60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

奥行き錯視は眼の自動焦点調節

2006-02-28 23:00:47 | 眼と脳の働き
 Aの縦線は4本とも垂直なのですが斜めに見えます。
 斜線によって、上の丸印の部分が下のほうより手前に見えるためにおきる、奥行きの錯視です。
 奥行きの錯視については、図形に奥行き感があると奥にあるほうは小さく見えるはずだと脳が解釈しているためにおこると心理学の本では説明されています。
 しかしそれでは、網膜に映った像と脳で感じている像が一致しないということになります。
 立命館大学の飯田健夫教授の研究によれば、奥行きを感じさせる平面画を見た場合、絵の中で遠くにある部分を見るときと近くにある部分を見るときでは目は焦点を変えているということです。
 絵の中で遠近感を感じる場合は見る部分によって自動調節を行っているというのです。
 そうすると網膜に映る像も自動的に変わって遠くに感じたものは近くに感じたものより大きくなります。
 したがって、脳が大きく見えるはずだと解釈しているというのではなく、実際大きく見えているのだということになります。
 
 実際、どうなのかをA図で確かめてみましょう。
 まず上の二つの丸を見て、視線をそのままにして下の二つの丸を見ます。
 そうすると焦点距離を変えないまま上の丸と下の丸を同時に見ていることになります。
 上の丸も下の丸も同じ平面にあるように(実際同じ平面上にある)見えるので、奥行き感はなくなります。
 したがって縦線は垂直に見えます。
 はじめてのときは上の丸からつい目を離して下の丸を見たりするので、どうしても縦線が斜めに見えたりしますが、少し慣れればうえの丸を見ながら下の丸を見ることができるようになり、縦線は垂直に見えます。

 同じことをB図でやった場合は錯視はなくなりません。
 上の二つの丸を見て、同時に下の丸を見ても、横線は水平に見えず、斜めに見えるでしょう。
 目が左右にあるので、上下を同時視しても無意識のうちに左右別に焦点調節をしてしまうのです。
 Bでも丸の位置をAと同じようにして、今度は左右を同時に見るようにすれば横線は水平に見えるようになります。

 同じ図でも焦点の調節によって見える大きさが変わるのですから、網膜に映った像の大きさが変わるのであって、脳が勝手に大きさを解釈しているのではないことが分かります。

現実問題と論理学の推論

2006-02-27 23:31:33 | 視野とフレーム
 「20歳以上なら酒を飲んでもよい」という問題ならほとんどの人が4枚カード問題を正解します。
 問題が具体的で、常識の範囲にあるからとも思われますが、「18歳過ぎると酒を飲む」ということを確かめる場合はどうでしょう。
 未成年者は禁酒と言っても、実際は18歳から飲酒していますから、具体的で常識的な問題です。
 論理学的には1枚目と4枚目をめくるというのが正解だということになるのですが、多くの人は1枚目と3枚目をめくるでしょう。
 「18歳過ぎれば酒を飲む」という場合、論理的には18歳未満については何も言っていないので、18歳未満が何を飲もうと関与していません。
 したがってビールを飲んでいるのが18歳以上でも未満でもどちらでもよいことになります。
 つまり、2枚目と3枚目をめくる必要がないということになります。
 要するに普通の4枚カード問題と同じで、具体的な問題でも論理学的に誤りやすいものは誤りやすいのです。
 しかし、3枚目をめくる人は形式論理的な問題でなく、実証的な問題として考えていて、実例を調べることが確かめることだと前提しているのです。

