
 実験者は食べ物を引き寄せる直前に、食べ物を引き寄せやすくするため熊手を半回転するのですが、チンパンジーはこの部分を真似しなかったそうです。
 人間の幼児は食べ物を引き寄せるという目的を真似しただけでなく、熊手を半回転させるという方法をも真似るという、完全模倣をしています。
 チンパンジーは目的(食べ物)と手段(熊手)を理解するが、自己流の方法で解決しようとして半回転させるという方法を真似しようとしなかったと解釈されます。
 つまりチンパンジーは完全模倣ができないで、人間に比べると模倣能力が劣るとされています。

 この実験から直ちにチンパンジーと人間の違いを結論付けるのは性急な感じはします。
 人間にだって不注意な人もいて、途中で熊手を半回転せずに引き寄せようとする人もいるでしょう。
 目的は食べるものを引き寄せることなので、熊手を半回転させなくても目的は達成できますが、熊手を半回転させたほうが引き寄せやすいということは直ちに理解できます。
 しかし二歳の幼児が途中で熊手を半回転させたのは、方法を見てこの方が理にかなっていると考えたからではないと思われます。
 半回転させないと引き寄せにくい例を見せていないので、幼児は意味が分からないまま半回転するという方法を真似しているものと思われます。
 つまり、人間ははっきりした根拠がなくても真似をする傾向があるのだなということがわかるのです。

 人間が言葉を使えるようになった原因の一つとして模倣能力が注目されるようになり、それにともなって模倣が価値あるものとされたので、こういう実験もなんとなく人間とチンパンジーの差を見せ付けるために設計されたようなニオイもします。
 お手本がベストでなければ、完全な模倣が良いのだとは必ずしもいえないのです。
 ただなんとなく真似をするということが言語を生み出す要因の一つであったとするなら真似というのも積極的な評価に値するといえるのです。


言葉の理解

2007-08-19 22:22:46 | 言葉と文字

 チンパンジーには[tiger]という文字列を「虎」と結び付けて覚えさせることはできます。
 しかし、t,i,g,e,rなどアルファベットの文字を覚えさせ、それを組み合わせて[tiger]という意味であることを覚えさせるのは困難です。
 アルファベットの一つ一つの文字は、それ自体は意味を持たないのでわざわざ余計なものを覚える意味がないのです。
 どうせなら「T」が「虎」を表わし、「L」が「ライオン」を表わすといった覚えたほうが呑み込みやすいのです。
 チンパンジーはモノとそれを表わす記号を結びつけて覚えることはできるのですが、記号を組み合わせて意味を理解するというのは難しいのです。

 これは平仮名の場合でも同じで、「と、ら」と一つづつのカナを覚えて二つを組み合わせて「とら」として、これを「虎」と覚えるより、最初から「とら」=「虎」と覚えるほうが覚えやすいのです。
 幼児が複雑な漢字でもたくさん覚えることができるというのは、用事のうちは視覚的記憶が発達しているので「鯱」(しゃち)とか「彪(ひょう)」といった難しい字でも絵や写真と結び付けて覚えさせると案外楽に覚えるといいます。
 要するに幼児が難しい漢字を覚えるというのは、チンパンジーやハトが記号を覚えるのと基本的には同じで、たくさんの難しい漢字を覚えたからといても、それほど感心することはないのかもしれません。

 漢字の場合は一つの文字に意味があるのですが、文字を構成する要素を組み立てて意味を理解するということもできます。
 「虎」は図のように二つの記号でできています。
 左側のほうは「虎」の顔の象形文字で、右の「ル」の部分は手足を表わし「虎」という字は虎の体全体を示しているそうです。
 つまり漢字の場合でも部品を覚え、部品の組み合わせによって意味を覚えるという方法があります。
 
 それでは、部品の組み合わせで意味を理解する方法と、単語の意味を全体として理解する方法とどちらが能率的かというと、一概には言えません。
 幼児段階では言葉の意味を分析的に理解するのはむずかしいので、単語とイメージを結びつけるといった全体的理解のほうが効率的です。
 しかしいつまでもイメージとの結びつきでしか意味を理解していなければ、意味の理解が浅くなります。
 逆に常に部品を積み上げてその意味を理解しようとすれば、時間がかかるだけでなく、部分的な意味を理解しようとしている間に全体がわからなくなったりします。
 臨機応変に使い分けることが必要なのです。
 。
 


