60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

ことわざの説得力

2008-02-26 23:36:03 | 言葉と意味

 ことわざが人を納得させるのは、経験や観察から得られた真理とか知恵のようなものがあると思われるからです。
 ところが「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがあるかと思えば「船頭多くして船山に登る」などとちょっと矛盾するものもあります。
 「好きこそものの上手なれ」というかと思えば「下手の横好き」というものもあります。
 このような例から見るとことわざに含まれる真理というものは、大体において一面的なもので、状況に応じて適用されるような相対的なものであるといえます。
 ことわざは「あっ、そうかあ!」「分かった!」というような感覚をもたらすので、いわゆる「アハー体験」と似ている面があります。

 ことわざを文字通りに取れば短絡思考そのもので、「渡る世間に鬼はない」という場合でも、鬼のように薄情な人間ばかりと思っていたら、たまたま情け深い人に出会ったというような体験をすれば「そうか!」と思います。
 人の性は善だと思っていたらだまされてしまったという経験を持つと「人を見ては泥棒と思え」ということわざが見に迫るものとなるのでしょう。
 どちらも間違っているわけではありませんが、一面的であるという点では短絡的です。
 
 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」とばかり思い切ってやってみたら、失敗してしまってひどい目にあえば「君子危うきに近寄らず」といわれたりして納得してしまうということになったりします。
 いってみれば結果論で、結果に応じてもっともらしい理屈付けが用意されているといえないこともありません。
 ことわざが世間知として、人を説得したり屈服させたりするはたらきを持つ場合があるのは、表現力が豊かだからでもありますが、論理の一面的で断言的だからです。

 最近では「渡る世間は鬼ばかり」とか「二兎を追わねば一兎をも得ず」というふうに元のことわざを単純に伐り返したようなものがありますが、これらも意外と説得力を持っています。
 状況や立場が変われば「渡る世間に鬼はないとは限らない」というような論理的に正しいものより、一面的で断言的な「渡る世間は鬼ばかり」という言い方のほうが説得力を持つのです。
 切り返しのことわざが意外と説得力があるということは、一面的で短絡的で
断言的な表現が強い説得力を持つということで、説得力が強い説には一面的で短絡的なものが多いという例の一つです。


英語の綴りとカタカナ表現

2008-02-25 23:27:34 | 言葉と文字

 漢字の読み方の問題で、華盛頓、紐育、倫敦などをどう読むかというようなものがありますが、これは倒錯した問題です。
 もともとはWasington,New York,Londonなどといった英語発音を漢字でムリにこのようにコピーしようとした結果だからです。
 日本のカナならば、ワシントン、ニューヨーク、ロンドンというふうにコピーしているのですが、これにくらべると漢字によるコピーは何となく無様です。
 英語ならアルファベットで表現されているのですが、中国語の発音を表現するのに使われている漢字でコピーすることには無理があるのです。
 日本語のカナにしたところでもともとは日本語の発音を表現するためのものなので、英語など外国語の発音をコピーしようとしても無理です。
 ただカナによるコピーのほうが漢字の場合より文字数が多くなるので、より細かくコピーできるような感じがするのです。

 球技のvolley、舞踊のballet、渓谷のvalleyは発音が違うのですが、カナではいずれもバレーとして表記していますがこれは、違いを表現することが難しいからです。
 vの部分を「ヴ」と表記する方法もありますが、「ヴァレー」と表記しても日本語で発音するときは「シリコンバレー」のように発音して区別がありませんから、結局「シリコンヴァレー」とせず、「シリコンバレー」という表記になってしまうのです。
 電気のvoltにしても、発音に近づけようとするならば「ヴォルト」となりそうなものですが、「ボルト」が通用しています。

 しかしバイオリンやビーナスなどは発音は変わらないのにヴァイオリン、ヴィーナスというふうに表記がかわってきています。
 日本語での発音が変わっていないのに表記が変わるというのは、英語の発音をより正確にコピーしようとした結果というより、英語の綴りをより反映した形でコピーしようとしたものでしょう。
 さすがにまだヴィタミンスィーとまでは表記する例はあまり見かけませんが、ヴィタミンディーという例は見かけます。
 「ティー」とか「ディー」という発音が普及し始めたからですが、できるだけ綴りを反映しようとするからでもあります。

 ステッキとかカタンといっていたものが、スティック、コットンという具合に表記されるようになったのも、より発音を反映させようとするよりも、綴りを反映しようとするものです。
 耳で聞けばコットンよりもカタンのほうが近いのですが、綴りを見てしまうと日本人の感覚からするとコットンになってしまいます。
 こうして見ると、カタカナによる英語の表記も聞こえたとおりというより、綴りという目で見えるものを反映しようとする傾向がみてとれます。
 こういうと日本語はテレビ型言語だというような意見が出てきそうですが、そういうことよりも文字を意識しているです。
 つまりこれまでは、耳で直接聞くよりも、書物によって得られた印象のほうが影響力があるのです。


歴史的カタカナ遣い?