②は推論の問題ですが、「太郎君は答えがわかった」という推論は論理的には誤りとされます。
 先生は「答えがわかった人は手をあげて」といっただけで、わからない人が手をあげてはいけないとは言ってないからです。
 たいていの人は「ソンナ馬鹿な」と、思うでしょう。
 そう思うのは、先生がそういわなくても、分からなければ手をあげないのが常識だと無意識のうちに思っているからです。
 しかし、みんなが手をあげるので、つい太郎君も分からないのにあげたという場合もありえます。
 アメリカ人のように、よく分からなくてもともかく手をあげると、積極的だと評価される場合もあります。
 あるいは、太郎君は分かったと勘違いしているのかもしれません。
 またあるいは、太郎君は分からないので、質問しようとして手をあげたのかもしれません。
 「分からなければてをあげないはずだ」という思い込みが現実的かどうかは分からないのです。
 だからといって、「手をあげない生徒は分かっていない」というのは論理的には正しくても、現実はそうとは限りません。
 面倒だとか、目立ちたくないとかさまざまな理由で手をあげないことが考えられるので、論理的な推論が正しいとは限らないのです。
 推論を行う前に隠れている前提条件を明らかにしないと結論は出ないはずだからです。


4枚カード問題2

2006-02-26 21:38:52 | 視野とフレーム
 ①はシアーズ問題というのを変形したもので、「5万円以上の伝票は主任が裏にサインする」という規則があるとき、裏返して確認する必要のあるものはどれかというものです。
 この問題の正解は表が¥88000の伝票と、裏にサインのない伝票ということで、ほとんどの人が正解するそうです。
 形式論理では、「5万円以上→裏にサイン」なら「裏にサインがない→5万以下」だから1枚目と4枚目をめくればよいということになります。
 そうすると、普通の人も形式論理を使って正解するように見えますが、これは抽象的な例でなく経験に即した具体的な問題だからだとも考えられます。
 
 ところが、この問題は解釈によって正解は違ってきます。
 5万円以上ならサインするという規則があるとき、形式論理では5万円以下のときサインしていてもかまわないので、2枚目と3枚目はめくる必要がないとしています。
 しかし、実務上はそれでは困るのです。
 たとえば主任が3万円以上ならサインすると思い込んでいれば「5万円以上にサイン」という規則が乱されているということになります。
 この場合(イ)サインをネグっていないか(ロ)基準額を間違えていないか、のどちらを調べるかによって正解は変わってきます。
 つまり、問題をどのようなものとしてとらえるかということを抜きにして問題の解法を知っているかどうかを評価しても仕方がないのです。

 ②は「20歳以上なら酒を飲んでよい」という規則が守られているかどうか調べるにはどれをめくればよいかという問題です。
 この場合もほとんどの人が「20歳未満が飲んでいるもの」と「ビールを飲んでいる者の年齢」を調べるということで、2枚目と3枚目を選びます。
 多くの人が正解する理由は形式論理を使うからではなく、「やってよい」とか「やってはならない」といった許可や禁止という日常生活ルールを適用するときの考え方をするからだといいます。
 「法律上、未成年は酒を飲んではいけない」と現代の日本の社会では理解されているので特に考えなくてもこの問題は正解できるのです。
 「20歳以上ならよいといって、20歳未満については述べられていないけれども、20歳以下は禁止ということが分かっているからです。
 
 普通の問題は自然言語で表現されていて、論理学で使われる言葉とは同じではありません。
 論理学的な形にすると何か変だなとか、問題が単純化されすぎているとか、すりかわっていると感じたりします。
 論理学の場合は示されている文字通りの意味だけで推論し結論が出るようになっていますが、日常問題では問題の前提とか目的とかを考えないと意味のある解決は得られません。
 したがって形式論理だけで日常的な問題が解決されるケースは少なくなります。

4枚カード問題の問題

2006-02-26 00:07:48 | 視野とフレーム
 「表がKならば裏は偶数である」という規則が成り立っているかどうかを調べるには,最低どのカードとどのカードをめくったらよいか。
「4枚カードの問題」という心理学や論理学などで見かける問題です。
正解は「K]と「7」をめくるというのですが、「K]と「4」と答える人もいます。
 「表がKなら裏は偶数である」ということは「裏が奇数なら表はKではない」ということなので「K]と「7」をめくるのが正解と考えるべきだと論理学ではなっています。
 この問題の正解率は20歳代と比べると40歳代はかなり低くなるとかで、年をとると推理能力が落ちてくるなどといわれています。
 ソンナふうな事を聞けば答えを間違えた人は、「年のせいで考える力が落ちたのかな」などと落胆するかもしれません。

