60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

言葉によるイメージ記憶

2006-04-30 22:48:45 | 言葉とイメージ

 図は、かなり前にアメリカで流行した「ドルードル」と呼ばれるクイズのようなものです。
 日本でも一時期週刊誌などでクイズの替わりに取り上げられたことがあります。
 画像が何を表しているかという解釈をするもので、正解があるというわけではないけれども、ナルホドと思わせるような気の利いた解釈とか、面白くて印象に残る解釈を求めるというものです。

 たとえばaは渦巻きが二つという答えでは、当たり前なので面白くありません。
 おせち料理で残った伊達巻とか、カタツムリの競走とか、そういえばソンナふうにも見えるカナという解釈をするものです。
 多くの場合は一つの画像について解釈をするものですが、二つの画像について関連のある解釈をするというものもあります。
 たとえばbとcについてはbがスパゲッティのゆでる前、cがゆでたスパゲッティを調理したものと解釈します。
 スパゲッティはゆでる前はまっすぐ、ゆでて調理をすればからまりあうので、そういわれればそんなふうに見えます。
 あるいはbが腹に巻いた包帯、cがメスのあとがあるフランケンシュタインの顔というふうに解釈をされると、そんな見方もあるかと思います。

 a,b,cをまとめた解釈というのも可能で、スパゲッティの場合ならなら、aはフォークでゆでた麺を二箇所にまとめたものとすれば、三つの画像をまとめて解釈することが出来ます。
 フランケンシュタインの場合はaはフランケンシュタインを見てびっくりした目玉というふうにまとめることが出来ます。

 ただ三つの画像を見てもこれをまとめて記憶することは困難ですが、何らかの解釈をすれば記憶しやすくなります。
 解釈が印象に残るものであれば、それだけ記憶しやすくなるので、まともな解釈よりおかしな解釈のほうがよいときがあります。
 画像を画像としてそのまま記憶するのは難しいけれども、言葉に結び付けて解釈をすれば記憶しやすいということですが、これは数字を覚える場合にも言えます。
 歴史の年号を暗記するのに、たとえば鎌倉幕府成立を「いい国作る(1192)」という語呂あわせをしたりします。
 理屈に合ってなくても、言葉での意味づけをして、まとまりをつけると記憶しやすくなるのです。


漢字の覚え間違え

2006-04-29 23:52:06 | 言葉の記憶

 図はよく間違えられる言葉としてあげられる例の一部です。
 印籠を渡すというのは、引導と聞き違えておぼえたのでしょうが、印籠のほうがよく耳にしている結果とはいえ、引導も印籠も意味は分からないのだろうと思います。
 かいま聞くというのは、「かいま見る」につられて出来た表現でしょうが、「かいま」が「垣間」であることを知らないためです。
 「かいまみる」という言葉を耳で覚えていれば、「かいま聞く」もよさそうなきがするのです。
 「綺羅星のよう」の綺羅は高価な衣装(をつけた人々)だそうで、形容詞ではないのに星の形容詞と勘違いする例です。
 ルビできらと振られ、星の前に来るのできらきらする星のように思ってしまいます。
 振り仮名がついて読めてしまうと分かった様な気になってしまい、辞書を引かないでしまうからです。 
 「耳ざわり」は「耳障り」の意味ですが、「耳触り」と思い違いです。
 「もろば」は「諸刃」で諸刃の刃というのは重ね語でよくあるうっかりミスです。
 「汚名挽回」の挽回は回復の意味ですが、汚名を雪いで名誉を回復するというつもりで縮めたのかもしれません。
 「的を得る」は「的を射る」が正しいのですが、「射る」が「射た結果当っている」と思わなかったため「得る」としてしまったのでしょう。
 「波紋を投げる」は、波紋は投げられないので「石を投げて波紋を広げる」というつもりかもしれません。
 「大酒を飲む」は「大酒」がすでにたくさん酒を飲む意味なので重ね言葉となるといいます。
 「大酒のみ」は、極端な「酒飲み」、「大うそつき」は極端な「うそつき」ですが「大うそ」つきでもよいので、「大酒」飲みもよいかもしれません。
 「古式ゆかしく」を豊かにというのは変ですが、「ゆかしく」という言葉は理解されなくなっているのでしょう。
 「腹が煮え繰り返る」は「はらわた(腸)」を略してしまっていますが、はらわたというような表現はあまり使わなくなっているので、「はら」で間に合わせてしまっています。
 「怒り心頭に発する」を「達する」としてしまうのは「頭にきてしまう」という実感からくるのでしょうが、心頭の頭を「アタマ」と思ってしまった結果です。

