60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

漢字の字源と字形

2008-10-30 23:24:03 | 言葉と文字

  漢字を新字体にしたため語源がわからなくなってしまっているという批判があります。
 たとえば「臭」という字は、「自」は鼻をあらわしていて、その下の「大」は、もとは「犬」という字で、「犬がよく鼻で臭いをかぐ」ということでできたものなので、これを「大」にしたのでは意味がわからなくなってしまうといいます。
 しかし、日本語の「ニオイ」とか「カグ」という言葉には、「鼻」とか「犬」という意味は含まれていないので、日本人にとっては「臭」という漢字に「鼻」や「犬」が含まれていなくても困りません。
 「自」が鼻をあらわしているというなら、「自」と「大」で、「鼻を大きくして臭いをかぐ」というふうに説明を作ってもそれなりに、説得力があり記憶もしやすいといえます。
 
 「突然」の「突」も、元の字は、上が「穴」で。下が「犬」であって、「犬が穴から突然とび出す」ということからできたもので、「犬」を「大」に変えてはいけないといいます。
 点をひとつ少なくしただけで字形を崩してしまうのは、乱暴といえば乱暴ですが、漢字を知らないヒトが覚える場合は、さして不都合ではありません。
 日本語でも英語でも「いきなり」「だしぬけ」という言葉に、「穴」とか「犬」というイメージが連想されると言うわけではありません。
 単に字を覚えやすく説明しようというなら、「突然、穴が大きくあいた」という風に覚えてもよいので、「犬」が「大」に変わっても困りません。
 また「体」という字は、元の漢字は「體」で、「骨がつらなる」ということからできたというのですが、俗字と言われる「体」という字なら、「ヒトのモトが体である」とでもいえば、この字のほうがわかりやすく覚えやすいので便利です。

 日本人が創った「躾」「働」「辻」といったような字は、元の字がないので、本来なら嘘字ということになるのですが、日本では定着していて日本人には違和感がありません。
 「体の動き(作法)をよくする」ので「躾」、ハタラキは「人が動く」、道が十字型に交差している「辻」という具合に、「判じ物」的に作られているものが多いので、なにかテキトーな感じがします。
 中国の漢字にしても、字源を見るとテキトーなものが多く、時代とともに変化しているものもありますから、なにがなんでも古い字体を正統としてこだわり続ける必要はありません。
 旧字体で育った人は、それになじんでいるので、新字体を見ると見苦しく感じられるのでしょうが、新字体になってから覚えた人にとっては、新字体が当たり前で不都合には感じないのです。
 

 
 


ローマ字読みと読みの速さ

2008-10-28 23:54:05 | 言葉と文字

 図の左側は英語、右側がイタリア語ですが、イタリア語は日本人のローマ字読みにちかいものです。
 アルファベットは表音文字といわれますが、同じようにアルファベットを使っていても、綴りと読みの関係がほぼ規則的なものとソウでないものがあり、英語に比べるとイタリア語のほうが表音的です。
 そのせいか、音読をするときはイタリア人のほうがイギリス人よりはるかにスピードが速いという研究があります。
 イタリア人のほうがイギリス人より音読スピードが速いのが、文字綴りのせいかどうかは、しゃべっているときのスピード自体がイタリア人のほうが速いようなので、なんとも言えませんが、綴りと発音の対応が規則的なほうが音読しやすいのは確かです。
 
 ところが音読でなくて、黙読のほうはどうかというと、速読術のようなものができたのはアメリカが最初で、流行しているのもアメリカガ一番です。
 音読というのは文字を音声に変換する作業ですが、黙読は文字綴りを音声に変換する必要がなく、むしろ音声に変換しないですめばその方が能率的です、
 速読といえば、日本語のほうが英語よりしやすいと考えられ、その理由は漢字が表意文字だからという説明がされますが、速読術の発祥がアメリカであることから考えれば、そうした説明は思いつきに過ぎないことがわかります。
 日本人が読んだ場合は、英語よりも日本語がはるかに速く読めるのは当然で、漢字が表音文字だからだというためなのかどうかわかりません。

 英語の綴りは、表音文字とはいいながら非常に不規則で、英語圏の人にとっても難しく厄介で、失読症の人の割合もイタリアなどに比べると、その割合がかなり多いそうです。
 日本の場合はカナと漢字を使っていて、カナを覚えるのは楽ですが、漢字を覚えるのは楽ではありません。
 カナを覚えれば、漢字にふり仮名という手段もあって、意味がわからなくてもとにかく音読することはできます。
 そのため。日本は文盲率が非常に低いといわれるのですが、漢字を理解している度合いをも考えると、とくに識字率が高いといえるかどうか疑問です。

