60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

輪郭の内側と外側

2006-05-31 23:13:36 | 眼と脳の働き

 図Aの二つの円は同じものです。
 しかし何気なしに見ると左側の円はやや縦長に、右側の円は横長に見えます。
 左側の円は内側に小さな円があるので、水平方向の輪郭が内側に感じられるため、横幅が短く感じられるのです。
 それに対し、右の円は小さな円が外側にあるので、輪郭が外側に感じられます。
 そのため、横幅が長く感じられるのです。
 この場合は刺激物が小さな円にしてありますが、円形でなくても直線のようなものでもかまいません。
 輪郭を見ようとするとき、線の込み合っているところに眼がいくため、このような現象がおきるのです。

 図Bはよく知られているミュラー.リヤーの錯視図で、上の軸線のほうが下の軸線より長く見えます。
 その原因についてはいろんな説がありますが、図Aの場合と同じ原理で輪郭の感じ方に注目すれば、上の図は軸線の外側に矢羽根があるため横に広がって見え、逆に下の図は輪郭が内側に感じられて軸線が短く感じられるのです。
 この場合は矢羽根の形が輪郭強調の刺激となっていますが、矢羽根でなくても円形でも、四角でも同じ結果が得られます。
 要するに線端の外側に刺激図形があるか内側にあるかによって、線の長さが異なって見えるということです。
 そこでD図のよう下の図の軸線の外側に小さな円を持ってくると、線端の両側に刺激図形が来るので、軸線の長さは変化しないように見えます。
 したがって、B図の場合と比べると、上下の軸線の長さは差が少なく感じられます。
 確かに、輪郭の外側に刺激図形があるか、あるいは内側にあるかによって軸線の長さが違って感じられるということが分かります。

 同じ原理でC図のような同心円の錯視も説明ができます。
 二重円の内側の円は実際よりも大きく感じられ、外側の円は実際より小さく感じられるというのですが、下に外側の円と内側の円を置いてみると確かに内側の円は過大に、外側の円は過小に見えます。
 内側の円は外側の円によって輪郭が外側に感じられ、外側の線は内側の円によって輪郭が内側に感じられるのですから、内側の円はより大きく、外側の円はより小さく見えるということになるのです。
 同心円の錯視を心理学の説では同化効果とによるものだとしています。
 同化効果というのはいまひとつ意味があいまいですが、近接しているものが一体化して見えるということであれば大体そんなものかと理解できます。
 同化効果という説明を使うならば、ミュラー.リヤーの錯視図も同化効果で説明できるのですから、そのようにすべきでした。
 図形の形が違うから説明の原理を変えるというのではなく、同じ原理で違った形のものまで説明できればそのほうがより説得力を持つのですから。


右脳の絵

2006-05-30 22:58:36 | 眼と脳の働き

 図のb、cは自閉症児だったナディアが3歳のときに描いた絵で、aは手本となった絵本の絵です。
 ナディアは幼児のとき驚くべき画才を示したのですが、描く絵は普通の幼児と違って自分が好んでみていた絵を手本にした模写です。
 色を使わず、ダイナミックな線画をすごいスピードで描いたといいます。
 一般的には幼児の絵は写実性はなく、まして精神的遅滞があればなおさらで、このような絵が描けるというのは非常に特異な才能です。

 右の図はポンゾの錯視図ですが、二本の横線を比較すると上の線のほうが長く見えます。
 斜めの線が遠近感を感じさせるため、同じ長さの線が、手前にあると感じるほうが短く感じるというものです。
 この錯視は一般的には幼児はあまり感じず、脳が発達してくるにつれて感じるようになるということです。
 原因は分かりませんが遠近法的な見方は、幼児の段階ではみられず、教育や経験によって形成される味方だと思われます。
 高齢者もポンゾ錯視は減少する傾向にあるというのですが、遠近法を高齢者が知らないということは考えられないので、高齢者の場合は視覚能力の衰えということになるのでしょうか。
 