2008-02-24 23:58:04 | 言葉と文字

 明治初期には「秋の日のヰ゛オロンのためいきの、身にしみて、、」というように表記されていて、これをビオロンとすると何となくおかしな感じがします。
 日本のカタカナにはもともとワ゛とか、ヰ゛とかヲ゛などというものはなかったのですワ(wa)、ヰ(wi)、ヱ(we)、ヲ(wo)にたいし、va,vi,ve,voを表わそうとしてワ゛、ヰ゛、ヱ゛、ヲ゛といった表記法を考えたのでしょう。
 表記はこうなのですが、これを読むとき当時の人はどのように発音したのか分りませんが、おそらくvioronと発音したのでしょう。
 bioronと発音したのであればビオロンと表記してもよいのですが、原語がviolonなので綴りを意識してヰ゛オロンとしたに過ぎないのかもしれません。
 (作者のことはウ゛ェルレエヌとしてヱ゛ルレエヌとしていませんが)

 ヰ、ヱ、ヲは現在ではイ、エ、オと同音になってしまっていますが、かつてはwi,we,woのように発音する人もおり、実際の発音はともかく意識的にはwi,we,woという音だと感じる人が多かったようです。
 ビルヂングというような表記も現在からすれば、英語の発音を無視した表記のように感じられますが、ヂはjiあるいはziと発音されたのではなく、diあるいはdhiに近い音で発音されたので、ビルヂングは英語の発音あるいは綴りを反映したものだったのです。
 MEIDIYAは明治屋のことですがMEIJIYAとしていないのは明治が旧カナ遣いではメイヂだからですが、ヂをDIとしてJIとしなかったのは発音がヂとジでは違ったからです。
 一方で明治乳業はMEIJIとなっているのである段階ではメイヂは二通りの発音があったということになります。

 クァルテットにしてもカルテットとしなかったのはkwaというような発音がかつては日本語の中にあったためで、quaという綴りを意識しただけではないでしょう。
 旧カナ遣いでは会議の仮名表記をクワイギとしていますが、つい最近までkwaigiと発音する人がいましたから、kaigiという発音をクワイギと表記していたとは限らないのです。
 少し前まではクワイギという表記に対し、kwaigiと発音する人がいる一方でkaigiと発音する人もいたのです。

 発音が変化しても表記は変えないほうがよいという立場もありますが、そうするとひとつの表記に対して二つ以上の読み方ができる可能性が出てきます。
 漢字についてはまさにそうで、日本語では漢字は意味を担当するのでやむをえないとはいうものの、読み方の種類が多すぎて習得が困難です。
 カタカナ語の表記についての文科省の方針は、なるべく原語の発音を反映するような表記が望ましいとする一方で、慣習的は表記も許容するというものです。
 そのため同じカタカナ語に対しいくつもの表記があるという結果になっています。
 さらに原語の発音を反映するといっても、日本人が感じる発音は耳からのものと綴りを知っての発音では違いがあるのでどちらを認めるのかあいまいです。
 最近までは綴りを頭に置いた発音を反映する傾向だったのですが、耳に聞こえたとおり使用とする動きがあり(たとえばアンビリーバブルをアンビリバボーとする)混乱が続きそうです。
 


経験による見え方

2008-02-24 00:01:56 | 視角と判断

 左の図を見ると一番上の円は膨らんで見え、そのすぐ下の円は凹んで見えます。
 これは経験的には通常、光が上のほうから来るので、膨らんでいるものは上が明るく、下のほうは陰になって暗く見えるからです。
 このように説明されれば納得して、そういうものだと思い込んでしまいますが、これは一面的な思い込みです。
 この図は一番上の円を除いてはすべて下側が暗くなっています。
 そこでこの図を見ればひとつを除いてすべてが凹んで見えるはずですが、実際は見え方は一定しません。
 一部の円が凹んで見えるとき、ほかの円が膨らんで見えたり、あるいはどうかすると全部膨らんで見えてしまったりします。