 日本語は漢字かな混じり文となっていて、カナだけでは非常に読みにくく、漢字が加わることで読みやすくなっているのですが、漢字を覚えるのは記憶に負担がかかり、長年の学習によっても読み間違いが多いという原因となっています。
 「漢字の読み方」のような本がいくつもあるというのは、日本人にとっても漢字の習得が容易でないことを示しています。
 漢字が読みにくいというのは漢字文化圏でも日本特有の現象ですが、これは訓読をしていることだけでなく、音読みも呉音、漢音、唐音、現代音などいくつもの読み方をのこしたままになっていて、さらに当て読みも加わって、混乱しています。

 英語も日本語も文字が読みにくいというのは、古い時代には文化的後進国だったために、外国語を大幅に取り入れざるを得なかったためです。
 文字と発音の関係が複雑で、混乱しているのですが、そのためかえって、どのように読むのかわからなくても意味がわかればよいという、黙読が発達する原因となったのかもしれないのです。


旧仮名遣いの振り仮名

2008-10-23 23:54:13 | 言葉と文字

 戦前の本にはふり仮名を振ったものが多く、難しい漢字を使っていて、意味がわからなくても読むことだけはできたといいます。
 ふり仮名があるため読み方を自然に覚えたというのですが、ふり仮名はもちろん、旧仮名遣いで、発音を表しているわけではありません。
 たとえば「六法」という単語なら「ろくはふ」あるいは「ろくぱふ」で、実際の読みの「ロッポウ」とはかなり違います。
 「ロくホウ」と読む場合も表記は「ろくはふ」ですから、「ろくはふ」とふり仮名があっても「ロクホウ」と読むのか「ろっぽう」と読むのかわかりません。
 辞書では「ロッポウ」と読ませる場合は「ろくぱふ」とするのですが、むかしは半濁点というものはなかったので、いわゆる歴史的仮名遣い的に表すなら「ろくはふ」です。
 「ハッピ」の場合は辞書を引くと、「はふひ(法被)」または「はんぴ(半被)」のとして、「はふぴ」という表記はありません。
 半濁音はつけてしまうという原則があるわけではないようです。

 「ロッポウ」を「ろくはふ」としたり「ろくぱふ」としたりする一方、「左右」ナドハ「サウ」とも「ソウ」とも読むのに、旧仮名遣いでは「さう」と書くのでどちらの読みかわかりません。
 これは「若人」を「ワコウド」とも「ワカウド」とも読むのに、旧仮名遣いでは「わかうど」という表記で、どちらにも読めます。
 発音が変化しても、元の発音も残っているとき表記を元のままにしようとすると、どちらの発音を示しているのかわからなくなるのです。
 「酔う」という単語も、辞書を引くと旧仮名遣いでは「よふ」ですが、「酔ふ」とかいてあるときは「えふ」で読みは「エウ」となっていて「酔(よ)う」の古語だとしていてわかりにくくなっています。
 現代でも「酔い狂う」を「エイクルウ」とも「ヨイクルウ」ともいうので、「エウ」という語が「ヨウ」と変化したのに、変化前のものが残ってしまっているのです。
 
 「六甲山」を旧仮名遣いでは「ろっかふさん」とせず「ろくかふさん」としている」と一方で、「八甲田山」は「はちかふださん」とせずに「はっかふださん」としています。
 「八」には「ハチ」という読みと「ハツ」があるのに「六」には「ロク」という読みはあっても「ろつ」という読みはないためのようです。
 ところが「石鹸」の場合は「セキケン」ですが、「切手」は旧仮名遣いでも「キツテ」デあって「キリテ」ではありません。
 音読のときは一つ一つの漢字の読みどおりにして、「切手」のように訓読の場合は「キッテ」という全体の読みにしたがっています。
 「刺客」はふつう「シカク」と読みますが、「セッカク」とも読みます。
 「セッカク」と読ませる場合は、旧仮名遣いでは「セキカク」と表記するのですが、これは「刺」が「セキ」とも読むためです。
 そこで「天皇」のように誰でも「テンノウ」と迷わず読んでいるため、かながきでも「てんのう」ではないかとつい思うのですが、旧仮名遣いでは「てんわう」です。
 「天」「皇」をひとつづつ音読すると「テン」「コウ(オウ)」ですが、旧仮名遣いでは「クワウ」あるいは「ワウ」ですから、「テンワウ」としているのです。

