60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

漢字の音読みと訓読み

2008-03-31 23:03:44 | 言葉と文字

 この漢字をなんと読みますか?というような場合、読みとは何をさしているかあいまいです。
 日本語では漢字の読みは音読みと訓読みがあることになっているので、どちらを答えればよいか迷うはずですが、暗黙のうちにどちらかを前提にしています。
 たとえば、「鴉」や「烏」を「ア」トカ「ウ」と読めば本来正解なのに「カラス」としなければ不正解とされてしまいまです。
 また鯖という字をなんと読むかというとき、「セイ」とか「ショウ」と答えては不正解にされてしまいます。
 「鯖」は「サバ」と答えなければならないのですが、「サバ」というのは漢字の本来の読みでなく、訓つまり日本語訳です。
 音読みは本来中国語なので、音読みでは意味が分からないので、和訳した訓読みが要求されるのです。
 音声言葉が先にあって、それを視覚的に見える形にしたものであるということであれば、日本語では「さば」を表わす言葉として「セイ」とか「ショウ」という言葉はないので、「鯖」は「サバ」と読むことになります。
 
 「鰤」は音読みでは「シ」ですが、「ブリ」と答えなければ正解とならず、「鯢」は「ゲイ」と音読みしてもダメで、「サンショウウオ」あるいは「メスクジラ」と読まなければ正解となりません。
 「鰤」とか「鯢」は難しい字で、日本語はカナがあるのでわざわざこんな字を導入しなくてよいのですが、なんでも漢字で書こうとする風潮ができたのです。
 「山」を「ヤマ」と読んだり、「木」を「キ」と読んでいるうちは漢字を解読していたのですが、「鯖」とか「鰤」とかになると日本語の「サバ」や「ブリ」にあたる漢字を探してきているのですから、文字のほうは漢訳という形になってしまっています。
 「菊」とか「点」のように日本語になかったものはそのまま借用されていますが、日本語にあるものは何とか漢字表現しようとしていたのです。

 漢字が日本語を漢訳したものであれば、読み方がわかればそれは日本語ですから、読み方が分かれば意味も分かるということになります。
 そのため漢字をともかく読めることが重視されて「~をなんと読むか」というような問題が出されるのです。
 ところが読みが訓でなく、音が一般的である場合は、読みがわかっても意味が分からないというケースが出てきます。
 たとえば「檄を飛ばす」という場合の読みは「ゲキをトばす」ですが、ゲキの意味はたいていの人が知りません。
 「檄」の和訳は「ふれぶみ」ということですが、「フレブミをトばす」は耳慣れないので、「ゲキをトばす」にどうしてもなります。
 「綺羅星のごとく」読みとしては「キラホシのごとく」で和訳して「アヤギヌ、ウスギヌ、ホシのごとく」ではサマにならないのです。
 「キラホシのごとく」と読んで「キラ」の意味が分からないので「星がキラメク」ような受け取り方をしたりするのです。

 


速読と脳の活性化

2008-03-30 22:48:00 | 文字を読む

 図は独立行政法人情報通信研究機構(NICT)の実験で速読能力のある人が小説を読んだときの脳活動を、普通の人の場合と比較したものです。
 この図で見ると、普通の人が読んでいる場合のほうが、速読能力のある人が読んでいるとき(普通の人の十倍以上の速度)よりも脳血流が多く、いわゆる脳が活性化しています。
 普通の人の場合、ゆっくり読むよりも速く読んだほうが脳血流が多くなりますから、十倍以上の速さで読む速読能力者が読んだら脳がものすごく活性化しているのではないかと予想されます。
 ところが実際は逆に速読能力者のほうが、脳が活性化していないのですから、ハテナと思ってしまうのではないでしょうか。

 脳血流が多いほうがよいのだ、脳が活性化しているからよいのだといった単純な考え方は成り立たないのではないかと考えられるのです。
 そう思って考え直してみると、このような現象はいろんな分野で見られることで、読書に限ったことではありません。
 例えばソロバンの場合でも、熟達者が計算するときは場合は初心者に比べズット少ない脳血流ですし、詰め将棋などでも高段者は初心者が時間を掛け苦心して解くのに苦もなくさっと解いてしまいます。
 迷路の問題でも見ただけで迷わず抜けられる人もいれば、試行錯誤を繰り返し、それこそ脳を活性化させながらなかなか抜けられない人もいます。

