60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

速聴と意味のまとまり

2007-03-31 22:44:33 | 言葉の記憶

 年をとると人の言葉が聞き取りにくくなりますが、これは聴力だけの問題ではありません。
 聴力が落ちて言葉が聞き取りにくいということのほかに、話のスピードについていけず、話が理解できない部分が出てくるという面があります。
 図はD.Cパーク「認知のエイジング」からのもので、音声を通常の話速の約二倍にした場合の理解度についての成績の低下度を調べたものです。
 高齢者は若者に比べ高齢者のほうが話速が早くなった場合(分即165語→300語)理解度が大きく落ちます。

 言葉が速くなると聞き取りにくくなるわけですが、単語と単語の間に無音の空白を入れて修復するとどちらの場合も成績が向上します。
 この場合空白を入れる場所を文節や文章の終わりに入れる統語修復のほうが、ランダムに入れた場合より成績は向上しています。
 単語の発音の速さが同じでも、文節や文の終わりなど、意味のまとまりに対応したところで空白を入れて、区切りを明らかにすれば理解しやすくなるので再生成績が上がるのです。

 音声のスピードが速くても、意味のまとまりに応じて適当な区切りを入れて、処理時間を与えられれば、理解しやすいということなのです。
 つまり文章の意味処理にある程度の時間が必要で、その時間は文節や文の終わりなど意味の区切りの場所に取れば意味が理解しやすいということです。
 普通に理解できるスピードというのは、意味処理をする時間をとっても追いついていけるスピードです(話が難しければ処理時間が長くなり追いつけなくなりますが)。
 
 高齢者に話をするときは、単にゆっくり話せばわかりやすくなるというのではなく、意味のまとまりごとに間を入れることが重要ですが、高齢者サイドではなるべく速い音声スピードに慣れようとする努力が必要です。
 より速いスピードに慣れれば、意味処理をする時間を取りやすくなるので、意味がわかりやすくなり、話が聞き取りやすく感じるようになります。
 速聴の効果というのは、単に速い音声スピードで聞き取れるということだけでなく、意味処理をする時間を余分に得られることで理解力の向上がはかれるという点にあるのです。。
 


理屈に合わなくても

2007-03-27 23:20:42 | 言葉とイメージ

 「馬から落馬する」とか「車に乗車する」と言えばおかしな表現だとすぐに気がつきますが、これは字が重複するので、意味の重複に気がつくためです。
 ところが「被害をこうむる」とか、「古来から」、「約10キロほど」など表記の上で重複が見えないと(こうむるは、被ると書けばわかる)気づかずにいたりします。
 「被害」は「損害をこうむる」ことで、「古来」は「昔から」、「約10キロ」は「10キロほど」なので後に続く言葉は余計なのです。
 「今現在」、「昼日中」、「二度と再び」、「びっくり仰天」などは同じ意味の表現が並んでいるといっても、言い換えであり、言い換えによって強調する表現ですから重言とは違ってうけとられているのです。

 重言は無駄と言えば無駄なのですが、頻繁に使われるのは意味を伝えるというよりも口調を整える役割を担っているように見えます。
 だいたいが、漢字語と和語の組み合わせで、漢語のほうに和語と同じ意味が含まれていることに気がつかないでしまうようです。
 ということは、多くの日本人は漢字語についての感度が鈍く、意味をはっきりと理解していないのかもしれません。

 「幸先悪く」と言うのは矛盾した表現で、「下手をすると優勝だ」と言うのも「うまくいけば優勝だ」というつもりで間違えたのではなく、期待あるいは予期していなかったことを言おうとしたのかもしれませんが、不適切な表現です(敵方が優勝してしまうと言う意味なら適切です)。
 「当たり年」というのもプラスの意味ですから、「台風の当たり年」などということは不適切で、自棄的な表現だとしても不謹慎です。
 このような矛盾的表現をして気がつかないでいられるのは、言葉の表現がおかしくてもなんとなく意味がわかるので、むしろ語呂のよさにひきずられてしまうのでしょう。