 こういう具合ですから、旧仮名遣いは、単語の現代の発音をあらわしているのではなく、ムカシの発音を表しています。
 したがって、現代の発音とはかなりずれがある場合があるわけで、極端に言えば旧仮名遣いでふり仮名をしてあっても、これにさらに読み仮名を振らねばならないばあいがあるとさえいえます。
「テンワウ」を「てんのう」と読めるためには、個々のカナの読み方を知っているだけではだめで、「テンノウ」という読み方と「天皇」という言葉を知らなくてはならないのです。
 旧仮名遣いというのは、文字知識が豊富な人のためのものであって、子供や外国人のように、日本語をこれから覚えようとする人にとってはムズカシク、使いにくいものなのです。


「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」

2008-10-22 00:09:01 | 言葉と文字

 稲妻に振り仮名をする場合、現代仮名遣いでは「いなずま」ですが、旧仮名遣いでは「いなづま」です。
 妻は「つま」なので、濁音にしたら「ずま」ではなくて「づま」にすべきだと旧仮名遣い支持者は言うのですが、もっともな意見だと思うでしょう。
 東の場合も、語源的には吾妻なので、「あずま」ではなく「あづま」とすべきだということになります。
 これらの場合は「つま」の濁音だから「づま」なのだということで、至極当然のようにかんじますが、「つ」の濁音を「づ」とすることには問題があります。
 日本語の「たちつてと」は「た て と」は「ta te to」で舌が上歯につきますが、「ち つ」は「chi tsu」でつかないので、同じ系統の音ではありません。
 「ta te to」が「da de do」に対応するとすれば、「ti tu」に対応するのが「di du」ですが、これらの音は今の日本語にはないことになっています。
 したがって「ち つ」の濁音を「ぢ づ」であらわしたとしても、「た」行の濁音の仲間というわけではありません。

 大豆のカナ表記は現代仮名遣いでは「だいず」としていますが、旧仮名遣いでは「だいづ」です。
 これは「豆」が「豆腐」のように漢音では「とうふ」と読むので「豆」の部分は「た」行の発音だと考え、「だいづ」としているのです。
 頭脳や図形も旧仮名遣いでは「づ」としているのは、呉音が「図書(としょ)、頭部(とうぶ)」のように「た」行の発音なので、「ず」でなく「づ」としているのです。
 旧仮名遣いに慣れている人なら、図形のふりがなに「ずけい」、頭脳のふり仮名に「ずのう」とあれば抵抗があるかもしれませんが、普通の人は見過ごしてしまうだけでなく「づけい」「づのう」とあると抵抗を感じる人もいます。
 頭脳や図形はまだしも重大とか定規を「ぢゅうだい」「ぢょうぎ(ぢゃうぎ)」とふり仮名をすれば抵抗を感じる人のほうが多いのではないでしょうか。

 日本語の「し」は「さしすせそ」と「さ」行の中に入れていますが、発音は「si」でなく「shi」で、「じ」は「si」に対応する「zi」ではありません。
 「じ ぢ」「ず づ」は「かきくけこ kakikukeko」が「がぎぐげご gagigugego」二対応するように整然としていないので紛らわしくなっています。
 旧仮名遣いの方式が論理的なように見えていながら、実用的には新仮名遣いが定着してしまっているのは、本当に論理的であるわけではないからと、これらの例では漢字で表記されているので、カナ表記が隠れてしまっているためでもあります。
 漢字が意味の部分をあらわしているので、ふり仮名をしても、ふり仮名は発音をあらわせばよいのでそれ以上の機能を必要としないためです。
 大部分の人にとっては見慣れた新仮名遣いのほうが抵抗がなく、旧仮名遣いのほうは読みにくく感じるのです。
 
 「寺」は「ぢ」でなく「じ」と旧仮名遣いでは表示しますが、それでは「持参」はどう表示するかというと「ぢさん」と旧仮名遣いでは表示されます。
 音を表す部分が「寺」だから「じ」と表記するとは限らず、「ぢ」と表記しているのですが、「侍従」の場合なら「じじゅう」と「じ」です。
 このように文字面からかな表記を決めようとしても、うまくいかない例もあるのですが、濁点の問題は厄介です。
 むかしは濁点とか半濁点がなかったので、もっと紛らわしかった可能性があります。
 たとえば「頭巾」は本来なら「つきん」とすべきだったのでしょうが「すきん」と書いている例があるように、ハッキリした規範の意識はなかったのです。