 ナディアの絵は遠近法に従っていないかというと、そうではなく遠近法を使ったきわめて写実的なものだったといいます。
 描いた絵を見ると、ナディアは普通の子供よりはるかに早く遠近法を獲得していたということになるのですが、精神的な遅滞ということと矛盾があるように見えます。
 ナディアの絵は手本のある模写なので、遠近法にのっとった絵であるといっても手本が遠近法であったということで、ナディアが遠近法を理解していたかどうかは分かりません。
 ナディアの絵はモノクロの線画ですから、平面に描かれた手本をそのまま平面的に模写しただけなのかもしれないのです。
 
 もし遠近法の知識があったり、描く対象の実態についての知識があれば、平面に描こうとする段階で迷いが出て、結果として写実的な絵にはならなかったと思われます。

 実際、ナディアはその後の教育によって、言語の遅れを取り戻すにつれ、10歳以降の少女時代からは絵の才能がしぼんでしまい、年齢相応の下手な絵になってしまったそうです。
 幼児時代は左脳の未発達を右脳が代償して、もっぱら右脳を使って絵を描いたのが、教育による言語能力の獲得など左脳の発達につれて、右脳に偏っていたときの才能が失われてしまったというのが普通の解釈です。

 しかし、ナディアの絵は模写であって、それも右脳を使って非常に速いスピードで行われたということですから真の写実性ではなく、一種のなぞりがきのようなものだった可能性があります。
 写実性は手本の絵が実現していたもので、ナディアがものを見て頭の中で、三次元的にイメージしたものを平面にうつしかえたのではないと思われます。 


右脳と輪郭

2006-05-29 23:05:10 | 眼と脳の働き

 A図はひとつの方向から見たものを描いていますが、立体感があり、ものの位置の前後関係はハッキリ見て取れます。
 ほかの方向から見た状態などが示されていなくても、野菜の形の立体的な構造(トマトの球状など)を直感的に理解できます。
 経験や知識によって遠近の見え方とか、ものの形についての知識があるので、何がどのように配置されているかが瞬間的に分かるのです。
 
 B図は静物画Aの輪郭線をコンピューターで抽出したものです。
 輪郭の出し方は、明暗のコントラストの強いところを線で表すという方法で、機械的な操作で得られるものです。
 明暗の諧調を無視して、明暗の差の激しい部分だけを拾っているのです。
 輪郭線だけになると立体感が失われ、前後関係も失われて平面的な画像になります。
 三次元的にものを見るときは、明暗のコントラストの強い部分によって、輪郭をとらえ、明暗の諧調によって立体感や遠近感を感じてみているということが分かります。

 三次元のものを紙の上に書こうとする場合は、輪郭を描かなければならないのですが、B図を見れば分かるように、輪郭線の感覚は、全体の感覚とはかなり違ったものです。
 訓練をしないとなかなか模写がうまくいかないのは、正しい輪郭線を描くことができないからです。
 見た感じのとおりに輪郭を描こうとすると、実際の輪郭と違ってしまうのです。
 右脳で絵を描こうというのが流行っていますが、これは輪郭線を描くとき自然に身についている方法でなく、一定の方法で機械的に輪郭線をとらえようとするものです。
 たとえばものではなく背景に注意を向けてみるとか、模写であれば原画をさかさまにして、さかさまの絵を描くといった方法です。
 要するに、経験とか知識といったものからの干渉を排除して、光学的に見えたままに輪郭をとらえようというのです。
 
 経験や知識といった左脳の領分での解釈を退け、網膜に映った像から脳を機械的に働かせて輪郭線を表現しようというのです。
 後から左脳が加わって意味づけをするからよいのですが、右脳だけでは、何が書かれているか、どんな配置で置かれているかなどのことが分からないのですから、右脳だけで描いたらあまり説得力のある画はえられないでしょう。
 
