60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

多義語と書き分け

2008-07-28 22:43:24 | 言葉とイメージ
 国語辞典で「あげる」という言葉を引くと「上げる、揚げる、挙げる」などと書き分けるように示されています。
 書き分けというようなことをするのは、日本語ぐらいのもので、中国語では上、揚、挙は発音が違い、別の語ですから書き分けるなどとは言いません。
 また「上」、「挙」などはそれぞれいくつかの意味を持つのですが、意味の違いに応じて書き分けのようなことをするわけではありません。
 日本語の「あげる」という言葉を書き分けようとする理由は、多義的なので「上、揚、挙」などと書き分けようとするのだと漠然と考えられています。
 
 多義的といえば英語の場合も日本語に劣らず多義的です。
 「あげる」という日本語に対応する語としてはraiseとかliftといった言葉がありますが、raiseだけを取り上げてみても、図に示すように多くの意味があります(詳しい辞典ではもっと載っています)。
 これを見ると「上げる、揚げる、挙げる」のすべてをカバーしていますから、何らかの形で書き分けをしてもよさそうなものですが、英語では書き分けというものはありません。
 raiseという単語を聞いたり見たりしたとき、発音も文字も同じなのですから、どの意味なのかは文脈で判断するしかありません。
 だからといって、漢字のようなものを使って書き分けるべきだというようなことは、英語については言われません(他の言語でもたぶん)。
 どの言語であっても、単語が一つの意味にしか対応していなければ、ものすごく多くの単語が出来てしまって、覚えきれないだけでなく、意味にふくらみのないぎこちない言葉になってしまいます。
 したがって多義語が多いというのはどの言語でも当然で、だからといって書き分けをしなければならないということはないのです。
 
 漢字の上、揚、挙などを使って書き分けしようとすると、これらの漢字に含まれていない意味の場合もありますから、ムリに漢字の意味を拡張させなければならなくなります。
 たとえば「費用を**円であげる」とか「酔ってあげる」「得点をあげる」「叫びをあげる」「**をしてあげる」について漢字化しようとすると戸惑います。
 「上、揚、挙」などを漢和辞典で引いても適当する例が見当たらないからです。
 言葉は元の基本的な意味から派生した意味が出来、さらにそこからも意味が派生しますが、日本語と中国語では意味の派生の仕方が違うので、もとの意味での一致点が多くても、派生した部分では一致するとは限りません。
 漢字の訓読みというのは、漢字の日本語への置き換えで、翻訳ですから、文脈によって一つの漢字について訓読みが幾とおりもありえます。
 逆に日本語を漢字で書いた場合は、日本語の漢訳となりますから、幾とおりもあるのですが、簡単に訳せないこともあります。
 その場合は、日本人向けの文章であればすべて訳さなくても、訳しにくければ日本語のままにすればよいのです。
 

字源解釈と記憶術

2008-07-26 22:41:05 | 言葉とイメージ

 「朝」という字は草の下に日があり、そのまた下に草があって、横に月があります。
 そこでこれは草の間から日が出てきて、月がまだ沈みきらないで残っている状態で、朝のことを意味しているのだという解釈があります。
 この解釈だとちょうど万葉集の「東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ」という歌を思い起こさせるようで、説得力がありそうな感じがします。
 図は中山正實という画家が、この歌が歌われた情景を描いたものです。
 実際に狩が行われたという大和の阿騎野へ行き、歌の時期と同じ12月17日の朝を見たうえで描かれています。
 この絵で見れば東の空が明るくなっていますが、山は見えますが、草の間に日が見えるなどということはありません。
 野というのは草原というわけではないので、当然なのですが、日本の風景のなかでは草の間から日が見えるというような大草原はないので、草の間に日が見えるという説明はピンときません。