 言葉の間違いには耳で聞いたときに聞き間違えて覚えてしまっているものもあります。
 また、間違って文字で書かれているものを見て、それを覚えてしまったという場合もあります。
 いずれにせよ漢字の意味が分からなかったり、誤解したりしたまま使っている場合がかなりあるということです。
 しゃべっているとき漢字を思い浮かべているとか、聞くほうも漢字を思い浮かべて意味を理解すると言う説がありますが、そういう場合もあるかもしれないという程度でしょう。
 漢字の間違いが多いということは、普通の人は漢字の意味にそれほどこだわってはいないということです。
 とはいえ間違いが多いのは望ましくないので、自分の知識があやふやな言葉は辞書で調べる習慣にしたほうがよいと思います。


漢字の書き間違え

2006-04-28 23:15:58 | 言葉の記憶
耳で聞き覚えた言葉を文字で書き表そうとするとき、漢字が分からなければカナで書けばよいのです。 ところが日本では漢字で書くという圧力が強いため、何とか漢字を当てはめようとしてしまいます。。 分からなければ推測になるので、間違いが起こりやすいのは当然です。 この場合、意味が分かっていればあまりおかしな当てかたはしないのですが、意味が分かっていない場合はとんでもない漢字を当ててしまいます。  正しい書き方を見たことがあっても漢字の意味が分からなければ、間違った漢字を当てても気がつかないということがあります。 図の左側は漢字の意味を知らないために間違った文字を代入しているケースです。 完璧の「璧」は壁(かべ)ではなく玉で、双璧の場合も玉で、壁ではないのですが、壁しか知らないと間違える例です。 津々、眈々、草々なども漢字の意味が分からないので別の字を当てているものです。 溌剌の「溌」は魚の飛び跳ねるさまという意味だそうで、ほかの用例がないので知らないのが当たり前で、発を当ててしまうのも当たり前かもしれません。 殺到の「殺」はこの場合意味を強める語で、殺すという意味はないということですが、殺すという意味があると思っていれば殺到でなく殺倒と書いてしまうのかもしれません。  また、耳で聞いたときに意味を勘違いして、その意味に当たる漢字を当ててそれが正しいと思ってしまうというケースもあります。 該当を概当とするのは「だいたい当たっている」と思ったのでしょうか。 貫徹を完徹としてしまうのも意味の誤解でしょうが、完全に徹夜を略して完徹ということがあるのに気がつかなかったのでしょう。 生真面目を気真面目とするのは、気持ちが真面目というふうに感じたものと思われます 首実験とか五里夢中とかになると、意味を特段考えずに同音の文字をただ当てはめたと考えたほうがよいかもしれません。 意味がおかしくても音が同じであれば代用するというやり方は、もともと仮借というもの漢字にはあるので、まるで否定することは出来ないかもしれません。 とはいうものの、漢字の書き間違えというものが非常に多いということからすると、漢字の意味というものにはあまりこだわらず、ただ漢字を使っている人が結構多いような気がします。  漢字は見れば意味が分かるという風にいわれます。 見れば分かるというからには、意味を知らなくても判別できるということですが、そのような例があるからといってすべてがそうだと言うわけではありません。 漢字の見かけによって誤読、誤記が発生するので、かえって厄介な側面もあります。 なんとなく分かったような気がするから、分からない単語にあってもあらためて正しい意味とか用法を確かめないまま過ごしてしまうので、間違った理解が定着する可能性は逆に高まります。 漢字は見れば自然に意味が分かるなどということはなく、辞書に当たって意味を確かめないといつの間にか間違った思い込みをしていることがしばしばあるのです。

漢字の読み間違い

2006-04-27 23:32:21 | 言葉の記憶

 脳に損傷を負って言語中枢が機能しなくなった患者が、「ちゃわん」という平仮名が読めないのに「茶碗」という漢字なら読めたのは漢字が表意文字だからというふうに言われています。
 しかし健常者の漢字の読み書きの間違いの多様性から考えると、このような単純な説はとても疑わしくなります。
 茶碗の例で言うならば、その患者は茶碗という単語を「ちゃわん」という表記で読むことがしくなく,「茶碗」という表記でもっぱら読んでいたということにすぎないのかもしれないのです。
 漢字だから意味が分かるというふうに持っていくのは論理の飛躍です。
 
