60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

漢字と失読症

2006-12-29 22:52:11 | 言葉と文字

 漢字はもともと中国語のものなので、文字のなかった日本が取り入れて、どうかするというには無理があります。
 そのため漢字をうまく取り込んだと思っても、うまくこなしきれず、普通の人でもまるで失読症のような症状を示すことがあります。
 図のA,B,Cは文字を読めても意味を取り違えている例で、Aの檄は「自分の主張を述べて同意を求め、行動を促す文書」と辞書にありますが、「激励」というような意味にとっている人が多く、テレビ、新聞、、雑誌等でよく見かけます。
 Bの嘖々(サクサク)は「いいはやす」で好評の場合に使うのですが、ニュアンスをまちがえています。
 Cは「がっかりしてぼんやりしている」のですが「ブスッとしている」といったとらえ方をしている人が多いようです。
 つまり漢字そのものの意味をて、取り違えて使っている失語症の「意味失読」のような状態です。

 D,E,Fは文字の読み方を間違える例で、「そうさつ」、「ざんじ」、「いっけ」といった読み方が結構行われています。
 意味は分かっていても読み方が違うというのは、失読症の典型ですが、普通の人が読み方を間違えるというのは、日本語の場合同じ漢字についていくつもの読み方を当てるせいです。
 日本での漢字の読みの中には、音、訓のほかに熟字訓とか当て字というものがあり、不如帰(ほととぎす)、秋刀魚(さんま)、莫大小(めりやす)など音と漢字が結びついていないものが数多くあります。
 文字を見れば意味が分かるなどといっても、読み方を記憶していない限り意味が分かるわけはありません。

 Gは子どもに「つばさ」という名前をつけたときに、当てた漢字の例だそうです。
 日本の役所は名前に当てる漢字の種類は制限するのに、読み方には制限を設けないというおかしな考え方をしているのでこんなことが起きます。
 どんな読み方をしても自由というようなものは文字ではなく、マークにすぎません。
 ここにあげられているような漢字は社会的常識としては「つばさ」とは読まれることはないのですが、親が恣意的に読み方を与えているのです。
 どれも連想で「つばさ」につながるところがあるのですが、「つばさ」と読ませるのは乱暴です。
 名づける親は個性的と思っているのでしょうが、ここまでくればなぞなぞゲームです。
 英語圏ならsky highとか書いてwingと読ませたりするようなもので、なぞというより冗談にしか思われないでしょう。
 実際は失読症ではないのでしょうが、見た目にはまさしく失読症そのものになっているのです。


漢字は分析的か

2006-12-28 23:18:02 | 言葉とイメージ

「日本人は瓜の絵が描けるのですね」と中国人の留学生が驚いたことがある、という話が中川正之「漢語からみえる世界と世間」にあります。
 中国語では瓜というのは黄瓜(キューリ)、西瓜(スイカ)、苦瓜(ニガウリ)、木瓜(パパイヤ)などの上位概念なので描きようがないというのです。
 日本語の場合は、瓜(うり)、西瓜(すいか)、苦瓜(にがうり)、胡瓜(きゅうり)などと並列されていながら、瓜類を表す上位概念をかねているから、上位概念のほうは描けなくても(真桑)瓜の絵が描けるというのです。

 へちま(糸瓜)、かぼちゃ(南瓜)、など表記としては日本でも漢語表現では瓜の字がつきますが、音声にはウリがついていないので、日本語の場合は瓜類なら「~うり」というように統一した表現をするという意識はありません。
 中国語の場合は瓜類は「~瓜」という形になっているので、文字を見れば具体的にはわからなくても「ハハア、これは瓜の一種なんだな」と大体の見当がつきます。
 日本語の場合はひらがなで表現すれば、「きゅうり」と「にがうり」いがいは文字から見当をつけるということは出来ません。
 そうした意味で漢字は分析的であるといわれているのですが、反対の意見もあります。

 たとえば、日本語では「けむし」、「けもの」、「けがわ」など「け」がつけば「毛」に関連した言葉だと見当がつくのに、中国語では「毛虫」、「毛物」、「毛皮」という上限をしないというのです。
 また日本語では「なく」という言葉が総称としてあるのに、中国語では泣、鳴、啼、哭など個別の「なきかた」の表現しかないといったことで、漢字は分析的でないという意見もあるのです。

