60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

言葉の要素と表意文字

2007-07-31 22:51:33 | 言葉と意味

 子供は10+1=の答えを書かせると11としないで、101と答える場合があるそうです。
 大人からすればドウシテこんな間違いをするのか不思議かもしれません。
 10+1=101としてしまうのは、10と1を文字として加えているからなのですが、101は「ひゃくいち」でなく「じゅういち」だと思っているのかもしれません。
 漢数字で10+1を書くと十+一=となり、答えは十一で先の答えの出し方はまんざら不合理とは言い切れないでしょう。
 ローマ数字で書いても10+1=はⅩ+Ⅰ=となり、答えはⅩⅠで漢数字と同じやり方となります(ただし十一+一は十一一でなく十二で、ⅩⅠ+ⅠはⅩⅠⅠです)。

 10+1=101とした子供は数字を表意文字と考えていて、10は「じゅう」つまり「十」と同じと考えています。
 1と0という記号を組み合わせて10で十を表わし、1と0と0を組み合わせれば「百」を表わすというふうに、記号を組み立てて意味を表わすというところまで理解ができていないのです。
 漢数字やローマ数字は表意文字となっているので、100+1は「百一」、「CⅠ」となり、アラビア数字では1001とならず101です。
 一やⅠはあくまでも「いち」の意味でしかありませんが、1は「じゅう」をあらわす要素となったり「百」をあらわす要素となったりしますからより抽象的です。

 右の図は京大の霊長類研究所で使用したチンパンジー用の図形言語ですが、チンパンジー用の図形言語というのはみな表意文字です。
 一つの図形が一つの意味を表わしていて、チンパンジーは図形と言葉の意味を関連付けて覚えますが、図形の要素を組み立てて意味を理解するというようなことはありません。
 たとえばaは「手袋」を意味することになっていますが、なぜこれが手袋なのかとか言う理由を考えるということはなく、ともかくこれは「手袋」を現しているとして覚えるのです。
 図形の要素とその組み立て方の規則によって意味を理解するということはないのです。
 
 表音文字というのは「かな」でもアルファベットでも音声言葉を要素に分解して、要素の組み立てでいろんな言葉を表現しています。
 「いぬ」は文字では「い」+「ぬ」ですが、意味は「い」+「ぬ」でなく「いぬ」です。
 ⅩⅠ+Ⅰは「ⅩⅡ」ですが「じゅういち」+「いち」は「じゅういちいち」ではなく「じゅうに」なのです。
 表音文字は記号を音声と結び付けていますが、文字を基本的な要素の組み合わせで表現するには必ず音声と結び付けなければならないというわけではありません。
 
 コンピータの機械語というのは0と1だけの組み合わせでできていますが、この組み合わせでできた言葉は音声と結びつけられてはいませんが、特定の意味を持っています。
 記号の組み合わせが特定の意味に対応させられているという点では、カナやアルファベットと同じですが、要素数が少ないからといってもチンパンジーに理解させることはできないのです。
 

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視覚的な記憶と眼の動き

2007-07-30 23:17:53 | 文字を読む

 文字を読む場合、横書きなら左から、縦書きなら上から見ていくというのが普通で、眼は無意識のうちに方向付けられます。
 そのため、文字を先頭から順に読んでいくという癖が取れず、ひとかたまりの文字をひと目で読み取ろうとしても、つい先頭から読もうとしてしまいがちです。
 普通の文字を読んでいるときは、上からあるいは左から見ていくということが習慣づけられているという意識はありません。
 
 しかし図のように文字が斜めにならべられると、方向によって読みにくさが違いますから、習慣づけられた方行と、習慣付けられていない方向があることがわかります。
 カナ漢字文の場合、A、B、E、Fのうちもっとも読みやすいのはFで、最も読みにくいのはEです。
 Aは左から右上に向かっているので、上から下に読むことに慣れている人にとっては読みにくいでしょう。
 これにたいし、Bは右上から下に向かっているので、左から横に読むことに慣れている人にとっては読みにくくなっています。
 Eが最も読みにくいのは、上からも、左からも文の方向が逆になっているからです。

