60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

心理学風の説明から離れて考える

2006-10-21 22:24:24 | 視角能力

 ポンゾ錯視といわれるA図では線aと線bは同じ長さなのにaのほうが長く見えます。
 そのように見える理由として普通は遠近法的な見方をするからだとして、B図のような例が示されます。
 日常経験では、同じ長さの棒なら遠くにあるほうは短く見えるのですが、この絵のように遠くにある棒が同じ長さに描かれていれば、実際は手前の棒より長いと脳が解釈するので遠くの棒のほうが長く見えるというのです。
 A図の斜めの線がB図の道路のように遠近感を感じさせるので、aのほうが長く見えるというわけです。

 ところがこの説に対する疑問は当然ですが以前からあります。
 脳が解釈するという文学的というか比喩的な説明はテキトーに過ぎるからです。
 たとえばC図の左のように中央に同じ長さの線を上下に並べても、遠くにあるはずのaのほうが長く見えるということはありません。
 また右の図は斜めの線をに等分しているのですが、上の線であるaのほうが長く見えるということもありません。
 遠近法で説明しようとするならば、いずれの場合もaのほうが長く見えなければいけないのに、なぜそう見えないのか説明がつかなくなります。
 この矛盾を解消するにはどうすればよいかといえば、C図の場合は遠近感を感じさせないとでも言うよりありません。
 そうすると同じような形が、A図では奥行き感を感じ、C図では感じないということになるのですが、ちょっと苦しいところです。

 C図のような反論があるにもかかわらず、遠近法による説明がいまだに主流となっているのは、それならなぜA図でaのほうが長く見えるかということを説明しないからです。
 遠近法をもちださなくてもaのほうが長く見えることが説明できれば、C図の反論も有効になるのです。
 そこでD図を見てください。
 aはA図の上の部分から切り取ったものです。
 bはA図の下の部分から切り取って逆さまにしたものです。
 aとbの配置は遠近法を感じさせるものではありませんが、やはりaのほうが長く見えます。
 
 この結果から見るとaのほうが長く見えるという原因はaとbの位置関係ではないということです。
 A図でもD図でも共通しているのはaは両サイドの線に接近し、bは両サイドの線から離れているという点です。
 つまりaは両サイドの線で挟まれた幅に比べてほぼ等しいのに、bは両サイドの線で挟まれた幅に比べるとかなり短いのです。
 両サイドの線で挟まれた幅に意識がいくとbのほうが短く感じるというわけです。
 いわゆる心理学風の解釈と結び付けなくても説明がつくのです。


注意の配分が少なくても右脳で見える

2006-10-20 22:45:09 | 視角能力
 図Aはネズミのようにも見えますが、メガネをかけた男の顔にも見えます。
 そこで右側にある同じ絵と同時に見て、片方をネズミに、もう片方をメガネ顔として見ようとします。
 ネズミとメガネ顔が向き合っているというわけですが、最小はどうしても両方ともネズミに見えたり、両方ともメガネ顔に見えたりするでしょう。
 ネズミの耳がメガネに、ネズミの目はメガネ男のハナになっているので、それぞれ目に注意を向けて見れば二つの絵が別の絵に見えるようになります。
 つまりネズミとメガネ男がにらみ合っていると見ればよいのです。
 
 次に右の二つの絵を同時に見て見ると、片方づつ別の絵と見るのは先ほどより難しくなります。
 左の二つを見た場合はネズミと男の目の部分を見比べればよかったのですが、こんどは同じ方向を向いているのでつい同じ絵に見えてしまいます。
 メガネ男がネズミを見ているか、ネズミがメガネ男を見ているかどちらかの見方をすればよいのですが、多くの人は右側をネズミと見たほうが見やすいと思います。
 右側をネズミと見た場合は目が中央近くになるので、注意を分割したとき注視点が離れずにすむからです。
 
 B図は若い女が向こうを向いているようにも見えますが、老婆がうつむいているようにも見えます。
 心理学のテキストには見る人の欲求や不安などによって見え方が異なるというのですが、ごく自然に見れば若い女の横顔に見えるはずです。
 老婆の顔に見えるというのは、そのように見ようとすれば見えるというのであって、老婆の絵としては誇張が多く不自然です。
 普通の人は若い女と見るけれども、最初から老婆の絵と受け取る人は特殊な心理状態にあるというのが妥当です。
 