話し言葉と書き言葉

2008-10-18 23:13:24 | 言葉と文字

 話し言葉と書き言葉といえば、口語体と文語体を思い浮かべますが、日本語の場合は単語レベルでの違いがあります。
 日本語は、言語体系の違う中国から漢字という表意文字を輸入したので、話し言葉とは別次元の言葉が沢山あります。
 新しい言葉を作るとき、たとえば日本語で遠くを見る道具を「とおめがね」とするところを、漢字では「望遠鏡」という具合に、漢字を組み合わせて作り上げています。
 「ぼう」とか「えん」「きょう」は漢字の読みで、それぞれは日本語の話し言葉ではありません。
 「望遠鏡」という言葉が作られれば、これは文字言葉ですから、「ぼうえんきょう」と読んでも、「とおめがね」と読んでもよく、音声言葉としては不安定です。
 話し言葉とは関係なく、漢字を組み合わせて新しく言葉を作れるので、たくさんの同音異義語のような、話し言葉では考えられないような現象が起きています。
 たとえば「こうせい」と読む単語は、構成、校正、公正、攻勢、厚生、後世その他で、広辞苑でみても30種類ほどあります。

 「こうせい」という単語を音声で聞いてもどんな意味かわからないのですが、漢字を見ればわかるのは、話し言葉と関係なく、意味から考えて、漢字の組み合わせで言葉を作ったからです。
 「日本語は言葉を聴いて漢字を思い浮かべるようになっている」というようなことがいわれるのですが、もともと日本語がそうだということではなく、文字の組み合わせで単語を大量に作ったからです(特に明治以後)。
 当然、文字の組み合わせでできた言葉なので、聞いただけでは意味がわからなかったり、同音語が多くて紛らわしかったりします。
 たとえば「しりつ」という言葉は、昔はなかった言葉なので、意味を伝えようとすれば「私立」を「わたくしりつ」というように言い直したりするのです。
 漢字の知識を多く持っている人は、「幹事」を「みきかんじ」、「監事」を「さらかんじ」などと言い分けて、漢字を思い出させれば意味が通ずるなどといいます。
 漢字知識があまりなければ、「みきかんじ」「さらかんじ」などといわれても何のことやらわかりませんから、漢字の組み合わせによる造語は話し言葉とは遊離しているものなのだということがわかりますの。

 話し言葉とは関係なく、漢字の組み合わせで言葉が作られれば、単語の読み間違いが当然多くなります。
 「消耗」の読みは「しょうもう」でなく「しょうこう」が正しいといっても、「こう」は話し言葉ではないので、「しょうもう」と読まれていいるのを聞いてもオカシイとは感じない人が多いのです。
 「言質」が」げんち」と読まなければなららいといっても、普通の人の感覚では「げんしつ」でどこが悪いのかわかりません。
 「相殺」を「そうさつ」と読めば百姓読みなどといって、軽蔑されたりしますが。「そうさつ」と読んでも文字は同じなので意味は通じているのです。
 漢字の読み自体は、中国から伝わってきたときの経路とか時代によって違い、しかも中国の原音でなく日本風になまったものですから、ドレを正当とすべきかわからないところがあります。

 それとは逆に、もともと日本語にある言葉を、なんでも漢字に直すようになると、別の言葉なのに漢字で意訳すると同じ感じになってしまうものも多くあります。
 たとえば「またたき」と「まばたき」は共通の意味もあるので、漢字で書くと「瞬き」となります。
 「またたき」は「まばたき」と共通の意味をもっているのですが、「星がまたたく」とは言っても「星がまばたく」とは言わないので、同じ言葉だというわけにはいきません。
 「数学の問題をとく」といっても「問題をほどく」とはいいませんが、漢字ではどちらも同じ「解く」です。
 「へそ」は漢字で書くと「臍」ですが「ほぞ」も「臍」です。
 「へそ」も「ほぞ」も元の意味は同じですが「臍を固める」は「ほぞをかためる」と読まないと意味がわかりません。
 漢字を当てればかえって紛らわしいこともあるのは、話し言葉に(文字と関係なくできた言葉)に無理に漢字を当てるからです。
 なんでも漢字で表そうとすると、極端な場合は、「目出度い」「出鱈目」のように漢字にすると意味がまったく不明になってしまう場合さえもあるのです。
 