 漢字の読み間違いにはいくつかのパターンがありますが、もとは目おぼえ、つまり文字を見ておぼえているけれども読み方を学習していないものです。
 本などで見て文字は目で覚えているのですが、文字の読み方と意味とを調べたり、学習しないので、間違って読んだりするのです。
 代表的なのは類推読みです。
 文字を知らないのに、似たような文字の読み方を当てて、読めていると思ってしまうので、そのままになっています。
 読んでしまうと意味が分かったような気になってしまって、辞書を引いたりしないので、意味を誤解するか、ぼんやりとしか分からないということになります。

 図の例では帥と師が似ているため、獰は寧からの類推、幟は織や職からの類推、逝は折からの類推、肓は盲と似た文字、迭は送と似ているなどで、いずれも目で見た漢字から読みを当てているものです。
 意味が分からないまま類推で読み方を当てているので、間違った読み方をしてそれに気がつかないのです。
 漢字は見れば意味が分かるなどといっても、学習しなければ分からないのです。
 いろんな文章を読んで、何度も々文字を目にすれば、知らなかった文字でも文脈から意味を感じ取ることはあるかもしれません。
 そういう場合は意味が分かっても間違った読みと結びついて、正しい読み方を音声で聞いた場合は意味が分からないということになってしまいます。

 もう一つの間違い読みというのは、文字の読み方が場合によっていろいろあるために起こるものです。
 漢字は読み方が音読であっても一通りではないので、単語ごとに読みかたを学習しないといつの間にか間違った読みをしていることがあります。
 一つの読みかたを知っているからといって、不用意に知らない単語に適用するわけにはいかないのです。
 同じ漢字でも意味が一通りとは限らないので、訓読みというのはいわば翻訳なので、訓読みが何通りかあるので単語の意味を知らないとなかなか正しい読み方は出来ません。

 「奇しくも」などは「くしくも」の対する当て字だと思わないで「き」という音読みをしてしまう例で、意味が分からないまま読んでいます。
 危急存亡の秋の秋を「あき」と読んでしまうのは秋という字が季節の秋だけでなく、大事なときという意味があるとは思いもよらないためです。
 泌尿器、血肉、代替、幕間などは意味は分かるのでしょうが、読み方が間違っている例です。
 音声でなじみが薄い単語だと、文字を見ても読み方として結びつかないため、間違った読みになってしまうものです。


視読

2006-04-26 22:32:41 | 言葉と文字

 アメリカでの速読の始まりは、警官に自動車のナンバーを瞬間的に記憶させる訓練から始まっているそうです。
 日本ならナンバーを記憶するのに数字を呼んでも間に合いそうな感じがします。
 たとえば3587といった4桁ぐらいの数字なら「さんごはちなな」という7音節程度ですから1秒以内で音読できます。
 頭の中での黙読なら十分秒以内で読めます。
 それだけでなく、ひとかたまりの言葉のように音読できるので早く読めるだけでなく記憶しやすくなります。
 英語の場合はthree five eight sevenと音読するのはやや長くなります。
 パッと見て音読して記憶するのは少し難しい感じです。
 そこで音読して記憶するのではなく、視覚的に記憶する訓練をしたのではないかと思われます。

 英語といえば音声をそのままアルファベットで表記しているので、文字を見れば音読して意味を理解するものと思われがちですが、そうとは限りません。
 英語の単語表記は凝集性が強く、単に文字を等間隔に並べたものではありません。
 文字の並びがひと目で単語を認識できる形になっているので、訓練をすれば音読をしなくても見ただけで意味を理解できるようになっています。
 学校で単語の読み書きを覚えるときはつづりの一つ一つの文字を確認しながら覚えたのでしょうが、単語が記憶されアタマの中に入ってしまえば、つづりの全体を見て単語を認識できるようになります。

 単語を見て音読しなくても意味が分かるということは、なにも漢字だけの特徴ではありません。
 チンパンジーが習った図形文字も、チンパンジーは見るだけで意味を理解するのですが、チンパンジーは音声を発することが出来ないので、見るだけで理解するしかないのです。
 したがって見るだけで理解できるということは、それだけでは特別なことではなく、望ましいかどうかも分からないのです。
 英語の場合でも、音読の習慣のついている人はツイ音読してしまうので、眼で見るだけで理解をしようとするならそのための訓練が必要となります。
 