 図形が凹んで見える場合というのは、背景が平面でなければならないのですが、同時に図全体を同じ平面として見るのは結構難しいのです。
 視線を向けた部分の近辺は同じ平面として見えるので、付近の円は凹んで見えますが、離れた周辺視野の部分は同じ平面としては見にくいため、凹んでは見えず逆に膨らんで見えてしまいます。
 平面としてみるといっても、その平面が目の下に水平にある場合と、目の前に垂直にある場合とでは見え方が変わります。
 水平にある場合は光が上から来るといっても、前方から来るか後方から来るかによって見え方は逆になります。
 経験としては光は上から来るにしても、前方とは限らないので上が暗い場合は凹んで見えるとは限らないのです。
 
 次にこの図の背景はなにも描かれていない状態なので、必ずしも平面としてとらえられるとはかぎりません。
 背景が空間としてとらえられた場合は、円形は球のように見えます。
 球のように見えれば、影になっているように見える部分であっても凹んで見えるのではなく背景より凸に見えます。

 このことは背景が黒い右の図についてみればよりハッキリとわかります。
 背景が黒いので、図形部分はどの部分も背景のほうが後退して見えるはずで、図形は背景より浮き上がって見えるはずです。
 実際、背景より浮き上がって見えた場合はすべて凹んで見えるのではなく、膨らんで見えます。
 この場合は光が上から繰るかどうかとは関係なく凸に見えます。
 ところが背景の黒い部分は、平面としても見ることができます。
 現実に黒い平面があって円形の凹みがあって、凹んだ部分の色が黒でないという場合もあるので、円形部分のほうが明るいという場合もあります。
 この場合は明るい円形の部分は黒い背景より凹んです見えるのです。
 経験が見え方を決めるといっても、経験自体が一様ではないので見え方が一様であるとは限らないのです。


錯視と経験

2008-02-19 23:15:28 | 視角と判断

 左上の図ではAの軸線のほうがBの軸線より短く見えます。
 これについてAは四角い建物の角を見たときに見られる形を横にしたもの、Bは部屋の隅を見たときに見られる形を横にしたものと似ていることから、Aは手前に見え、Bは奥にあるように見えるため、Aのほうが短く見えるという説明があります。
 つまり日常生活の経験から、AやBのような形を見ると奥行き感が生じて、奥にあるように感じるBは長く見えるというのです。
 
 ところがその下の矢羽根の開き方が少ない図を見ると、こちらのほうが上の図の場合よりもBとAの軸線の長さの差が広がっているように見えます。
 このように矢羽根の開きが狭まった形は、四角い建物の角の形では見られないものですし、また部屋の隅の形でも見られないものです。
 つまり日常的な経験では見られない形で、奥行き感を感じさせるものではないはずです。
 それにもかかわらず、この場合のほうが錯視の度合いが激しいのですから、この図形については錯視の原因を経験に求めるのは不適切な感じがします。

 このことは、二つの図形をつなげた形になっている、一番下の図を見ると一層ハッキリします。
 この場合のCはAに、DはBに相当するのですが、CとDがつながっているのでCが手前に見え、Dが奥に見えるというようなことはありません。
 それなのにCとDを見比べた場合、Dのほうがかなり長く感じますから、Dのほうが長く見える理由は奥行き感ではないといえます。

 まん中の図で一番上の円は背景より浮き出て凸型に見えます。
 これはちょうど球形に上から光が当たって下のほうに影ができている形で、光が上から当たることが多いという経験からきているといいます。
 二番目の図のよう白い部分と黒い部分がハッキリ分かれてしまうと、影のでき方が経験からかけ離れているため、凸型には見えなくなってしまいます。
 下の図のように影に当たる青い部分が、上の赤い部分と同じ明度だと形は上の図とおなじですが、立体感は失われます。
 つまり、上から光を当てると下に影ができるという経験が立体感を感じさせているようです。

 一番右の図は最初に見たときはなんだか分らないかもしれません。
 これは「ひげを生やしたコサックが右を向いているところだ」といわれればなるほどと感じます。
 そればかりか、これはコサックだと一度感じてしまうと、つぎからは単なる模様には見えず、ひげを生やしたコサックに見えてしまうようになります。
 黒い部分が影を感じさせるから、コサックに見えるのですが、白い部分を赤に、黒い部分を赤に変えた下の図では、コサックだと思って見ようとしても、うまくいきません。
 赤と青が同じ明るさのため、青い部分が影を感じさせないためです。
 上の図を「ひげを生やしたコサック」だと見ることができるのは>、実際の人間を見た経験によるものではありませんが、白黒写真の印刷を見慣れた経験によるものですから、やはり経験によるものではあるのです。