 もちろんこの歌は「朝」の字源解釈とは関係ないのですが、この歌自体にも不自然なところがあります。
 12月の17日ごろといえば冬の寒いときで、野宿をしながら狩をする、しかも狩の主人公が10歳の軽の皇子というのですから、現代人には理解できないところがあります。
 具体的な状況を想像しようとすると、この字源解釈はこの歌とは結びつかないのですが、このようにして結びつければ「朝」という字を覚えやすいということが出来ます。
 別の字源解釈では「月は月の字でなく水を表わす形の文字で、潮がみちてくる状態を示し、草の間から日が出て潮が満ちるときで、朝を表わす」というのもありますが、覚えにくく分りにくい説明です。

 あさ」を表す漢字としては「旦」という字もありますが、これは下の横線が地平線で、太陽が地上に現れることを示すというのですから、「朝」よりはストレートで分りやすくなっています。
 ただし、日本の場合はたいていの場合山が見えてしまって、地平線の上に日が出るということが無いので、感覚的にあわず、むしろ水平線のほうが経験しやすいと思います。
 地平線でも水平線でもいいのですが、この造字法なら朝でなくても日が沈む前の夕方でも同じになるのですが、なぜか朝の意味だけになっています。 つまり字源解釈というのは論理的ではないのです。
 日という字を使っても「昌」は日がふたつなので「あかあかと輝く」意味だとしていますが、日が三つの「晶」になるとなぜか日は星を表わすことになっていて「きらきらひかる」という意味になっています。
 「木」なら林、森と木が増えるにしたがってボリュームが増える感じですが、「日」も同じように考えるととんでもない解釈になってしまいます。

 漢字の字源解釈は首尾一貫しているわけではなく、ケースバイケースでかなり場当たり的なので、学者でもない限り、本当にどうなのかということを追求しても意味が無いのです。
 漢字の字源解釈は記憶術のようなものであると割り切ったほうが実用的であるように思えます。
 
 


ことばによる固定イメージ

2008-06-30 23:08:56 | 言葉とイメージ

 岐阜県で起きた飛騨牛の偽装事件というのは、「ことば」を人間が使っているために起こりやすい事件です。
 飛騨牛というのは岐阜県内で14ヶ月以上肥育された黒毛和種で、日本食肉格付け協会というところで肉質を5等級に格付けしたもののうち、3~5等級のものだそうです。
 2等級以下の肉は「岐阜県産」とか「飛騨和牛」としか表示できないそうです。
 飛騨牛の偽装というのは、2等級の牛肉を「飛騨牛赤身焼肉」として売ったり、3等級の肉に2等級の肉を混ぜて3等級の肉として販売したというものです。

 飛騨牛という名前がつけられると、なにか特別の質であるような印象を受けますが、岐阜県内で14ヶ月以上肥育された黒毛和種ということですから、肥育された地域しか規定はありません。
 同じ種類の牛がとなりの愛知県で肥育されても、そのことだけで肉質が変化するわけではないので、肉質中心で考えればあいまいな規定です。
 肉になった状態だけで見れば岐阜県で肥育されたか、あるいは隣県で肥育されたかは見分けがつくはずありません。
 「飛騨牛」というブランドイメージのおかげで、同じレベルの肉質の牛肉が高く売れるということであれば、同品質かあるいはより高品質の牛肉を「飛騨牛」と偽装して販売しようという業者がでてきても不思議はありません。

 等級付けは、まず脂肪交雑(サシの入り具合)、肉の光沢、肉質のきめ、しまり、最後に脂肪の光沢と質などによって総合評価するといい、この評価が高いほどおいしい肉だとされています。
 このように評価の要素がいくつかあり、その総合評価で等級付けをするというのですから、等級の分かれ目はあいまいなところがあり、素人には判断できない場合がありえます。
 プロによる格付けで2等級でも、素人目からみて3等級と変わりがないという場合がありうるのですから、これを3等級として販売しても疑問をもたれないですんでしまいます。
 さらにいえばプロが見ても見分けがつかないという場合もあります。
 実質的な差がないのに格付けが異なることもあるのですが、ひとたび格付けがされると価格が異なるので、偽装が入り込んでくるのです。