 「うそを築地のご門跡」などという言い回しは単に築地と言う言葉を共通項として、意味的には関係のない言葉を付け足しています。
 (「うそを築地の魚市場」とか「うそを築地の魚市場」とか「うそを築地の移転先」などとなれば意味が出てきますが。
 「そうは奈良人形」も「そうはならない」というところを「奈良」という音にかけて「奈良人形」と続けているだけで意味はありません。
 「そうはいかのきんたま」の場合は、添田建治朗「愉快な日本語講座かけがえのないことば 日本語」によれば、中国、四国地方では「そうはいかない」を「そうはいかんきん」「そうはいかんきに」というので、そこから発展したのだろうとしています。
 しかし、掛詞になっているとすると「いかのきんたま」という言葉がなければこの地口は成立しません。
 江戸時代にはイカの脚の間にある「いかのとんび」を「いかの金玉」と称していて、「いかのとんび」は現在でも珍味として売られているので、「そうはいかぬ」と「イカの金玉」がくっついたとするほうが自然です。

 先年「そうはいかんざき」という言い方がテレビコマーシャルにありましたが、「そうはいかん」と「かんざき」を掛けたのも、単なる語呂合わせで、意味はかかっていないのでしょう。
 意味が掛かっていると「いかん」と「かんざき」が掛かり、「かんざきがいかん」と自らを否定することになるからです。
 日本語は理屈には合わない表現であっても、口調のよさ、語呂のよさを優先してつい無駄な部分を加えて楽しむことがあるのです。


漢字の記憶

2007-03-26 23:44:56 | 言葉の記憶

 単語を漢字でどう書くかといわれて、すぐに思い出せない場合があります。
 思い出せないといっても完全に記憶がなくなったというわけではなく、漢字を見れば思い出すことができるのですから、記憶からうまく引き出せないということになります。
 それにしてもその漢字を見れば「これだ」と分かるわけですから、意識にはなくても意識される手前まで記憶が浮かんできているということになります。
 挨拶、折衷、怨恨、叡智、皆既日食、激昂など、書きなれていなければすぐに文字が出てこないけれども見れば読めて意味がわかるのですから、記憶はあるわけです。
 記憶されているけれども、うまく引き出せないか、あるいは記憶が明瞭でなく文字を見ることでしか確かめられないということです。

 記憶が不明瞭だと、読むときは書かれた文字が正しければ問題はないのですが、一部分が間違っていても気がつかないという場合があります。
 決選投票を決戦投票と書き間違ったものを見ても気がつかなかったり、自分が書く場合間違ってしまったりするのです。
 漢字は意味を表すということからすれば、読み方はあっているのに意味が違う漢字を当ててしまうというのはおかしいはずです。

 ところが、倦怠期を倦退期としてしまったり、厚顔無恥を厚顔無知としてしまったりするのは誤った字を当ててもその部分がそれなりの意味を持つので、元の意味を部分的に連想させることができたりします。
 元の意味をはっきり記憶していなければ、間違った字が当てはめられても、そこからの連想とつながれば納得できてしまうのです。
 ワープロの漢字変換が奇妙な変換となる話はよく話題になったものですが、熟語となればワープロのほうが間違えることは少なく、間違えるのは人間だけとなります。

 一つ一つの漢字の意味からの連想が得られると、単語の書き方は一通り以上が可能で、そうなるとどの文字を当てはめた場合が適当かわかり難くなります。
 最初は一通りの書き方であっても、別の漢字を当てたときそこからイメージされる意味が適当であれば別の書き方が間違いだと退けにくくなります。
 そうなると一つの単語について二つ以上の書き方を許してしまうことになります。
 同じ単語について漢字が一通り以上当てられるということは、外国人にとって難解なだけ出なく、日本人にとっても不便です。
 どれを標準的な表記とするかを決めれば、ワープロの場合はそれを記憶させておけばよいのですから、人間は迷わなくてすむようになりますし、標準的な表記を踏まえたうえで自由連想をすればよいのです。


連想と推論

2007-03-25 22:58:46 | 言葉の記憶

 「一、二、三角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いはうさぎ、、、」としりとり式に連想をつなげていき、最後は「光るは親父のはげ頭」というようにおかしな結果になる言葉遊びがあります。
 「いろはに金平糖、金平糖は甘い、甘いは砂糖、砂糖は白い、白いはうさぎ、」と始まっている場合もありますが、要するに連想をつなげていって、意外な結果に結びつけて面白がるというものです。