 こうしてみると、中国語でも日本語でもどちらにしても首尾一貫して分析的であるというようなことはないということが分かります。
 分析的であるということは物が整然と分類されていて、名前からそのものが属する分類が分かるということなのでしょうが、そういうことが言葉として望ましいのかどうかは疑問です。
 理屈でつけた名前は、その理屈が間違っていると困ったことになるのは、クジラが鯨と書かれたり、アメリカの先住民がインド人ではないのにインディアンと呼ばれてしまった例でも分かります。
 
 日本語は瓜の例でも分かるように、いろんな呼び方をしてしまって、漢語があれば表記はそのまま受け入れ、それに日本語をつけて訓読みをしたりするのですが、漢語がなければカタカナ語をつかってしまいます。
 プリンスメロンなどをいまさら「***瓜」などと漢字を当て字で作っても通用しないでしょう。
 


イメージできない言葉

2006-12-27 22:54:28 | 言葉とイメージ

 図は中川正之「漢語からみえる世界と世間」からのもので、外国人留学生と日本人学生に描いてもらった花の絵の例です。
 日本人学生は、7人のうち6人が、ほぼここにあるのと同じような絵を描いたのですが、中国語話者5人はこのようにそれぞれ違ったイメージで描いています。
 著者によれば日本人の絵は驚くほど均質性があるというのですが、あくまでもがく誠意についての問題で、日本人一般に当てはめるのは危険だと思います。
 日本人学生の絵というのを見ると、よくあるイラストのカットがイメージの基礎になっているように思われます。

 日本では昔なら花といえば桜か梅、現代ならバラとか蘭を思い浮かべるのでしょうが、これは何の花か分かりません。
 実際の花がイメージの基礎になっているのではなく、マンガやイラストなどに出てくるカットの影響を受けてしまっているようです。
 そのために均質化しているという風に評価されているのでしょうが、学生の場合は花というものが生活と関わりのないものになっているのかもしれません。
 
 中国語話者のほうは特定のパターンが共有されているわけではないので、自分なりのイメージから描こうとしているように見えます。
 花というから花の部分だけを描いたという、頭が硬いというか左脳的な留学生もいるようですが、ほかは常識的にある種の草花をイメージしているようです。
 しかしこれらの花の絵も、何か戸惑いがあるように感じられるのは、花というのが漠然としてりるからかもしれません。
 ユリの花とかチューリップの花を描けというなら、ある程度具体的なイメージがわくのでしょうが、ただ花といわれればどう描いていいかわからないのかもしれません。

 日本の学生の絵がイラストっぽいのも、花といえば桜で代表するような感覚がなくなって来たため、既成のイラストのようなものを借りて間に合わせるという点で、日本人の学生のほうがスマートなのかもしれません。
 犬の絵でも、昔なら柴犬とそうばがきまっていたのに、今ではいろんな犬がペットとなっているので、犬の絵もどの種類の犬か分からないような例があります。
 現代のようにものの種類が増えてくれば、名前と視覚イメージを対応させることが難しくなるのです。
 
 子どもに漢字やことばを教えるとき、絵や写真を一緒に見せ、イメージと結びつけて覚えさせると良いと信じられていますが、現代ではそう簡単にはいきません。
 ものの種類が増えてしまうと、代表的なイメージを選ぶのが難しいからです。
 ことばに特定の視覚的イメージを貼り付けてしまっても、言葉の意味が変化してしまったり、広がってしまったりすると困るのです。
 日本人学生の描いたような絵は、ものの視覚的イメージというより、記号のようなもので、文字に近づいてしまっているのです。


書き方の練習はボールペンが良い

2006-12-26 22:26:18 | 文字を読む

 図の一番左の列は中国の簡体字の例ですが、これはくずし字である三列目の草書体の形を利用して作られたものです。
 中国は文字といえば漢字なので、覚えなければならない文字数が多いので、どうにかして簡略化しようとして簡体字というのが作られたのですが、このような草書体からの転用というのはわずかです。
 草書体は実際に文字を書くときに書きやすいように崩されているのですが、曲線であり、運筆の流れが表現されているため、直線的な活字の形にした場合は、見分けがつきにくくなるのですべての文字を同じやり方では簡略化できなかったのです。
 
