60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

周辺視野の感度

2006-08-31 22:51:30 | 文字を読む

 左の図は本を開いた内側のようにも見えますし、外側の表紙のようにも見えます。
 内側に見えるときは真ん中が後退して見え、外側に見えるときは真ん中が前にせり出して見えます。
 見ているうちに見え方がいつの間にか交替するので、真ん中の部分はでっぱたりへこんだりするので動いて見えます。
 右の図の場合は立方体に見えるのですが、左下側の正方形が手前に見えたり、右上の正方形が手前に見えたりします。
 左が前面の立方体と思ってみているうちに、いつの間にか右側が前面に見えて見え方が交替します。
 左側の正方形と、右側の正方形はかわるがわる前面に出たり、後退して見えたりします。
 意識的には視線を動かしていないつもりでも、視線が動き見え方の体制がかわって、奥行き感が変わるので、眼の焦点距離が変わっているのです。

 左下の図では右側が暗くなっているので、左から光が当たっていると見なすと、真ん中が出っ張っているように見え、この見え方が安定します。
 右下の場合は黒く塗りつぶした部分があるので、左側の正方形も、右側の正方形も一つの面と解釈しにくくなるので、立方体として見難くなり、全体が平面図形のように見えます。
 右上の図の場合は、どうしても立方体に見えてしまい、立方体の見え方が交替するので図形が動いて見えてしまいますが、右下の場合は平面としてみれば安定して見えます。
 
 ここで図形を見るのでなく、文字のほうに注目して見ます。
 左上の文字は七文字ですが、このぐらいの文字数は大体中心窩で見ることが出来る範囲なので、視線を動かさなくてもハッキリと見えると思います。
 このとき下の文字は少し大きいので、ハッキリと文字が読めなくてもなんとなく読めるような感じがすると思います。
 もし下の文字を読みに行こうとして視線を動かすと、このとき真ん中の図形は見え方が変わるので、奥行き感が交替して図形が動くように感じます。
 視線を動かさないで下の字が認識できれば、周辺視野の文字に対する感度が上がったということになるのですが、このとき間の図形は動きません。
 視線が動いたかどうかは、図形の見え方で判断できるのです。

 右の図の場合も同じなのですが、左の図よりも注意を引きやすいので、文字を見ながらつい図形のほうに眼がいきがちです。
 上の文字のほうに注意を向け、下の文字を視線を動かさずに周辺視野で見れば、間の図形は平面的に見えます。
 つい視線を動かして図形のほうを見てしまうと、図形は立方体に見えるので、平面から立方体へと見え方が変化するとき図形は動いて見えます。
 視線を動かさずに下の文字が認識できたかどうかは、図形が動いたかどうかで分かります。


イメージの変化

2006-08-30 23:19:04 | 言葉とイメージ

 虻(あぶ)、蚋(ぶよ)などは読めなくても虫の一種だろうという見当をつけることが出来ます。
 漢字の偏がものの分類を表していると考えるからですが、こうした推測はいつもうまくいくとは限りません。
 蝦(えび)、蟹(かに)、蛸(たこ)などは虫ではないのに虫偏で文字がつくられたということは、大昔の中国人は虫の同類と考えていたのでしょう。
 これらだけならともかく、ヘビ、マムシ、カエル、トカゲなど爬虫類や両生類もいっしょくたに虫類と考えていたとすると、現代の感覚とは相当なずれがあります。
 ヘビなどはミミズなどと形が似ているので骨があるのに虫の親戚と思われたのかもしれませんが、現代の日本人の虫についてのイメージとは合いません。

 不思議なのは貝類が貝偏ではなく虫偏になっていることです。
 シジミ、ハマグリ、アワビなど現代のイメージでは虫に結びつかないのですが、蛎(かき)、栄螺(さざえ)、田螺(たにし)、蝸牛(かたつむり)と並べてみると、現代でもデンデンムシを虫とするイメージがあるので、貝も虫の一種とする感覚も一概におかしいとは言い切れません。
 それでも日本人の感覚では貝類を虫と同類とは考えられなかったはずです。
 中国と日本では接触する動物の種類がずいぶん違っていたので、分類の仕方が違っても当然なのですが、あえて文字はそのまま受け入れたのは、偏にそれほどこだわらなかったからでしょうか。