 音読をしようとすると、眼で見て理解する視読に比べればずっとスピードが落ちます。
 そこで速読法では音読のクセを抑制し、視読をさせるのですが、速読をしなくても視読をするメリットは別にあります。
 単語や文字を凝視しなくてすむので、眼が疲れないことと、文章のつながりがつかみやすいので、理解しやすくなります。
 日本語の場合は、漢字は見れば分かるという説がありますが、漢字の種類が多いし、一語一義ではないので簡単ではありません。、
 読み方も複雑なので、まずは読めることというので音読のクセがついています。
 音読のクセをとるのは日本語のほうが楽そうですが、案外そうではありません。 やはり練習によってクセをとる必要があるのです。


ひと目で見て理解

2006-04-25 23:55:36 | 視角能力

 紙と鉛筆を用意し、左のマスを1,2秒見てから眼を離して、覚えている文字を出来るだけ多く書きます。
 4つも正しく思い出せないのが普通です。
 つぎにまん中のマスを同じように1,2秒見てから眼を離して、覚えている文字を出来るだけ多く書きます。
 今度は前回より少し多く正解があるはずです。
 左のマスは、まん中のマスを逆さまにしたものですが、文字を読み取りにくいため、認識に手間取り、短時間では記憶できる量が少なくなってしまうのです。
 
 つぎに一番右のますを1、2秒間見てから同じように覚えている文字を書き出します。
 今度はまん中のマスの場合より多く書き出せて、人によっては全部を書き出すことができるようになります。
 これは右のマスに入っている文字が単語のつづりと々配列になっているためです。
 単語の知識があれば、単語と結び付けて覚えるので、三つの単語を確認し、記憶すればよいからです。

 一番左の場合は、文字はすべて眼に入っているのですが、さかさまになってもアルファベットになっているものがあるにせよ、文字が何であるか分かるまでに時間がかかるので、見えても理解できないものがあります。
 知識に結びつかない場合は見えても記憶しにくいので、正解率が低くなるのです。
 まん中のマスの場合は,一つ一つの文字は,はっきりわかるのですが,いっぺんに多くの文字を見ると覚えきれないで、忘れてしまうのです。

 右のマスの場合は三つの単語になっているので、単語の知識と結びつけば、三つの単語を記憶すればすべての文字を書き出すことが出来ます。
 ただし単語であると認識するにしても、文字一つづつを確認していって、単語であることに気づいてから記憶するという方法では時間がかかって、すべてを確認できないかもしれません。
 文字の並びをひと目で見て、単語の知識と結びつけることが出来れば、多くても三回の確認作業で住みます。
 文字を一文字づつ見ていっては、確認回数が多くなるので、時間がかかるばかりか、前に確認した文字を忘れるので、意味の理解が損なわれてしまいます。

 文字を読むときに、ひと目で見て理解できる範囲を広げると、眼が疲れにくいというだけでなく、文章の理解度も高くなるので、のうも疲れにくくなるのです。
 もしひと目で見て、単語が把握できない場合でも、ジット見つめないで瞬きをしてみると確認しやすくなるので、パッと見て瞬間的に文字を確認する習慣をつけるべきです。


漢字の間違い

2006-04-24 22:58:24 | 言葉と文字

 漢字の読みまちがいというのは昔からあって、なかには多くの人が々間違いをするため慣用読みとなって認められているものもあります。
 早急とか直截などは(そうきゅう)や(ちょくさい)が慣用化しているため、本来の読み方ではないといわれてもわからない人もいます。
 思惑などは(しわく)と読んでも間違いではないのですが、この場合は仏教用語で意味が違うので意味を知って(しわく)と読んでいる人は少ないでしょう。

 読み方が違っても意味が分かっているのだから、「日本人は漢字で意味をとらえている」「視角を重視していて、音声に敏感でない」というふうに解釈する人がいます。
 漢字は表意文字だから音声よりも意味を伝えるとか、日本語は同音異義の単語が多いので、漢字でどのように書くかを思い浮かべて意味を解釈するという説を信じているのでしょう。
 
しかし読み方を間違えているからといって、漢字の意味が分かっているとは限りません。
 漢字は日本人が読むときは、音読みと訓読みがあり、それぞれについても一通りとは限らないので正しいとされる読み方が出来るためには、単語ごとに読み方を覚えなければなりません。
 知らない単語を見たとき正しい読み方を調べればよいのですが、単語を構成する一つ一つの漢字について何らかの読み方が出来ればその読み方で済ましてしまうようになりがちです。
 相殺という文字を見れば、殺は自殺などのときは(さつ)と読んでいるので(そうさい)と読むといった具合です。
 「そうさつ」と読んで意味が分かっているのかというとそうとは限りません。
 殺は「殺す」という意味ではなく「そぐ」という意味です。
 読み方は「そうさつ」でもかまわないのですが、日本に「相殺」という言葉が伝わった時代は「そうさい」と読んだからこれが本来の読み方だとされているのです。

