60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

漢字と単語の意味

2007-10-30 23:38:10 | 言葉と文字

 漢字語は文字の意味を知っていれば、はじめて見る単語でも意味が分かるので、透明性があるといわれています。
 たとえば、開店は店を開く、親交は親しく交わる、学校は学問をまなぶところ、密議はひそかに相談する、というふうに説明されると納得します。
 しかしこれらの例を見ても、二つの文字の関係が同じではないことから、語の意味が分かるためには文字の意味だけでなく、文字の使い方を知る必要があることが分ります。
 
 たとえばBの例で、地震、雷鳴、国立、日暮、手薄などは「~が~する、である」という形の単語ですが、老人、白旗、激動、冷水、知人などは「~である~」という形で前の字が後の字を修飾しています。
 往復、大小、風雨、縦横、配分は「~と~」、失望、乗船、上陸、改装、統一は「~を(に)~する」という形、不正、自然、未来、過去、確実などは「~である」という形になっています。
 これは漢字が名詞のはたらきをしたり、動詞、形容詞、形容動詞、副詞のはたらきをしたりするためで、文字の組み合わせごとに判断しなければならないので厄介です。
 たとえば「激動」は「激しい動き」ですが、「激しく動く」という意味の場合もあり、「改装」は「装いを改める」「改めて装う」、「乗船」は「船に乗る」、「乗っている船」と二通りに解釈できるので、必ずしも意味が一通りに決まるわけではありません。
 
 そればかりか、多く単語は文字を逆順に並べたものも有意味の単語となっていて、関連、連関、下落、落下、作製、製作のように意味が似通ったものもありますが、順序が逆になると使われ方が違うものもあります。
 先祖と祖先は似たような意味ですが、先祖は我が家の先祖など狭い範囲で使い、祖先は人類の祖先とか、民族の祖先とか広く客観的に使います。
 習慣も個人の習慣とか、会社の習慣とか狭い範囲のものですが、慣習となると社会的慣習のように広い範囲の場合に使われます。

 文字の配列を逆転しても似通った意味に常になるかというと、そのような例のほうが少なく、実際はまったく違った意味になるほうが多く見られます。
 たとえば、文法は逆にすると法文、観客の逆は客観、質素の逆は素質で二つの意味は同じ漢字を使っているのにまったく違った意味です。
 日本と本日、分身と身分、夫人と人夫、知人と人知、国中と中国、実現と現実、背中と中背、実情と情実、規定と定規などキリがありません。
 文字の組み合わせと順序によって意味がかわるのですから、一つ一つの文字の意味を知るだけでなく使い方も知らなくては単語の意味は分からないのです。

 さらにDの例のように同じ内容を別の文字で表現されることもあるので、どのように違うか迷ってしまうということもあります。
 また一つの文字が多様な意味を持っていると、単語の意味を知らなければ、どの意味が該当するのか文字だけでは判断できない場合すらあります。
 たとえば「先」という文字は先頭、先日、先見、先々、先決、先方、棒先、手先、口先、先棒、先手、先生、先導など多くの使い方があります。
 先日は過去のことなのに、先見や先々は未来のことであり、先方は相手で手先は自分の側の人間と逆の関係にあります。
 棒先は棒の先端ですが、先棒は人間です。
 漢字の意味が分かれば単語の意味が分かる場合があるにしても、文字の使い方を知らなければ意味が分からなかったり、誤解をしたりする可能性が高いのです。


カタカナ語と漢字

2007-10-29 23:19:46 | 言葉と文字

 たとえばドライバーというカタカナ語は、運転手とかねじ回しとか、ゴルフのクラブあるいはコンピュータのマウスの制御プログラムなどの意味で使われます。
 英語としてはdriverで同じ言葉なのですが、日本人は別の言葉だと感じています。
 英語のdriverが運転手とねじ回しの意味をあわせ持つということは、運転手とねじ回しに意味の共通性を感じているからです。
 ところが日本語で、運転手とねじ回しという言葉を並べても、同じグループの言葉とは感じられないので、カタカナ語で同じドライバーという言葉を使いながら、もとは同じ言葉だというふうに感じないのです(strikeの場合など同じ言葉なのに片方がなまってストライキと発音されると同じ語なのにストライクと別の単語として日本では流通してしまっています)。
 もしdriverを「運転手」と日本語に訳しても、その日本語の「運転手」は「ねじ回し」と意味的に結びついていないので本当の訳ではないということになります。
 