 昔の日本の寺子屋では読み書きが主に教えられたのですが、書き方が草書体が教えられたのは、実際に使われる書体だったからです。
 書く道具が毛筆がだったので、毛筆に適した書体である草書体が教えられたので、実用が目的だったことが分かります。
 草書が一般的な手書き用の書体であったので、子どもに書き方を教えるということになれば、実際的な書き方である草書体が教えられたのです。
 すべての漢字を草書体で覚えるとなれば、大変な負担だったでしょうが、寺子屋で教えられる程度の文字数はそれほど多くなかったからそれでよかったのでしょう。

 現在では毛筆は一般的な筆記用具ではないので、草書は実用的な書体ではなくなっています。
 現在であればボールペンが一般的な筆記用具でしょうが、子どもに最初からボールペンでボールペン用の書体で文字を教えることはないようです。
 学校で毛筆を使った書道を教える時間もまだあるようですが、日本の伝統文化を忘れさせないといった意味は少しあるかもしれませんが、実用的ではありません。
 文字を書くのに、鉛筆で明朝体を手本にして書かせていたのでは、書き方を教えていないようなものです。
 明朝体は筆順のようなものはまったく反映されていないので、活字として読む分にはいいのですが書くということになると書きにくく実用的ではありません。

 読むときの書体と書くときの書体が違ったら戸惑うのではないかと思うかもしれませんが、そのようなことはありません。
 草書と楷書のように形がひどく違っていればともかく、楷書であればペン字体でも活字体でも読むにはさしつかえありません。
 書き方というのは文字の形を覚えればよいというのではなく、手の動かし方の感覚と一緒に覚える必要があるので、ボールペン用の字体で教えたほうが良いでしょう。
 最近脳を活性化させるというので、鉛筆でなぞる本が出ていますが、鉛筆よりボールペンのほうが実用的ではないでしょうか。

 


読みやすい文字の大きさ

2006-12-25 22:54:17 | 文字を読む

 文字を読むとき、文字が小さければいちどに視野の中に入る文字数が多いので、目を動かさなくても読み取れる文字が多いような気がします。
 しかし実際に細かな字で印刷されている本を読もうとすると、かえって読み取り速度が落ちてしまい、そればかりか疲れてしまって読み続けるのが難しくなります。
 戦中のころから昭和40年代ぐらいまでのころの本を見ると、活字が現在のものに比べかなり小さくて読みづらい感じがします。
 これは戦中から戦後にかけて紙が不足して、一ページになるべく多くの文字を印刷しようとしたためで、大正時代ぐらいの本のほうが活字が大きく見やすくなっています。

 一番上の例と、二番目の例を比べれば、一行の文字数は3対2ですから、二番目の例では一番目の場合より1.5ばい目を動かす必要があります。
 しかし文章を読むのはこちらのほうが素早く読めるはずです。
 なぜ文字が小さすぎると読むスピードが落ちるかというと、文字が小さいと文字が読みにくいため一つ一つの文字に注意を集中しなければならなくなるからです。
 一つの文字に注意が集中すれば、まわりへの注意が薄れるのですぐ近くにある文字への注意が薄れ、同時に読み取ることが難しくなるのです。
 文字が小さければ、一度に眼の中心窩でとらえられる文字数が多くなるのに、注意が振り向けられないので読み取れないのです。

 文字が大きいほうが注意を集中させなくても読み取れるということなのですが、あまり字が大きすぎても読み取りはうまくいきません。
 文字を大きくしすぎると、今度は中心窩で見ることの出来る文字数が少なくなり、かえって文字の読み取り速度は落ちるということになります。
 文字が大きくなりすぎると、少ない文字で数で中心視野がいっぱいになり、読み取り速度が落ちてしまうのです。

 老眼になると近い距離の文字はぼやけて見えるので、離して見ようとすると文字が小さく見えて読みにくくなります。
 そこで大活字本というのが出来たのかと思いますが、大活字本は離して見ても読めるくらいの文字の大きさなのだといっても、離して見るのは読みにくいものです。
 そこでつい本を近づけて読もうとするのですが、そうすうると文字が大きくても焦点が合わないのでとても読みにくくなります。
 結局めがねを使って普通の読書距離で読みやすいかうじの大きさの文字を読むのが一番楽だということになります。