語源の合理性

2008-10-11 23:35:27 | 言葉と文字

 「うどの大木」は、うどが大きくなってしまうと食用にならないで、茎は材木にするにはやわらかくて役に立たない→「体ばかり大きいが役に立たない」という意味だと説明されています。
 田井信行「日本語の語源」によると、こういう説明では納得できないとして、これは「うろの大木」が変化したものなのだとしています。
 樹木の空洞を「うろ」といい、これが発音強化されて「うど」になったというのです。
 そういわれてみれば、独活は多年草で樹木ではないので、2メートルぐらいまで成長するといっても大木というのは不適切な表現です。
 秋田の蕗なども成長すると2メートルぐらいになるそうですが、大木とはいわないようですから、独活の生長したものを大木とは表現しないでしょう。
 
 これは「ろ」という音が「ど」に変わったという説ですが、「ど」が「ろ」に変わるという例はあります。
 福岡市にある「かろのうろん」という、うどん屋の屋号は「角の饂飩」ということで、「かどのうどん」の「ど」が「ろ」にかわった例です。
 田井説が正しいかどうかはわかりませんが、木のうろを「うとー」と発音する地方もあるそうですから、「ろ」が「ど」に変わったという可能性があるかもしれません。
 実際はどうかは別として、説明としては一般に言われているものより、田井説のほうが合理性があります。

 それでは合理的であればそれが正しいのかといえば、必ずしもそうはいえません。
 たとえば「かたむく」という言葉の語源は「片+向く」だという風に辞書に載っていて、一見理にかなった説明のようですが、「かたむく」のもとの形は「かたぶく」ですから困ったことになります。
 「かた」はよいとしても「ぶく」は「向く」だとはいいがたいので、「ぶく」とはどんな意味なのかということが未解決になります。
 また「蝙蝠」は古語としては「かはほり」あるいは「かはぼり」ですが、田井説では「蚊+屠る(ほふる)」で、屠るは古くは「はふる」ですから、「蚊+はふる」が変化して「かはほり」となったとしています。
 蝙蝠は「蚊食い鳥」と呼ばれることもあるように、蚊を屠るという意味につながるので、「かはほり」と呼ばれたというわけです。
 別の説では蝙蝠は「かわもり」つまり川守とよばれたことから、「こうもり」と発音されるようになり、「かうもり」と表記されるようになったといいます。
 この説では「川守」の前が「かはほり」であったことが説明できないのですが、「かうもり」という旧仮名遣い表記から説明しようとしたのかもしれません。

 語源に注意が向くのは、聞いた語感と意味とにずれがあるからですが、ずれの原因は意味自体が変化する場合もありますが、発音の変化による場合がかなりあります。
 そこで発音が変化したからといって、文字表記を変えなければ元の意味が維持されるはずだという考えが生まれます。
 旧仮名遣いを維持したいと考える人は、発音が変化しても元の表記のままにすべきだというのですが、その元の表記自体が変化したものもあるので理屈どおりにはいきません。
 たとえば「幸い」は旧仮名遣いでは「さいはひ」ですが、もとは「さきはひ」ですから、文字表記を変えないというなら「さきはひ」と表記して「さいわい」と読ませるべきだということになります。
 「狭し」はもとは「せばし」ですから「せばし」と書いて「せまし」と読むということになります。
 扇は「あふぎ」がもとの表記だから、「おうぎ」と書かず、「あふぎ」と書くべきだというなら,蝙蝠も「かはほり」と書いて「こうもり」と読むべきだということになりかねません。
 言葉の意味や表記が語源からずれてしまっているからといって、元の意味や形を維持することには無理があるのです。


語源意識で混乱

2008-10-09 22:05:30 | 言葉と文字

「うなずく」の語源は「うなじ(項)+突く」で「うなじつく」が「うなづく」となったので、「うなずく」と書いたのでは語源がわからなくなるいう説があります。
 これは。新仮名遣いが「ち」「つ」の濁音が「し」「す」の濁音と発音が同じだからと、「ぢ」「づ」と書くべきところを「じ」「ず」と書いてしまうので不都合である、という例として挙げられる代表例です。
 「うなずく」は「うなじ突く」だから、「うなづく」と書かなければいけないと言われれば、なるほどそうかと、つい「うなづいて」しまいます。
 しかし、なんとなくヘンな感じがするのは、「うなじ」というのは首の後ろの部分ですから、「うなづく」というのは、図のように後ろから誰かが何かで突くということになります。