 外国語を取り込もうとすれば、どうしてもこういうことは起きることで言葉の意味の全体でなく、つまみ食いのような形になるのは避けられないことです。
 日本語の場合には、漢字に音読みと訓読みをあてがっているので、何となく漢字と日本語はうまく結びついているような感じがしますが、必ずしもそうではありません。
 たとえば「遊」という漢字には「ユウ」という音読みに「遊ぶ」という訓読みが当てられているので、ほとんどの人は「遊」が「遊ぶ」という意味だと思っています。
 ところが「雲白く遊子かなしむ」というときの「遊子」は遊んでいる子供ではなく「旅人」です。
 「交遊」の場合は交際のことで、「遊泳」の場合の「遊」は泳ぎです。
 「遊説」とか「外遊」といった言葉は誰しも眼にしているのですが、政治家は遊んでいるから「遊説」とか「外遊」すると思っているわけではないのに、「遊」がどういう意味なのか意識することがありません。

 日本語の「きる」は「切る、斬る、伐る、剪る」などの意味をもっているのに、特定の漢字で書いてしまうとほかの意味とのつながりが失われてしまうので、日本語としては「きる」とひらがなで書いたほうがよいという意見もあります。
 「メンチをきる」という言葉が最近使われましたが、メンチは「面」のことで歌舞伎などで顔をぐっと向けて見る動作(面をきる)からの言い方だと思いますが、漢字では表現しにくく「きる」とせざるを得ません。
 漢字なら日本語とうまく対応しているというわけではないのです。

 カタカナ語では日本語式の発音となるのでフードといえばfood(食物)、hood(頭巾)ちがう言葉が同じに聞こえてしまうので、カタカナ語はなるべく避けたほうがよいなどとも言われます。
 しかしよく例に出される「市立」と「私立」にしても中国式の発音なら「市」と「私」は発音が違うのに、日本式では同じになるための現象ですが、まるで違う言葉が日本式の発音では同じに聞こえるのです。
 「コウエン」というような例で見れば、同じ発音ではいくつもの言葉があるのですから英語などの場合より漢字のほうがはるかに激しいのです。


言葉の意味と文字のズレ

2007-10-28 22:49:30 | 言葉と文字

 「あかぬける」という言葉は「きが利いている」とか「粋である」というような意味ですが、語源的には「垢抜ける」だそうです。
 「垢抜ける」というふうに漢字を当てれば語源を表現できますが、肝心の語意はおかしな感じになります。
 「垢抜ける」では、「垢抜けていない」普通の人は垢だらけといった感じで、違和感があります。
 「垢抜けた表現」などのように形容される対象が人間でなければ、何となくおかしな言い方になるので、「あかぬけた表現」としたいところです。

 「あかぬける」の場合は語の意味の変化が少しなので、違和感はそれほどでないですが、「いきなり」のように語源と語意のずれがおおきいと当惑します。
 「いきなり」は語源的表現では「行き成り」で「いいなり」、「それなり」と同型の表現で「成り行きまかせ」という意味です。
 「成り行きまかせ」と「急に」では意味の隔たりが大きく、急に「急に」という意味だとなると当惑するのです。

 「いかさま」は語源的には「如何様」で「いかにもそのとおり」という意味であったのが、現代では逆の意味で「(そのとおりに見えて実は)インチキ」というふうに逆転しています。
 「しあわせ」も語源的には「仕合せ」で「めぐりあわせ」あるいは「なりゆき」の意味で「ハッピー」というまでの意味ではありません。
 「幸せ」と書いた場合でも「幸」はもとは「手かせ」の意味で良い意味ではなく、あとで「手かせ」をはめられた状態から脱するという意味で「幸運」となったものです。
 「お愛想」にしても文字面を見て「勘定」という意味だとは思えないでしょう(「不愛想」な店の主人でも勘定の段階では愛想がよくなるということだとすればつながるような感じもしますが)。
 発音は変化しても語形は元のままであるべきだ、という考え方からすれば語源を明示するような表記が望ましいということになりますが、このように語の意味が変化したりすると、語形を保っていればかえって混乱するということもあるのです。