 隣の絵と二つ同時に見た場合どのように見えるでしょうか。
 二つとも若い女と見るのは楽ですが、二つとも老婆と見ることは難しいのではないでしょうか。
 これに対し、右側が老婆、左側が若い女と見ることは楽に出来るでしょう。
 右側は右視野なので左脳で解釈が出来るので注意を向けて老婆の顔と見ることが出来るのですが、このとき左側は注意の配分が少しでも右脳が処理しているので若い女に見えるのです。
 右側の絵に注意を向けてこれを若い女と見ると、左側も若い女と見えて両方若い女に見えてしまいます。
 これは右の二つの絵を同時に見た場合も同じです。
 注意の配分が少なくても左視野にあるときは、右脳で処理されるので優勢な見え方のほうになるのです。
 

注意の分割

2006-10-19 22:21:08 | 視角能力

 図Aはなんに見えるでしょうか。
 この絵は左を向いている顔だと思うとアヒルに見えますが、右を向いていると思うとウサギに見えます。
 見方によって見え方が違う多義図形の例なのです。
 この場合アヒルに見えるときはウサギには見えませんし、ウサギに見えるときはアヒルには見えません。

 図BはAを二つ並べたものですが、二つとも左を向いていると思えばアヒルに、右を向いていると思えばウサギに見えます。
 ところが左側をウサギ、右側をアヒルと見ることも出来るはずですし、左側をアヒル、右側をウサギと見ることも出来るはずです。
 まず両方が向かい合っていると見れば左側がウサギ、右側がアヒルにみえるのですが、つい両方が同じ方向を向いているように見てしまいがちです。
 片方づつ絵を見るときは左をウサギ、右をアヒルと見ることが出来るのですが、二つを同時に見たときは向かい合っているようには見にくいのです。
 二つの絵は同じ絵なので別々の絵としてみることが難しいからなのですが、これは注意を分割するのが難しいということです。

 しかし少し慣れてくれば、ウサギとアヒルが向かい合って話をしているように見えてきますから注意の分割が出来たことになります。
 ところが左がアヒル、右がウサギと見ようとするとなかなかうまくいきません。
 お互いが背をむけているように見なければならないのですが、アヒルと見るために左の図はクチバシのほうに注意を向ける必要があり、ウサギの場合は右の図のクチのほうに注意を向けなくてはなりません。
 注意を向けなければならない場所が、向かい合っているとする場合に比べ、かなり離れてしまうのです。
 その結果両方がが背を向けているように見るのはより難しいのです。

 Cは立方体が右上を向いているように見えたり、左前方を向いているように見えるのですが、ひとつの見え方が持続することがなく、見ているうちに見え方が反転してもう一つの見え方に変わります。
 二つの立方体を同時に見た場合、両方が同じ向きに見えて、見え方が変わるときもシンクロするのが自然です。
 片方が左前方を向き、もう片方が右上を向いているように見ることは、出来ないことはないのですが、その見え方を維持することは出来ません。
 注意を分割して見てもそれぞれの見え方が、安定しないで別の見え方に変わるので、同じ見え方が維持できないのです。
 それでも見慣れて注意の分割が出来るようになると左の見え方と、右の見え方が別に見ることが出来るようになります。
 
 
 


サルには人間の意図が分からない

2006-10-18 22:48:31 | アナログとデジタル

 2枚の色板を見せて、同じ色なら○、違う色なら×を選ぶように訓練してから、次に訓練のときとは違った色でテストをすると、サルは混乱してしまうといいます。
 サルは訓練で同じ色の場合と違う色の場合を区別できるようになるのですが、色を変えるとまた新しい問題として最初から学習しなければならないのです。
 ところが同じことをチンパンジーにやらせると、チンパンジーは色を変えても正しく出来るそうです。
 理由は、チンパンジーの方がサルよりも前頭葉が発達しているからだと説明されそうですが、そうともいえない事実もあります。
 同じようなテストをするとオームやカラスはやはりチンパンジーのように正解をするのだそうです。
 それだけではなく、ドイツでの実験ではミツバチも違う刺激に対して同異の弁別ができたということですから、このテストに合格できるかどうかで前頭葉の発達を判断することは出来ないのです(アザラシもこのテストは合格するそうです)。
 