 現代は昔に比べれば外国の生物も多く知られてきているので、かつてのような分類ではうまくとらえることが出来なくなっているので、本来なら漢字も変化させなければならないところです。
 文字をむやみに変えるのは混乱の元なので、イメージ的にあわない漢字の名前はカタカナにでもして表示するしかないかもしれません。
 大昔は知られていなかったペンギンとかペリカン、トナカイ、マンモスなどは無理に漢字表現しないでカタカナ表記で落ち着いているので、漢字イメージと異なる名前はカタカナ表記のほうが誤解を防ぐ意味でよいと思います。
 漢字の構造と言葉の意味を厳密に一致させるのは現実的には無理になってきているので、本来こういう意味だという語源説にこだわるのであれば、現代に会わなくなった文字は、文字そのものを変更するか、カタカナ表記にすべきです。
 
 


分類のなかの典型

2006-08-29 22:24:09 | 言葉とイメージ
 似顔絵を描くときは、描こうとする顔と平均顔と比べて、特徴的な部分を誇張するとうまく描けるるといわれています。
 平均顔から遠ざかっているように描いたほうが似ている感じがするというのです。
 ところが、平均顔というのは魅力的で好まれるという調査データがあり、多くの顔の平均であればあるほど魅力的だといいます。
 そうすると、せっかく本物に似た顔を描いたと思ったら、平均顔から遠ざかっているために、魅力的な顔から遠ざかった顔となってしまったということになりかねません。
 似顔絵を描いてもらった人からすれば、似てなくても魅力的な顔に描いてもらったほうがよいということにもなりかねません。
 だからといって、魅力的ではあるがあまり似てない顔を描けば、追従的になってしまうので、似ているようで似てない微妙なバランスで描くことになるのでしょうか。
 
 上の図でAはAグループの平均顔、BはBグループの平均顔ですが、Cは両グループ全体の平均顔です。
 Cは全体の平均顔ですから全体のどの顔ともある程度似ています。
 他の個々の顔よりも魅力的なので、全体を代表する典型的な顔だということも出来ます。
 ところがAグループだけをとってみると、CよりもAのほうが個々の顔に似ていますし、Aグループ全体を代表しているように見えます。
 同じように、Bグループについては、BのほうがCよりもBグループを代表しているように見えます。
 ということで、全体を何らかの基準で分類すれば、その平均は全体の平均よりもその分類のメンバーの代表として適切なのです。
 
 たとえばAグループが美人グループ、Bグループがその他のグループであるとした場合、Aグループの平均顔のAはBグループの平均顔のBよりも美人で、全体の平均顔のCよりも美人グループの代表として適切なので、Cよりも美人だということになります。
 多くの顔の平均のほうが少ない顔の平均より魅力的であるという説はここでは覆されるのです。
 平均顔が一番魅力的だといっても、魅力的なグループの典型にはやはり負けてしまうのです。
 人間はチンパンジーなどと違って、適切な分類を行ってその典型イメージを作るという能力を持っているのです。
 
 そうするとお客にも喜ばれる似顔絵画家というのは、漠然とした平均顔を土台にしてそこからのずれを特徴化して描くのではなく、まず土台の平均顔というのを魅力的な顔の平均から借用して、その上で描く顔の特徴を描き込むということになるのでしょう。
 絵の巧みな人はいろんなグループの平均顔というのをイメージとして持っていて、それを土台に個人の特徴を加えるという能力を持っているということです。
 銀行員なら銀行員の典型顔、力士なら力士の典型顔というイメージなど、さまざまな典型のイメージを持っていて、相手によって使い分けるという能力があるのがプロなのです。

チンパンジーは文字の統合ができない

2006-08-28 23:00:48 | 文字を読む

 日本語のカナは、頭から文字を一つづつ読んでいけばとりあえず読むことは出来ます。
 文字を覚えたての子供も、カナで書いてあれば意味が分からなくてもともかく読むことは出来ます。
 そこで一つ一つの文字を音声に置き換えれば、文章を機械で音声化できるだろうと考えられたことがありました。
 漢字のせいで日本語はコンピューターとは折り合いが悪いと思われていたのが、文章の音声化は英語などよりずっと早く実現しそうだと思われたのです。
 じっさいは、文字をただ音声にすればよいということはなく、文字を結びつけて単語に置き換え、単語を結び付けて文にまとめ、文の意味からアクセントをきめたりしなければならないので、コンピューターで自動的に出来るものではないのです。