 ここで文字を10秒ほど見てから画面を見ないで、文を先頭からでなく最後から一文字づつ思い出して紙に書くとします。
 もし頭の中に映像として記憶されているとすれば、記憶イメージどおりに逆に書いていけばよいのでEが最もやりやすい可能性があります。
 文を映像として記憶するというのはなかなか難しいので、たいていの人は文を読んで覚え、覚えた文の最後のほうから思い出して書こうとするでしょう。 
 「漢字と日本語」と読んで「漢、字、と、日、本、語」と分解し、後ろのほうから一つづつ思い出して書こうとするのですが、簡単にはいきません。
 まず「語」と書いて次の「本」は「漢字と日本、語」と思い出して「本」と書くように、前のほうから順に思い出してきてたどり着きます。
 
 文の場合は文字が6文字程度あっても、文として簡単に覚えられるので、視覚的にハッキリと記憶していなくてもそのことに気がつきません。
 そこで「764283」といった数字列を見て記憶し、紙に「382467」というように逆に書き出そうとします。
 この場合数字列を読まないで視覚的に記憶できれば、頭の中に記憶された視覚イメージを逆に読んで紙に順番に書けば良いので簡単です。
 この場合数字を音読して覚えても、最後の「3」を書いて次の数字を想いだそうとしても、字を書いている間に忘れてしまったりします。
 文と違って数字列は意味がないので忘れやすいためです。

 そこで数字を読まず映像として記憶しようとするとき、後ろから想いだそうとする時に有利なのはCよりもDです。
 同時に見えるといってもなれた方向に眼が動き、数字を読むことによって記憶しようと
するので、Dのほうが後ろからの文字列の並びを記憶しやすいのです。
 読むのでなく、視覚的に記憶しようとするならば、読みにくい方向の文字列あるいは数字列を見るのが有効なのです。
 
 

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逆方向からの読み

2007-07-29 22:30:31 | 文字を読む

 ある高校の野球部では左打者に右から左に書いた横書きの文章を読ませる訓練をしたそうです。
 横書きの文章は左から右に読んでいくので、視線を左から右に動かす癖がついていて、右から左の動きを追うのが苦手になっている可能性があります。
 右打者の場合、投手の投げた球は左から来るのでよいのですが、左打者の場合は右から来ることになるので、眼の動かし方が逆になります。
 理屈では逆方向に書かれた文章を読むという訓練が打撃に効果的かもしれませんが、この場合は実際に打撃成績が向上したしそうです。

 速読の訓練では文章を逆方向から読むというのがありますが、この場合は文章が逆方向から書かれているわけではなく、普通に書かれた文章です。
 この場合は文章を左から右に読んでいき、次の行の行末から行の先頭に向かって読めれば効率が良いと考えるからのようです。
 
 効率はともかくとして、逆方向から文章を読むというのは別の効用があります。
 文章を読むとき、端から一文字づつ読むのではなく、文章の句や文をひと目で読み取るレルようになれば眼が疲れず、また文章の意味も把握しやすくなります。
 読みを習うときは一つ一つの文字を端から順に読んで単語を把握し、さらに文章の意味を理解していくのですが、これはあくまでも習い始めのときのやり方です。
 眼には7文字以上の文字がはっきりとひと目で見えるのですから、慣れてくれば一文字づつ読み取らなくても良いはずです。
 
 たとえば図のように「参議院選挙、投票しましたか?」というような短文を読むときひと目で読み取れても良いのですが、順に読む癖が抜けないとひと目では読み取れません。
 はじめの「参議院」ぐらいはひと目で読み取れてもそのとき「選挙」のほうは眼にはいらなかったりします。
 ところが後ろのほうから読むと、「選挙」を読み取ろうとしたとき「参議院」が自然に眼に入ります。
 「投票しましたか?」を読むときも後ろから読もうとするときは、「投票」まで目に入るので、全体を人目で見ることができるようになります。
 逆から読む場合は文字を一つ一つ順に読んでいっては、意味が読み取りにくいので、どうしてもひとまとまりの文字をとらえて意味を読み取ろうとするので、自然に文字をかたまりで読み取ろうとするようになるのです。