 連想をつないでいって意外な結果に結びつけるという点では「風が吹くと桶屋が儲かる」という話も同じです。
 「風が吹けば砂埃が舞う、砂埃が舞えば盲が増える、盲が増えれば三味線引きが増える、三味線引きが増えると猫が減る、猫が減ればネズミが増える、ネズミが増えれば桶がかじられる、桶がかじられれば桶屋が儲かる」というふうに連想をつなげていくと意外な結論が得られるというので面白がるのです。

 まじめな人はこういうのをこじつけの理屈の例として見ますから、「その理屈は風が吹けば桶屋が儲かる式の詭弁だ」などといって、相手の議論が非論理的であることのたとえにします。
 これが「風が吹けば埃が舞う、埃が舞えば眼病が増える、眼病が増えれば目医者が儲かる」というようになれば多少論理的になりますが、少しも面白くありません。
 連想が意外な結果に結びつくから面白いのですが、連想によるつながりを、そのまま実際の関係と思い込んでしまって、そのことに気がつかない場合もあります。
 
 たとえば、語源説には連想から得られた思い付きが、実際の関係だと思い込なれてしまっている例がかなりあります。
 「はたらく」とは、「傍を楽にする」というような説明は「はた」と「らく」という音韻から思いついたもので、面白がっているうちはよいのですが、感心しているうちに実際の語源と勘違いする人も出てきます。
 「たわけ」は「田を分ける、つまり子供に田を分割して相続させればすべての子供が貧しくなるからおろかな行為を意味する」というようのも語呂合わせからの思いつきですが、ほんとの語源と信じている人も多いようです。
 
 「はたらく」ことが自分本位でなく、他人の幸福につながるようにせよ、という教訓に結びつけるためにはこのような語源説は有効でしょうし、「たわけ」というのは「おろか」という意味だと記憶するには有効な語呂合わせです。
 面白く、印象が強いので説得力があり、信じられやすいのです。
 


プライミングと連想

2007-03-24 23:41:53 | 言葉の記憶

 「猫」という言葉を聞いてどんな言葉を連想するかといえば、ねずみとかキティ、犬、ペット、マタタビ等々いろいろでしょう。
 ところが前もって「骨」という言葉を聞いていれば「犬」という連想が出て来やすくなります。
 代わりに、前もって「ストーブ」という言葉が示されていれば、「コタツ」という言葉が連想されやすく、「鈴」という言葉が示されていれば「ネズミ」という言葉が出て来やすくなります。
 前もって示され単語に関連する意味が活性化するので、「猫」という言葉が示されたとき連想される単語が絞られるからですが、「犬」とか「こたつ」といった単語を連想するのが正しいということでは必ずしもありません。

 以前NHKで「連想ゲーム」というテレビ番組がありました。
 これはラジオ時代にあった「二十の扉」の延長上にあるような番組です。
 「二十の扉」はアメリカで人気があったクイズ番組をまねしたようなものだそうですが、これは「それは植物ですか」とか「それは食べられますか」などと出演者が質問していって答えを絞り込み、正解を推理するものです。
 連想ゲームの場合は、連想なので正解を求める必要はないと思うのですが、連想の面白さを引き出そうというのではなく、やはり正解を出させるクイズにしていました。
 (洋服、兄弟、順繰り)と三つの言葉がヒントとして示されれば、「おさがり」というのが正解という事になり、(反響、山)というヒントなら「こだま」というのが正解となります。
 
 このゲームではキャプテンが答えを知っていて、ヒントを出すごとに回答者が思いついた言葉をいい、正解でなければさらに別のヒントを出し、正解にたどり着く速さを競うものですが、ヒントによってかえって混乱してしまう場合があります。
 言葉に対する反応というものは人それぞれで、特定の言葉が示されれば必ず同じ言葉が連想されるわけではないのです。
 ヒントを出す側は、相手の反応を予想してヒントを出すのですが、相手の反応が予想外であったりします。
 回答者の反応に対応してそのつどヒントを考えて出すので、ヒントに一貫性がなくなり、回答者は直前のヒントに反応して混乱したりします。
 この場合の連想の意外さというのは、混乱によるもので連歌のように相手の言葉に対する連想から新しい発想を得るというものではありません。
 はじめに正解を決めておくため、面白さというは間違え方の面白さしか出てこないのです。