 漢字が表意文字であるといっても、いつでもそうであるわけではなく、注意してみると何気なく使っている漢字が言葉の意味と結びつかない例はいくらでもあります。
 「無茶」や「世話」は「茶」や「話」とは関係なく、「突慳貪」の「慳貪」(けちで欲張り)は「つっけんどん」とどう関係するのか分りません。
 「やぼ」を「野暮」と書いて「暮」はどういうかかわりかとか「くらげ」の「母」はどういう意味かなどと考えても無駄な気がします。
 文字表記は音声に比べて変化しないので、変化しないことに価値があるというふうにいうこともできますが、意味とのずれが激しくなればそうとばかりいってられません。
 言葉は生きていなければならないので、脱皮する必要があり、当座は仮名などによる、音声表現にしておいたほうが無難な場合があるのです。


耳から覚える言葉と文字表記

2007-10-27 22:37:19 | 言葉と文字

 「おもむき」という言葉は、漢字では「趣き」ですが、もとは「面(おも)向く」というふうに合成された言葉だとされています。
 つまり興味を持つと顔(面)がそちらに向くので、「面白み」とか「味わい」といった意味を示しているということになります。
 言葉の由来はそういうことなのでしょうが、そうした言葉の由来を示す「面向き」という表現と「おもむき」あるいは「趣き」といった表現を比べた場合、どちらが頭に入りやすいでしょうか。
 たいていの人は「面向きがある庭だ」という表現より「趣のある庭だ」あるいは「おもむきのある庭だ」という表現のほうがすぐ分ると思います。
 
 「面向き」は「面」+「向き」の複合語の形でで、説明的な表現ですが、「おもむき」あるいは「趣き」は単一語的な表現です。
 「おもむき」という言葉はたいていの人は読み書きをしなくても、耳から入った言葉として記憶され、意味も聞いているうちに自然に覚えています。
 したがって「趣き」という漢字を見て、読み方と意味を学習するのではなく、「おもむき」は漢字で「趣き」と書くというふうに学習します。
 つまり、漢字が書けなくてもあるいは読めなくても、「おもむき」という言葉の意味がわかるのです。
 また、ひらがなで「おもむき」と表示されていれば耳で覚えている「おもむき」の意味だとすぐ分かるのです。

 「おもむき」というのは「面」+「向き」だから「面向き」だという表現は、文字表記を学習することで覚えるものなので、ピンとこないのです。
 語源を示しているので合理的な表現だと考えることもできますが、言葉が使われている間にもとの意味とはニュアンスが変わってきています。
 また語源的な表現は意味を一面的に示すので、実際に使われる意味より「趣き」のない言葉になってしまうので、「おもむき」や「趣き」より含蓄のない表現になっています。

 こうしたことは、「うらやむ」、「むかっぱら」「ちんまり」、「うなずく」といった言葉についても言えます。
 いわゆる和語の多くは文字の読み書きができなくても、耳からの聞き覚えで学習できているので、語源を示すような表現でなくても単純にひらがな表記で十分意味が分かりますし、ひらがなの方がむしろ分りやすいのです。

 耳から覚える言葉というのはいわゆる和語だけでなく、漢語にもあります。
 漢語といっても、日本語に溶け込んで漢語と意識されないような単語は、漢字表現を覚える前に耳に入って記憶されています。
 たとえば「学校」は「学校」という漢字表記を覚える前に「がっこう」という言葉を耳で覚えていて、あとから文字を覚えます。
 そのため「学校」の「学」は「まなぶ」という意味だと理解していても「校」の意味は分からなくても平気なのです。
 「生徒」の「生」は「生まれる」とか「生きる」ではないのですが、「小学生」とか「高校生」といった言葉を何気なく使っています。
 「銀行」や「会計」も漢字の組み合わせで示される意味は、力を失っていて、「ギンコウ」や「カイケイ」と読む機能だけになっているのです。


略語と語源

2007-10-23 23:10:21 | 文字を読む
 言語類型論というのはヨーロッパ人の考えたものですが、最初は孤立語(中国語など)、膠着語(日本語など)、屈折語(フランス語など)の三種類に言語を分類していました。 その後発見されたエスキモー語などが抱合語として加えられて4分類とされています。
 図はそれぞれの言語の形をアナログ的に示したものですが、抱合語というのは主語や目的語などが動詞にくっついて、一語文の形になっています。
 文法の語形変化で見ると、孤立語がもっとも単純で、次に膠着語、屈折語となるので、ヨーロッパの学者から見ればこの順に発達した言語と考えられたようです。
 ところが新しく発見され、最も原始的な言語と考えられた抱合語が、実は語形変化が最も激しく、語形変化の順に並べれば屈折語、膠着語、孤立語と変遷するということになってしまい、屈折語優位とはいえなくなってしまいます。
 