 文字が逆方向に書かれていた場合は、順方向から一文字づつ読んでは読み取りにくいだけでなく、逆方向からでも一文字づつ順に読んでは意味が理解できません。
 どうしても文字をひとまとまりにして見ないと意味がとりにくいのです。
 文字をひとまとまりにして読もうとすれば、視線の動きが大きくなり固視をしなくなるので眼は疲れにくくなります。
 逆方向の読みは一つづつ文字を読む癖をなくすのに役に立つのです。
 
 
 

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視覚判断とストループテスト

2007-07-28 22:34:51 | 視角と判断

 スクリーンに色のついた赤または青という文字を表示します。
ルールが次の三種類のとき
 A:文字の色が青のときできるだけ速くボタンを押し、文字の色が赤のときは押さない。
 B:文字が青という文字のときにボタンを押し、文字が赤のとき押さない。
 C:どんな文字が出てもボタンを押す。
 
 文字が表示されてからボタンを押すまでの時間はCがもっとも短くて、0.2から0.3秒程度です。
 ところでAとBとではどちらがボタンを押すまでの時間が短いでしょうか。
 
 ストループテストというのを知っている人ならBのほうが短いと考えるかもしれません。
 ストループテストというのは、色の名前を色インクで表示して、文字の読みでなく文字の色を答えさせるものです。
 文字が青色で「赤」と表示されたとき、文字の色が青なのですから「あお」とこたえるっべきなのに、「赤」と書いてあるので、つい「あか」と答えようとしたり、答えてしまったりします。
 文字の色を答えるのは簡単なことなのに、文字の色と文字の内容が違うと文字を読みそうになってしまうのは、文字を見ると自動的に読んでしまうため、文字の色が青だと判断する前に「あか」と呼んでしまって、声に出そうとするのだという説明があります。

 この説から考えると、当然Bのほうが短いと予想されます。
 ところが実際に試してみると、わずかではありますが、Aのほうが短いことがわかります。
 Cの場合に比べると、文字の色を判断するのに時間がかかるので、0.1秒程度長くなりますが、Bのほうはさらに0.05秒から0.1秒程度長くなります。
 普通に考えれば色を判断するほうが、文字を判断するより早いという結論になるはずなのですが、ストループ効果を説明しようとして、読みの自動化を強調してしまうようです。
 
 ストループテストでは、判断した後ボタンを押すのではなく、言葉で答えることになっています。
 文字を見てその色は判断できているのですが、答えを言葉で表わそうとしたとき、見ている文字の読みをつい口にしてしまうということで、色の判断の前に読みが入ってしまうということではないのです。
 つまりストループテストでわかるのは、色の判断は言葉を使わなくてもできるけれども、文字の判断は言葉を使わないと難しいということです。
 「青」とか「赤」という文字を読まなくても判断できるようになれば、Bの場合もAと同じ程度の反応時間となり、自動的に音読はしなくなります。
 文字を見て、音読しなくても意味が分かればストループテストの成績が向上するかもしれませんが、たいていの人は音読する癖があるのでミスを起こすのです。

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右脳で覚える文字

2007-07-24 23:13:58 | 言葉と文字

 図はS.ランボーがチンパンジーに覚えさせた図形文字の一部です。
 チンパンジーは人間のように発声できないので、人間の音声をまねさせることは出来ません。
 そこで、彼らに言葉を教えようとすると、視覚に訴える形の言葉を使うことになって、このような図形言語が考案されるのでしょう。
 人間が言葉を伝える手段として文字を作る場合、ものの形に似せた象形文字からスタートするのが普通ですが、チンパンジー用として作るときはなぜか象形文字ではありません。
 