 日本人がもし漢字によって意味をとらえているのであれば、漢字の使用間違いというのは少ないはずで、誤字を見過ごすことも少ないはずです。
 実際は漢字の使い方の間違いは際限なくあり、間違った文字に気がつかないまま読んでしまっていることはよくあります。
 耳で聞いて覚えた言葉をいざ書くという段になると、どのような漢字を使うべきか分からなかったり、人が書いたものが間違っていても、間違いが分からなかったりします。
 「キョウミシンシン」といった言葉は漢字によって意味が分かるのかといえば、多くの人は耳で覚えた言葉で、「津々」の意味が分からないで使っている人のほうが多いのです。

 言葉の意味というのは周りの人が使っているのを聞いて悟る場合が多く、必ずしも辞書などにある説明を見て覚えるものではありません。
 日常会話の用語などは周囲の人と一体感を持つことによって感覚的に覚えるもので、「~とは~のことである」といった説明とか定義を辞書などで調べて覚えるものではありません。
 難しい単語でも振り仮名がついていると読むことは出来るので、意味が本当は分からなくても分かったような気がして、辞書に当たらずにすごしてしまいがちになります。
 つまり漢字を見れば意味が分かると思いすぎることが、漢字誤用の原因なのかもしれないのです。


イメージの記憶

2006-04-23 22:33:50 | 言葉とイメージ

 図Aはおおかみ座を表していますが、この配置をそのまま記憶するのはなかなか難しいものです。
 そのまま記憶するのが難しいのは、まとまりがないためです。
 したがってこれらを結びつけて、一つのまとまった形にすれば、その形のほうが覚えやすくなります。
 この場合、どんな形に結びつけるのがよいのかは、きまってはいません。
 覚えやすい形であればよいのです。
 形を決めてその形を覚えていれば、その形のイメージを思い浮かべながら星を見れば星と星との位置関係が分かり、季節の変化に応じた星の動きをつかむことが出来ます。
 
 b図のように星を線で結び合わせて、ひとまとまりの形にして、その形を覚えれば覚えやすくはなりますが、この形だけでは名前もなく意味もない段階です。
 一まとまりの形にするといっても、形の作り方はいくつもあるので、多くの人が共有できるものにする必要があります。
 多くの人に共有されるイメージとして記憶されるためには、名前がつけられる必要があります。
 名前がつけられるなら、名前とイメージが結びつきやすいものとなっているほうが、記憶しやすくなります。
 
 そうなるとc図のように具体的なものと線図を結びつけたほうが形が覚えやすい上に、形の名前も覚えやすくなります。
 b図の段階では、そのままで何か具体的なものをイメージすることは困難ですし、可能であるとしても多くの人がイメージを共有するのは困難です。
 c図のように具体的なイメージと部分的に対応させれば、名前と形を覚えやすくすることが出来ます。
 c図の絵の部分とb図が対応していますが、b図はc図の全体に対応しているわけではありません。
 部分的に対応していればc図の絵の部分をイメージすることによってb図の形をイメージすることが出来るので、b図がそのまま絵のように見える必要はありません。
 そこでc図の絵の部分はある程度b図から自由に描くことが出来ます。
 星座の絵図はギリシャ神話の登場人物や動物などを題材に作られていますが、星を結んだ図形と絵図を部分的に対応させたために可能だったのです。

 星座絵図は羊飼いが夜空を眺めながらイメージしたものだとかいわれますが、星を見ていきなり絵図がイメージできたかどうか疑問です。
 星の配置を記憶するために絵図の部分に星を対応させ、星を結ぶ線の形を作って、その形を記憶するようにしたものと思われます。
 これは一種の記憶法で、人間は意味のないものを記憶するのは苦手なので、絵図を使い、名前をつけることで記憶しようとしたものと思われます。
 イメージだけでなく言葉を結びつけるほうが記憶しやすいためです。


瞬間的記憶

2006-04-22 23:31:20 | 言葉と文字

 図はアメリカの心理学者がねずみを使った記憶学習の実験です。
 まずネズミに匂いAをかがせたあと、匂いBと匂いYをかがせ、Bを選べば報酬を与えるというやり方で、匂いAと匂いBとを関連付ける訓練をします。
 つぎににおいBをかがせたあと、匂いCと匂いZをかがせ、Cを選べば報酬を与えるというやり方で匂いBと匂いCを関連付ける訓練をします。
 そうすると匂いAをかがせたあと、匂いCと匂いZをかがせれば、ネズミは匂いAを選ぶようになります。
 ねずみは訓練をしなくてもZでなくCを選ぶようになるようになるということで、A→BでB→CならばA→Cという推論をネズミもしているというわけです。
 