 チンパンジーに言葉を教えようとしてうまくいかなかったのは、チンパンジーが人間の様な声帯を持たないためだというのが一般的な説です。
 しかし、人間は声が出せない人でも言葉を覚えることが出来るのですから、声帯だけが原因であるとはいえません。
 もし、チンパンジーが文字を組み合わせれば単語になり、その単語を組み合わせて文をつくるといったことが出来るなら、声が出せなくても文字を覚えることで言葉を使えるようになったのではないでしょうか。
 英語の場合はスペリングと音声が直接対応しないので、文字の組み合わせによる単語の表現をチンパンジーに覚えさせる気も起きなかったでしょうが、日本語の場合カナを覚えさせようとしなかったのは不思議といえば不思議です。
 コンピューターに音声化をさせようと考えたのであれば、チンパンジーにカナを覚えさせようと考えてもよかったはずです。
 
 文字を組み合わせて単語として理解したり、単語を組み合わせて文として理解するといった統合作用は、人間しか今のところは出来ないようです。
 文字のまとまりを一つのものとしてとらえ、さらに単語のまとまりを文としてとらえるといったことが文章を読む上で必要な基礎的能力なのです。
 こうした能力を発揮するには、文字を一つづつ見ていってはダメで、文字のかたまりを読みに先立って見通すことが出来なければなりません。
 日本語の場合は漢字が混ざることによって、単語のまとまりや、意味表示が助けられているので視野が広がれば読みがうまくいきます。
 あとは単語を自動的に素早く理解することが、文のスムーズな理解につながるので、文章を読む上で、単語の自動認識能力が基礎として重要です。
 


あいまいな言葉

2006-08-27 23:01:29 | 言葉とイメージ

 図はReedという心理学者が顔の典型イメージが作る実験に使用したものです。
 下の二つの顔は、それぞれ上のA,B両グループの顔を基にして典型としてつくられたものです。
 顔の長さから、額の広さとか、目の間の距離、鼻の長さ、口の大きさなどをそれぞれのグループについて平均を計算して作り上げたものです。
 そうしたことを知らないで、下の顔を見せられた場合、それぞれがどちらのグループに属するかを聞かれて、90%以上はAがAグループ、BがBグループと答えるそうです。
 人間は同じ種類に属するものを多く見ていると、経験からその平均的イメージを作り上げそのグループの典型と考えるというのです。
 日本人なら日本人らしい顔とか、イギリス人ならイギリス人らしい顔とかいった典型イメージを経験によって持っているということになります。
 
 もちろんこれは仮説で、見た経験から平均的なイメージを作り出しているということを実際に証明できるわけではないので、直感的に納得しやすい説明に、模擬実験を加えたにすぎません。
 この実験は同じものを見せて経験を同じにすることでイメージを共通にしようとしています。
 経験から平均イメージが作られるというのであれば、個人ごとに経験の幅や種類が違うので日本人のイメージといっても、ひとによって描くイメージは違うということになります。
 じっさい、「犬」という動物のイメージにしても、座敷犬を飼っているような人が持つイメージと、猟犬を飼っている人が持つイメージでは隔たりがありますから、なかなか話が合わないかもしれません。
 そうなると「犬」という言葉にしても人によって持つイメージが異なってきますから、かなり多義的というかあいまいなものだと考えられます。

 以前、NHKの「ためしてガッテン」という番組では、私たちの脳は数千人分の顔を見た経験からその顔を平均化して、その平均顔のイメージを基準として持っているとしています。
 似顔絵はこの平均顔からの違いを強調すれば特長がハッキリしてくるので、描かれた顔は似て見えるというのです。
 平均顔とはどんな顔なのかは示されなかったのですが、説明を聞けばなるほどと思った人が多かったかもしれません。
 老若男女、地方別などを無視して平均顔というものがあるのかどうか分かりませんが、人によって経験が違うので、イメージとしての平均顔もかなり違うでしょう。
 そうすると、平均顔と違うといっても人によって平均顔の基準が違ってくるので、ある人はにていると思った似顔絵でも、別の人は似ていないと思うかもしれません。

 平均顔というのはどんなものかは、コンピューターで作られたような感じがありますが、実際は経験したものに対して、どこかしら似たような感じを持つイメージなのではないでしょうか。
 平均顔というものがあるとすれば、どの顔に対しても似た部分を持つということです。
 どんな顔でも平均顔と似た部分はあるのでしょうから、平均顔に近づきすぎると他のいろんな顔に似てしまうので、違いを際立たせなければ見分けがつかなくなるのです。
 言葉も言葉の示すものの平均のようなものだとすれば、意味はあいまいなので、具体的なものを表現するときは違いを際立たせる表現をしなければならないということになります。
 