 象形文字を作るのがが一番簡単そうに見えますが、じっさい象形文字を作ろうとすると、結構難しいことがわかります。
 たとえば漢字で「木」という文字は象形文字ということになっていますが、桃の木とか樫の木、松の木などいろんな木があって、それぞれを姿に似せて文字を作るのは大変で、その上それらをまとめた形で「木」という文字を作るのには相当程度の抽象力が必要です。
 言葉を記号で表すとき、記号がその言葉が表すものの形をしていなくても差し支えないのです。

 サルがモノを表す記号を覚えるときに、記号がそのモノの形に似ていなくても良いならば、いっそのことカナとかアルファベットを覚えさせて、カナやアルファベットで表された単語を覚えさせてもよさそうなものです。
 たとえばカナを覚えさせ、「いし」は「い」と「し」をつなげたものと教えれば、かな文字をつなげて言葉を表すことが出来そうに思えます。
 
 ところが実際にはこのような方法はチンパンジーには難しいので、ひとつの記号にひとつの言葉を対応させて覚えさせるという方法をとっています。
 表音文字のように要素を組み合わせて作った単語を覚えるのは手間がかかるので、漢字のようにひとつの記号で一気に覚えるほうが楽なのです。
 
 幼児でも簡単に漢字が覚えられるとして、文字と写真を同時に見せ(たとえば鷹という漢字と鷹の絵)て覚えさせるという教育法があります。
 幼児はこの段階ではサルと同じで、右脳でしか文字を覚えられないで、この文字がどのような要素で成り立っているかということまでは分らないのです。
 それでも漢字とその読み方、意味(ひとつだけ)をどんどん覚えていくので大人はびっくりするのですが、このような覚え方が本当に良いのかどうかは分りません。

 文字のかたまりをを見て、ひとつのまとまった意味として理解するというのは、幼児やチンパンジーのように要素に分解できないで丸ごと理解するのとは違います。
 細かい要素をつなぎ合わせて全体の意味を理解する、という過程を経験した上でのことです。

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音読抜きの理解

2007-07-23 22:58:23 | 文字を読む

 アルファベットは表音文字といわれています。
 アルファベットで表された言葉は音声を示しているので、読み手は文字を音声に変換して、その音声から言葉の意味を理解するといいます。
 そうすると、単語のつづりが間違っていれば、違う音声になりますから間違った意味を受け取ったり、意味が分からなかったりするということになります。
 たとえば英語では綴りは左から始まっていて、文字の順序が変わったりすれば違った読みになり、読めなかったり別の語になったりします。

 ところが英語の速読法では第一番に文字つづりを音声化する(つまり音読)のをやめなければいけないとしています。
 単語の綴りを左から順にとらえて音声化するというやり方で読む(音読)と、どうしても遅くなるので、音読の癖をやめなければ速読はできないというのです。
 単語の文字を順にひとつづつとらえるのではなく、単語全体をひとまとまりにしてとらえて、音読をしないで意味を理解しなくてはいけないとしています。
 ということは音声に変換しなくても言葉の意味は理解できるということです。

 上の左の例は綴りの順にこだわらないで単語をひとまとまりにとらえるための練習のひとつで、ワザと単語の綴りを崩してあります。
 wrodという綴りを見て「ウーン」と考え込んではダメで、wordのことを指しているということが瞬間的にわかり、その意味が分からなくてはいけないというのです。
 文字のかたまりを全体的につかんで判断するというもので、raedingとかprogoramとあっても、音声化をしないで意味を想起する練習をさせようとしています。
 あるいは単語の一部を伏せて全体を想起させようとしています。