 画の遠近法は近代の発明なので、人が成長するば、自然に身につくというものでなく、教育によってえらるもので、そういう意味では左脳の産物です。
 結局、左脳、右脳どちらかに偏するというのではなく、バランスが取れているのが重要であるという常識的な線にもどってくるようです。
 


視野と輪郭の認識

2006-05-28 22:54:11 | 眼と脳の働き

 図A,Cは池田光男「何のために眼はあるか」からのもの。
 Aは色弱かどうかの検眼に使われる図のモノクロ版といったところです。
 これはなんと書いてあるかを判断するのですが、難しく考えなければ日本人なら「ト」と読めるはずです。
 ところがこれをコンピューターを使ってエッジ検出、つまり輪郭の検出をするとB図のようになります。
 人間の目ではややあいまいなものの、簡単にできたのでコンピューターでやればもっとハッキリ輪郭が検出できそうに思うのですが、実際はかなりぼやけた結果しかえられません。

 C図はA図を左側にある小さな四角形の大きさに視野を限定して、見た場合の視線の動きをトレースしたものだそうです。
 視野を限定されてみた人はA図に何が書かれているかまるで見当がつかなかったといいます。
 ところが視線の動きは「ト」を示していて、これを記憶をたどって紙に書かせると「ト」と書いていたことがはじめて分かるというそうです。
 これは視野が狭いと全体の像がつかめない、ということを示す実験だったのですが、眼の動きは全体がつかめていないのにもかかわらず、大きな間違いにつながっていません。
 
 B図で見るようにエッジはコンピューターで検出してもあいまいなのですから、狭い視野に限定されながら視線を動かしていれば、逸脱してわけの分からない動きとなっても不思議はないはずです。
 ところがC図で見るように、視線はときに逸脱することがあってもおおむね正しい場所に戻ってきています。
 意識的には狭い範囲に閉じ込められて全体像が分からないのに、無意識的には全体像を浮き彫りにするような動きを眼がしているのです。
 無意識に眼を動かしていっても、後で振りかえってみると適切な動きであったということです。
 
 だからといって、視野が狭くても無意識の動きをすれば結果的に正しい結論に達しうるとは必ずしもいえません。。
 視野が広ければ全体像は瞬間的につかめるのですから、C図のように何度も何度も同じ場所を徘徊をする必要はないはずです。
 ときに逸脱しながら何度も同じところをゆきつもどりつしながらトレースしているので、
偶々この回には外れっぱなしはなかっただけかもしれません。


明暗に対する反応

2006-05-27 23:20:09 | 眼と脳の働き

 輪郭を見分けるのには色の違いよりも明暗の違いのほうがハッキリ分かります。
 図の左の例では上段がグレート黒の帯が隣接しています。
 二つの帯の境界は浮き上がって見えますが、これは境界付近でグレーの部分が白く感じられ、手前にあるように見えるからです。
 下のほうは隣接している二つの帯がオレンジと青という補色の関係にあるので、ハッキリと色の差が見えるのですが、境界線は浮き上がって見えるほどの迫力はありません。
 色の違いがハッキリ分かる組み合わせなのですが、明度の差がないので平板に見えるのです。
 
 真ん中の例では、グレーから黒へ段々変化するようになっていますが、明度の変化につれて右側が奥に、そして縮小しているように見えます。
 明るいほうの部分が手前に、大きく見えるようになっている錯視図なのです。
 これにたいして、下の図ではオレンジから青に移行しても青のほうが奥に見えたり縮小して見えるということはありません。
 色彩心理学ではオレンジは暖色で進出色、青は寒色で後退色とされているのですが、この図は平板に見え、上の図のような錯視は生じません。
 人間の目は色を感じる視細胞は網膜の中心付近に集中しているので、ハッキリ見える中心視の場合はことさらに輪郭をハッキリさせる機能が必要ないのかもしれません。
 明暗を感じる視細胞が中心となる周辺視の場合は中心視よりぼやけて見えるので、明暗の差に敏感になるようにできているのかもしれません。