 図の結果で見ると、速読能力者の読み方と、普通の人の読み方では単に脳血流量が違うというだけでなく、脳を使っている部分に違いがあることがわかります。
 主として音声言語を理解するウェルニッケ野の活動が見られなくなっていますが、これは十倍以上の速度で読むならば、音声に変換していては間に合わないので当然予測されることです。
 単語を一つ一つ読み込んでいって、それを組み立てて全体の意味を理解するという方法では、十倍以上の速度を実現するにはとんでもないエネルギーを必要とします。

 たとえば「侍が侍を殺せば、殺したほうが切腹をしなければならない」というような文章を読むとき、「侍が 侍を 殺せば 殺した ほうが 切腹を しなければ ならない」と文節単位で読んでも時間がかかりますが、全体を見てそのまま意味が頭に入れば、速くかつエネルギーを使わないで済みます。
 ただし文章を読むということは、入試問題を解く場合のように文意をつかむだけが目的ではありません。
 速読の読み方と普通の読み方とでは、脳の使われ方が違うのですから読むことによって得られる結果が違うので、一概にどちらがよいというものではないでしょう。
 計算なら答えを出すだけが目的ですが、文字を読む場合は文意を読み取るだけが目的とは限らないので、ゆっくり読むほうがよいという場合もあります。
 脳血流の量で優劣を測るようなことをしても意味がないのです。


明治の脳科学ブーム

2008-03-29 22:53:48 | 文字を読む

 石原千秋「百年前の私たち」によれば百年前にも日本に脳ブームがあったということです。
 上の文はこの本に引用されているもので、明治大正期に活躍した医学ジャーナリスト「糸左近」の「家庭医学」のものです。
 「家庭の医学」にまで脳に関する記事がでていることから、脳についての話題がこのころ広まっていることがうかがえます。
 明治時代も西洋文明の導入で新しい情報が大量に流れ込んできたため、時代に適応するために脳に対する関心が高まったのでしょう。

 この引用文にあるように「脳」を「筋肉」と同じようなものと考えるのは、この時代の「脳科学」に共通する特徴だそうですが、このような考え方はこの当時だけのものではなく、現代の脳ブームの考え方にも共通しています。
 例えば簡単な一桁の計算をしたり、文章を音読した場合に脳の血流が広範囲にわたって増加するというので、計算や音読をして脳が鍛えられると信じられています。

 百年前はfMRIなどというものがなかったので、音読や計算をすると脳が広範囲にわたって使われるなどとはわからず、単に脳を適度に使えば鍛えられるとしていました。
 しかし音読や計算をすれば脳が広範囲にわたって使われるから、計算や音読によって脳が鍛えられるといったところで、実際にどういうふうに鍛えられるかわからないという点では、単に脳を使えば脳が鍛えられるというのと大差はありません。
 筋肉ならば運動によって筋肉のどの部分が大きくなって発達したかが目で捉えられますが、音読や計算の場合は脳のどの部分がどう変わるか、具体的にはまだわかってはいません。

 ところがその後研究が進むにつれて、なにも計算や音読の場合だけに脳が使われるわけではないということがわかってきています。 
 例えば会話をしたり、料理をしたりするときなど、人間のいろんな活動に脳が使われるということが(あたりまえですが)明らかになっています。
 考えてみれば人間が何かをするために脳を使うのであって、脳を鍛えるために何かをするのではないのです。
 たとえば料理を作る人はどうしたらよい料理を作れるかアタマを使うのですが、よい料理を作れる脳力を鍛えるにはどうしたらよいでしょうか。
 料理をすれば脳が鍛えられるのだから料理をすればよいというのでは答えになりませんし、まさか音読や計算をやればよいということではないでしょう。

 文章を読む場合でも、文意を速く的確につかむとか、内容を深く味わうとかが可能になるためには脳が鍛えられなければなりませんが、どうすればよいかといったときに料理をすればよいという答えはヘンでしょう。
 音読や計算をすればよいというのも、全然役に立たないとはいえなくてもトンチンカンな答えでしかありません。
 筋肉とのアナロジーで考えるのなら、筋肉のようにどの部分をどのように鍛えればどのような結果が得られるという形で鍛え方を表現すべきです。
 