文字を同時に読み取れる範囲

2006-12-24 22:54:29 | 文字を読む

 心理学の研究では目を動かさずにはっきり認識できるのは七文字程度としています。
 これは眼の中心窩でとらえられる範囲で、範囲を超えれば文字がぼやけて見えてしまうためだといいます。
 図Aについて見れば真ん中の「賭」のところを見て同時に左右にある文字を見ようとした場合、左右の隣の字は分かるでしょうが、その次の「寛」とか「廃」までは何とか見えても、一番右と左の文字となれば読み取れない人もいるのではないでしょうか。
 これは視野が狭いために読み取れないのかといえば、そうとも言い切れません。
 Bの「辞」と「軽」の間に眼を向けて見た場合、「異」と「銅」はAのばあいの「量」と「習」の場合よりはるかに読み取りやすいはずです。
 中心からの距離が同じでも周りが空いていることによって妨害刺激がないためです。
 
 それでは視野は関係がないかというとそんなことはありません。
 AもBも七文字なのですが、Bの両端の文字を同時に把握するのは結構難しいと思います。
 Bの左右両端の文字を同時に見ようと努力した後で、Aの左右両端の文字を見ようとすると、はじめのときに比べ、かなり見やすくなっているはずです。
 これは視野が広がったためで、視野の広さは文字の読み取りに影響があるのです。

 AとBの場合は文字はつながりがなかったのですが、Cのように四字熟語が並んだ場合はAの場合より左端と右端の文字の距離は長いのに、左端とうたんの文字を同時に見て把握することが楽です。
 これは文字がつながりを持って四字で一つの塊としてとらえられるために、左端と右端の字は精細に見なくても見えてしまうためです。
 熟語の知識があるために、左端の文字も右端の文字もはっきりとは見えなくても、はっきりと分かってしまうのです。
 AやBは文字数としては7字で、Cは八文字なのですがCは語数でいえば二語あるいは四語ですから把握しやすいのだともいえます。

 DもEも文字数でとらえると15文字ですが、文字数は多くてもBの場合よりも読み取りやすいはずです。
 DもEも、文字数は15文字ですが、語句数でいけばいずれも4つなので、文字配列の幅は広くなってもBよりも読み取りやすくなっていることが分かります。
 それでもEとDとを比べれば、漢字の字数が多いDのばあいよりEのほうが読みやすくくなります。
 同時に文字を読み取る能力というのは、単純に視野が広いかどうかで決められるものではないのです。


 


右脳と左脳の役割

2006-12-23 22:51:41 | 脳の議論

 図はエルコノン.ゴールドバーグ「老いて賢くなる脳」からで、何かに取り組むときの右脳と左脳の活動の様子を端的に表したものということです。
 ゴールドバーグによれば、経験したことのない新しいことに取り組むときは右脳が主となって働くといいます。
 左脳には過去の経験で得られた知識や技術がパターン化されて蓄えられていて、直面した問題がその中のどれかに当てはまれば、それを使って処理をするといいます。
 過去の経験や知識を応用して解決できる問題の場合は左脳が主となって処理を行うというのです。
 新しいことや、自分が知識や技術を持っていないことに取り組むときは、左脳では処理できないので、右脳が主力となって働いて処理をするのです。
 
 最初は右脳が働いて処理をしても、そのうちに左脳も参加するようになり、処理の経験が重なるにつれて処理パターンが経験として蓄積されていきます。
 経験が蓄積されれば左脳がこれを利用して処理をするようになりますから、右脳の働きは左脳が働くにつれ弱まるということになります。

 右脳と左脳の役割については左脳が言語を処理して、右脳が視覚や空間の処理をするといったこれまでの説とはガラリと変わった説ですが、経験的には納得のいくものです。
 たとえば子どもがひらがなを覚えるときでも最初は苦労するのですが、繰り返し練習して覚えてしまえば、すらすら読めるようになり、さらに進めば文字を見たとたんに自動的に読むことが出来たりします。
 計算にしてもそうで、一桁の足し算でも覚え始めは頭をしぼって計算しますが、繰り返して練習すればパッと答えが出せるようになります。