 ハトの場合はサルと同じように、同異の弁別は訓練によってできるようになるのですが、刺激を変えるとまたあらためて訓練しなければ出来ないそうです。
 そうするとハトはオームやカラスより賢くないと思いたくなるでしょうが、サルがカラスより賢くないとも思えないし、ミツバチの例もあるので単純に知能の差だとはいえません。

 このテストの意味は人間が考えたもので、「同じ」とか「違う」ということが具体的に分かるだけでなく抽象概念として理解できるかどうかを確かめようとしたものです。
 二つの色が同じとか違うとかいう事は、どんな動物でも見分けられます。
 サルにせよハトにせよ訓練を受けなくても、二つの色が同じかどうかぐらいはわかるはずです。
 訓練されて身につくのは、特定の色の組み合わせのときに特定の反応をすれば報酬が得られることに対する理解です。
 その後、新しい色の組み合わせを示されたとき、同じ色だということが分かっても、前に報酬を受けた色とは違うので反応しないのです。
 人間のほうは同じ性質のテストだと思っているのですが、サルやハトは人間の意図が分からないのです。

 訓練によってサルやハトは、色の組み合わせの異同を判断できるようになるというのですが、正答率は100%になるのかといえばそうではなく90%前後ということです。
 ということは同じ色かどうかは100%分かっているはずですから、報酬が得られるかどうか100%確信を持ってはいないということです。
 同じ色の組み合わせに反応すれば報酬が得られるということは、自然現象ではなく人間の側の意志ですから、他の色になったときも報酬が得られるかは不定です。
 他の色になっても同じように反応すれば報酬が得られるだろうと思うのは類推です。
 人間の側はサルやハトが原理を理解しないと思うかもしれませんが、彼らの側からすれば類推の問題なのです。


サルには類推が難しい

2006-10-17 22:21:59 | アナログとデジタル

 A.パスパレーとE.K.ミラーの実験でサルに2枚の色板を見せ、同じ色ならレバーを引かせる訓練をします。
 最初は赤、青、黄の三色のカードを使って訓練して、サルが十分訓練され、正解を出せるようになったらこんどは別の色を使ってテストをします。
 そうするとサルはどうしたらいいか分からなくなったそうです。
 この結果、サルは「色が同じならレバーを引く」ということが課題なのだとは理解していなかったと解釈されたのです。
 つまりサルは「赤と赤」「青と青」「緑と緑」という個別のケースを覚えて、そのときレバーを引くことを覚えていただけだったというのです。
 赤、青、緑の三色でやった訓練から類推して茶、黒、黄のときでも同じ色ならレバーを引くという応用が利かなかったのです。
 人間ならこどもでも同じ色ならレバーを引くんだということが簡単に分かりますが、サルは前頭葉が未発達なので、「色あわせ」という「大きな枠組み」を理解できなかったというのです。

 サルは人間に比べれば前頭葉が小さく、抽象的なルールの理解とか、状況の変化に応じた頭の切り替えは難しいのでしょうが、このテストでそういうふうに結論付けるのはサルに対し不公平です。
 サルは言葉が分からないので、あらかじめ言葉で指示は出来ません。
 最初に赤、青、黄の三色のカードで訓練する場合も、サルはただ二枚のカードを示され、同じ色の場合にたまたまレバーを引いたら報酬を与えられるという試行錯誤が繰り返されただけです。
 どーやら「赤と赤」「青と青」「緑と緑」の場合にレバーを押せばよいということを覚えた後、別の色のカードを示されるのです。

 人間相手なら「さてこんどはどれが正解でしょう」とか何とかテストが変わることが伝えられるのですが、何の説明もなければサルにしてみればとまどうでしょう。
 サルは人間のようにテストに慣れているわけではないので、前の訓練とルールが同じなのだからできるはずだと言われてもそうはいかないのです。
 色が変わってもルールは同じだから分かるはずだというのは、テストをするほうの理屈で、されるほうには分かるとは限らないのです。
 
 訓練の手続きとしては別の色でも試行錯誤で、同じ色なら正解という訓練をして、色が変わってもルールとしては同じだという訓練をすべきなのです。
 「色が変わってもルールは同じ」ということを何回やっても覚えられないということであれば、そこではじめてサルは規則の規則つまり一般原理が理解できないといえるのです。
 人間の場合は赤ん坊のときから言葉のシャワーを浴びて育っているので、このようなテストに順応できるようになっています。
 言葉を覚えれば、言葉の中にある原理とか考え方も同時に覚えているからです。
 サルと比較するのなら言葉を覚える前の幼児段階でテストするしかないのです。