 一番右の図では上の場合は、白黒の明暗だけの図で、黒い四角の間にある線は、実際は水平線なのですが斜めに見えます。
 ところが、下の図のように背景を青に、四角をオレンジにすると水平線は水平に見え、斜めには見えません。
 青とオレンジは色は補色の関係にあって、境界はハッキリするのですが、明度はほぼ同じなので、片方が膨張して見えたり、片方が収縮して見えるということはありません。
 上の図で水平線が斜めに見えた理由は白が黒に対して膨張して見え、黒が収縮して見えることが原因だったということが分かります。
 
 ここで、四角はオレンジのままで、背景を白くしたらどうでしょうか。
 オレンジはもちろん白より明度が低いので、背景と明暗差があるので水平線は斜めに見えます。
 オレンジは進出色だといっても、白に比べれば明度ははるかに低いので、白との比較では収縮色なのです。
 そのため四角がオレンジになった場合は水平線は斜めに見えてしまうのです。
 白地に黒く書くということは、文明世界では当たり前になってきていますが、きわめて人工的な現象です。
 自然の中ではたいていのものは色がついているので、いわゆる幾何学的な錯視図のように、白い紙の上に黒い線でかかれたものは、自然には対応準備ができていなかったものなのかもしれません。


輪郭をハッキリさせる

2006-05-26 23:09:45 | 眼と脳の働き

 Aの上のほうの図はマッハの帯と言われるもので、明度の差のある帯を並べたものです。
 一つ一つの帯は一様の明度なのですが、明度の異なる帯が隣に来ると境界線が強調されて見えます。
 境界線の近くでは明るいほうの帯はより明るく、暗いほうの帯は実際より暗く見えるので境界線がはっきり見えるようになっています。
 光学的には境界線の近くも離れたところも同じ明るさなのに、眼で見た漢字では差があるように見えるのです。
 いってみればこれは錯視なのですが、ものの輪郭をすばやく見て取るためには、輪郭を実際よりもハッキリ見えるほうが生物として有利だったので、脳神経の働きがこのように適応していると考えられています。
 Aの下のほうの図は明度の差のハッキリした帯を並べたのですが、明度差が大きくなると同じ帯の中での明度差はあまり見られませんが、それでもやはり立体感が感じられるので境界部分に明度の変化が感じられるのです。

 Bはヘルマン格子と呼ばれるもので、境界付近の見え方の変化が見て取れる例です。
 白い格子に背景が黒くなっていますが、一部分格子はグレーにしてあります。
 普通はすべて白にしてあるのですが、効果がはっきり見えるように一部分だけ明度を変えています。
 白い格子の交差点に灰色の円が見えますが、白い線の上にグレーの線が重なっている交差点ではよりハッキリとした円が見えます。
 グレーの線同士の交差点にも円が見えますがあまりハッキリとしたものではなく、グレーの線の上に白い線がきている場合は、灰色の円は見えなくなっています。

 白い線の交差する部分が灰色に見えるのは、交点以外の場所がより白く見えているということで、黒い四角に隣接する部分が実際より明るく見えるためです。
 交点の四方の線が明るく見えるので交点は相対的に暗く見えてしまうのです。
 ところが左下のように横線がグレーになると線自体は実際より明るく見えますが、、交差点では白い縦線と隣接するので、縦線との境界付近ははより暗く見えます。
 そこで白い線同士の交差点の場合より明度差がハッキリ感じられるのです。

 逆にグレーの線の上に白い線がきた場合は、白い線の上では交差点部分は相対的に暗く見えているはずなのですが、縦のグレーに線と隣接するため、実際より明るく感じるので、結局明度差が感じられなくなっているのです。