 言語の形態から優劣を決めるということ自体はナンセンスですが、抱合語を原始的と考えるのは動物の言葉からの類推とすれば、理解はできます。
 猿が仲間に「向こうに豹がいるぞ」と声で伝えるとき、人間の言葉とは違って一つの叫び声で表現しているように聞こえます。
 抱合語も文が語に分けられないで、一つのかたまりで表わされているとして、これは単純な叫びとみなされたようです。
 
 しかし言葉の目的が何かを伝えるということであれば、複雑な形が優れているとは限りません。
 「向こうに豹がいる」という事実は言葉を組み立てなくても、見た瞬間に分りますから、本来ならなるべく手短に表現したいはずです。
 「ギャッ」といってそれで伝わるならそのほうが効率的ですから、できるなら表現は短縮されるはずです。
 
 一方で「向こうに豹がいる」といっても、実は「豹は弱っていてしかも距離はだいぶある」ということであれば、単純な表現でなく複雑で分析的な表現が必要になります。
 それでも複雑で長い表現であっても、内容じたいは慣れてくれば瞬時に理解できるようになりますから、表現も短縮化することが要求されます。
 「国際連合安全保障理事会」のように最初はその内容を示すために長い表現も、何度も使われるうちに「安保理」と短縮されます。
 意味が分かれば長い表現は嫌われるのです。
 とはいっても略語が通用しはじめる時点では、もとの言葉とのつながりが認識されているのですが、時間が経過すれば流通しているのは略語だけなので、あとの世代は意味が明示されない言葉を使うようになります。
 いわゆるカタカナ語でも、なぜそういうのかという語源は分らないまま使われているものが多いのです。

発音の変化と文字表記の変化

2007-10-22 22:33:38 | 言葉と文字

 新仮名遣いといえば、終戦後占領軍によって押し付けられたというふうに思う人もいますが、原案は大正時代に作られたものです。
 いわゆる歴史的仮名遣いは、明治政府によって施策されてから定着するまで数十年を要しましたが、その間だけでなく終戦直前まで表音化の動きが政府によっても繰り返されています。
 歴史的仮名遣いは教育が難しいだけでなく、「大言海」など国語辞書は見出し語が歴史的仮名遣いで、発音とすぐ結びつかず非常に不便で、そのうち表音的見出し語の辞書ができたりしています。

 とくに朝鮮や台湾、満州、南洋諸島での現地人の日本語教育ということになると、発音と文字が違っていては不都合ではないかと考えられ、明治末からは表音式の教科書が使われたりしました。
 それでも、現地人に対しても日本人と同じく、歴史的仮名遣いで教えるべきだという意見が強かったため、大体は歴史的仮名遣いの教科書がつかわれたのですが、図のように表音式のものが1937年でもつくられています。
 日本国内で歴史的仮名遣いが定着したといっても、文学者や高等教育を受けた人々の話で、一般庶民にまでは定着していなかったので、外国人には表音式でなければ無理だという考えがあったのでしょう。

 発音が変化すれば表記も変化させたほうがよいと考えるのは自然の動きで、これは日本に限ったことではありません。
 発音と綴りがずいぶん懸け離れているため、綴りが難しくなっている英語の場合は、発音だけが変化して綴りは変化していないような感じがします。
 たとえばnightとknightは発音が違いますが、knightのkはかつては発音されていたのが、発音が変化してnightと同じになったので、綴りのほうは混同を避けるため、変化させずにそのままにした、といわれています。
 そこで発音が変化しても綴りが変化しないので、綴りと発音のズレができているのだなと思い、さらに発音は変化しても文字表記は変化しないと思い込んでしまいます。

 ところが古い英語の綴りを見ると、綴りは現在と同じかといえばそうでもありません。
 whenは以前whanという綴りだったのですが、whenと綴りが変わったのは、発音が「ウァン」から「ウェン」に変わったからでしょう。
 togetherも「トゥギダー」が「トゥゲザー」に変わったのでtogydirからtogetherに変わったのでしょう。
 現在のgive(ギブ)やlove(ラブ)が、かつてはgiue(ギウ?)、loue(ラウ?)だったとは驚きですが、発音が変化すれば文字表記が変化するということもあるのだなということが分ります。
 (このときnightはnyght、knightはknyghtとなっていますから、発音が変化して綴りが変化しないというときもそれ以前にあったということがわかります。)
 