視覚能力があるほうが錯視するとき

2006-10-16 22:28:39 | 視角能力

 左上の図形はザンダーの平行四辺形という錯視図形で、線aとbは同じ長さなのですが、aのほうが長く見えます。
 なぜaのほうが長く見えるかという説明で、心理学のテキストでは矢羽根の錯視によるとしているようです。
 矢羽根が広がっているほうが軸線が長く見えるというのですが、実際左下の例で見ると、上の矢羽根のほうが長いかといえばそんなことはありません。
 同じかむしろ、下のほうがややもすると長く見えるのですから、この説明は間違いです。
 もう少しまともな理由を考えて見ます。
 
 左下に三角形がありますが、辺xとyとを比べればyのほうが長いことがすぐ分かります。
 このときxに対する角dとyに対する角dを比べれば明らかにcのほうがdより大きいです。
 つまり三角形では大きい角に対する辺のほうが小さい角に対する辺より長いのですが、これは中学の数学の知識の範囲です。
 次に右の図の角eと角fを比べるとどちらが大きく見えるかといえば、fのほうが大きく見えるでしょう。
 eとfは同じ大きさの角なのですが、隣接する角との対比でeは小さく見え、fは大きく見えるのです。
 そうすると三角形ABCでは角Bより角Cのほうが大きく見えるので辺ABのほうが辺ACより長く見える、つまりaのほうがbより長く見えます。

 辺ABが辺ACより長く見えるということは角Cのほうが角Bより大きく見えるということだというのは中学数学の知識で分かることです。
 それならなぜ角Cのほうが角Bより大きく見えるかを考えればよいのです。
 矢羽根の錯視を説明に持ってくるのはいかにも心理学的な説明で、形の類似からの類推で、直接的な説明ではありません。

 ところで、この錯視図を見て誰でもがaのほうがbより長く見えるかといえば、そうとは限りません。
 線aと線bしか見なければaのほうが特段長く見えるということはないかもしれません。
 三角形ABCを意識すれば、無意識のうちに角Bと角Cを比較してしまうので、辺ABのほうが長く見えてしまうのです。
 つまり視野を広くして見る、すなわち視覚能力があるほうが錯視が発生するのです。
 そうしたことを知った上で、辺ACに注意を集中して見ると、角度に注意が向けられないため、辺ABと辺ACは同じ長さに見えるようになります。
 


年よりはダジャレを好む

2006-10-15 22:48:15 | 文字を読む

 心理学者のアイゼンクは老人と若者の情報処理の仕方の違いをテストをしています。
 この実験では4種類の単語リストについてかっています。
 第一群では各単語の文字数を数えさせ、第二群のときはおなじ音韻の単語を答えさせる。
 第三群はの単語についてはふさわしい形容詞を言わせ、第四群では各単語で浮かぶイメージについてどの程度ハッキリしているか評定させる。
 その後で各群の単語の再生テストをしたときの成績が上の図です。

 この結果で見ると、単語の文字数とか音韻とかいった形式的な情報処理をしたときは老人も若者も記憶量は変わりません。
 単語の意味にかかわる処理をしたときは、若者のほうが再生率が高くなっていて、老人のほうが成績が悪くなっています。
 この結果は普通に考えられていることとはちょっと違うようです。
 年をとると無意味言葉などの記憶は不得意になるから若者に劣り、意味の関連を持った記憶なら若者と同等であると普通は考えられているのではないでしょうか。
 ところが実際は逆で、意味との関連による記憶は、無意味記憶より再生率は高いけれども、若者に比べれば劣るというのです。
 言い換えると言葉の意味処理については年をとると衰える傾向があるということです。

 別の実験では老人は言葉を思い出すとき、単語の出だしをヒントで与えられたほうが、同じような意味をヒントで与えられた場合より成績が良いそうです。
 ところが若者は逆で意味のヒントのほうが音のヒントより成績が良いそうです。
 そういわれてみれば単なる語呂合わせのダジャレを老人のほうが好んでいて、あまりダジャレを頻発するのでヒンシュクをかったりすることがあるようです。
 ダジャレというのはどちらかといえば子供の言葉遊びのようですが、子供の場合は言葉の獲得過程でのものです。
 老人の場合は言葉の獲得過程ではなく、言葉の意味の喪失過程というような感じです。