 この説は右脳とか左脳とか大雑把に分けて説明しているので、漠然としたところはありますが、新しく何かを覚えようとするとき、最初は苦労して頭を使いますが、なれてくれば楽にできるようになるので、頭の働きが変わるということが実感されるので、説得力はあります。
 くりかえして慣れてくれば、たいていのことは楽にしかも上手に出来るようになって、脳の負担も少なくなるというのはもっともなことなのです。

 そうすると音読や簡単な計算をすると脳が活性化するという現在の流行はどういうことになるのでしょうか。
 繰り返してやっていくうちには、自動的に出来るようになって、脳はあまり使われなくなるのではないかと考えられるでしょう。
 いくらやっても簡単な計算や音読をするのに脳が莫大なエネルギーを使ってしまうようでは、その脳はよほどに不経済な脳だということになるからです。


音読で脳が癒されたとき

2006-12-22 22:20:30 | 文字を読む

 図は川島隆太+安達忠夫「脳と音読」からのもので、安達忠夫氏が漢詩を朗読したときの脳血流の状態を表したものです。
 左が訓読つまり読み下し文で読んだとき、右は音読(日本語式の音読)で読んだときのものです。
 この図はカラーでないので色が分かりませんが、脳血流が増加していることを示す赤い部分はごくわずかです。
 一般的には音読をすると前頭葉を中心に、脳の血流量が広範囲にわたって増えるというのですが、この場合は青くなっている部分があり、これは脳の血流が抑制されていて、脳が癒されている状態なのだそうです。

 読み手が漢詩を読むことについて熟達していて、しかもよく熟知している内容なので気持ちよく詠うように読んだため、脳が癒されるということなのです。
 漢詩ですから音読の場合はもとの中国式の読み方でなくて、日本語式の読み方でも韻律があるのでリズミカルな読み方が出来ます。
 訓読の場合は日本で発明された読み下し文ですが、独特のリズムがあるので読みなれた人はそのリズムで酔えるのでしょう。
 
 このような読み方をしていては、脳が活性化しないではないかと思われる人もいるかもしれませんが、それは脳の活性化という言葉が流行したために、活性化自体が価値があると思っているためです。
 漢詩に限らず、詩は心に訴えようとするものでしょうから、脳の血流量を増やすことを目的としているものではありません。
 安達氏のように気持ちよく読んで脳が癒されるというのであれば、これが読み方としては本来のあり方ではないかと思われます。

 普通の文章を読む場合でも、読み手が読書能力がないと脳の血流量が増え、それこそ脳が活性化するのですが、これは読むことに非常な努力が要るからです。
 読書能力が高い人が読んだ場合は、脳の血流量は相対的に少ないそうですから、脳が活性化するというのも読み手の能力によるのです。
 さらに読む内容が理解しにくかったり、感情移入しにくいものであれば、読むことに努力が要るので脳の血流は増えることになります。
 逆にいえば、内容が楽しめるものになれば、読んでも脳が活性化しないということになるかもしれません。
 脳の血流量が増えることを脳科学では活性化と言っているのですが、これは一般の人が使っている活性化という意味とは違います。
 活性化という言葉を日常用語のように価値的に考えると、何が何でも活性化しなくてはならないという風に考えてしまうのです。
 本を読むにしても、脳の活性化ということを意識する必要はないのです。


右脳と左脳の情報処理量

2006-12-21 23:17:13 | 言葉と文字

 いまでも左脳が処理する情報量に比べて、右脳の情報処理量は十万倍以上だということがいわれたりしています。
 これは、言葉の処理は主として左脳でおこなわれ、視覚イメージ処理が右脳で行われるという風に脳科学で説明されたことがあったためです。
 それだけでなく、コンピューターで情報処理をするとき、文字を処理する情報量より画像処理の情報量のほうがはるかに多かったので、単純な類推から右脳のほうが情報処理量が多いと思ってしまったのです。
 たとえば木の写真をコンピューターに記憶させると、カラーであるとか画像の大きさとか精度によってちがいますが、「木」とか「き」という文字に比べると数万倍から数百万倍のメモリーがいります。
 このような例を示されれば、左脳より右脳のほうが情報処理量が多いから、右脳のほうが優れた能力を持っているなどと考えたりするのです。