 


文字の配列イメージ

2006-08-26 23:53:34 | 文字を読む

 カナは音節文字なので、文字と音声がほぼ対応しています。
 したがって単語を構成する文字をばらばらにおいても、一つ一つの音声を組み合わせて元がどんな順序だったか検討をつけるのが楽です。
 図の例で言えば「わやまか、わかまや、わかやま、やわまか、やまわか、やまかわ」などと試行錯誤して「わかやま」か「やまかわ」だなと推理できます。
 文字を見ながら一つづつ音声化できるので、単語を構成している音説の順序を口の中で変えてみてみて、聞き覚えのあるものと一致するまで試行すればよいのです。
 文字を並べ替えた状態を視覚的にイメージするというやり方は、文字を見ながらやろうとしても難しいし、目を閉じて文字を並べ替えるのも困難です。
 「とるふさ」を視覚イメージの並べ替えで「ふるさと」に変更するのはなかなか難しいですが、音声化して並べ替えるのは楽です。

 英語の場合はアルファベットは音声を表現しているといっても、文字と音素が1対1で対応しているわけではありません。
 したがって単語の文字配列の順序を変えると元の配列の順序を推測するのはとても困難です。
 文字の並べ替えを視覚的イメージでやるのは結構難しいので、音声を使ってやろうとするとこれがかなの場合よりも難しいのです。
 最初の例では母音は「i]と「o」ですがそれぞれ発音の仕方はひと通りではないので、試行錯誤をするにも場合の数が多く、かなの場合より複雑です。
 文字を一つづつ発音してその音を並べ替えるということが出来ないのでカナに比べると音声化が難しいのです。

 漢字の場合も偏と旁をばらばらにしてしまうと、それぞれを音声化して、音声の並べ替えで元の単語が復元できるわけではありません。
 最初の例では各部分の読みは「けい、おう、し、り」となるのですが元の単語が一文字なのか、二文字なのかあるいは三文字、四文字なのか分からないので難しいのです。
 漢字や英語の単語はカナに比べると全体の視覚イメージで記憶されていて、要素をばらばらにすると元の単語を復元しにくいのです。
 逆に言うと視覚イメージとして記憶しやすいということで、音読せずに読むことが可能になっているのです。
 


文字の配列イメージ

2006-08-26 23:53:28 | 文字を読む

 カナは音節文字なので、文字と音声がほぼ対応しています。
 したがって単語を構成する文字をばらばらにおいても、一つ一つの音声を組み合わせて元がどんな順序だったか検討をつけるのが楽です。
 図の例で言えば「わやまか、わかまや、わかやま、やわまか、やまわか、やまかわ」などと試行錯誤して「わかやま」か「やまかわ」だなと推理できます。
 文字を見ながら一つづつ音声化できるので、単語を構成している音説の順序を口の中で変えてみてみて、聞き覚えのあるものと一致するまで試行すればよいのです。
 文字を並べ替えた状態を視覚的にイメージするというやり方は、文字を見ながらやろうとしても難しいし、目を閉じて文字を並べ替えるのも困難です。
 「とるふさ」を視覚イメージの並べ替えで「ふるさと」に変更するのはなかなか難しいですが、音声化して並べ替えるのは楽です。

 英語の場合はアルファベットは音声を表現しているといっても、文字と音素が1対1で対応しているわけではありません。
 したがって単語の文字配列の順序を変えると元の配列の順序を推測するのはとても困難です。
 文字の並べ替えを視覚的イメージでやるのは結構難しいので、音声を使ってやろうとするとこれがかなの場合よりも難しいのです。
 最初の例では母音は「i]と「o」ですがそれぞれ発音の仕方はひと通りではないので、試行錯誤をするにも場合の数が多く、かなの場合より複雑です。
 文字を一つづつ発音してその音を並べ替えるということが出来ないのでカナに比べると音声化が難しいのです。