 ふつう「頷く」といえば、誰かほかの人のうなじを突くという意味ではありません。
 すくなくとも、頷く人が自分で首を縦に振ることで、後ろから突かれることではありません。
 普通の人は語源意識を持たないので、「うなずく」と書かれていれば、すぐに意味がわかるのですが、「項突く」あるいは「うな突く」などというのを見れば、一瞬戸惑うのではないでしょうか。
 語源は「うなじ突く」かもしれませんが、そのことを意識することが意味の理解を助けるとはいえません。
 
 同じように、「つまずく」も、語源は「つま(爪)突く」だから、「つまづく」と書くべきだといわれますが、これもいまでは紛らわしい表現です。
 「爪突く」という表現を見れば、手の指先で何かを突くように感じられ、足の指先というふうに感じないのではないでしょうか。
 「突き指」をするのも、足の場合もあるかもしれませんが、手のほうが一般的です。
 「足の先が何かに当たってバランスをくずす」という意味だとされれば、そういえばそういう風にも取れるという程度です。
 「つまずく」とかかれてあれば、足のことだと誰でもすぐにわかります。
 手の指で突くとか突き指をするなどと感じることはないでしょう。

 また「いなずま」にしても「稲のつま」だから、「いなづま」と書かなければ意味がわからないともよく言われます。
 稲の結実の時期にイナズマが多いので、「稲のつま(夫)」ということで「稲妻」という言葉ができたというのです。
 ところが漢字ではふつう「稲妻」と書いて「稲夫」とは書きません。
 結実する稲のほうが妻なら、イナズマのほうは夫でなければならないので、稲夫と書かなければ意味がおかしくなってしまいます。
 「稲のつま」だから「いなづま」だと聞けば、「夫」だと思わず「妻」と書いてしまうのは、意味を考えずに書いてしまっているのですから、この場合、語源意識は有効に働いていないのです。

 例は違いますが、「キサマ」という言葉を、語源は「貴様」だということわざわざ持ち出せば、それはそうかもしれないが何の冗談だと動機が疑われます。
 「キサマ」といわれれば、語源とは関係なく普通の人は腹を立てるので、「いや、そんなつもりはないんだ、語源的には」などといっても通用しません。
 日常使われる言葉は、聞けば意味が直ちにわかるので、語源などを持ち出すと意味がおかしくなりかえって混乱するものなのです。


表音文字と表語文字

2008-09-30 23:59:39 | 言葉と文字
 アルファベットは表音文字と言われますが、文字が音を表すために使われているという意味で、文字を組み合わせた綴りは単語をあらわしますから、表語文字でもあります。
 表音文字といっても、発音記号ではないので、単語の綴りの文字と発音が厳密に対応しているわけではありません。
 単に音と文字を対応させるということであれば、アルファベットでなくてもモールス信号でも、コンピューターのコードのように、0と1で表現してもよいのです。
 英語のはドイツ語などと比べて、文字綴りと発音が一致しないものが多く、読み方を覚えるのが難しいのに、読みやすくしようという流れにはなっていないようです。
 
 たとえばclimb(クライム),Wednesday(ウェンズデイ)などのb、dは黙字で発音されません。
 よく例に挙げられるknightは、もとはkが発音されていたのが、発音が変化しnightと同じ発音になったけれども、見て区別できるように、綴りはそのまま維持されたと説明されます。
 もちろん音声では同じですから、区別できないのですが、実用的に困るということはないようです。
 それなのに、文字表示されるときは区別しなければならないという説明は何かヘンです。
 区別したいならknightをniteとでもすればハッキリ区別できたのに、そうしなかったのは文字を読みなれている人には抵抗があったからでしょう。
 
 lightなどはドイツ語では「明るい」という意味ではlicht,軽いという意味ではleichと言葉が分かれたのですが、英語の場合はlihtenという形から発音も綴りも変化したのに、同音同綴りのままです。
 あとから、ビールなどの商品用にliteが軽いという意味で作られましたが、全面的にこちらに変わるということはなく、見慣れたlightのままです。
 綴りが音声を表現することを目標としているなら、わざわざ読みにくい綴りを維持することはないのにそうしないのは、目で単語として見ているからです。
 文字を読みなれてくれば、いちいち音声に直さないで、単語を瞬間的に識別するようになりますから、綴りは必ずしも発音に忠実である必要はなくなるのです。
 