和語と語源意識

2007-10-21 22:39:16 | 文字を読む

 新仮名遣いは語源を分りにくくしてしまうといわれます。
 たとえば、「躓く」は旧仮名遣いでは「つまづく」で、これはつま(爪)つく(突く)のいみなので「つまずく」としてしまうと「ずく」では(突く)の意味が伝わりません。
 漢字かな交じり文では、表意文字である漢字が意味を担当し、仮名は表音文字として機能するのですが、「躓く」は難しい漢字なのでルビを振るか、仮名表示するのが望ましいということになります。
 仮名表記した場合、「つまずく」では具合が悪いという事になるというのですが、普通の人は「つまずく」と書いたのを見て、意味が分からないということはありません。
 しかし語源が分りやすい「つまづく」のほうがよいという主張が当然あります。
 
 それでは「躓く」が難しい漢字なので、「爪突く」というふうに語源に忠実に書けば、一番分りやすいのではないかとも考えられるのですが、何か変な感じがします。
 「爪突く」という表現では何か突き指をするような感じがするので、違和感があります。
 「爪突く」という漢字表現が一般化しないで、「躓く」という難しい漢字のほうが一般化していたのは、語源はともかく「躓く」のほうがふさわしい表現と見なされたからでしょう。
 「頷く」や「跪く」の場合も同じで、多くの人にとって「項突く」「膝ま突く」は、単に見慣れないというだけでなく、直感的に分りにくいので、難しい漢字の「頷く」や「跪く」に取って代わられたのでしょう。

 現在使われている和語は、だいたい耳で聞いて意味が分かる言葉なので、強いて漢字にする必要はもともとありません。
 語源が分ればそれはそれで興味をそそることはあっても、使用上はプラスになるということはありません。
 「躓く」にしても「頷く」にしても耳で聞けば意味が分かるので、表音表示で十分です。
  語源を意識しなくても分るのですから、強いて語源を示さなくてもよく、語源を意識するとかえって意味が分かりにくくなるのでは、語源表示は興味深くはあっても使用上はマイナスです。
 「いなずま」も「さかずき」も聞いて分る言葉で、旧仮名遣いに習熟している人には気持ちの悪い表示かもしれませんが、新仮名遣いに慣れている人にとっては抵抗はありません。
 
 複合語の語構成が「一本釣り」のように明らかな場合は「いっぽんずり」でなく「いっぽんづり」と表記しますが、この場合は漢字表示しても語構成がはっきりしているので、それにあわせた表記になっています。
 そこで「一本調子」も「一本」+「調子」なので「いっぽんじょうし」でなく「いっぽんぢょうし」としています。
 ウッカリすると旧仮名遣いでも「いっぽんぢょうし」としかねないのですが、「調子」は「てうし」なので「いっぽんでうし」です。
 ところが「一帖」は「一」+「帖」なのに「いちぢょう」でなく「いちじょう」としています。
 この場合は「帖」が「ちょう」でなく「じょう」で旧仮名遣いでは「てふ」でなく「でふ」だからです。
 漢字の単体読みが二通りあるため紛らわしいのです。


漢字に隠される仮名遣い

2007-10-20 22:39:57 | 文字を読む

 1943年の徴兵検査のときに行われた「壮丁教育調査」の問題例で、「ウタヲウタイナガラ ススミマシタ」の「イ」の部分を指定して間違っている仮名遣いを正せとしたところ、正答率は22%に過ぎなかったそうです。
 戦前派旧仮名遣いで教育されていましたから、「ウタイ」は「ウタヒ」が正解ですが、徴兵検査を受ける年齢で正解者が22%というのは低すぎます。
 旧仮名遣いというのが教育によっても、定着しにくかったということが分ります。
 もし現代で「ウタヲウタヒナガラ ススミマシタ」の「ヒ」の部分を指定して、仮名遣いの間違いを正せとすれば、ほとんどの若者が「ウタイ」と正解するでしょう。
 現代仮名遣いは発音に近いので自然に正解できるという点で、身につけやすいからです。