 市川伸一「考えることの科学」によれば、大学生を対象にして正答率を見ると欧米の場合は10%足らずで日本の大学生は文科系で30~50%、理科系で70~90%だということですが、高校数学で形式論理を勉強した影響があるかもしれないとしています。
 そういわれれば40歳から正答率が低くなるのも形式論理を習わなかっただけで考える力が落ちたとは限らないのかもしれません。

 それはそうとして、この問題を間違える人が多いのはなぜなのでしょうか。
 人間は勉強しなければ論理的に考えることが難しいということなのでしょうか。
 常識的に考えるということは非論理的で、間違いが多いということでしょうか。
 
 ②は同型の問題の内容を変えたもので、「両親が天才ならば、子供は天才である」ということが成り立っているかどうかを調べるにはどれとどれをめくればよいかという問題です。
 普通の人は「天才両親」と「天才少年」をめくるでしょう。
 形式論理なら「天才両親」と「凡才少年」をめくるのが正解ということになるはずなのですが、「ヘンダナ」と思うはずです。
 「凡才少年」をめくれば大抵「凡才両親」となるはずですから、この法則が否定はされなくても確かめる有力材料とはいえません。
 「天才少年」をめくってその裏が「天才両親」であれば、やはりそうかと思うし、「凡才両親」であれば、そういうこともあるかと思う程度です。
 「両親が天才であれば子供は天才」というような法則を(もしあるとして)確かめる場合、実例を探すのが普通で、凡才の両親が凡才であるという例をしらみつぶしに探すというようなことはしないでしょう。

 「タバコをすいすぎると癌になる」ということを確かめるという場合でも、「タバコをすいすぎている人」かあるいは「癌になった人」を調べるのが普通で、「癌になっていない一般人」を調べることはないでしょう。
 普通何らかの法則が成立するかどうか確かめるときは、まず実例を探すもので、該当しない例を一つ一つあたるというようなことはあとまわしです。
 詐欺は特殊な実例をあげてさも一般的なことのように信じ込ませようとするのが常套手段ですが、新しい法則や規則の発見が実例のを確かめることから始まることが多いのも事実なのです。

 

注視範囲を広げる

2006-02-24 22:55:11 | 視野とフレーム
 小さな正方形にはさまれた線と大きな正方形にはさまれた線は同じ長さなのですが、小さな線にはさまれたほうが長く見えます。
 二つの線を比べようとするとき、片方を見てから視線を移してもう片方を見ます。
 同時に両方を見るというのでなく、かわるがわる片方づつ見るのが普通でしょう。
 そうすると、線をはさんでいる正方形の大きさとの比較で、大きな正方形に囲まれているほうが狭く感じるので、線は短く感じてしまいます。
 二つの線を比べるのですから同じ条件で見るようにしなければならないはずなのですが、かわるがわる見るという習慣にとらわれて見るために同じ長さに見えないのです。

 両方の線を同じ条件で見るには、同時に見るのが一つの方法です。
 図のx1、x2、x3、x4の4点に同時に注意を向けて見ると、二つの線は内側にあるので同時に見えるようになります。
 一度に4箇所を同時に注視することが難しければ、まずx1とx2を同時に見ます。
 そうすると、左側の二つの正方形の右辺がそろって見えるようになりますから、二本の線の左端がそろって見えます。
 つぎに、x3とx4を同時に見ると、右側の二つの正方形の左辺がそろって見えますから、二本の線の右端がそろって見えます。
 左端と右端がそろって見えるのですから、二つの線は同じ長さであることが分かります。
 右側の図は左側の図を90度回転させたものですが、同じように見方を変えることによって、二本の線が同じ長さに見えるようになります。