縦書きと反り眼

2007-08-18 22:11:22 | 文字を読む

 縦書きの文章を読む場合と横書きの文章を読む場合を比べると、たえが気のほうが早く読めるという説があります。
 子供のうちは縦書きから覚えるので、横書きよりも縦書きのほうが速く読めるのが自然ですが、大学生以上にになると差はなくなるということです。
 つまり、速く読めるかどうかは慣れの問題で、文字が縦に並んでいれば速く読めるということではないようです。
 速さの問題は別として、縦書きよりも横書きのほうが読んで眼が疲れやすいという人がいます。
 文字をゆっくり読む人でなく、速く読む人からの意見です。

 若いうちと違い、年をとってくると焦点距離を短くしてものを見続けると、遠くのものを見ようとしたとき焦点距離をすぐに変えることができないで、ものがぼやけて見えます。
 横書きの文字を見るときは、ある程度の文字数をまとめて見るときでも焦点距離を短くしたままですみます。
 ところが縦書きの場合は、ある程度の文字数をまとめて見ようとすると、焦点距離を長くしなければなりません。
 眼が左右に二つつついているため、左右の視野が上下の視野より広いためです。

 このことを実感するために上の図を使ってみます。
 左側はブロックが横に並んでいる場合で、ブロックにはさまれた直線が斜めに見えますが、実際は水平です。
 この場合直線の左端と右端を同時に注視すると、斜めに見えていた直線が水平に見えるようになります。
 斜めに見えてしまうのは両方を同時に注視できていないからで、うまくいかないときは最初に直線の左端を注視し、そのまま右のほうに注意を向けて右端を見れば直線は水平に見えるようになります。

 右側はブロックが縦に並べられていますが、この場合もブロックに挟まれた直線は垂直線なのに斜めに見えます。
 この場合も直線の上端と下端を同時に注視すればよいのですが、左右の両端を見る場合と比べ焦点距離を長くしなければなりません。
 ちょうど眼を見開いた感じで、いわゆる反り眼になった状態になります。
 横線の両端を見るときはいわゆる伏目でも見ることができますが、縦線の両端を見るときは反り眼になりがちです。

 横書きの文章を読むときは、伏目で焦点距離を短くしたままで読み続けがちになり、その結果、毛様体筋が緊張し続け、眼が疲れてすぐに遠いところに焦点を合わせることが難しくなります。
 若ければ眼の水晶体もやわらかく、弾力があるので毛様体筋の負担も少ないのですが、年を取れば毛様体筋の力も衰え疲れやすくなるのです。
 縦書きの文章を読むときは時々反り眼になるので、毛様体筋が伸縮するので疲れにくいのです。


カタカナ表記と発音

2007-08-14 22:56:38 | 文字を読む

 テレビ番組のせいで「アンビリバボー」という言葉が流行語になっています。
 最初にカタカナで書かれたこの言葉を見たときは何のことかわからなかったのですが、そのうち「unbelievable」のことだと気がつきました。
 以前なら「アンビリーバブル」とでも書くところを、アメリカ人が発音したときに聞こえたとおりをカナで書いたということでしょう。
 「アンビリバボ-」のほうが、いかにも英語の発音っぽく、かっこいいというのでうけたのかもしれません。
 「アンビリーバブル」とすれば、なにか受験英語風で実際の発音でなく、発音記号を見てカナに変換したようですからスマートではありません。

 むかしは「lady」のことを「レデー」といったり、「building」を「ビルヂング」、「city」を「シチー」といったりしたことがありました。
 その後政府が外来語の表記法を決めて、外来語や外国の地名、人名をなるべく原語に近い形で表記しようとしました。
 このときの決め方は慣習的に定着してしまったものを除けば、だいたい英語綴りをカタカナにしたような感じで、耳に聞こえた感じをカタカナに変換したものではありません。
 中学からの英語教育のおかげで、英語の綴りについての知識が、ある程度普及していることが前提となっていたのでしょう。