 普通は言葉を意味なくしゃべるということは正常でないと考えられていますが、実際は意味なく覚えていたものも考えてみれば結構あります。
 おまじないとか、歌の文句とか意味が分からず覚えていたものが結構あります。
 「おもえばいととしこのとしつき」という卒業のときの歌詞の意味などたいていの人は知らないままです。
 受験のとき2の平方根を「ひとよひとよに」と意味の裏づけなしで語呂で覚えていてきにもとめなかたと思います。
 したがって文章を音読するというだけでは、意味に結びつくとは限らないので、としをとってからの読書は意味の把握を重視する必要があります。
 


ストループ効果の仕組み

2006-10-14 22:36:37 | 視角と判断

 ストループ効果というのは、文字の読みでなく色を答えるように要求されたとき、つい文字を読んでしまったり、つかえたりする現象です。
 文字の意味と色が矛盾するとき、色を言わなければならないのに文字を読む癖が抑えられずにでてきてしまうのです。
 ストループテストは普通は5,6色を使っているのですが、図の上のほうの例では単純化して赤と青の2色のみにしています。
 この例で、最初は「あお」と答えるべきなのに「あか」と言ってしまったりするかもしれませんが、ちょっと慣れればスムーズに言えるようになります。
 色が5,6色ある場合はなかなかスムーズに言えるようにならないのに、この場合は楽に言えるようになるのはなぜでしょうか。
 
 この場合は文字の線が太いのと、文字色が2種類しかないということで文字の色が強く印象づけられるためです。
 文字色の種類が多いと色の名前がすぐに口に出てこないのですが、2種類なら判断に迷わずすぐ出てくるようになります。
 通常のストループテストでは文字の線が細いのでインパクトがなく、文字の色を判断するのに間が空き、その間に読み癖が出てしまったりするのです。
 この例では色のインパクトが強いので少し慣れれば、読み癖を抑えて色の名前を素早く答えられるようになるのです。

 下の例は色を4色にしていますが、色だけを見て色の名前を「コレ」と特定しにくいので見本を上の枠に提示しています。
 見本を良く見て確認してから下の枠の文字の色を答えてみたとします。
 最初はあまり素早くいえないにしてもほとんど間違えないのではないでしょうか。
 ところが1,2回やって少しなれてきてスピードが上がってくるとつい色の名前でなく文字を読んでしまうようになります。

 最初のうちはひらがなで文字数が多いので読みが瞬間的に出てこないので、色の名前を先に口に出すことが出来ます。
 ところがしばらくすると、おなじ文字を何度も見たため、文字の読みが瞬間的にできるようになりますから少しでも間が空くと、読み癖が飛び出してくるのです。
 文字色の判断スピードも少しは上がるのですが、長い経験を基にした読み癖の復活は抑えきれないのです。
 上の例では練習によって読み癖を抑えるようになったのに、下の例では逆に読み癖が出てくるようになるのです。

 上の例でも読み癖を抑えて色の名前が出てくるようであれば、前頭葉の抑制機能は健全に働いているのですから、一般的なストループテストのように線が細く文字色の多いものに熟達する必要はありません。
 文字の読みはせっかく築き上げた自動的過程なので、これを無理やり抑制する練習などすべきではないでしょう。


意味が分からなくても音読できる

2006-10-13 22:15:58 | 文字を読む

 図は、笹沼澄子「高齢者における言語.認知障害の諸相:失語.痴呆」から。
 アルツハイマー型痴呆患者の発症後1年から3~4年にわたって高次脳機能を追跡検査した時に並行して実施した音読.読解検査のデータです。
 これは良く使われる漢字単語についての音読.読解検査ですが、もとの高次脳検査でのかな単語の音読.読解検査でも同じような成績だったそうです。
 つまり、年月の推移によって痴呆の症状が進行するにつれ単語の意味理解の成績は急激に低下するけれども、音読の成績は落ちていないのです。
 
 アルツハイマー型の痴呆症といえば、認知機能全般が低下するので、音読能力だけが保持されているというのは不思議です。
 音読機能が保たれていれば意味理解も保たれていてもよさそうなものですが、意味理解は失われているというのも不思議といえば不思議です。
 かなの場合は意味が分からなくても、かなの習い始めの幼児のように文字に対応する音声を発声すればよいので、脳機能が衰えても可能かもしれません。
 しかし、漢字の場合はおなじ漢字の読み方がいくつかあるので、意味理解を伴わないで音読できるのかなと疑問に思います。