 漢字の場合も偏と旁をばらばらにしてしまうと、それぞれを音声化して、音声の並べ替えで元の単語が復元できるわけではありません。
 最初の例では各部分の読みは「けい、おう、し、り」となるのですが元の単語が一文字なのか、二文字なのかあるいは三文字、四文字なのか分からないので難しいのです。
 漢字や英語の単語はカナに比べると全体の視覚イメージで記憶されていて、要素をばらばらにすると元の単語を復元しにくいのです。
 逆に言うと視覚イメージとして記憶しやすいということで、音読せずに読むことが可能になっているのです。
 


音読しないで意味が分かる

2006-08-25 22:37:41 | 文字を読む

 脳の障害で文字が読めなくなる失読症というのがありますが、ひらがなが読めなくなるのに漢字がある程度読めるという症状もあるそうです。
 むかしは言語処理は左脳の役割と思われていたので、漢字が象形文字だという先入観もあって漢字は右脳で読んでいると考えられたようです。
 右脳で漢字を読むかどうかは別として、カナが読めなくなるのに漢字が読めるというのはカナを処理する場所あるいは機能と漢字を処理する場所が違うことはたしかです。
 カナが読めないのに漢字が読める場合があるからといっても、すべての人がカナと漢字を別の場所で処理しているとは限りません。
 
 まず、この手の失読症の人が漢字が読めるといっても、どんな漢字でも読めるわけではないようです。
 読めるといっても熟知性のある漢字で、しかもすべて正確に読めるというわけではないようです。
 図の例のように「果物」というのを「ヤサイ」と読んでしまったりするのは、ボンヤリ意味が分かっているがハッキリしないので近い意味の単語を言っています。
 読むというより意味を言おうとして不正確な答えをいっているわけです。
 「岡山」を「コウベではなし、オオサカではなし、、」というのは、関西の都市名だと分かっているが名前が思い出せない」ということで、イメージ的にはつかんでいても名前が出てこないという状態です。
 正解は「クダモノ」ダトカ、「オカヤマ」だといわれれば、「ああそうか」ということになるのでしょうが、文字のイメージが音声と結びついていないのです。

 単語の文字イメージと、音声が分離しているということは欧米でもあるそうで、図のようにdogという文字を見て「ホース(馬)」と答えたり、carという単語を見て「ロコモティヴ(機関車)」と答えたりした患者があるそうです。
 動物であるとか乗り物であるとか、似たような意味のものをいうのは、漢字のケースと同類で、単語についてのイメージがある程度の残っていても正確ではないという例です。
 英米人であっても単語の文字イメージが意味と結びついている場合があるということです。
 アルファベットは音声を表現するものだとされていますが、アルファベットを組み合わせた単語はひとまとまりのものとして記憶されて、そのとき意味とも結びついているのです。
 
 英語の速読法でも文字を一つづつ見るのでなく、かたまりとして見て音読せずに読むようにすることが必要としています。
 速読でなくても、読みが熟達してくると音読をせず、単語を見ただけで意味が分かるようになるのですから、音読しないで意味が分かるのは漢字だけではないのです。
 漢字化アルファベットかという問題ではなく、読み手が音読をしないで意味が分かるようになっているかどうかが問題なのです。
 文字イメージと意味との結びつきもひとによって差があるでしょうし、正確で強い結びつきを確立していれば読解力も優れているということになるのでしょう。


準周辺視野が読めるようにする

2006-08-24 22:58:27 | 文字を読む

 A図では縦の線は、すべて垂直なのですが少し斜めに見えます。
 ここで上の文字を見て読むと、下の文字も同時に見えていますが、下の字のほうに視線を向けないでは、ハッキリと文字を見分けることは出来ないでしょう。
 下の字は文字が少し大きいので、上の字に視線を向けたままでも何とか読めそうな感じがしますから、そのまま視線を動かさずに下の字を読もうとしてみてください。
 そうすると、文字はハッキリと読めなくても、図形の縦の線がすべて垂直に見えるようになります。
 縦の線が斜めに見えるのは視線を動かして見ていたからだと考えられます。
 逆に下の文字のほうに視線を向け、そのまま視線を動かさずに上の文字を読もうとしても、上の字が小さい上に漢字が多いのでまったく読めそうな感じがしないでしょう。
 そうすると、つい目を動かしてしまったりするのでなかなか縦の線は垂直には見えないかもしれません。
 上の文字を見ながら下の文字を見ようとしたときは何とか読めそうに感じるので、視線を固定したまま見ることが出来るので、そのとき縦の線が垂直に見えるのです。