プライミングと掛詞

2007-03-20 23:41:06 | 言葉の記憶

 「この帽子はどいつ(何奴、ドイツ)のだ。そりゃおらんだ(俺、オランダ)」というように、音の類似性だけをとりあげると、駄洒落といって一度は面白がられてもあまり評価されません。
 「帽子をかぶるとアタマあったまる」などと同じ音のことばが飛び出してくるのは、一種のプライミング効果です。
 ただ単に同音異義語を思いついて言うのではなく、並べて関係付けることで面白がるものです。
 文学とか芸術という観点からは低級とされるかもしれませんが、いちがいにくだらないと否定すべきではありません。

 和歌などで多く使われる掛詞はまさに同音異義語の活用で、見方によってはダジャレといえなくもありません。
 「足曳きの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」など尾の長さと夜の長さをかけているので、意味的には「長々し夜を ひとりかも寝む」というだけのことです。
 「花の色は うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」という歌でも、「花の色、ふる、ながめ」が掛詞になっていて、実際に花を見ての感想から作られたのか、頭の中で作ったのかわかりません。
 「花の色」は比喩として女の容色を指しますが、この歌の中では花の色と二つの意味で使われて掛詞になってもいますから、掛詞が三つにもなっています。

 こうした場合には、言葉遊びに過ぎないというような否定的な評価をする人は少ないでしょうが、遊戯的な要素は確かにあるのです。
 万葉集とか古今集とか古典になると、ありがたみが出てしまって言葉遊びなどといえないのでしょう。
 「世の中に 蚊ほど(かほど)うるさき ものはなし ぶんぶ(文武)といひて 夜も眠れず」というように、狂歌になればこれは掛詞を使って、皮肉を言って面白がっていると評価できますが、古い時代のものには遠慮が出るのでしょうか。

 食べ物にしたところで、栄養にならないものはすべて無駄というわけではありません。
 楽しみとか、元気になるとか栄養以外の効用があるものも必要です。
 ダジャレのようなものも無意識のうちに出てくることで、潜在する言葉のつながりを表面化させ、活性化する効用はあります。

 当て字というのもダジャレの親戚ですが、最近の子供の名前付けのように、無理に当て字をこじつけるのは、子供には先々迷惑になる可能性はあります。


意味的プライミング

2007-03-19 23:16:54 | 言葉と文字

 パンという言葉を聞いたあと、小麦粉という言葉を聞いた場合と、自動車という言葉を聞いた場合では、小麦粉という言葉を聞いたほうが早く意味がわかるそうです。
 パンと小麦粉は意味的な関連性があるので、あらかじめパンという言葉を聞けば、パンに関係する意味が脳内で活性化するので、小麦粉という関連のある言葉には早く反応するということです。
 先行する言葉の意味が後の言葉に対する反応に影響を与えるので、意味的プライニング効果と呼ばれますが、要するに無意識のうちに連想がはたらくのです。

 「びょういん」という言葉を聞いたあとで(あるいは病院の話をしているとき)、「いし」という言葉を聞けば「医師」とか「ドクター」のことだと思い薬とか白衣などを連想するでしょう。
 「いし」という言葉を聞いたからといって、石、意志、意思、頤使、遺子、、、などといった様々な同音異義語を思い浮かべてしまうような人はあまりいないでしょう。
 日本語は同音異義語が多いので、聞くほうは漢字を思い浮かべて判断をするという説がありますが、そういうこともないわけではないにしろ、それは珍しいケースでしょう。
 「実は話し手は石のことを話していたのだ」という場合だってありうるのですが、瞬間的にはまず「医師」と判断し、その後の話の進み具合から「医師」でないことがわかれば修正するまでのことです。
 頭から「医師」と思い込むと失敗するということもありえますが、そうかといってすべての可能性を調べてから判断するというというのは学者ぐらいのものです。
 
 話を聞いているとき、いちいち漢字を思い浮かべながら聞かないと意味がわからないというのではすぐにくたびれてしまいます。
 もしそんなことをしなければ話が理解できないというのであれば、その言語は恐ろしく日実用的なものです。
 最近の漫才などはかなり早口で、いちいち漢字を思い浮かべていたのでは耳に入らなくなってしまいます。
 言葉を聞いたとき、その言葉の意味がわかるということだけでなく、無意識のうちに関連する意味が活性化して連想が働くので、後からの言葉は自動的に理解できるのです。