 ヘルマン格子は交差点に注意を向けて網膜の中心窩で見ると錯視は消えます。
 白い交差部分のひとつをジッと見ると前に灰色に見えていた円は見えなくなり、白く見えるようになります。
 もともと白いので白く見えるのは当たり前ですが、周辺の場合は眼の感度が低いので輪郭をハッキリさせる仕組みが働いて、交点が暗く見えるのだということになります。
 つまり中心視をするときには錯視は必要でなく、周辺視をするときに必要になるということになります。


漢字のほうが覚えやすい

2006-05-25 23:34:42 | 言葉と文字

 漢字の大部分は形声文字と呼ばれるもので、意味を暗示する部分と発音を示す部分をあわせた合体字です。
 漢字の場合は文字であると同時に単語でもあるので、単語が何を表しているかがわからなければなりません。
 語の形と、読み方、意味を結びつけて覚えるのですが、語の数が多いので記憶に大きな負担がかかります。
 一つ一つの語が何の共通性もなく、ばらばらであればとても記憶できるものではありません。
 共通部分があれば、共通要素を統一した形で示すほうが覚えやすく、思い出しやすいので、組織的な表記法があったほうが便利です。
 形声文字は偏などによって意味の範囲を示し、旁などで読み方を示す合体字なので、ただ形と読みと意味を結び付けて覚えるより効率的なのです。

 子供に漢字を覚えさせるのに、絵カードなどを使って覚えさせる方法がありますが、子供は視覚的な記憶力がよいので、難しい字でも覚えられるとはいえ、組織だった覚え方をさせないとごちゃ混ぜの知識が詰め込まれるようになりかねません。
 子供のときは形を覚える力が強いので、難しい漢字でもそのまま覚えることができ、絵にかかれた意味と結び付けて覚えることができます。
 こういう方法だけに頼ると、ごのいみは浅いとらえかたに終わり、ほかの語との関連なしに有機性のない知識の詰め込みになりかねません。

 図の例では日本流の音読みで「カン」という読みの文字の一部です。
 この場合は「カン」と読まれる文字のうちの三ズイのものの一部です。
 「汗」という字を読み方が「カン」、形が「汗」、意味が「あせ」と覚えるよりも、左の偏が水の意味で、右の旁がカンという読み方を表すという風に覚えたほうが覚えやすく、体系的な知識となりやすいのです。

 漢字は同音異義語が多いのですが、それでも日本風の音読みに比べれば同じようでも違いがあるので、実際はもっと限定されます。
 日本読みでは同音のものが多いのですが、日本で使われるときは、単漢字が音読みで使われることは比較的少なく、多くは訓読みされます。
 日本で音読みされるときは二字熟語などが多く、二つの語の合成になるので、合成の仕方と一緒に語の意味を覚えれば記憶しやすくなります。
 英語などのアルファベット使用の語を覚える場合は、綴りと読み方、意味を覚えなければならない点では同じですが、意味を暗示する部分が少ないので、記憶に漢字以上に多く負担がかかります。
 日本語などに比べ覚えやすい文字のはずなのに、アメリカなどが日本にに比べ識字率が低いというのも実際は英語が覚えにくいということが原因だと考えられます。


文字の知覚能力

2006-05-24 23:40:17 | 文字を読む

 図は左のほうが分かりにくくなっています。
 図形または文字の隠されている部分が多いため、少ない情報から元の姿を推測しなければならないからです。
 文字の場合、単語をよく見慣れていれば、形についての記憶がしっかりしているので、照合できる部分が少なくても分かります。
 文字を読みなれてない人は、文字の形についての記憶がぼんやりしているので、部分的な手がかりからの推測は難しくなります。
 しかし、推測能力は単純に記憶の問題化といえばそれだけではありません。
 記憶イメージとの比較の仕方が悪ければうまく推測できませんし、こうした問題に対する慣れの問題もあります。