 パッと見たときは上の文字も下の文字もハッキリ見えているような感じがしますが、上の字を読もうとして注意を向けると、下の字はそれほどハッキリは見えていないことが分かります。
 上の字を見ているとき下の字は周辺視野にあるわけですが、全体を眺めたときに感じたほどにはハッキリ見えません。
 ここで、視線を図の真ん中より少し上のあたりに向け、上下の文字を同時に見ようとします。
 この場合眼を凝らして見ようとすると、上の字も下の字も読めなくなってしまうので、、眼の力を抜いて楽に見るようにします。
 そうすると上の字も下の字も、中心視野に近い準中心視野で見ることになります。
 このとき文字は少しぼやけては見えますが、かな文字ぐらいは読めます。
 このときも縦線は垂直に見えますから、視線を動かしているかどうかは、縦線が垂直に見えるかどうかで分かります。

 B図は横にした場合ですが、横の場合は目が横に二つ並んでいる関係で視野が広く、縦の場合よりも、両サイドの文字を同時に見るのが楽です。
 ところが両方の目の視線を同じところに集中しないで見てしまうので、横線は斜めに見えます。
 ここで右の目が右の字に視線を向けるのでなく、左の文字に視線を向けた状態で、右の文字を読もうとします(両方の目が左の文字を見ている)。
 そうすると横の線は水平に見えるようになります。
 また左の目で右の文字に視線を向け同時に左の文字を見ようとした場合も横線が水平に見えます。
 図の中ほどに両方の目の視線を向け、目の力を抜いて同時に両側の文字を見ると、文字が分かるだけでなく、横線が水平に見えます。
 準中心視野の文字が認識できるのですが、このときの目の状態がある程度視野が広がり、字を読むとき目が疲れない状態です。


自動化された読み

2006-08-23 22:57:15 | 言葉と文字

 ストループテストというのは、色のついた文字を見て、文字の色を答えるというもので、素早く答えるように要求されると、引っかかったり、うっかり文字を読んでしまったりします。
 文字の色と文字の意味とが一致すればよいのですが、一致しない場合文字の意味にひきずられてしまうためです。
 文字の色を答えるように要求されているのに、なぜ文字の意味のほうに引きずられてしまうのでしょうか。
 文字を見たとき文字の色は感じ取られているのですから、そのまま色の名前を言えば間違えることはないはずです。
 ところが文字を見たとき、文字を読める人は自動的に読みをスタートさせていて、文字の色を答える前に読みを音声化してしまうのです。
 
 もし文字の色を声を出して言うのではなく、図のように並んだ色を指差してこたえるとか、番号で答えるようにしたらどうでしょう(あるいは目でみる)。
 「ちゃ」と「あか」は紛らわしいですが、色を声に出すより間違えにくいのではないでしょうか。
 たとえば緑色で「あお」と書いてあるのを見て、青い四角を指差すのではなく緑の四角を指差すでしょう。
 最初に少し間違ったとしてもすぐになれて、瞬間的に同じ色の四角を指すことが出来るようになるはずです。
 
 理由は二通り考えられます。
 一つは文字を見ても読まないで、瞬間的に上の四角の色のほうを見るようにすれば、文字と同じ色の四角が分かるのでそれを指差せばよいからです。
 もう一つは、「あお」と心の中で文字を読んでしまっても、答えは指差すことになっているので四角を探すときに色を見比べるからです。
 文字の色を見てそれを音声に変換するのではなく、同じ色を指差すので間違えにくいということです。
 文字の色を見て音声に変換するのは、文字を読むという作業より遅いので、読みの作業結果がポロリと先に出たりするのです。

 図の下にある文字、たとえば「視」という文字を見ながら「シ」と読む文字を出来るだけ多く思い浮かべようとします。
 目を閉じてなら多く思い浮かべられるのに。文字を見ながら思い浮かべようとすると少ししか出てこないと思います。
 「視」という文字を見て、「シ」と読んでしまうので他の字を思い浮かべるのが難しくなるのです。
 「カク」と読む「覚」という字を見ながら他の「カク」という字を思い浮かべるのは、他の文字を見ながらより難しいのは、「覚」を自動的に読んでしまうからです。
  しかし、文字を見ると自動的に読んでしまうというのは、文字を読みなれた結果身についた反応で、そのこと自体はけっしてマイナスではありません。
 簡単な文字を見るごとに読むべきかどうかと判断を留保していては、文字を読む能率は極端に落ちてしまうからです。