 明治の脳科学は筋肉とのアナロジーで、脳も適度に休ませなければいけないとしていますが、このほうが現代のようにやたらと脳の活性化を追及するより健全なようです。
 脳が忙しく動いていないと「ゲーム脳は痴呆脳だ」というような暴論が出てくるのですから、現代の脳ブームのほうがバランスを欠いています。


知識と記憶能力

2008-03-25 23:30:33 | 言葉と文字

 一番上の文字は、アラビア語で「朝、公園に行きました」という意味だそうです。
 日本語では簡単な文章ですからひと目で見て理解でき、文字も記憶できますが、アラビア文字のほうは五分や十分見たところで記憶できません。
 アラビア文字を知っている人ならひと目で意味が分かり、文字も記憶できるのでしょうが、アラビア語を知らなければとても覚えにくいのです。
 瞬間的に文字を見た場合、音読が間に合わないほどの短い時間であっても、目に焼き付ければ読み取れるというふうにいわれたりしますが、知らない文字ではそうはいきません。
 漢字一文字が千分の一秒の表示でも読み取れるというのも、知っている文字だからで知らない漢字でも読み取れるということではありません。

 音声のほうもカナがふってありますが、音読されたものを聞いても鸚鵡返しに復唱できるわけではありません。
 音の並びが馴染みがないので、聞いても正確にはどのように発音されたかわからないのでなぞって発音することも難しいのです。
 カタカナで読みをふっていますが、アラビア語は右から書くようになっているので、本来なら「フーバサ、ィフ、、、、ゥトブブハザ」とカナを振って右から文字を見ながら音声を聞く形になり、左書きに慣れた人間からすれば文字を頼りに音読するのに戸惑います。

 二番目はタイ語で、「これはタイの果物でドリアンといいます」というのだそうですが、これもタイ語を知らない人にとっては、ひと目で覚えにくいというような生易しいものではなく、何分見ても隠してしまえば目にイメージをハッキリ浮かべることができません。
 つまりボンヤリとしか記憶できないので、目を離してしまえばたちまちのうちに忘れてしまうのです。
 音声のほうも「タイ」、「ドリアン」など日本に知られているものがあっても読んですぐ記憶できるもので張りません。
 
 最後はチベット語で「これは、一ひろ31元です」という意味だそうで、これとてもひと目で覚えることはとてもできません。
 右脳で見ればありのままに見え細かい部分も覚えられるなどといいますが、見たことがないような外国語の文字ではそうはいきません。
 日本語ならこの程度の簡単な文章は、ひと目で覚えられるというのは、日本語の文字や言葉を記憶して知っているからです。
 文字や言葉がハッキリと記憶されているかどうかを調べないで、記憶能力を見ようとしても意味がないのです。

 


文字の逆読みと音声

2008-03-24 23:51:14 | 言葉と文字

 「ウサミアゾグオテデモ」という音声を聞いても何のことかわかりませんから、一度聞いてもすぐ覚えることはできないでしょう。
 これをローマ字で書くと「usamiazoguotedemo」となりますが、よく見ればこれは「omedetougozaimasu」を逆から書いたものです。
 この「omedetougozaimasu」をカナに直すと「オメデトウゴザイマス」となるのですが、これを逆から書くと「スマイザゴウトデメオ」となって最初の「ウサミアゾグオテデモ」とはずいぶん違います。
 文字で書いて違うばかりでなく、実際に発音してみても同じようには聞こえないでしょう。

 「オメデトウゴザイマス」という言葉を逆にいえばどうなるか、といわれると普通は「スマイザゴウトデメオ」だと考えます。
 カナは日本語の一音に対応して一字があると普通は考えているので、「オメデトウゴザイマス」を逆に書いた「スマイザゴウトデメオ」を音読すれば、当然「オメデトウゴザイマス」を音読した場合の逆になるだろうと考えてしまうのです。

 ところが「スマイザゴウトデメオ」と「ウサミアゾグオテデモ」を音読してからこれをテープに録音し、テープを逆回転させて聴いてみるとどちらが「オメデトウゴザイマス」と聞こえるでしょうか。
 予期に反して「スマイザゴウトデメオ」は逆回転して聞くと「オメデトウゴザイマス」とは聞こえないで、なんだかわからない音に聞こえます。
 それに対して「ウサミアゾグオテデモ」は逆回転して聞くと「オメデトウゴザイマス」と聞こえるのです。
 つまり日本語の音声を逆唱するのは、カナに直して逆にたどればよいといった方法ではできず、難しいのです。
 たとえば「タケタ」のように簡単なものでも、逆に言うには「タケタ」ではなく「taketa」を逆から読んで「アテカトゥ」のように発音しなければならないので、ローマ字あるいは発音記号の助けを借りなくてはできません。