 文字を一つ一つ見ていくようなやり方だと、部分的な情報だけから判断しがちになるので、なかなか全体がつかめません。
 単語を全体的に見ている癖がついていれば、全体的な形の構造がつかめるので判断しやすくなります。
 文字を読む場合に一文字づつ読む癖がついていると、一文字づつ確かめようとするので、どうしても文字の確認は難しくなります。
 単語ごとに読む習慣がついていれば個々の文字が読み取りにくくても、全体のイメージから判断して不明瞭な部分を補うことができます。

 文字を読む場合、普通は眼の中心窩に映る部分だけで読んで、ぼやけて見える周辺視野の文字を読んでいません。
 周辺視野にある文字をもある程度読めるようになっていれば、少しぼやけた文字でも判読する習慣があるので、このような文字でも判読できます。
 また文字を読むスピードがある程度早い場合は、細かい部分を照合しなくても判断する習慣があるのでうまく判読できます。
 文字を読みなれている人のほうが、一般的にスピードが優っていますし、一目で見る文字数も多く、周辺視が聞くのでこのような隠された部分の多い文字を読み取る能力があります。
 
 イギリスのクリストファーという人物は、一般的知能は標準以下であるのに、言語能力という点での異能者で、16カ国まで習得したといいます。
 この人物は文字に対する感覚は発達しているので、普通の人よりもぼやけた文字を判読できたけれども、ものの形になると判断力が著しく劣っていたそうです。
 単語についての能力が普通の人よりも高くなっていたので、文字の多くの部分を隠したものを見ても判読する能力があったのです。
 部分的な情報から全体を判断する能力が、読解力の指標となっているのです。
 ただし、ものの形の判断力が劣っていると言うように、他の能力が欠けていると単なる文字面だけの理解力だけになります。
 文字の形に対する感受性だけでは、文章の理解力をも保障するものではないようです。。
 


漢字を思い浮かべるか

2006-05-23 23:32:28 | 言葉と文字

 図はよく書き間違えやすいとされている漢字の例です。
 書き間違えやすいというだけでなく、間違えて書かれていても気がつかない場合が多いというものです。
 漢字の間違えというものの圧倒的に多いパターンは、読み方はあっているのに意味が違う文字を代用しているというものです。
 その場合言葉の意味にすこしは対応している場合もあるのですが、不正確で、場合によってはまったく違った意味だったりします。
 日本語は同音異義の言葉が多いので、漢字を思い浮かべて言葉の意味をあてるというようなことをよく言いますが、現実はそうではないようです。
 言葉を聴いていちいち漢字を思い浮かべていては、談話のスピードについていけません。
 たいていの場合は耳で聞いてそのまま意味を理解しています。

 図の例の場合でも、「あいぼう」と聞けば意味は即わかるので、なまじ漢字ではどう書くかといわれれば、「はて、どんな字だったかな」と考えて、間違った答えを出したりするのです。
 「相棒」は当て字なのですが、駕篭かきの片割れなので、「合棒」ではおかしいのですが、言葉の由来を知らなければ正解は出ません。
 ほかの例は漢語らしさがあるので、文字と意味が対応しているのですが、意味がわかっていながらどんな漢字なのか迷ってしまう例です。
 漢字に熟達している人なら間違えたりしないのでしょうが、そういう人ならいちいち漢字を思い浮かべなくても意味がすぐに分かるのではないでしょうか。
 普通の人は音声を聞いて、意味は分かるが漢字でどう書くかは意識に上らない場合がほとんどだと思います。
 意識に上っても、なぜその字なのかというハッキリした根拠は分からない場合が結構あるはずです。
 だから、紛らわしい漢字を書いてしまったり、間違った漢字を見ても気がつかなかったりするのです。