ぼやけて見える場合の錯視

2008-02-18 22:43:39 | 視角と判断

 一番左の図を見ると、二本の矢羽根の軸線の長さが内向きのほうが外向きに比べると短く見えるのですが、下の図のようにぼやけて見えたほうが差が激しく感じられます。
 この場合は視力が弱いほうが錯視の度合いが大きくなります。
 ぼやけると、矢羽根と軸線の境界がハッキリ見分けられなくなるため、内向きの軸線の長さが短く見えるためです。
 
 一方でまん中の図の場合は。上の横線のほうが下の横線に比べて長く見えるのですが、ぼやけたほうが差が激しく感じられるというわけではありません。
 この図は斜めの線が遠近感を与えるので、遠くにあると感じられる上の横線のほうが長く見えるというのですが、ぼやけたからといってより遠近感を強くする効果が得られないためかもしれません。
 通常の遠近感でいえば遠く見える部分のほうがぼやけて見えるのですが、この場合は近いほう(下側)も同じようにぼやけているため、遠近効果は強化されないのです。

 一番右の図の場合は、水平な平行線が斜めに交錯する線によって傾いて見えるのですが、この場合はぼやけて見えるとやや平行に見えるようになります。
 つまりこの場合はぼやけて見えると錯視量は減るのです。
 同じように錯視といっても、視力がよい場合に強く感じる錯視と、逆に悪いほうが強く感じるものとがあるのです。
 したがって錯視の原因を考える場合も、このように視力という条件も考慮に入れなくてはならないはずです。
 つまり、誰にとっても同じような錯視現象が起きるわけではなくイということなのです。

 幼児や老人と青壮年者とを比べた場合、一般的には幼児や老人のほうが視力が弱いので、左の矢羽根の錯視の場合錯視量が多いという実験データと一致します。
 そうすると矢羽根が建物の角と、部屋の隅を連想させ、その結果遠近感を感じさせるというような説明は納得ができなくなります。
 まん中の図や右の図は、斜めの線が遠近感、あるいは奥行き感を与えるために錯視が生じるとされているのですが、ぼやけて見えると遠近感を与えにくくなっています。
 そのためまん中の図では上下二本の水平線の見え方の差があまり感じられないのです。
 また右の図では水平線の傾きがあまり感じられなくなってさえいます。
 


錯視と類推

2008-02-17 23:06:11 | 視角と判断

 図の中央の縦線aと右側の縦線bを比べてみると、bのほうがよほど長く見えます。
 これが実は同じ長さであるといわれても、実際に測って見なければなかなか納得できないでしょう。
 この図は左上にあるA図で右側の縦線のほうが左側の縦線より長く見える、いわゆるミュラー.リヤー錯視の説明に使われているものです。
 建物の角と隅に見られる形で、角のほうは隅のほうより手前に見えるので、短いと感じます。
 現代人は四角い建物の角とか、部屋の中の隅を見る経験が多く、その結果A
のような図形を見ると左側は手前に見え、右側の図は奥まって見えるため、左側の縦線のほうが短く見えるというのです。

 かつてのアフリカのズールー族は円形の家を作って住み、畑も円形だったのでこうした四角い建物にある形を見る経験がないため、Aのような図を見ても錯視が生じなかったといいます。
 こうした説明があればとても納得して、A図の場合に左側の縦線のほうが長く見えるのは、生活経験から奥行き感と結びつけて、左側は手前に感じ、右側は奥に感じるためだと思ってしまいます。

 この説明は類推法で、部分的な経験から全体を推測しているものです。
 たとえばA図を横にしたB図の場合、やはり下のほうが長く見えますが、下のほうが奥まって見え、上のほうが手前に見えるというわけではありません。
 また、心理学の調査実験では、この錯視は子供や老人の場合に強く、成年の場合は弱いので、文明生活の経験によって生ずる錯視だとする推測とは矛盾します。
 
 aよりbのほうがはるかに長く感じるのは矢羽の形に奥行き感を感じるためなのかを確かめるためaとbの部分を抜き出して並べて比較したのが左下の図ですが、こうして見るとあれほど激しく差が感じられたのにここではほとんど差が感じられません。
 先ほど差が激しく感じられたのは、全体の絵画表現が遠近法によっているので、遠近感が強く感じられたためです。
 絵画表現から切り離して、図形だけを比較してしまうと差がほとんど感じられないということは、原因と結果を取り違えているのです。