 さらに肉は工業製品ではないので、等級によって格付けしても、個別の肉の質ははっきり差別化されるわけではありません。
 イメージ的にたとえれば、たとえばサシの入り具合でも図一番上の場合のように連続的に変化しています。
 これを5段階に格付けすれば一番下の図のようになるはずなのですが、等級付けされてしまうと真ん中の図のようにイメージされ、各等級内の肉は同じ品質のように理解されてしまいます・
 2等級の肉でも3等級の肉の品質に近いものがあり、その境目は微妙ですから肉が混ざったりすれば見分けがつかなくなります。
 2等級とか3等級とか名前をつけると、はっきりとした境界があるように感じるのですが、実際は境目があいまいなので、そこで偽装が行われてもわかりにくいのです。
 偽装を行わなくても、肉質を的確に判断できる能力があれば、同じ格付けでもより肉質のものを仕入れて販売ることで自然と高い評価を得られるのですから、それで事業が発展するというケースもあり得るのです。 
 


書字の運動イメージ

2008-04-28 23:33:16 | 言葉とイメージ

 図の上半分は横書き文章を180度回転させたもので、下半分は縦方向に裏返したものです(文章の一番下に鏡を縦に置いたときに映る鏡像)。
 180度回転した文章のほうは、文字が逆さまになっているだけではなく、右から左へ、下の行から上の行へと読んでいかなくてはならないので読み難いのですが、それでも下の場合と比べるとはるかに楽に読めます。
 一つ一つの文字を読み取るのは、文字イメージをアタマの中で回転させたものと、脳内辞書にある文字を比較しているように思えます。
 ところが、「地球温暖化」とか「調査結果」というような文字のかたまりであっても逆さまの状態のまま読み取ることができるので、この場合も逆さまになった熟語を頭の中で回転させているかというと、心もとなくなります。
 
 そこで実際に、いくつかの文字のかたまりをアタマの中で回転させてそのイメージを想いうかべようとするとなかなかうまくいきません。
 漢字熟語のようなものをアタマの中にイメージしようとしても、ボンヤリとしかイメージできないので、それをアタマの中で180度回転するとなると、回転されたイメージがハッキリしないので読み取り困難となります。
 したがって逆さまの文字を読むときに、わたしたちは逆さまになっている文字をアタマの中でイメージ回転して読みとっているのではなく、別のやり方で読み取っているのです。

 どうして逆さまの文字や単語、熟語を読み取れるのかというと、それは文字に対する記憶が視覚イメージとしてあるだけでなく、書字の運動感覚が記憶されているためです。
 江戸時代の寺子屋の師匠は寺子と向かい合った状態のまま字を書いて見せたといいますから、字を逆さまに書くことができました。
 この場合文字のイメージを逆さまにしてそのさかさまにしたイメージにしたがって描くのではなく、自分が相手側の立場に立ったイメージを持って書けばよいのです。
 そうすれば、後は記憶している書字の運動感覚にしたがって書けばよいのですから、きちんとした字を書くことができたのです。

 そうなれば下の鏡像イメージの文章が上の逆さまな文字に比べて極端に読み取りにくいのは、アタマの中で文字イメージを鏡像に変換するのが難しいからではなく、鏡像文字の書字の運動イメージがないためだということが分ります。
 アタマの中に鏡像イメージを思い浮かべること自体は、180度回転した文字のイメージを思い浮かべるより難しいというわけではありません。
 視覚イメージだけの問題であれば、逆さまのイメージを想いうかべるよりも、鏡像イメージを想いうかべるほうがむしろ易しいのです。
 たとえば馬が右を向いている画像があれば、この鏡像は左を向いたイメージですが、この鏡像イメージをアタマの中に思い浮かべるのは、逆さまのイメージを想いうかべるより楽です。
 鏡の中に左右が反転した自分の顔の鏡像が写って見えても違和感を感じませんが、顔が逆さまに映れば違和感を感じるものです。
 視覚イメージとしては倒立イメージのほうが、鏡像イメージよりわかり難いのです。
 
 文字の場合は逆さまの文字のほうが、鏡像文字より分りやすいというのは、文字を見て理解をするとき、視覚イメージとして見ているだけでなく、書字の運動イメージも連動して見ているからなのです。


