英文法には主語がありますが、日本語に当てはめようとするとおかしくなります。
図の a と b はどちらも「ぼく」が主語のように見えるので、どう違うのかと突っ込まれます。
もともと日本には文法というものはなくて、欧米語にならって文法を作ったので、なんでも文法で説明しようとすると無理があるのです。
大野晋「日本語練習帳」では助詞の「が」初出を表し、「は」が既出を表すとして「昔あるところに、おじいさんとおばあさんがありました。おじいさんは山に...」という例で「おじいさんとおばあさんが」と最初に出てきたときには「が」がつかわれ、つぎに「おじいさんは」と「は」が使われると説明しています。
しかし a のような例では別にこの文章の前に「ぼくが」と言うような文章がなくてもかまいません。
「吾輩は猫である」というのも小説の出だしですから、「は」は既出であるというのは、桃太郎の話の例を説明できても、ほかでは説明できない場合があるのが明らかです。
そこで、「は」というのは主題を表し、「が」が主語を表すというような説明もでてきています。
「は」は主題だとすると、「ぼくは山田です」では「ぼくは」が主題となるので、主語はなくなります。
柴田武「日本語は面白い」では「ぼくは山田です」は「ぼくは(ぼくが)山田です」のことで(ぼくが)が隠されているのではないかとしています。
専門家の言うことだけど変だなというのが率直な感想です。
無理に文法解釈をしようとするのでおかしくなるのです。
思考の流れで見れば「###は***」というとき「は」の次には***についての判断が様繰るので、選択とか限定を示す内容になります。
「ぼくは」ほかでもない「山田です」ということで、「山田はぼくです」となれば、「山田は」ほかの人ではなく「ぼくです」ということになります。
「***が###」というときの「が」は***という判断内容つまり選択とか限定の結果が示されています。
「ぼくが山田です」は、ほかの人ではなく「ぼくが」「山田です」ということです。
よく話題になるうなぎ文の「ぼくはうなぎだ」というのも注文のときの省略文ですが「ぼく(の注文)は」ほかでもない「うなぎだ」ということです。
「ぼくがうなぎだ」は、うなぎの注文主を聞かれたとき、ほかでもない「ぼくが」「うなぎ(の注文主)だ」ということです。
「象は鼻が長い」というのは「象は」(特徴として)「鼻が長い」
「うちの娘は男です」は「うちの娘(の子供)は」女ではなく「男です」といった場合の表現です。
「こんにゃくは肥らない」はこんにゃくが肥らないのではなく、「こんにゃくは」(食べても)「肥らない」ということです。
主語とか述語とかいった文法の枠で考えようとすると難しい説明になるのですが、文脈や論理的な関係で見ようとすれば別に難しいことはないのです。