 そうしてみると、かつてのズールー族の錯視が少なかった原因が、円形の家に住んでいたからというのもコジツケではないのかなと思われてきます。
 ズールー族は紙のような平面の上に描かれた画像に慣れていなかっただけで、
錯視が少なかったのは視力がよく、矢羽根の部分と軸線の部分を切り離して見る能力が文明人より優れていたためとも考えられます。
 実際、ハエやミツバチもミュラーリヤーの錯視をするというのも、これらは視力が弱いためで、なにも遠近法に習熟していると言うわけではないでしょう。


主観的輪郭と奥行き感

2008-02-16 22:26:49 | 視角と判断

 図Aは主観的輪郭といわれるもので、パックマンに囲まれた白い三角形が見えますが、実際にはこの白い三角形が描かれているわけではありません。
 実際には描かれていない三角形の輪郭が見えるので、主観的輪郭という名前がつけられているのですが、名前の付け方としては奇妙です。
 特定の人に見えるというのではなく、誰にでも見えますし、サルにもこの輪郭は見えるといいますから、いわば客観的輪郭です。
 なぜ描かれていない三角形の輪郭が見えるのかということは説明できていませんが、見え方の特徴は三角形の部分は光って白く見え、浮き出て見えますから奥行き感と関係があること分ります。

 このことはB図を見るとハッキリします。
 B図は記事の上に変形パックマンを置いたものですが、囲まれた部分はやはり、白く光って浮き出て見えます。
 ここで気がつくのはA図のときには気がつかなかったのですが、光って見える部分は拡大されて見えるということです(実際はA図の場合光って見える三角形は逆さまの三角形よりやや大きく見えるのです)。
 背景が文字であるため、白く浮き出て見える部分の文字の大きさが背景の文字と比べられ、拡大されて見えることに気がつくのです。
 もちろんこの囲まれた部分は、別にはめ込まれたものではなく、背景の記事の一部分に過ぎません。

 囲まれた部分が浮き出て見えるということは、逆に言えば記事全体が遠くにあるように見えることであり、黒いパックマンは記事の上にあるように見え、
さらにその黒いパックマンの上に四角い紙がおかれているように見えます。
 そのためまん中の四角い部分は背景の記事の部分よりぐっと浮き上がって見えるのです。
 まん中の四角い部分が浮き上がって見えるということは、背景の記事の部分が奥に見えることで、焦点が背景の部分に合わせられているのです。
 その結果囲まれた四角い部分は手前に感じられ、大きく見えるのです。

 速読法の本などには、広い範囲の文字を見るために、文字を見るのでなく背景の白い部分を見るとよいと書かれていることがあります。
 文字を見るということは、普通はそこに焦点を合わせるということになるのですが、背景の白い部分を見るときは自然に文字より後ろに焦点を合わせることになります。
 その結果、より広い範囲の文字が見えるだけでなく、文字が浮き上がって拡大されて見えます。
 文字に焦点が合っていないので、少しぼやけて見えのですが、少し拡大されて見えるで、読みやすさが少しく補償されます。
 というわけで背景の白い部分を見るというのは、文字の面より先のほうに焦点をおくためのコツなのです。


対比効果と奥行き感

2008-02-12 23:18:27 | 視角と判断

 a図のまん中の円はb図のまん中の円と同じ大きさなのですが、a図の円のほうがやや大きく見えます。
 心理学ではa図の場合は小さな円に囲まれているので、実際より大きく見え、b図の場合は大きな円に囲まれているので実際より小さく見えるとして、a図円のほうが大きく見える原因を対比効果によるとしています。
 何となくスッキリしない説明なのですが、c図の円と比べてみたらどうでしょう。
 c図の円もやはり同じ大きさの円なのですが、a図の場合よりやや小さく、b図の場合よりやや大きく見えます。
 c図の場合は横に小さな円がありますが、この小さな円はa図の場合より小さな円です。
 対比効果というならc図の小さな円はa図の場合より小さいのですから、c図の円のほうが大きく見えてもよさそうなものですが、逆になってしまっています。
 つまり対比効果というだけでは説明できないのです。

 実はa図とb図を見比べた場合、a図のほうが奥にあるように感じられ、b図のほうが手前にあるように見えます。
 aのほうが奥にあるように感じるため、目がそのように焦点を調節するのですが、実際は同じ平面にあるのでa図のほうは少し大きく見えるのです。