身体、動作のイメージを使って考える

2008-04-21 23:43:14 | 言葉とイメージ

 図a回転させた形と同じものはb、cのどちらかという問題を考えるとき、イメージ操作の得意な人は回転イメージを想いうかべられるのですぐにわかります。
 しかしたいていの人は、イメージを回転させてもボンヤリしたイメージになってしまうので、どちらがaと同じになるか分りません。
 aの斜め下に円で囲んだ図は佐伯胖という心理学者が考案したもので、図を人間の身体に見立て、上に頭を乗せた見たものです。
 横に伸びているのが腕、胴から直角に脚が出て膝が曲がっているような感じです。
 a,b、cそれぞれに頭を乗せたイメージを想いうかべると、aの腕は右腕、bの腕は左腕、cの腕は右腕となりますから、cがaと同じだということが実感できます。
 a,b,cに頭を乗せたイメージを想いうかべるといっても図形イメージに集中してしまうとうまくいきません、
 自分の身体を図のイメージに同化させて見る、つまり自分の身体を使ってイメージを想いうかべると、図の中に腕、胴、脚がイメージされ、どのように回転させたかが実感できます。

 図を言葉で説明しようとした場合、a図なら黒点を原点として、「立方体左方向に3つつながり、左端の立方体の下方向に三つの立方体がつながり、最下端の立方体から奥に二つの立方体がつながり、一番奥の立方体の下にひとつの立方体がある」という表現になります。
 bは「右斜め上方向に3つの立方体がつながり、三番目の立方体の斜め右下に三つの立方体がつながり、その三番目の立方体から左奥に二つの立方体がつながり、一番奥の立方体の斜め下にひとつの立方体がつながる」といったような表現となりますが、これではaと同じなのか違うのか判断できません。

 これも自分が四角い部屋の中を進んでいくイメージで表現するとaは「前に進んで3つ目の部屋から下がり、一番下の部屋から右に曲がり、二つ目の部屋でひとつ下がる」となり感覚的に理解しやすくなります。
 bは「前に進んで、3つ目の部屋から下がり、一番下の部屋から左に曲がり、2つ目の部屋でひとつ下がる」となってaと比べれば、一番下の部屋から右でなく「左に」曲がるので、aとの違いがハッキリします。
 
 このように言葉を使って考えても解決できるのですが、最初の説明のように客観的に説明しようとすると分りにくいのですが、自分の身体やその動きのイメージを使うと理解しやすいのです。
 視覚的なイメージ操作と、言葉の操作とどちらが分りやすいかということとは別に、人間の身体や動作のイメージを使うかどうかで理解の度合いが大きく変るのです。

 では人間の身体や動作のイメージを使うのが万能かというと、必ずしもそうではありません。
 たとえば右下のRの形のうち、ひとつだけ違うのはどれかという問題では、無理に身体や身体動作のイメージを使わなくても、単純にイメージを回転させることで答えを出すことができます。
 ただ一番最初の例のように、頭をつけて人間の身体のイメージで考えたときは、「分った」という実感が強いのが特徴です。


イメージの操作

2008-04-20 23:30:55 | 言葉とイメージ

 人間がものを考えるときは言葉で考えているといわれると、そんなものかなと思いますが、言葉を使って考えるといえば、脳の働きだけのような感じがします。
 たとえば76+87という計算をするとき、暗算ならば「76に80を足して156、156に7を足せば163」というふうに頭の中で言葉にして考えて答えを出しているようにみえます。
 ところがソロバンを使って計算をするときは、同じ桁同士の数の足し算をするときの規則に従って珠を動かすだけです。
 珠を動かした結果を見ればそれで答えが分る仕組みになっています。
 
 ソロバンを使って計算するときは、規則に従って指を動かすことによって答えが得られるのですから、計算過程は指による珠の動きで、珠の動きはソロバンという道具の仕組みに依存しています。
 脳の働きよりも、ソロバンという道具の仕組みを使って、その結果答えが得られるのですから、頭で考えるだけでなく、外部のものの仕組みによって結果が得られています。