 二つの同じ大きさの図形が違う大きさに見える場合、二つの図形が同時に見えるように注視範囲を広げるとたいてい同じ大きさに見えます。
 逆に言えば、注視範囲を広げられたかどうかは、二つの図形が同じ大きさに見えたかどうかで確かめることができるわけです。
 文字を読んだりするときも、普通はどうしても狭い範囲の文字列を注視してしまいがちで、そのため目が疲れ、理解力も落ちます。
 一度に見ることのできる文字数を多くすれば目が疲れにくい上に、理解力も向上するのですが、習慣でつい狭い範囲を注視してしまうのです。
 したがってまずは注視範囲を広げる練習をして目の使い方のくせをかえるのがよいと思います。

視野の構造化

2006-02-23 23:54:07 | 眼と脳の働き
 文字を読むとき、はっきり見ることができるのは7文字ぐらいで周りはぼやけて見えるといいます。
 実際に見ているときは、中心部分がはっきり見えて、周りがぼやけて見えているという自覚はありません。
 しかし、目を動かさないで見ると、目を当てたところから左右4文字以上はなれたところの文字ははっきり見えないでしょう。
 見えていてもどんな形なのか把握できず、読むことが困難になっています。
 目の網膜の中心部に映る部分は解像度が高く、周辺部は解像度が低いためです。
 それでも、目の注意はハッキリ見えている中心部分の像に向けられているので、周辺部がハッキリ見えないことに気がつかないでいるのです。

 もし、周辺部分にも注意が向けられれば、ハッキリ見えなくてもある程度の範囲までは文字を認識することはできます。
 図の一番上の行は、全体にぼやけているだけでなく、無意味な文章でまとまりがない(構造化されていない)ので、読むのが非常に困難です。
 ところが2番目の行の場合は、文章に意味的なまとまりがあるので、周辺部分も注意を向ければ文字が何であるか分かります。
 解像度が低くても文章のつながりから、文字の見当がつくので、自然に読めたりします。
 3番目の行は同じように周辺部分をぼやかしていますが、無意味文なので読み取りにくくなっています。
 
 網膜の周辺部分は視神経が少ないので、いくら訓練をしても解像度を上げることはできませんが、注意を向けることができれば、低い解像度でも文字を把握することはできます。
 よく知っている文字であれば詳しく見なくても、ある程度ぼやけた状態で見ても分かりますし、文章の前後の関係からも自然に分かったりします。
 子供のうちは文字をよく知らないので、一文字一文字を確認しなければならないため、狭い範囲に注意を集中させて読む必要があります。
 成人の場合は読書経験があるので、一文字一文字に注意を集中する必要はなく、ある程度広い範囲に注意を向け、一度に多くの文字を把握するほうが文章が理解しやすくなります。
 それでも、子供のときから一文字一文字読む習慣がついていたりすると、つい狭い範囲に注意を集中させて目を疲れさせたりします。
 視野を広げるというのは注意の幅を広げることで、視野の範囲を構造的に見ることです。
 単に知覚できる範囲を広げるということではなく、認識できる範囲を広げることです。


語呂合わせの語源説

2006-02-22 23:06:36 | 言葉と文字
 「たわけ」は、なぜ「たわけ」というような語源の説明で最も初歩的なのは語呂からの連想による説明です。。
 「たわけ」は「田分け」で田を分割相続させると子孫が貧窮するから、愚かなことを「たわけ」というようなものです。
 「たわけ」は昔は「たはけ」と表示していたので「田分け」がまったく根拠のない説であることは言うまでもありません。
 「た」と「わけ」という音からの連想で考え付いたもので、落語の「矢が当たってカン、矢カン.やかんとなった」という語源説となんらかわることはありません。
 それでも、こういう語呂合わせを信じるひとが結構いるので「はたらく」は「はた」を「楽」にすることだなどという説明に妙に納得したりします(「はたらき」は「はた」を「らき」にすること?)。