 ところで指でa図の円をつまもうとした場合と、b図の円をつまもうとした場合、aの場合のほうが指を大きく開くかというと、どちらも開き方は同じになるといいます。
 aのほうが大きく見えるのですから大きく開きそうなものですが、同じ開き方をするのです。
 心理学の説明では脳は目では大きさが違って見えても、網膜の像とは別に大きさを感じることができるためだとしています。
 
 しかしaを見るときとbを見るときとは焦点距離が違っているので、同じ条件で見るわけではないので指の開き方が変わらなくても不思議ではありません。
 もしaを左手で、同時にbを右手でつまもうとすれば、目はaとbを同時に見ますが、このときaとbは同じ大きさに見えてしまいます。
 そのため左手の開き方も右手の開き方も当然同じになります。
 またaをつまもうとしてaに注意を集中したとき、周辺視野に入るbはaと同じ大きさに見えています。
 これはaに注意を向けたとき、実際の画面に焦点が当てられるため、見え方が変わってくるためです。
 
 目で見て大きさを感じてつまもうとするということができるのは、実際にすぐ手の届く範囲のことで、手や指の開き方が実際の大きさを感じて入ることの証明にいつもなるわけではありません。
 小話では晴れた夜に屋根の上に上って棒で星を落とそうとした子供の兄が、もっと長い棒でなえればダメだと言いますが、手の届かない距離になると大きさの間隔はつかめなくなります。
 


奥行き感があると描きにくい

2008-02-11 23:12:41 | 眼と脳の働き

 図には上下にそれぞれ三つの顔が並んでいますが、上段は下段の顔を逆さまにしたものです。
 一番左の顔の場合は逆さまになっていても、下の顔と同じ顔だということが分りますが、まん中の顔の場合は同じ顔であるとはとても思えないのないのではないでしょうか。
 まん中の顔はケネディの写真ですからかなり見慣れたもので、成立していればすぐに分るのですが、逆さまになると誰だかわからなくなります。
 なぜ左の顔は逆さまにしても同じように見えて、まん中の場合は同じ顔に見えないのかと聞かれればなんと答えたらよいでしょうか。
 
 サルは逆さまにした顔の写真を見ても、もとの写真と同じだと分るとそうで、これはサルが樹上で生活していて、木から逆さまにぶら下がって見たりする経験が多いためだといわれています。
 人間は逆さまになってモノを見る経験が少ないので、逆さまにした写真で顔を見分けることができないということなのですが、それでは左の顔の場合はわかるという理由が説明できなくなります。
 左側は絵で、まん中の場合は写真だから違うのだろうというふうにも考えられますが、それではなぜ写真と絵では違うのかということが分りません。

 ところで一番右の場合はどうでしょうか。
 右の場合は写真ではなく、絵なのですが上の絵と下の絵は同じようには見えないのではないでしょうか。
 下の絵を見ないで上の逆さまの顔だけを見た場合に、すぐにこれは誰の似顔絵かわからないでしょう。
 ところが下の正立の絵を見れば、すぐにこれは小泉元首相の似顔絵だと分るのですが、逆さまだとわかりにくくなるのです。
 つまり写真でなく絵であっても逆さまにすると分りにくい場合があるのです。

 それでは同じ絵であっても、左の絵は逆さまにしても分りやすく、右の絵は逆さまにすると分りにくいのでしょうか。
 それは左の絵は奥行き感を与えないのに対し、右の絵は奥行き感を与えるからです。
 左の絵は正面を向いているのに、右の絵は斜めから見た顔を描いているので立体感があり、奥行きを感じさせます。
 写真の場合は陰影によって立体感がありますが、絵の場合でも立体感があれば逆さまにしたとき元の絵と見え方が大きく異なるのです。

 立体感のある絵を模写しようとすると難しいのは、平面の上に奥行き感を表現しようとするからです。
 奥行き感のない左の絵のような場合は、成立の場合でも逆さまの場合でも見えたとおりに描けばよいので、大きな間違いはしないでしょう。
 ところが奥行きが感じられる右のような場合は、紙という平面に模写しようとするとき見えたとおりに描こうとしてうまくいかないのです。
 逆さまにすれば正立の場合のようには奥行き感が感じられないので、見えたとおりに線を描きやすくなるのです。
 奥行き感を感ずるのは右脳とか左脳とかの問題ではないので、奥行き感を感じない工夫をすれば模写がうまくいきやすくなるのです。