 たとえば、「さくたく」とはどのように漢字で書くかと聞かれたらどうでしょうか。
 「さく」と「たく」という読み方に対応する漢字を頭の中で思い浮かべて組み合わせてみるのでしょうか。
 どちらも20種以上の文字がありますから、組み合わせは400以上の候補になるので、とても頭の中で思い浮かべることなどできません。
 実は「さくたく」などという言葉は辞書にもない無意味語なのですが、「あいぼう」とか「あんばい」とかいった実際にある言葉でも同じことです。
 読みに対応する漢字の組み合わせはたいてい400以上になるので、どれが該当する組み合わせかを判断するのは普通の人にはできません。
 
 文字を書けるのは音声から意味が分かるから、漢字を思い出すので、記憶がしっかりしていれば正しい字がかけるし、あやふやなら間違えることもあるのです。
 「あいぼう」と聞いたときいみがとれなくて、「あいぼうって?」と訊いた場合、「そうだんのそうに、ぼうだ」と答えたりするので、漢字を思い浮かべることで分かる言う説が出てきたのでしょう。
 「なかまのことだ」と意味で答えたほうが分かりやすいはずなのですが、相手が言葉の意味を知らないかのようなニュアンスが出てしまったりするので、漢字でどう書くかを説明してしまうのでしょうか。
 


同音異義なら漢字が必要か

2006-05-22 23:12:29 | 言葉と文字
>  図は、かなの部分を漢字に変える問題です。
>  考えないでさっと答えが浮かんだでしょうか。
>  いわゆる同音異義の問題の一種です。
>  似たような意味なので戸惑ったのではないでしょうか。
>  「梅雨が明ける」、「家を空ける」、「戸を開ける」、「コップの水を空ける」というように書き分けるという問題です。
>  
>  日本語は同音異義の単語が多いので、意味がいくつかある場合は漢字を参照して意味を理解するというようなことが言われています。
>  もしそうであるならば、たいていの人が正しい答えを瞬間的に出せたはずです。
>  「ハテ、どんな字かな」と考えているようであれば漢字を思い浮かべる必要はないのです。
>  たいていの人は該当する漢字がわからなくても文章の意味は分かったのではないでしょうか。
>  「あける」というのは、日本語で漢字に直さなくても意味が分かる言葉なので、漢字で書けといわれても一瞬固まってしまって思い出せなかったり、間違って思い出したりするのです。
>
>  漢字ではいくつかに書き分けることができるといっても、日本語ではひとつの言葉だったのですからわからなかったり、まちがったりするのも止むを得ないのです。
>  「あける」という言葉は、「ふさがっている状態から、ふさがっていない状態にする」というような意味ですが、似たような意味の言葉を新たに作る代わりに同じ言葉で意味の転用をしているのです。
>  つまり比喩的な言葉の使い方をしているので、無理に漢字を当てはめなくても本来はよいのです。
>  日本人であれば「梅雨があけた」といえば「梅雨が終わった」と解釈しますし、「家をあけた」といえば「留守にした」と解釈し、「戸をあける」と聞けば「戸を開く」と解釈します。
>
>  少しでも意味が違えば言葉を変えなくてはいけないということになると、それこそたくさんの言葉が必要ということになってしまうので大変非能率的です。
>  「こ(越)える」という空間での動作的な意味を時間や抽象的な関係にも転用して別の言葉を作らないで済ますのがその例です。
>  Bの「うつす」という場合もそうで「あるところから別のところへ動かす」というような意味が元の意味でそこからの比喩でにおいをうつしたり、形をうつしたりといった場合にも転用したのでしょう。
>  この場合も漢字に書いてみなくても意味が理解できるだけでなく、漢字でどう書くかといわれてもすぐ正しい答えが出なかったりするのです。
>
>  漢字のほうが語彙が豊富なので細かく分けた表現ができる、ということで意味に応じて漢字を割り当てるという考えもありますが、漢字は漢字なりの意味があるので意味のずれはあります。
>  日本語を漢字に直したものついては、同音異義語だからといって強いて漢字に書き直す必要はないとおもいます。