 珠を動かすのは脳の働きがあるからで、ソロバンの珠自体に計算の働きがあるわけではないというふうにも考えられますが、ソロバンの物理的構造が変ると計算できなくなりますから、やはりソロバンの仕組みによって計算ができるのです。
 たとえば、図の下のようにソロバンの珠がひとつなくなって、下段が3つの珠になっている場合は、76に87を足して156という結果を正規の四つ球の場合と同じやり方で得られるように見えます。
 ところが76に78を足そうとすると、同じ珠の動かし方ではできなくなります。
 10の位の7に7を加えれば10の位は4になりますが、この珠では4を表わすことができないのです。

 それではこのようなソロバンは全く役に立たないかというと、これは8進法の計算に使うことができます。
 上の珠は5でなくて4として使えば、珠の動かし方は10進法の場合と同じです。
 図の例では二桁目では上の珠が4と下の珠が2で6、一桁のところは上の珠が4で下が1ですから5で、数字で表わすときは65となります(10進法になおすと6×8+5で53)。
 これに66(10進法では8×6+6で54)を足すと6は8-2ですから2を引いて上の位に1を足すという操作で右のように153という結果が得られます(10進法では64×1+8×5+3で107)。
 
 もし8進法の65+66を言葉を使って暗算するとなれば、65と66を10進法に換算して10進法で計算し、さらにこれを8進法に直すというので頭の中だけではとても難しくなります。
 珠の動かし方を覚えれば、8進法のような計算は暗算でするより、専用ソロバンを使ったほうがはるかに楽になります。
 一番簡単なソロバンは2進法のソロバンで、上の珠がなく下の珠が1つのものです。
 ソロバンのように道具を使う場合はこれをイメージ化することができますから、珠を動かすというイメージ操作で結果が得られるから便利なのです。


文字とイメージ処理

2008-03-19 00:02:17 | 言葉とイメージ

 七つの文字を一度に瞬間的に表示して消した場合に、どれだけ記憶できるかテストしてみたとします。
 ローマ字(大文字)、ひらがな、漢字、算用数字でやってみると、最も覚えやすいのが数字で、漢字が一番覚えにくでしょう。
 では、なぜ漢字の方が記憶しにくいのでしょうか。
 視覚情報処理は右脳が担当し、右脳の情報処理量は言語情報を処理する左脳の情報処理量を担当する左脳の数十万倍もあるというような説がありますが、それならたった7文字程度の漢字を記憶するのはたやすいはずです。
 
 7つの漢字を記憶できないということから、視覚情報の処理といっても、見たものをそのまま見たとおりに記憶できるというわけではないということがわかります。
 漢字は複雑な形をしているので、記憶しにくいのだというふうにも考えられますが、ローマ字の場合とひらがなの場合を比べると、ひらがなの方が複雑な形をしているのに覚えやすいので、形の複雑さだけが原因であるとはいえません。
 
 一番考えられるのは、ここで示されている漢字はたくさんある漢字の中でも比較的になじみの少ない漢字で、記憶から引き出しにくいものであるということです。
 算用数字は0カから9までの10種類しかないのに漢字は数千種類あり、見る時間は同じでも脳内の記憶とすぐに結びつきません。
 想起に手間取っているうちに文字が消えてしまうので、記憶できないものが多くなってしまうと考えられます。

 文字を記憶しようとするとき、純粋に視覚情報として記憶するのであれば、ひらがなよりローマ字のほうが記憶しやすいはずです。
 ローマ字はひらがなより単純で、数も26と少ないのですが、ひらがなよりも馴染みが薄いから記憶しにくいともいえます。
 しかし、数字は10種類で形も簡単で、馴染みもあるのでひらがなよりはるかに記憶しやすいかというとほとんど差はありません。
 それではなぜひらがなが記憶しやすいかというと、イメージを記憶しようとしているだけでなく、言語情報化して記憶しようとしてしまうためです。