 幼児に対する言葉テストで、三つの言葉のうちで仲間はずれの言葉を答えさせるというのがあります。
 たとえば「うま、くま、ぶた」とあれば「うま」と「くま」は発音が似ているから「ぶた」が仲間はずれという考え方もありますが、「くま」が答えです。
 「うま」と「ぶた」は家畜で、「くま」は家畜でないので「くま」が仲間はずれという出題意図なのですが、言葉のならべかたを「うま、ぶた、くま」としていないのがミソです。
 「うま、ぶた、くま」と並べると最初の「うま」ですでに家畜の意味が活性化しているので続いて「ぶた」という言葉が来ると意味の塊が自然にでき、つぎの「くま」は自動的に仲間はずれと感じてしまうので問題となりにくいのです。
 理由がわからなくても答えがわかってしまうのを防ぐには、真ん中に答えを置きにくいのです。


プライミングとダジャレ

2007-03-19 00:08:01 | 言葉の記憶

 「十回クイズ」というのがあって、「ピザ、ピザ、、、」と十回言わせた後「ここは何?」と「ヒジ」を示すと「ヒザ」と答えてしまう人が多いそうです。
 心理学ではプライミング効果と呼んでいますが、先に出てきた言葉が無意識のうちに、あとの言葉に影響を与えてしまう現象です。
 
 落語に鶴の語源というのがあり、「老人が唐土のほうを眺めていると雄の首長鳥がツーッと飛んできて松の枝にポイととまった後、雌の首長鳥がルーッと飛んできて松の枝にポイととまった。それまで首長鳥と思っていたが『つる』だなと思った」
 という説明を聞いたあわて者が、他人に聞かせようとして「鶴は首長鳥といったのが、鶴というようになったのは、雄の首長鳥がツーッと飛んできて松の枝にルッととまった。その後雌の首長鳥が、、、、」とつまってしまいます。
 あわて者の場合は最初に「つる」という言葉を口に出しているので、「ツーッ」といった後に、つい「ルーッ」といって失敗をするのです。

 これらの例は、前に言った言葉が後の言葉に直接影響を与えるので、直接プライミングというのですが、無意識のうちに言い間違ったりするので、マイナスのイメージでとらえられますが、必ずしもマイナスのものとは限りません。
 
 語呂合わせとかダジャレの類では、前の言葉につられて不意と出てくる別の意味の言葉を並べて面白がるものです。
 「あたりき、しゃりき、車引き」とか「車でくるまでもない」など語呂合わせでひょいと出てくるものを意識的に並べるだけで、特別の意味があるというわけではありません。
 「その手は桑名の焼き蛤」とか「おそれ入谷の鬼子母神」などといった無駄口も意味はこれといって結びつかないのですが、語呂合わせの面白さで使われてきた文句です。
 面白いといっても常套句をことあるごとに使われるとうっとうしくなったり、陳腐な駄洒落をやたらと聞かされると勘弁してほしいと思うこともあります。
 また言葉を論理や情緒の表現手段としてまじめに考える人からすれば、無意味にしか思えないかもしれませんが、余分なものには余分なものの効用があるので、全面的に否定するべきではないと思います。


読み違い聞き違い

2007-03-17 22:36:59 | 言葉と文字

 団塊の世代を「だんこんのせだい」と読んで(あるいは呼んで)しまう人がいます。
 団塊の「塊」は「金塊」とあれば「きんかい」と読める人が「団塊」となったときは「だんこん」と読んでしまったりするのです。
 「団塊」という言葉は最近の辞書にはのっていますが、古い辞書には載っていないので、うっかり「団魂」と読んでしまっても不思議はありません。。
「だんこん」と読んでいるのは「団魂」という字をイメージして、意味的には「感じ方や考え方が同じ」とでも思っているのでしょう。
 