 「テキスト」のような例でも「トスキテ」ではなくローマ字の「tekisuto」を逆に読んだ「オトゥスィケトゥ」のほうがテープを逆回転した場合「テキスト」に近く聞こえます。
 そういう意味ではローマ字は日本語の音を表現するのに適していますが、表音文字といいながら英語などは「text」のような簡単な例でも逆にして読みにくいので、音と文字が対応していません。

 心理学では一時的な記憶を保持する仕組みとして、音韻ループ(あるいは構音ループ)というものを仮定しています。
 音の記憶は数秒ぐらいしか続かないので繰り返して短期記憶の中に入れなおすというのですが、どんな音でも記憶できて繰り返せるのかというわけではありません。
 知らない外国の言葉など聞いても記憶できないので、繰り返すことができませんから、音韻ループといっても自分が理解できる言葉についてのものだということなのです(そういうことからすると、音韻ループというより構音ループというほうが適当です)。
 
 言葉を逆にいうことが難しいように、音声を記憶しているのは順序付けられた音をひとまとまりにして記憶しているのです。
 一つ一つの音を別々に記憶しているわけではないので、無意味語のようなものは覚えにくく記憶しにくいのです。
 もし音を聞こえたとおりに自動的に記憶できて、音韻ループのように繰り返しリハーサルできるというのなら、外国語などたちまち習得できてしまうし、音楽もすぐに覚えられるということになります。
 普通人はそうはいかないで、慣れ親しんだ言葉の組み合わせという形でしか記憶しにくいのです。
 


ミュラー.リヤー錯視と遠近説

2008-03-23 23:04:20 | 視角と判断

 A図は有名なミュラー.リヤー錯視図で横線の両端に矢印がついていますが、矢印が外を向いている上の図のほうが、横線が短く見えます。
 うえの横線のほうが短く見える理由を、グレゴリーという学者は、人間の視覚が奥行きを感じるためだとしています。
 たとえばBの左図のような建物の角の線はAの上の図の形で、右図のような部屋の隅の線はAの下の図の形です。
 上の図の場合はBの左図のように出っ張って見えるので近くに感じ、下の図の場合はBの右図のように引っ込んで遠くにあるように感じるというのです。
 出っ張って見えている線は近くに感じるので、目がそのように見ようとするのですが、実際の線は近くにはないので短く見えてしまうことになります。
 同じように引っ込んで見える線は遠くにあるように感じてみようとするのに、実際の線は遠くにないので長く見えてしまうことになります。

 実際にA図を見たとき、上の図が出っ張って見え、下の図は引っ込んで見えるのかというと、そういわれればそうかなと思う反面、素直に見た場合はそうは感じないようでもあります。
 Bの左図はたしかに出っ張って見え、右図は引っ込んで見えますが、これは窓のような図が加わって四角い建物の外側と内側のように絵画的に表現されているためです。
 これから逆にA図が奥行き感を感じさせるというのは、論理的ではなく少し強引です。
 
 C図はA図と同じなのですが、横線の真ん中部分を白い棒の形にしてあります。
 もし矢印の形によって遠近感ができて、水平線が長く見えたり短く見えたりするというならば、C図の白い棒も上は短く、下は長く見えるはずです。
 ところが実際に比べてみると、白い棒は同じ長さにしか見えません。
 上の白い棒が近くに感じ、下の棒が遠くに感じるのなら、同じ長さには見えないはずなのですから、やはり上の図が近くに感じるわけではなく、下の図が遠くに感じるわけでもないのです。
 白い棒の部分が同じ長さに見えるとすれば、横線の長さ全体は上のほうが短く見えるのですから、横線のうち白い棒の先の部分が上の図と下の図では長さが違って見えるということになります。