 しかしこれは言葉を音声とか文字と同じものだと考えてしまったために起きた誤解です。
 文字や音声は言葉を表すための手段で、符号に過ぎません。
 文字で言えば「木」とか「き」は符号であって、それ自体は木という言葉の表すものではありません。
 情報量ということでいえば「まつ」とか「すぎ」は「き」の二倍だから二倍の情報量だというのは符号だけのことで、意味とは関係がありません。
 漢字の「松」、「杉」、「枝」などは「まつ」、「すぎ」、「枝」に比べれば一文字なの符号としての情報量は二分の一ですが、「木」に関係することが表示されているので実質的な情報量はむしろ多いのです。
 文字で表せば「宇宙」も「世界」も二文字で表されてしまうということで、情報量がわずかだということになってしまいます。
 使われる符号の数でもって言葉の情報量を測るというのはナンセンスなのに、おお真面目に情報量の計算をしていたのは信じられないことです。

 画像であれば言葉を知らなくても見れば分かるということがありますが、文字や音声で表された言葉は、言葉を習得していないと理解できません。
 言葉を理解するためには脳の膨大な記憶がなければならないので、ことばを聞いたり文字を読んだりしているときの情報処理量は映像を見たときの情報処理量より少ないとは限らないのです。
 現実には文字を読むために長い年月をかけて教育を受けているのですから、イメージ処理の数十万分の一の情報処理量などという風な考え方は滑稽なのです。

 


文字の瞬間視

2006-12-20 22:41:44 | 文字を読む

 渡辺茂「漢字と図形」によれば、漢字でも千分の一秒の提示でも読み取れるということですが、これは知っている漢字の場合です。
 知らない漢字であれば千分の一秒示されてそれを書くということは出来ません。
 知っている漢字つまり記憶されている漢字であれば、ごく短時間見ただけで分かるということです。
 知っている漢字であっても、書き方を覚えていないか、鮮明なイメージとして覚えていなければ、千分の一秒見せられたからといって、正確に書くことは出来ません。
 
 千分の一秒見るだけで読み取れるといっても、一秒間に1000文字の漢字が読み取れるということではありません。
 一つの文字を見せて、千分の一秒後に別の文字を千分の一秒間見せたとすると二つの文字を思い出すのは困難です。
 最初の文字をと記憶とを照合し終わらないうちに次の文字が見えて、これを記憶と照合しなければならないからです。
 百分の一秒ぐらいの提示でも次々に文字を見せられると、最初の一文字は分かっても後の文字はほとんど分からなくなります。

 図のAは12文字の漢字がありますが、百分の一秒の提示でも分かる場合があります。
 あまり瞬間視が得意でなくても四文字ぐらいは読み取れるのではないでしょうか。
 これが一文字づつ百分の一秒見せられた場合は、四文字でも読み取ることが難しくなります。
 12文字あるといっても四字熟語が三つあるので、四字をひとかたまりのものとして見れば、三つの語を見るということで、百分の一秒でも読み取れたりするのです。
 この場合でも一語づつ百分の一秒間見るより、同時に三つの語を見るほうが読み取りやすくなるので、百分の一秒以下では見た語の記憶処理が出来ないのでしょう。

 Bのように熟語の文字配列が変更されていると、四つの文字はひとかたまりであるといっても、記憶されている文字の配列と違うので、記憶と照合しようとするのに時間がかかり、百分の一秒では三つの語はもちろん一つの語でも難しくなります。
 Cの場合はAと同じ三つの語なのですが、同じ文字数でも百分の一秒程度の提示ではAよりもかえって読み取りにくかったりします。
 ひらがなの場合は四文字が集まってひとかたまりのものとして記憶されていないからです。 
 Dのように文字配列が変更されると、瞬間的表示では文字を四字語としてまとめてとらえられず、一文字づつをばらばらに記憶してしまいます。
 このようにしてみると、日本語の漢字かな交じり文の場合は、素早く読み取れるためには漢字語が大きな役割を果たしていることが分かります。
 といっても記憶されていない漢字語では逆効果ですから、あまり難しい漢字や、特殊な漢字語は出来るだけないほうが読みやすいのです。