 「団塊」という言葉は堺屋太一氏が「団塊の世代」という言葉をつくって以来ポピュラーになっているので、「だんこん」と読んでしまっている人でも、耳では「だんかい」と聞く機会は多かったはずです。
 にもかかわらず最初に「団魂」という字だと思って読んでしまうと、他人が「だんかい」と読んだり、言ったりしているのを聞いても「だんこん」と聞こえてしまって、自分と他人が違う読み方をしているのに気がつかないのかもしれません。
 
 このような例は他にもあって、たとえば「断食」を「だんしょく」と読んでいる人もあり、このような人は他の人が「だんじき」と読んでも「だんしょく」と読んでいるように思っているのです。
 ところが「だんじき」と正しく読んでいる人が「だんしょく」というふうな読み方を聞いたとき、「だんじき」と聞こえている場合が多いかもしれませんが、ときに「はてな」と感じることもあるでしょう。
 相手のプライドを傷つけてはいけないと思って読み間違いに気づかない振りをすることもありますが、なかには自分のほうが間違っているのかなと不安になる人もいます。
 
 「御用達」のような場合は「ごようたし」と「ごようたつ」では最後の一拍だけの違いなので、思い込みの激しい人などは自分のほうの間違いにはなかなか気づかず、他人も注意をしてくれないので間違いを続けがちです。
 それでもこれらの場合は、読み方が違うとはいっても意味は大体通じているので、おかしくはあってもそれほど問題ではありません。
 しかし「引導を渡す」というのを耳だけでおぼえて「いんろうをわたす」と覚えてしまうと意味が伝わりません。
 この場合は文字を見ないで、意味がよくわからないまま難しい表現を、耳覚えのまま使うため気づきにくいのです。

 日本語では漢字がたくさんある上に読み方が何通りもあって非常にややこしいため、間違いが多く、たいていの人は知らないうちに初歩的な言葉間違いをやっています。
 お互いに結構間違えながら言葉を使っているのに、何とか通じているのがコンピューターと違って、人間の不思議なところかもしれません。


プライミング効果

2007-03-13 23:25:32 | 言葉とイメージ

 たとえば「宮本武蔵」を読んでいるとき、「武蔵」という単語が読んでいる場所の先にあれば、パッと眼に入りますし頭に入ります。
 それまでに何度も眼にしている単語なので取り出しやすくなっている記憶だからで、心理学でプライミング効果と呼んでいる現象です。
 プライミングは直接前に出てきたものを想いだしやすいという場合だけでなく、間接的に連想されて出てくる場合もあります。
 「み□り」と一字が伏せられているとき、前もって「あか」という文字を見せられれば「みどり」という答えが出てくるでしょうし、「あき」という文字を見せられていれば「実り」という答えが出てくるでしょう(出てこない人もいるかもしれませんが)。

 特定の言葉をきけばそれに関係した言葉とか知識が活性化して想いだしやすくなるということなのですが、ことばを聞くことでイメージがハッキリすると言う場合もあります。
 たとえばA図の場合、図を見ただけではなんだかわからなくても、「シドニー」ということばを聞けば、オーストラリア大陸の形だということに気がつきます。
 シドニーという言葉からシドニーという都市のあるオーストラリアが想いだされ、オーストラリア大陸の漠然とした形の記憶と示された図形が結びつくのです。
 もし「こうち」ということばを聞けば「四国地方」の形かなとつい思うでしょうが、この場合は不正解です。
 間違った先行刺激によって、間違った判断をするという場合もあるのですが、適切なしげきであれば「ああそうだ」というふうに、想いだすというより発見といったほうがよいわかり方というのもあります。

 B図は「隠し絵」で有名なものですが、「セントヘレナ」ということばを聞けば二本の木の間に埋め込まれているのがナポレオンなのだなとはじめてわかります。
 C図ははじめて見る人は何の絵だかさっぱりわからないでしょう。
 まえもって「インドネシア」ということばを聞けば白い部分が海で、黒い部分が島を表しているのかなとあやふやながら納得したりします。
 ところが「ロシア」と聞けば、すぐにはわからなくても「コサック兵の顔」でヒゲをはやしているものとわかる人もいます。
 コサックを知らなければそれまでですが、下の写真のような例を見たことがあれば、コサックだと思いつくのです。
 この図自体はあいまいなものなのですが、先行する言葉によって関連記憶が活性化され、理解しやすくなっているのです。