 意味理解が出来なくなっても漢字の音読ができるということは、普通に考えられているのとは違って、漢字は純粋な表意文字ではないということです。
 漢字は音声と1対1には対応していなくても、表音文字として機能しているということになります。
 もし脳が漢字を表音文字として記憶しているのでなければ、意味が分からない患者は音読のしようがないはずだからです。
 そういえば昔から漢字を学習するときには、意味よりもまず読み方を学習してきています。
 極端な例では漢文の素読などといって、意味が分からないままともかく暗記するくらいに音読をするという教育もありました。
 読書百辺意おのずから通ずなどという言い方もありましたが、漢字と意味のつながりは意外と弱かったようです。

 この例を見ると、音読をすれば脳が鍛えられ、認知症が防げるという説もなんとなく違うのではないかという気がします。
 漢文の素読とかお経の音読とか意味が分からず読むということは従来からあったので、音読さえすれば前頭葉が全般的に鍛えられるなどということは、少し考えればおかしいときがつくはずだったのです。
 脳の血流で見ればなるほど音読のときは脳が広範囲で活性化しているのですが、それが有効な活性化なのかどうかは分かりません。
 読意味理解を重視するならば音読よりも黙読のほうがましです。
 音読は意味が分からなくてもできますが、黙読は意味が分からないと続けるのが苦痛なので何とか意味を理解しようとするからです。


サルにもストループ効果

2006-10-12 22:49:41 | 視角と判断

 サルにもストループ効果があるそうです。
 ストループ効果というのは、たとえば赤いインクで「あお」と書いてあり、文字の色を答えようとするとき「あか」と答えずに「あお」と答えてしまったりする現象です。
 人間は言葉を話すとき、文字を見ると注意がそちらにひきつけられ影響を受けてしまいます。
 サルは言葉を話すことが出来ないので、このようなことはないのですが、同じような干渉効果を言葉を使わないで作れば、サルでもストループ効果が見られるというのです。

 図は廣中直行「実験心理学の新しいかたち」に出ている実験です。
 サルにレバーをもたせ、スクリーン上にランダムドットを映して、ドットの状態によってレバーを離したり(go)、そのままもち続けさせます(no go)。
  テストの前にあらかじめドットの色が緑の場合はgo、赤の場合はno goを選ぶように訓練し、またドットが上に動いた場合にgo、下に動いた場合はno goを選ぶように訓練しておきます。
 テストはドットの色と動きを同時に示しますが、最初に手がかり画面で、中央の円が黄色なら色で判断し、紫なら動きで判断するように指示します。
 つまりドットの色と動きという二種類の刺激を同時に与え、片方の刺激を無視させるわけです。
 
 グラフは実験結果の一部ですが、色と動きが両方ともgoのときはどちらかがno goのときより答えの反応時間が短く、間違いも少ないという結果となっています。
 二種類の刺激が矛盾するときには判断に迷い、間違いも多くなるので、サルにもストループ的効果があるということが分かります。
 しかし正答率は二種類の刺激が矛盾する場合でも85%以上になっているので、サルの場合も状況に応じて大体正しい対応をする能力があることが分かります。
 人間に比べれば小さいながらも脳の前頭前野が発達して機能していると考えられるのです。

 人間と違ってサルの場合はテストのやり方を説明すればよいというわけにはいかないので、あらかじめ訓練をしておかなければなりません。
 訓練は相当時間がかかるので、サルの年齢、性、知能水準などによる違いなどを見るほどたくさんのサルを使うわけにいかないので、どんなサルを使ったのかは分かりません。
 サルなら大体どれも同じだろうということで納得するよりないのですが、ともかくサルにもストループ効果(a)があり、逆ストループ効果(b)もあるということが分かりました。

 ところで、人間の場合のストループ効果の場合、逆ストループ効果はほとんどないのは、文字を読むという行為が自動化されているためです。
 もし逆に色を答えるほうが自動化されていれば、文字が赤いインクで書かれているのを見ると、どんな文字も「あか」と読んでしまうのですからたまりません。
 どんな色で書かれていても「あか」は「あか」と読むように自動化されていなければ不便なのです。
 ストループテストが前頭前野に関係しているからといって、訓練を繰り返す人もいるようですが良い結果に結びつくかどうか疑問です。