 ひらがなの読みはローマ字の読みや数字の読みに比べ短いので、音声言語に変換すれば短くなるので記憶負担が少なく処理しやすいのです。
 実際に音声化できないほどの短い時間の表示でも、記憶負担が少ないため自動処理しやすいので処理成績がよくなるのです。
 ただし、ひらがなは漢字と比べ、はるかに処理時間がすくなくてすむので、カナばかりの文章にすれば効率がよいかというと、カナだけでは表現力がないので読みやすい文章となるとは限りません。
  
 


音声と時間的順序

2008-03-17 23:42:58 | 言葉とイメージ

 聴覚障害者は数の把握能力が劣るとか、論理力が劣るというふうにいわれることがあります。
 数とか論理とかは言葉に関係するもので、言葉は音声を基礎にしていて、音声は時間的な順序で捉えられるものなので、聴覚障害者はどうしても不利だと推測するのでしょう。
 視覚の場合は同時に目に入るので、順序を意識することがなく、そのため論理能力を発達させることはないようにみえます。

 たとえば487-6592というような番号を記憶する場合、これを言語化して「よんはちなな、ろくごきゅうに」というふうに音声に変換して覚えるのが普通です。
 そこでこの数字列を逆ならびに言うように要求すると、たいていの人はすぐには答えられません。
 上から順にたどっていって最後が「に」だということを確認して、また上から順位たどり、「に」の前が「きゅう」だと確認し、先頭から二つまでは「にきゅう」だとして覚えておいて、さらにその後を確定しようとします。
 「よんはちなな、ろくごきゅうに」と音声で覚えても逆順に数字を答えることは難しいのです。

 ところがもしこれを視覚で「487-6592」と記憶した場合は、視覚記憶を思い浮かべ右から順に読んで行けばよいということになり、そう難しいことはないと思われそうです。
 視覚の場合はアタマの中で「2956-784」というイメージを思い浮かべる必要はなく、「487-6592」というイメージのままで逆から読めばよいと考えられるからです。
 聴覚の場合は「よんはちなな、ろくごきゅうに」という音声は記憶されていても「にきゅうごろく、ななはちよん」並び替えなくてはならないのでとても難しいのです。

 しかしよく考えてみると、音声記憶のとき数字を逆称するというのは、音声を逆称している事ではなくなっています。
 音声の逆称なら「にうゅきごくろ、ななちはんよ」であるはずでこれはさらにむずかしくなります。
 もし「487-6592」を音声化するとき「よはな、むごくに」と音声化すれば音声記憶を利用して「にくごむ、なはよ」と逆称することも可能です。
 「よはな、むごくに」は7文字で何とかそのまま記憶できるのに、「よんはちなな、ろくごきゅうに」となると13文字になる上に、音声を多く並び替えをしながら答えなければならないので、はるかに難しい課題になってしまいます。
 視覚記憶の場合でも記憶したイメージを逆転するような課題になれば難しくなるので、条件を同じにしないで音声記憶とイメージ記憶を比べても意味がないのです。
 


言葉を使わない計算

2008-03-16 23:12:05 | 言葉とイメージ

 正高信男「ヒトはいかにヒトになったか」によると聴覚障害者は学校の教育環境が耳の聞こえる者中心になっているため、聴覚障害者は普通の計算能力が劣るけれども、非言語的方法での数把握を行ってみると、健聴者より優れた結果を出すそうです。

 たとえば上の左の図はスクリーンの真ん中の+印を見てもらい(1)、瞬間的にいくつかの点を示した後(2)、ふたたび+印を見てもらった後(3)、前回より少ない数の点を示し(4)TEST画面にした後(5)いくつかの点を示します。
 ここで2番目の画面の点の数から4番目の点の数を引いた答えと、6番目の画面の点の数と比べどちらが多いかを答えてもらいます。
 画面は瞬間的にしか表示されないので、一つづつ言葉を使って一、二、、、、と数えていっては間に合わないので、言葉を使わないで数の把握をしなければなりません。
 
 このテストをやると右の表の様に、聴覚障害者のほうが健聴者より成績がよいので、非言語的な方法での数把握は聴覚障害者のほうが優れているといいます。
 ところがこのようなテストでなく、スクリーンに22-11=?というように数式を一瞬表示して答えさせると、図のように健聴者のほうが聴覚障害者より成績がよくなるそうです。
 22-11という数式が示されれば、これは「ニジュウニヒクジュウイチ」というように読んで、言葉を使いながら計算をしますから、これは言語的な方法による数把握で、この場合は健聴者のほうが成績がよいのです。