 仮名の「お」と「を」は発音で「オ]と「ウォ」に対応しているように見えますが、現在では両方とも「オ」と発音されると見なされています。
 現代仮名遣いでは助詞の「を」を除いては「オ」も「ウォ」もすべて、「お」で表示しています。
 旧仮名遣いで「お」と「を」で使い分けていた表示を、助詞の「を」を除いて「お」にしてしまっています。
 旧仮名遣いでは「お」と「を」を書き分けていたのですが、これは結構難しいものです。
 上の図にあげている例は、いわゆる和語なのですが、普通は漢字で書かれているため「お」を使うのか「を」を使うのか表面化していません。

 漢字で書かれていると「お」であっても「を」であっても発音は「お」で同じなので「お」か「を」か意識しないで読めます。
 しかし、いざ旧仮名遣いでは「お」か「を」かと問われると、結構旧仮名遣いに慣れている人でも迷うのではないでしょうか。
 読みではいずれも現代では「オ」ですから、発音を頼りに書き分けることはできません。
 それぞれについて「お」か「を」かを習い覚えるしかないのですが、漢字で「小」は「を」と書くというふうに、漢字を手がかりに覚えるという方法もあります。
 漢字の訓読みで「お」に対応するものと「を」に対応するものと分けられるとして、覚えるのが便法なのですが、中には例外があります。

 たとえば「大」は「おほ」と訓読みするので「大」を使った言葉は「お」となると考え、「大神」は「おほかみ」として正解ですが、「大蛇」は「おろち」でなく「をろち」が正解というのですから厄介です。
 「乙女」は「をとめ」ですが、同じように「乙」を使っているからといって「乙姫」は「をとひめ」かというと「おとひめ」です。
 こういうのは例外で大体は漢字に対応するので、漢字との対応で覚えればよいのですが、覚えて間違えないようにするのは大変です。
 しかも苦労して覚えてもメリットがあるかというと、現在では疑問です。

 ほとんどの人は旧仮名遣いで「を」であったものが「お」に変えられた状態になれてしまっていて、「を」でかかれると戸惑うというのが現状です。
 「小川」は旧仮名遣いでは「をがは」ですが、全国の小川さんのほとんどは、「おがわ」と書かれてあれば自分のことと思っても「をがは」と書かれていれば、すぐに自分のこととは思わないのではないでしょうか。
 


旧仮名遣いの表記の迷い

2007-10-16 22:55:40 | 文字を読む

 現代仮名遣いは基本的には発音を反映しようとしているというのですが、助詞の「は、を、へ」は「わ、お、え」と発音しているのに「は、を、へ」と表記しています。
 一貫性がないと旧仮名遣い論者からは批判されていますが、「わ、お、え」と表記しなかった根拠ははっきりしません。
 「こんにちは」をこんにちわ」と書かないのは、「今日は」の「は」が助詞だからというのですが、たとえば会話では短縮して「ちわー」というとき、この場合も表記はやはり「ちはー」とするのでしょうか。
 「ちはー」はやはりおかしいのですが、発音を反映しない表記にすると、崩れの多い会話表現はおかしくなってしまうからです。
 
 旧仮名遣いの場合は現代の発音を反映していないので、会話表現では言葉のもとの意味を示せなくなるときがしばしばあります。
 たとえば「おはよう、おはよ」とか「さよなら、さようなら」というような表現は「おはやう、おはよ」、「さよなら、さやうなら」となってしまって不自然です。
 「はよ」や「さよ」は元の「はやう」「さやう」と同じに見えないからです。
 「おまえ」は「おまへ」、「おめえ」は「おめへ」とするのですが、「てまえ」を「てまへ」と表記しても「てめえ」は「てめへ」でなく「てめえ」となっています。
 さらに「おまい」とか「てめい」といった表現になると「おまひ」、「てまひ」とはしにくいのではないでしょうか。
 「おまいてえものは」という言葉を「おまひてへものは」とやると江戸弁も何か抜けた感じになってしまいます。

 落語の落ちなどは音声が頼りなので、発音を反映しない旧仮名遣いでは、何となく決まりにくくなります。
 「孝行糖」という落語の場合は「孝行糖」と「此処と」を「こうこう」と表記しているのですが、旧仮名遣いでは「孝行糖」は「かうかうたう」で、「此処と」は「ここと」あるいは「こうこうとう」で結びつきません。
 「甲府いー」という落語では、身延山に出かける豆腐や夫婦が行き先を聞かれて、「こうふいー おまいりがんほどき」と答えるのですが、身延山のある甲府は旧仮名遣いでは「かふふ」、豆腐は「とうふ」ですから洒落になりません。