 よく漢字は見れば読まなくても意味がすぐにわかるなどといわれますが、英語でも文字を読みなれている人は、読まなくても意味がすぐにわかります。
 速読法というのはアメリカで生まれたもので、たいてい基本のところで、単語は音読せずに見て意味がわかるように訓練することになっています。
 音読のクセをやめ目で見るだけで理解する訓練をするのですから、読まなくても意味がわかるというのは、なにも漢字に限ったことではないのです。
 英語のつづりも、表音的であると同時に表語文字としての役割を持っているのです。
 見てすぐ意味がわかるというためには、同じものを何度も見慣れることが必要ですから、たとえ表音的には不合理な綴りでも、見慣れたほうがわかりやすいということになり、変化に対してはどうしても保守的になるのです。
 
 なかにはdoubt(ダウト),receipt(レシート)のように、もとは発音に近い綴りであったのに、語源のラテン語とかギリシャ語の綴りを意識して、黙字を加えてしまい発音はそのままというものもあります。
 island(アイランド)などももとはilandであったのにislandとを加えて発音はそのままです。
 indict(インダイト;告訴する)は、もとはindite(詩文を書く)が起訴をする意味を持つようになってラテン語のindictareの綴りに近づけた(英単語を知るための辞典)ものだそうです。
 このような不自然な変化は、文字を扱う学者など少数の人が、語源を意識して読みにくい綴りにしてそれが文字綴りとして定着したのでしょう。
 これらの場合は表音よりも標語的機能が優先されてしまっているのです。

漢字の記憶術と字源

2008-09-27 23:55:28 | 言葉と文字

 漢字の大部分は形声文字といって、音声を表す部分と意味を表す部分で作られているというのですが、音声部分というのは中国語のものですから、現代日本人にはわかりにくいものがかなりあります。
 たとえば「視」の読みは「シ」ですが、音を表す部分が「見」だと思うと間違いで、「ネ」が音符で、「ネ」は実は「示」で「シ」と読むことになっています。
 似たような字で「規」のほうは、音符は「夫」でなく「見」で、「ケン」→「キ」と変化したということになっています。
 一貫性がなくわかりにくいものです。
 「示」という字は「ジ」とも読み、この方が普通で「暗示」「示談」「訓示」「示現流」などいずれも「ジ」と読みます。
 しかも「示」のつく字は「礼、宗、祈、神、祝、禅、禁、祭」など音符として「シ」と読ませるものはありませんから、「視」という字面から「シ」とよむのは困難です。
 「視」には異体字で「目」+「示」で「シ」読む字がありますが、「視」の字が変則的だからこのような字が作られたのでしょう。

 「耿」という字は「コウ」と読み、音符は「火」ですが、「カ」がなぜ「コウ」となるのかわからない上に、意味は「ひかり」で耳とどう関係するのか不審で、むしろ耳の部分が目であったほうがつながりやすいように思えます。
 「鼻」はもともと「自」が象形文字で「ハナ」を表していたというのですが、それなら「ビ」ではなく「ジ」と読みそうなものです。
 ところがこれは「鼻」の「自」の下の部分が音符で、これが「ビ」と発音するというのですから、ジ(はな)という単語が姿を変えた上に「ビ」という音声に変わったというかから厄介です。
 「汪」という字は日本では「オウ」と読みますが、中国で犬の鳴き声をあらわすときは「ワン」ですし、また「往」は普通なら「シュ」と読むのですが、もともとの字は主の部分が「王」だから「オウ」と読むそうです。
 
 このように形声文字の音符が漢字理解の助けにはならないので、もっぱら連想によって漢字を解釈しようとする人もいます。
 たとえば下村昇「みんなの漢字教室」には図の左側のように「迷」という字を説明しています。
 従来の説明では「米」と「しんにょう」で「しんにょう」歩く意味で、「米」は「米粒で小さく見えにくい」あるいは「暗くて見えにくい」という意味の「メイ」で、歩こうとして迷うという意味だとしています。
 ぎこちない説明なのですが、下村説では「米」をずばり「道路」に見立て、「道が四方八方に広がっているから、どっちに行けばよいのかわからないので「迷う」のだと説明しています。
 要するに漢字のいわゆる字源にこだわらず、見た目から直感的にわかりやすい説明をつければよいのだというのです。
 