 そう考えて白い棒の先の部分を上の図と下の図で比べてみると、やはり長さがかなり違うように見えます。
 この白い棒の部分を長くしていけばどうなるかというと、白い棒の部分は長くなっても、上下同じ長さに見えます。
 そうすると残った水平線と矢印の部分がくっついているところが残ります。
 この部分が長さの印象を決めるというのは、横線と矢印の境目がよくわからないからだということに思い至ります。
 このことはD図のように横線と矢印の接点をハッキリさせた図を作るとたやすく見て取れます。
 横線部分を矢印部分から切り離してみる能力がない幼児や視力が衰えてきている老人のほうが、青壮年層に比べ錯視量が多いということからもこのことは予想されます。


視覚の情報処理

2008-03-22 23:19:50 | 視角と判断

 図はイアン.ロバートソン「なぜ月曜日は頭が働かないか」にあるもの。
 A図を見た場合、はじめはなんだろうかと思っていろいろ考えてみてもこれといった答えが出てこないでしょう。
 濃い部分と薄い部分があるので、ある部分が何かの模様のように見えても、全体としての見え方につながらないと結局これだと納得する見え方にはなりません。
 つぎにB図を見るとこれは一目で見て「サイ」だとわかります(ただし、サイを知っている人だけですが)。
 これを見た後でA図を見ると最初はサイには見えなかったのに、サイの絵が見えてきます。

 最初は見えなかったサイがB図を見ることで見えるようになったことについて、この本では「サイを見つけ出すという経験が脳を変える」つまり「神経細胞の結びつきがかわることによって、脳に新たに彫り込みがなされた」としています。
 A図を見たときには意味のない点の集合にすぎなかった模様で、「対象を認知する役割を担う細胞はあまり反応していなかった」のが、B図を見て「見逃していた意味を見つけ出し活動を始めた」というのです。 
 つまり、経験によって神経組織の結びつきが変わるというのですが、このような現象からは別のことも考えられます。

 まずA図は点の集まりでサイの絵だと見ることができるのですが、サイの図にしか見えないということでは必ずしもありません。
 B図を見てサイだと思うのはサイを知っていて、サイのイメージをパターンとして記憶しているからサイだとわかるのです。
 B図を見てサイのイメージパターンを思い出したために、こんどはA図を見てサイのイメージと結びつけることができたのです。
 A図がB図とよく似ているために、つまりA図とBずが共通部分が多いためにB図から引き出されたサイのイメージが、A図を見ることによってもも引き出せるようになったのです。
 サイを見たことがなく、サイの形をパターンとして記憶していなければB図を見ても、動物か何かの形だなと思う程度で、はっきりとしたパターンとして記憶には残りません。
 そうすればあとからA図を見ても、B図で見えたものと同じ形だとは確信できなくなります。

 B図は濃い点と薄い点、白い点の集まりですが、ひとつひとつの点に注目していっては大変に時間がかかるだけでなく、なんだかわけがわからなくなってしまいます。
 近接する濃い点をつなげ、何らかのものの輪郭線と見るために、サイのイメージが記憶から呼び起こされるのです。
 輪郭線を作る点以外の点、つまり図の大部分のを無視することによって、サイの絵だとわかるのです。
 図が膨大な数の点から成り立っているから、視覚による情報処理がそれらのので点を一つ一つ処理するという膨大な作業だと考えるのは早計です。
 記憶されているパターンにあわせて、他の要素を棄てる作業をしているのです。


文字とイメージ処理

2008-03-19 00:02:17 | 言葉とイメージ

 七つの文字を一度に瞬間的に表示して消した場合に、どれだけ記憶できるかテストしてみたとします。
 ローマ字(大文字)、ひらがな、漢字、算用数字でやってみると、最も覚えやすいのが数字で、漢字が一番覚えにくでしょう。
 では、なぜ漢字の方が記憶しにくいのでしょうか。
 視覚情報処理は右脳が担当し、右脳の情報処理量は言語情報を処理する左脳の情報処理量を担当する左脳の数十万倍もあるというような説がありますが、それならたった7文字程度の漢字を記憶するのはたやすいはずです。
 
 7つの漢字を記憶できないということから、視覚情報の処理といっても、見たものをそのまま見たとおりに記憶できるというわけではないということがわかります。
 漢字は複雑な形をしているので、記憶しにくいのだというふうにも考えられますが、ローマ字の場合とひらがなの場合を比べると、ひらがなの方が複雑な形をしているのに覚えやすいので、形の複雑さだけが原因であるとはいえません。
 