 22-11を言語化して計算をするときは「ニジュウニ」と「ジュウイチ」を音声化するため、音韻ループという一時記憶システムに貯蔵され、計算が終わるまで記憶が利用できる仕組みになっています。
 これに対し視覚記憶は0.5秒以下しか持続しないので計算が終わるまで保持されない可能性があります。
 健常者は数字を見て音声化するため、音韻ループに数字を貯蔵して計算を行う習慣が身についているので聴覚障害者より成績が良いと考えられます。

 これらのことは、人間が数を把握する方法はひとつでだけでなく、方法を変えれば別の能力が身につくことを示しています。
 健聴者であっても、言語化を抑制すれば非言語的な方法で数を把握できるわけで、ソロバンの熟達者は見取り算で数字をソロバンイメージに変換することで計算を行うので、言語化するより速く計算できます。
 計算だけでなく、ものを考えるのは一般的には言葉を使って考えますが、適当な道具とかイメージを使えば、それらを使うことによって思考と同じ結果を出せる場合もあるということなのです。


知ってる名前

2007-09-25 22:53:29 | 言葉とイメージ

 「みそさざい、せきれい、うずら、つぐみ、しぎ、ひよどり」などといった鳥の名前はほとんどの人が知っていますが、漢字でどう書くかといわれたら一つも書けなかったりします。
 それどころか、漢字で示されても全部は読めないでしょう。
 漢字で書かれたものを読めないというだけでなく、実物を並べられても、どれがどれと選り分けられなかったりします。
 名前は知っていても、実物についての知識となるとあやふやだったりするのです。
 鳥に詳しい人なら、形や色や大きさといったことだけでなく、何を食べ、どこにどのような巣をつくり、どんな鳴き声で、どんな行動をするかなどといったことまで知っていたりしますが、漢字でどう書くかなどということは知らないかもしれません。。
 
 植物についてでも、春の七草の名前はよく知られているのですが、漢字でどう書くかあるいは漢字で書かれたものが読めるかとなると全部は無理でしょう。
 実物を選り分けられる人もいますが、ほかの植物を加えて並べられると、これと名指すことができない人もかなりいるでしょう。
 なかには実物はどれがどれと分らないけれども、漢字の読みはできるという人もいたりして、こういう場合は漢字を覚えることにエネルギーが使われて肝心の実物を知ることが忘れられています。

 本来なら実物についてその名前を覚えるはずなのですが、言葉を先に覚えてしまって、言葉に慣れてしまうと、実物について知らない状態に慣れ、そのうち実物について知っているように錯覚したりするのです。
 耳で言葉を覚えるだけでなく、漢字でかかれたものを覚えると、何か実物について覚えたような感じになるのでしょう。
 また言葉の意味が判らずに国語辞典を引けば、簡単な説明がついているので、実物に当たらなくても実物について分ったような気がしたりします。
 辞書で得られる知識は言葉による説明で、実際の知識ではないのですが、実際の知識も言葉で説明される場合が多いので、見境はつかなくなります。
 
 こうしてみると、同じ言葉を聞いたり読んだりしても、受けとめる側の人の知識は、人によって多かったり少なかったり、実物についてだったり、言葉だけだったりするので、受けとめ方は千差万別です。
 言葉が同じだから誰でも同じ受けとめ方をしていると考えるわけにはいかないのです。
 誰でも同じ受けとめ方をしているような感じがするのは、言葉だけしか知らない人も、言葉を知っていることで安心して、実物について知っているかのようにふるまうからです。
 というと、実物について知らないで言葉だけしか知らないのは良くないと言っているようですが必ずしもそうではありません。
 知らないことについて、なんでもかんでも気にしていたのでは身が持ちません。
 ある程度いい加減な知識のままで流すことができるので、心の平衡が保たれているからです。