 漢字の字源説というのは諸説あって、古い時代のことであるのと同時に中国人のものの捉え方が基礎になっているので、理解しにくく、またどれが正しいかもわかりません。
 それなら実際の字源説明でなく「なるほど」と思いやすい説明にすればよいというものです。
 ところが、こうした説明は思い付きが主体となっているので、ほかの人が見ると別な解釈が可能となって具合の悪い面があります。
 「米」の部分を道路に見立てるといっても、現実の道路は八叉路というのはめったになく、多くわかれても十字路がふつうです。
 十字路に「しんにょう」は「辻」という字で、この解釈法で行くと「辻」が「まよう」という意味の漢字になってしまいます。
 また「迷」を「道に迷う」という意味に結び付けすぎると「迷惑」という日常用語の意味はわからなくなって迷ってしまいます。
 字源解釈で漢字を記憶するのはよいのですが、ほどほどということもあるのです。
 


漢字の擬声語

2008-09-26 00:06:34 | 言葉と文字

 「牛」とか「犬」は象形文字ですが、「グ(ゴ)」とか「ケン」という音声は泣き声からとったものとされています。
 つまり古代の中国では、牛や犬は「グ(ゴ)}とか、「ケン」と言う声で鳴くからそのように名づけられたということです。
 ところが、この呼び名は牛の場合は「ギュウ」となり、現代では「ニュウ」となっていて、犬は「ケン」から現代では「ツアン」と変化してきています。
 ところが鳴き声も同じように変化したのかというと、牛は「モウモウ」で、犬は「ワンワン」となって日本と似てきています。
 「モウ」は口偏に「牟」と書くので、新たに作られた漢字ですから、「モウ」という音を表すために造字されたものと思われます。

 「牟」という字は漢和辞典を引くと会意文字で、「牛+モウと声が出るさま」となっていて、牛の鳴き声をあらわすとしていますが、「もとめる、ふえる、大麦、眸(眸)」などの意味も表します。
 音はモ、ボウ、モウと変化して、牛の鳴き声を表すために作られた文字が、ほかの意味をも持つようになって、鳴き声専用の字として口偏に「牟」という字が作られたようです。
 犬のほうは現代では「ワン」と鳴くとして文字のほうは「汪」という字を使っていますが、これは単に「ワン」という音を表すために「汪」という字に同居しています。
 つまり、最初は鳴き声に似せて名前をつけたのですが、名前と鳴き声がそれぞれ変化して別物になっているのです。

 「蚊」「蛙」「猫」などは、象形文字ではなく音を表す文字を既成の単語から借り、偏をつけて意味を暗示していますが、音はやはり鳴き声からとっていて、擬声語だといいます。
 蚊は「モンモン」と羽音が聞こえるので文(モン)という字を借りて、虫偏をつけて文字を作ったといいます。
 「かほどうるさきものはなし、ぶんぶといひて」という狂歌では蚊は「ぶんぶ」と羽音を立てると意識されていますが、これは「文」という字を「ブン」と読むようになったからではないかと思われます。
 ふつう「ブンブン」といえばハエやハチのイメージで、蚊の羽音を聞いても「ブンブン」というふうには聞こえません。

 現代の中国語では蚊は「ウェン」と発音し、蚊の羽音も「ウェン」と発音します。
 現代中国語では文章の文も、紋章の紋も、蚊も「ウェン」と発音しますから蚊という昆虫の発音だけが変わったのではありません。
 羽音も「ウェン」と変わったのですが、文字は口偏に翁(ウェン)と造字して擬声音であることを示しています。
 蛙の場合も名前が「エ(ア)}から「ワ」と変化するのにつれて、鳴き声も「ワ」に変化していますが、鳴き声は哇(ワ)でカラスの鳴き声と同じ字に当てられています。
 猫の場合は現代語では「ミャオ」で口偏に猫というやり方で造字されていますが、「猫」という動物の名前は「マオ」となっていますから、鳴き声と似ていますが少し違います。

 このように鳴き声から名前がつけられたものでも、その後の名前と鳴き声の変化の仕方はバラバラで、一貫性がありません。
 鳴き声の変化と名前の変化が一致する場合もあれば、まったく違うものもあり、それぞれ固有の変化をしています。
 擬声語にしても、単純に音声を借りる場合だけでなく、意味を持たせようとして造字したりする場合もあり、一貫性がありません。
 表音文字的な傾向に努めようとするかと思えば表意化しようとするので、一貫した表意文字化にはならないのです。