 文字の覚え初めの頃はいちいち音読して意味を理解するというのは、日本語の場合でも同じです。
 漢字が表意文字だなどといっても、音声化しないで見るだけで意味が分かるなどということはありません。
 ほとんどの人は漢字を使った言葉を音声化して読んで意味を理解しています。
 従って日本語の速読法でも言葉をいちいち音声化しないで見るだけで意味を理解することを第一ステップとしています。

 脳の病気で失読症というのがあり、文字を音声化する機能がやられた場合、ヨーロッパ人は文字を音声化して意味を理解しているので読めなくなるとされています。
 これに対して日本人の場合は、カナが読めなくなっても一部の漢字は覚えていたりするそうです。
 これは漢字が表意文字であるため、音声化機能が失われても意味を理解している場合があるというのです。
 ところが、その後の研究ではヨーロッパ人でも、単語の意味を理解している場合があるということがわかり、音声化しなくても単語を人まとまりにとらえて意味を覚えている体とされています。
 文字が意味を持っているかどうかではなく、文字を見て音声化しなくて意味を理解する訓練あるいは習慣を身に着けているかどうかの違いなのです。

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単語をまるごと理解

2007-07-22 23:25:56 | 文字を読む

 昔の子供のあいだで、「グリコ」というジャンケン遊びがありました。
 じゃんけんをして「グー」で勝ったら「グ、リ、コ」と三歩進み、「チョキ」で勝てば「チ、ヨ、コ、レ、イ、ト」、「パー」で勝てば「パ、イ、ナ、ツ、プ、ル」と六歩進むというものです。
 大人が見れば何が面白いのか分らないでしょうが、子供がそれに夢中になったのは、言葉が身につく時期だったからだと考えられます。
 言葉を一つ一つの音に分解したり(「グリコ」を「グ、リ、コ」)、一つ一つの音をつなぎ合わせて言葉にする(「グ、リ、コ」を「グリコ」)ことで言葉がスムーズに使えるようになったのです。
 かな文字を覚えるときも、最初は「ぐ、り、こ」と一文字づつ読んでいても、読む能力が身についていくと「ぐりこ」と続けて読めるようになります。
 言葉を声に出したり、読んだりできるようになるということは、言葉や文字を要素に分解できると同時に、一つのまとまりとして使えるということです。

 漢字を覚えて、漢字熟語を学習するときは一つ一つの漢字を学習し、その上でもjを組み合わせた熟語の意味を学習するのが正統的な方法です。
 「読書」の「書」がこの場合は「文字」ではなく「ほん」であると学習していれば新聞や雑誌を読むことは「読書」といわないという感覚になります。
 「理解」はただ「わかる」という意味でなく「すじみち」が「わかる」ことだと学習していれば、「なんとなくわかる」は理解はしていないということがわかります。
 しかし実際に「読書」や「理解」という言葉を読み書きするときにはいちいち分解して理解するということはありません。

 「空前絶後」のような四字熟語の場合は「空前」と「絶後」に分解され、「空前」は「空」と「前」に、「絶後」は「絶」と「後」に分解されて「前にも後にもないような」ということで「めったにない」という意味です。
 しかし「めったにない」という意味だと呑み込んでしまえば、「空、前、絶、後」という一つ一つの文字の意味を確認しながら意味を組み立てるということはしなくなります。

 漢字の組み合わせが多くなり「国際連合安全保障理事会」のように長い言葉になると文字をひとつづつたどっていって意味を理解するのは大変です。
 この言葉が何を指しているかがわかるようになっても、一目でこの言葉を見分けたりあるいは言葉に出したり書いたりするのにはだいぶ手間取ります。
 こういう場合はどうしても「国連安保理」のような略語を作って代用するのが自然の成り行きです。
 「国連安保理」のような言葉は「国際連合安全保障理事会」という言葉が基にあるからわかる言葉で、これだけでは何のことか分からない言葉です。
 こうなると言葉の意味と文字の意味を結びつけるという意識は薄れてきます。
 
 文字の一つ一つの意味をそのつど思い出して言葉の意味を組み立てるというのは、言葉を覚える段階では意義がありますが、読んだり書いたりする実用的な段階では個々の文字の意味をそのつど意識しないようになるのです。
 