 図の例は韓国人の作家による語源説で、緑の語源は韓国語音で解釈すると説明できるというものです
 「ミドリ」は分解すれば韓国語音で「水石」と解釈することができ、水中の石は苔むして緑色だから「ミドリ」は緑色を指すことになったといいます。
 普通の人は赤とか青とか基本的な言葉を何でそういうかなどと考えません。
 説明される言葉というよりもほかの言葉を説明するための言葉だと考えているでしょう。
 たまたま韓国人が「ミドリ」という日本語を聞いて韓国語音に対応させて語呂合わせをしたのでしょう。
 説明のしかたはまったくの思いつきであることは、日本語で「石」のことを「ドリ」というような例がほかにないことですぐに分かります。
 こんな説明でも大昔は朝鮮から渡来した人が多かったという歴史があるために、「そんなものかな」と納得する人もいるかもしれません。
 水中の石は苔むして緑だなどというのも、いかにもこじつけで水中の石が緑色とは限らないし、そんな回り道をしなくても苔が緑色なら緑は「こけ」と呼べばよかったということになります。

 つぎの「かしわ」についても韓国人なら「ガシバル」という音が「かしわ」と似ていると感じるかもしれませんが日本人には「エー?」という感じで「これが説明になるのかなあ」と不思議に思うはずです。
 鶏だけでなくカラスもスズメもハトもみな「かしわ」というのかしらん。
 鶏の足跡が木の枝に似ているから鶏のことを「木の枝」と呼んだというのですが、まさか韓国語で鶏のことを「木の枝」と呼んでいるわけではないでしょう。
 それがなぜ日本で「かしわ」(ガシバル=木枝)となるのか、まったく混乱した思考法です。
 言葉を分解して、似たような韓国語音を対応させてみて連想で結びつきそうなものを当てはめてみたということです。
 言葉遊びの一種だと思えばよいのかもしれませんが、それにしてはできばえがいまいちです。

単語家族

2006-02-21 23:30:53 | 言葉と文字
 語源説には、発音が似ていれば言葉の意味も似ているという考え方があります。
 たとえば夏(なつ)と暑(あつ)いからできた言葉だというような具合です。
 何か、小学生のクイズみたいですが、それでは冬はどうなるのかと聞かれたら答えようがないはずです。
 音義説は一貫性を持たせることが苦手なのです。
 もし発音が似ていれば言葉の意味も似ているというのであれば、駄じゃれのような語呂合わせの言葉遊びはなかったでしょう。。
 
 漢字では単語家族という考え方があり、発音が似た文字は似たような意味を持っているとして、文字の意味を説明しています。
 たとえば「母」という文字を引くと、漢和辞典によっては、毎、梅、媒、牧などが単語家族とされています。
 「毎」という字はほかの説では象形文字として、婦人が祭祀にいそしむ姿とか、草木が豊かに盛んな様子を示しているとしていますが、単語家族説では「母」と意味を共有しているとして、次々と生ずるという意味だとしています。

 「梅」の場合も木の名前が「毎」と音が似ているというだけでなく、安産を助ける木だとしています。
 実がすっぱくてつわりに利くとかいっても、生食は毒だし、実が多くなるといっても梅が一番というわけでもないので、こじつけの感じはします。
 「媒」では、男女の仲立と母が意味通ずるとするのですが、主体と客体がごちゃごちゃになります。
 「牧」にしても、無理に意味の共通点を探してきたという感じです。

 発音が同じで意味が違うのであれば、その言葉が使われた前後の関係からどの意味か推測することができるのですが、意味が同じでは混乱してしまいます。
 意味の微妙な違いは文字の違いに表れているというのであれば、それは本末転倒です。
 文字は後からできたのですから、文字の助けを借りなくても意味の違いが分からなければならないはずです。
 同じ発音なら意味も同じという考えは一見説得力がありそうですが、混乱をもたらすだけなのです。