 A→BでB→Cという関係を学習すればネズミでもA→Cという関係を覚えるということです。
 そうすると人間に文字(A)に対し音声(B)をおぼえさせ、つぎに音声(B)に対し意味(C)を覚えさせれば、訓練をしなくても文字を見れば意味が分かるということになります。
 ところが言葉の覚え方というのは普通このような順序ではありませんから、文字を見れば、音声化しなくても意味が分かるというわけにはいきません。
 
 普通は意味→音声、文字→音声という覚え方になっているので、文字→意味は別に訓練しないと自動的には身につかないのです。
 もし一つの言葉について意味も文字も一通りしかなければ文字と意味がすぐ結びつくのですが、意味がいくつもある上に、日本語では文字の表記法もいくつもあるため文字を見ればそのまま意味が理解できるというわけに行きません。
 音声に変換しないで文字を見るだけで意味を理解するのはなかなか困難で、ある程度の訓練が必要となっています。

 文字を見て意味がすぐに頭に入らないようだとどうしても、文字をじっと見てしまいます。
 文字をジット見つめるようなやり方で本を読むと、老眼の場合は毛様体筋の緊張を強いることになり、とても眼が疲れます。
 速く文字の意味が頭に入れば、ジット文字を見つめる必要がなくなるので、楽に本を読むことが出来るようになります。
 それでは、す速く文字の意味を理解するにはどうしたらよいでしょうか。
 一つの方法は、瞬間的に単語を記憶することです。
 単語の意味が分からないと瞬間的に記憶することは難しいので、瞬間的な記憶をしようと努力することで理解速度が速まるのからです。


ルビの不思議

2006-04-21 23:59:45 | Weblog

 どの言語でも言葉の意味は一通りではありません。
 「そら」という言葉でも日本語のばあいでも主な意味で五通り以上あります。
 日本語の場合は、空、宙と書いたり、諳んずる(暗誦)、うわの空(放心)、虚言(そらごと)などと書き方を変えて意味を明示しようとするので、漢字がないと意味が分かりにくいような気がしたりします。
 中国では「空」は空と表記するだけで、意味が違う場合に別の表記をすることはありません。
 英語の場合でも「air]は「そら」という意味のほかにいくつもの意味があるのですが、意味が違う場合には別の表記をするというようなことはなく、「air」は「air」と表記します。
 
 日本語は漢字で意味を書き分けるから、漢字がないと意味が通じにくいとか、しゃべっているときに漢字を思い浮かべているというような説がありますが、本当にそうなのでしょうか。
 そうであれば、漢字を知らない人は言葉が満足にしゃべれないということになってしまいます。
 漢字を知っていたほうが意味が分かりやすくハッキリするということであれば、日本語のほうが英語などよりよほど意味が分かりやすい言語だということになります。
 
 日本語に漢字を当てるというのは、実は二重表記をしていることで、諳んずると書けば本来なら、「諳」は「しょう」というような音読みしかないはずなのに、「そらんずる」と読ませています。
 「諳」は意味として当てた漢字なのに日本語のほうが隠れてしまっています。
 そのため読み仮名という形式でルビを振るようになったのですが、おかしな風習だとは言え、外国語がたくさん入り込んでくるときには結構役立つものです。
 明治時代には外国の物や概念をさかんに漢字に翻訳しましたが、もとの外国語を振り仮名の形で表記するようなことも行われています。
 現在のようにカタカナ語が急増している状況では、カタカナをカタカナでそのまま表記するだけでは意味が分かりにくくなってきています。
 アメリカなどでも社会や技術の変化によってたくさんの新語が出来、頭文字による略語が急増して困っているようです。

 カタカナ語に漢字による翻訳をあて、二重表記をするのは苦し紛れかもしれませんが、大量に外国語が入ってくる状況ではよい方法です。
 振り仮名などをすると、細かい字になるので高齢者には特に読みにくいと思われますが、カナばかり並べるわけではないので、それほどでもありません。
 図に示している例では、ルビを振った場合と、ルビと同じ大きさでかな書きしたものを並べていますが、ルビの場合は小さくてもはるかに読みやすくなっています。