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文字の意味と略語

2007-07-21 22:59:18 | 文字を読む

  漢字は意味を表すので、知らない単語であっても字面からおよその意味が分かるといわれていますが、略語となるとそうはいきません。
 「東証」とか「大証」という略語を見て何のことか分るためには、あらかじめ「東京証券取引所」とか「大阪証券取引所」というのを知らなければなりません。
 「帝都高速度交通営団」を略して「営団」というのは筋道が分りやすいのですが、「営団」から「帝都高速度交通営団」を思いつくことは困難です。
 「営団」とか「一勧」という文字をみて、文字の意味からその文字の示すものをイメージすることは困難です。
 つまりこの場合、漢字は言葉の意味を示してはいないのです。

 東京証券取引所とか帝都高速度交通営団などといった名前は、意味は分かりやすいのですが長たらしくて扱いにくいという欠点を持っています。
 新しくものの名前をつけるときは、それがなんだか分りやすくしようとするので、どうしても説明的な名称になり、したがって長たらしくなるのです。
 その名前をたまにしか使わなければ、長たらしくても良いのですが、頻繁に使うようになればいちいちフルネームで呼ばずに、略語で間に合わせるようになります。
 略語は何でもよいということではなく、何の略語か分らなければならないので、略される言葉との関係が分りやすくなければなりません。
 略語の元の言葉を知っている人には何の略語か分かるので、何を意味しているか分かるようになっていますが、略語だけから何を意味するかは分からないのです。

 英語でもBSEはBovine spongiform encephalopathyという名前を使っていればどんな病気なのか単語の意味から見当がつく(単語の意味を知っていれば)のですが、略語になったBSEからでは何のことか分りません。
 もとの言葉のほうは言葉の意味を説明していますが、長くて扱いにくいので、意味を示していなくても短くて扱いやすい略語のBSEのほうが圧倒的に使われるようになっています。

 カタカナ語の場合でも、もとのカタカナ語が必ずしも分りやすくないのに、簡略化されているので、さらに分りにくくなっています。
 それでも略語のほうが使われるのは、言葉がその意味を表している場合は長たらしくて、使いにくいからです。
 
 頻繁に使われる言葉は、文字がその意味を示しているからといっていちいちそこに注意を払わないので、文字がその意味を示さなくても簡単で分りやすいほうがよいのです。
 
 

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漢字の意味の誤解

2007-07-17 22:53:08 | 言葉と文字

 漢字が読めているのに意味が誤解されているという例があります。
 政治家などの発言はマスコミで報道されるので、発言を飾ろうとして漢語を間違って使ったりすると目立ってしまいます。
 運動会の挨拶で「晴天に恵まれ」というところを「青天の霹靂に恵まれ」といってしまった政治家がいたそうですが、霹靂という言葉の意味を知らなかったのでしょう。
 「怒り心頭に発する」を「怒り心頭に達する」といってしまったりするのは、「心頭」の「頭」の意味の誤解で「頭にくる」と思っている例です。

 最近の新聞記事で「疑問が残る」というのを「疑心暗鬼を払拭できない」と表現してありましたが、「暗鬼」の意味を無視してしまっています。
 「暗鬼」は「不安、妄想による恐れ」で、記者は強く疑問が残ったというところを難しげな表現を使おうとしたので、おかしな表現となっています。
 「綺羅星のごとく」は良く例にあげられる誤解で、「綺羅」を「キラキラ」という形容詞と感じ「キラ星」と思っているという例です。
 辞書を引けばすぐにまちがいに気がつくもので、つぎの「憮然」も辞書を引かないで「ブスっと」した感じとして使われたりします。
 「言語道断」も辞書には「真理は言葉では説明できない」という意味が最初にあるのですが、「口でいえないほどとんでもない」という意味につかわれています。