連想と字源解釈

2006-02-20 22:13:00 | 言葉と文字
 黄という字は象形文字で、火矢の形から出来たのだそうです。
 火矢を指していたものが、「火矢のようなもの」を指すようになり、火矢から連想される火の色の意味から、黄色を意味するようになったとされています。
 象形文字といっても形を似せた対象を指すだけでなく、「~のようなもの」あるいは「~といえば」というふうにそこから連想されるものを意味するようになります。
 このようにすると、いろんな漢字をつくることができますが、解釈もいろんな解釈が出来ます。

 たとえば「鉱」のもとの字である「鑛」は金偏に廣ですが、廣の音が荒と同じで荒金ということで、未精錬鉱石を指すという説が一般的です。
 ところが、廣のなかの黄に意味があるとして、黄色に光る金属を含んだ鉱石だという説もあります。
 文字の形から意味を受け止めようとする説は、うまくはまるときは印象に残り、説得力があるので生き続けます。
 
 「廣」という字はどうでしょうか。
 「广」は大きな家を示すということですが、なかに入っている「黄」はどう説明するのかなと思います。
 一般の説は黄の音は空で、何もないという意味なので、広くて大きいという意味だとしています。
 これで一応納得するのですが、黄は単なる音を示しているのではなく意味を表しているという説はあきらめません。
 黄は文字通り黄色い光で、黄色い光が四方に広がるから廣意という意味になるのだとしています。
 何とか説明するものだなあと感心しますね。
 
 それでは「横」のときは、なんで黄がついているのだろう、まさか横は黄色い木ということではあるまいと思ってしまいます。
 ところが黄は広がる光だとして、中心線からはみ出て広がる横木を意味するというのです。
 こじつけだとは感じますが、なるほど漢字というものは、意味を広げる力が強いなと思います。
 形からの連想も出来るし、似たような音からの連想も可能なので自在に造字が可能となり、意味も膨らませることが出来るのです。
 見れば意味が分かるというようなきちんと限定した意味はありませんが、連想の幅が広いので、時代によって意味が変わっても後付けで説明が可能なため、生き残っていかれるのだと思われます。

凝集性のある文字

2006-02-19 23:20:58 | 眼と脳の働き
 漢字は単語が一字で表される場合が多いのですが、カナや英語の場合は幾つかの文字が集まっています。
 単語のなかの文字が、お互いにひきつけあって一まとまりに見えることを、凝集性といいますが、上の図で見るように、カナは凝集性がありません。
 この例では漢字は一字なので最も凝集性がありますが、英語の小文字も文字数がある割には凝集性があります。
 瞬間的にぱっと見てその単語がなんという単語か分かる、つまり単語の中の文字を一つ一つ確認しないでも全体的な形かで分かるのが凝集性のある表記法なのです。

 ひらがなの場合は凝集性がないので、ひらがな表記の場合は、つい一文字一文字呼んでしまいがちです。
 カタカナもひらがなに比べればわずかに凝集性がありますが、カナばかりの文は
英語のように分かち書きをしても非常に読みにくい文章となります。
 英語の場合は意外と凝集性が高く、一つ一つの文字を確認しないでも、単語を見てその姿全体から直ちに意味を理解できるそうです。

 アメリカの速読訓練の中にも文字を一つ筒確認していくのではなく、単語の形を見て瞬間的に意味が分かるようになる訓練法があります。
 よく漢字は字を見れば音読しなくても意味が分かるといいますが、そういう意味では英語の場合も凝集性が高いので、読みなれると、見た瞬間に単語全体の姿から意味が分かるようになります。
 日本語のローマ字表記は同じようにアルファベットを使いながら、凝集性が低いので読みにくくなっています。
 英語の場合でも大文字ばかりで書かれた場合は凝集性が低いので小文字の場合と比べるとはるかに読みにくくなります。