 それ以前は「アメリカン」が「メリケン」、「ヘップバーン」が「ヘボン」と耳に聞こえたようにカタカナ変換していたのですから、「アンビリバボー」は再逆転の傾向を示しているといえます。
 外国人が増えて、またテレビなどによって外国人の発音を聞く機会が増えたので、外国人風の発音にひきつけられる人が増えたようです。
 「コンピューター」「メモリー」といわずに「コンピュータ」「メモリ」という人が増えているのも、専門家風というより英語風の発音に傾いているのです。

 といっても今後カタカナ語が耳で聞いたものに近づけられるかというと、すでに習慣化してしまっているものが多いので、急には変わらないでしょう。
 「バブル」、「ダブル」を「バボー」、「ダボー」としたり、「ビューティフル」を「ビューチフォー」としていけば混乱するばかりで、無理に英語発音に近づけることはないと思います。
 
 人名地名では、朝鮮については、かつては「きんにっせい(金日成)」、「さいしゅうとう(済州島)」と日本語読みだったのを「キムイルソン」、「チェジュト」など朝鮮風に読んでいます。
 ところが「毛沢東」「黄河」などは「モウタクトウ」「コウガ」などと日本語読みのままです。
 要するに首尾一貫していないのです。
 外来語や外国人の人名、地名の表記については、今は過渡期状態でなりゆきまかせにするしかないようです。


長い名前

2007-08-13 23:00:08 | 文字を読む

 落語の「寿限無」は子供に縁起の良い名前をつけようとして、ともかく縁起の良い言葉を寄せ集めたため、とんでもなく長い名前になって、おかしなエピソードができる話です。
 「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れず、海砂利水魚の水行末、雲行末、風来末、食う寝る処に住む所、やぶら小路、ぶら小路、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助」
と103文字にもなるので、友達がいちいち名前をこのとおりに呼ぶと時間がかかってしまい、学校に以降と誘っているうちに遅れてしまったりします。
 周りの者が長い名前を覚えてそのとおりに言うというのもおかしいのですが、落語だから笑い話として受け入れられます。

 こんなに長い名前はいかにも作り話めいていると思うでしょうが、最近話題の通称「テロ特措法」の正式名称は図のとおり、112文字に及んでいますから、まさに「寿限無」も顔負けです。
 以前、通称「原改法」という法律が、正式名称は「原材料の供給事情及び水産加工品の貿易事情の変化に即応して行われる水産加工業の施設の改良等に必要な資金の貸付に関する臨時措置に関する法律の一部を改正する法律」と78文字もあって話題となりましたが、それをもはるかに上回る長さです。
 大体役人の文章は句読点が少なく、漢字を多く使って長たらしくてわかりにくいのですが、こうした名前を考え出す気持ちは理解できません。
 この法律を起案した役人でも、このような長い名前がいつもすらすら口に出るわけではないでしょうから、内容が一般国民の頭に入るとは期待していなかったでしょう。
 これではまるで、わざとわかりにくい名前をつけて、国民の関心を引かないようにしているかのようです。
 
 最近は役所の名前も長くなり、経済産業省とか国土交通省などといったのは序の口で、内閣府特命担当大臣と称して「少子化、男女共同参画担当}とか「青少年育成及び少子化対策、食品安全」など極端に長いものもあります。
 あまり名前が長ければ簡略化して「テロ特措法」とか「経産省」、「国交省」となって、結果的になんだかわかりにくい名前になります(内閣府特命担当の場合はどうなるかわかりません)。
 名前が内容を説明しようとして長くなるのかもしれませんが、「名は体を表わす」というのはうまくいかないようです。
 
 文字を読んだり、名前を読むと内容が分かったような気がすることがありますが、名前と意味とは別物と考えるべきなのです。
 漢字にフリガナがしてあれば、難しい言葉でもともかく読めるので、意味が分からなくても心理的に落ち着くことができます。
 それが見慣れるうちにわかったような気についなって、実はわからないことに気がつかないので要注意なのです。