 旧仮名遣いの時代でも仮名の使い分けがきちんと行われていたかというと、必ずしもそんなことはなく、明治時代の文豪と呼ばれる人たちでも、仮名遣いの間違いはしばしば見られるそうです。
 明治やそれ以前の人々がきちんと旧仮名遣いをしていたわけでもなさそうなのは、当て字を見ても分ります。
 「居る」は旧仮名遣いでは「ゐる」なのですが「すまい」は「住居」と当て字をしています(辞書によっては「住居」を当て字としないで認めていますが、読みは「すまゐ」でなく「すまい」としています)。
 「かはいさう」「かはいい」という言葉に「可哀相」とか「可愛い」をあてがっていますが、「哀」や「愛」は「あい」であって「はい」ではありません。
 「恵比寿」は旧仮名遣いでも「えびす」であって「ゑびす」ではありません。
 「知恵」は「ちゑ」と表記しているのですから首尾一貫しているわけではないのです。


発音の表示が苦しい旧仮名遣い

2007-10-15 22:48:55 | 文字を読む

 「狩人」は「カリウド」とも「カリュウド」とも読まれます。
 現代仮名遣いではそれぞれ「かりうど」「かりゅうど」と表記できますが、旧仮名遣いではどちらも「かりうど」となります。
 旧仮名遣いでは「カリウド」という読み方を表記できないのです。
 広辞苑では現代仮名遣いの見出しとともに、旧仮名遣いの表示が示されますが、「かりゅうど」が見出しのときは「カリウド」と旧仮名遣いの場合の表示が横にしめされます。
 意味は「⇒かりうど」として「かりうど」の見出しで引くように指示されます。
 そこで「かりうど」をひくのですが、「カリウド」の見出しのときは旧仮名遣いによる表示は示されません。
 つまり「かりうど」の旧かな表示はやはり「かりうど」だからです。

 同じようなことが「仲人」、「若人」、「頬」についてもいえます。
 旧仮名遣いでは「なかうど」、「わかうど」、「ほほ」と表記して「ナコウド」、「ワコウド」、「ホウ」と読ませるので、「ナカウド」、「ワカウド」、「ホホ」という発音に対する表示を別に作ることができないのです。
 もともと仮名というのは、音標文字なので発音に近づけた表示をするのが目的です。
 したがって、旧仮名遣いの「なかうど」はかつては「ナコウド」ではなく「ナカウド」と発音されていたのです。
 現代になっても「ナカウド」という発音が残って、「ナコウド」という発音と共存しているため、旧仮名遣いは両者を書き分けることができないというジレンマに陥るのです。

 「白梅」は「しらうめ」と表記し、「シラウメ」と発音するのは、現代仮名遣いも旧仮名遣いも同じです。
 旧仮名遣いだからといって「シロウメ」と発音しないのは、「白」と「梅」の合成語なので「シロ」+「ウメ」と発音するのだと説明されます。
 ところが「木瓜」あるいは「胡瓜」は「キウリ」でなく「キュウリ」と発音されるので原則は崩れます。
 「ゴーヤ」の別名「苦瓜」は旧仮名遣いでも「にがうり」と表記され、発音も「ニガウリ」であって「ニゴウリ」ではないということになるはずですが、実際には「ニゴウリ」と発音している地方があります。
 旧仮名遣いは発音と違う表記をするとしたため、発音を表現するのに不便なのです。

 旧仮名遣いは古い時代の発音を表記しているので、もともとの単語の意味を示すことができて合理的だという例で、百人一首の「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも あふさかの関」というのがあります。
 「あふ」は「逢う」で「あふさかの関」は「逢坂の関」なので言葉の重なりが見え、これを現代仮名遣いで「おうさかの関」とするとなんだかわからなくなるといいます。
 しかしこの歌が作られたときは「あふさか」は「アフサカ」と発音されて、「オウサカ」と発音されていたのではないので、発音どおりの表記だったということに過ぎません。
 
 「わが庵は 都の巽 しかぞすむ よをうしやまと ひとはいふなり」という歌では「うし」を「憂し」と「宇治」とにかけているのですが、「宇治」は旧仮名遣いでは「うぢ」であって「うじ」ではありません。
 「よをうぢやまと」と書いている例もありますが、「宇治」のほうが助かっても「憂し」のほうが助かりません。
 旧仮名遣いならもともとの単語の意味が明示されるとは限らないのです。