図は江戸時代中期の浮世絵画家奥村政信の「芝居狂言浮絵根元」です。
奥村政信は日本でもっとも速く遠近法を導入した画家で、近衛にも遠近法が取り入れられています。
ところがこの絵を見るとすぐに気がつくのは、中央の本舞台にいる五人の役者はずいぶん大きく描かれていることです。
まわりは線遠近法で描かれているのに、ここでは線遠近法は無視され、それまでの日本風の平行遠近法で描かれています。
つまり重なりと上下関係で奥行き感が表現されているため、周囲の線遠近法の環境からは切り離され浮き出ているように見えます。
この絵より前の奥村政信の作品では、本舞台も世年金法に従って描かれているものがありますから、この絵で本舞台の描き方を変えているのは、何らかの意図があってのことだと考えられます。
この絵でもそうですが、芝居小屋の絵というのは観客席が大部分を占めていて、観客の様子が詳細に描かれています。
そこで観客の様子を見ると、すべての観客が芝居のほうに注意を向けているかというと必ずしもそうでなく、舞台以外に関心を向けている観客がかなりいるようです。
当時の観客は現代の観劇客のように行儀がよくはないのです。
芝居のほうに目を向けている人もいれば、観客同士で話し合ったり、飲食に集中したり、ほかのほうを見たりしている人もいます。
観客がみな芝居のほうに集中しているなら、客席のほうを詳細に描いても意味がないのですが、気楽にいろんなことをしていれば、観客を描くこと自体に面白みがあります。
この絵の場合は、観客席が詳細に描かれている一方で、本舞台が線遠近法を無視して、従来の平行遠近法で描かれているのは、やはり役者のほうにも注意を向けたいからでしょう。
それだけでなく、まわりが線遠近法でえがかれているのに、本舞台のところだけが平行遠近法という別の方法で描かれた結果、本舞台の部分がせり出しているように見え、インパクトが強くなっています。
ちょうど、下の図のように真ん中の四辺形の部分は、線遠近法からすればかなり奥に位置するように見えるはずなのに、しばらく見ていると逆に手前のほうにせり出して来て見えます。
下の図で真ん中の四角い部分の見え方が逆転して手前のふにせり出して見えてくるのは、この部分が平面的に描かれ、まわりの線遠近法の世界から切り離されているからです。
まわりの線遠近法によって一番奥に見えるはずなので目が焦点距離を変えると、実際は奥にはないのでかえって大きく浮き上がって見えるのです。
奥村政信がそのように意識して描いたかどうかは不明ですが、結果的には役者のほうに注意を向けさせて目立たせる効果をあげています。