 「慙愧に堪えない」「痛恨の極み」「忸怩たる思い」というのも最近の政治家の発言例ですが、談話の内容から、それぞれ「残念」「痛ましい」「後悔」というような意味で使っているらしいのですが、言葉の音感あるいは語の一文字の字面で判断しているようで、漢字が感字になっていると思われます。
 いずれも辞書を引いていれば間違えないのに、漢字の意味を確かめずにフィーリングで難しげな表現を使っているのです。
 日本人は漢字の表意性に頼っているといわれているけれども、案外そんなことはなく、結構難しい言葉も耳で覚える場合が多く、漢字の意味と関係ない解釈をしている例がかなり多くあるのです。

 「虎視眈々」という言葉を使っても「眈」はどんな意味かと考えても見なかったという人が多いでしょう。
 「絢爛」「炯炯」「齟齬」「爛漫」「揣摩」といった文字はどんな意味かと言われても、きちんと答えられる人はめったにいないでしょう。
 耳学問で言葉を覚えて、なんとなく意味が分かったような気がすれば、使われる漢字の意味など確かめようとはしないのです。
 

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和漢辞典となる国語辞典

2007-07-16 23:14:21 | 文字を読む

 「みぞおち」は漢字でどう書くのだろうと調べようとするとき、「和漢辞典」というのがあればそれを引くでしょう。
 「和漢辞典」というのは見当たりませんが、「広辞苑」とか「大辞林」といった国語辞典(プラス百科事典)などを引くと、漢字でどう書くかわかります。
 英語の辞書であれば英英辞典(英米の国語辞典)、英和辞典、和英辞典がありますが、日本語と漢字の辞書では国語辞典が和漢辞典をかねているのです。
 和漢辞典といっても「日中辞典」ではなく、日本でどのような漢字を当てているかを示しているので国語辞典なのです。
 
 上の図のような例はたいていの人が知っている漢字であるというわけではありません。
 「面皰」とか「顳」とか「靨」などといった字を読み書きできる人はあまりいませんが、「にきび」、「こめかみ」「えくぼ」を知らない人はあまりいないでしょう。
 漢字でどう書くかを知らないというのは、これらの単語を国語辞典で引くということがないからで、特殊な人を除いてはこれらの単語をわざわざ漢字で書こうとしないからです。
 単語の意味は辞書を引かなくても分かるので、辞書には漢字でどう書くか載っているのに見るチャンスがなく、その結果書けないだけでなく読めなかったりするのです。
 
 国語辞典には「くすぐる」とか「むしる」「つまずく」といった動詞からものの形容詞、名詞などほとんどの日本語について漢字が当てられていて、言葉の意味を説明するだけでなく漢字を引く辞典になっています。
 どんな言葉でも漢字が当てられているかというと、擬音語とか擬態語はさすがに当て字をしないで「どきり」とか「ぎくり」「どさり」「びくり」などそのままになっています。
 「にっこり」笑うというとき「莞爾」という当て字をする人もいますが、「にこにこにっこり、ね母さん」などといった場合はどうしようもないので、漢字を当てないほうがやはり無難です。
 何でも漢字にしなければ気がすまないという病気はまだなくならず、「独逸」「仏蘭西」「阿蘭陀」などをどう読むかといった漢字クイズがまだあるので困ったものです。

 国語辞典にはいわゆるカタカナ語(主に英語)が載せられている場合、スペリングがついているので簡易英和辞典のようなところがあります。
 日本語化したカタカナ語に対応する英語を示しているので、むしろ簡易和英辞典のはたらきをしているともいえるのですが、普通の日本語に対する英語を載せているわけではないので和英辞典ではありません。
 カタカナ語がたくさん入ってきているからといって、国語辞書を見る限り、日本語であるものを何でも英語化していないのでまだ健全です。
 といっても日本語で分るものをわざわざ漢字化する病気が治っていないので、日本語であるものをわざわざ横文字化する病気にかかる可能性もあります。
 

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