 一番考えられるのは、ここで示されている漢字はたくさんある漢字の中でも比較的になじみの少ない漢字で、記憶から引き出しにくいものであるということです。
 算用数字は0カから9までの10種類しかないのに漢字は数千種類あり、見る時間は同じでも脳内の記憶とすぐに結びつきません。
 想起に手間取っているうちに文字が消えてしまうので、記憶できないものが多くなってしまうと考えられます。

 文字を記憶しようとするとき、純粋に視覚情報として記憶するのであれば、ひらがなよりローマ字のほうが記憶しやすいはずです。
 ローマ字はひらがなより単純で、数も26と少ないのですが、ひらがなよりも馴染みが薄いから記憶しにくいともいえます。
 しかし、数字は10種類で形も簡単で、馴染みもあるのでひらがなよりはるかに記憶しやすいかというとほとんど差はありません。
 それではなぜひらがなが記憶しやすいかというと、イメージを記憶しようとしているだけでなく、言語情報化して記憶しようとしてしまうためです。

 ひらがなの読みはローマ字の読みや数字の読みに比べ短いので、音声言語に変換すれば短くなるので記憶負担が少なく処理しやすいのです。
 実際に音声化できないほどの短い時間の表示でも、記憶負担が少ないため自動処理しやすいので処理成績がよくなるのです。
 ただし、ひらがなは漢字と比べ、はるかに処理時間がすくなくてすむので、カナばかりの文章にすれば効率がよいかというと、カナだけでは表現力がないので読みやすい文章となるとは限りません。
  
 


音声と時間的順序

2008-03-17 23:42:58 | 言葉とイメージ

 聴覚障害者は数の把握能力が劣るとか、論理力が劣るというふうにいわれることがあります。
 数とか論理とかは言葉に関係するもので、言葉は音声を基礎にしていて、音声は時間的な順序で捉えられるものなので、聴覚障害者はどうしても不利だと推測するのでしょう。
 視覚の場合は同時に目に入るので、順序を意識することがなく、そのため論理能力を発達させることはないようにみえます。

 たとえば487-6592というような番号を記憶する場合、これを言語化して「よんはちなな、ろくごきゅうに」というふうに音声に変換して覚えるのが普通です。
 そこでこの数字列を逆ならびに言うように要求すると、たいていの人はすぐには答えられません。
 上から順にたどっていって最後が「に」だということを確認して、また上から順位たどり、「に」の前が「きゅう」だと確認し、先頭から二つまでは「にきゅう」だとして覚えておいて、さらにその後を確定しようとします。
 「よんはちなな、ろくごきゅうに」と音声で覚えても逆順に数字を答えることは難しいのです。

 ところがもしこれを視覚で「487-6592」と記憶した場合は、視覚記憶を思い浮かべ右から順に読んで行けばよいということになり、そう難しいことはないと思われそうです。
 視覚の場合はアタマの中で「2956-784」というイメージを思い浮かべる必要はなく、「487-6592」というイメージのままで逆から読めばよいと考えられるからです。
 聴覚の場合は「よんはちなな、ろくごきゅうに」という音声は記憶されていても「にきゅうごろく、ななはちよん」並び替えなくてはならないのでとても難しいのです。

 しかしよく考えてみると、音声記憶のとき数字を逆称するというのは、音声を逆称している事ではなくなっています。
 音声の逆称なら「にうゅきごくろ、ななちはんよ」であるはずでこれはさらにむずかしくなります。
 もし「487-6592」を音声化するとき「よはな、むごくに」と音声化すれば音声記憶を利用して「にくごむ、なはよ」と逆称することも可能です。
 「よはな、むごくに」は7文字で何とかそのまま記憶できるのに、「よんはちなな、ろくごきゅうに」となると13文字になる上に、音声を多く並び替えをしながら答えなければならないので、はるかに難しい課題になってしまいます。
 視覚記憶の場合でも記憶したイメージを逆転するような課題になれば難しくなるので、条件を同じにしないで音声記憶とイメージ記憶を比べても意味がないのです。
 


言葉を使わない計算

2008-03-16 23:12:05 | 言葉とイメージ

 正高信男「ヒトはいかにヒトになったか」によると聴覚障害者は学校の教育環境が耳の聞こえる者中心になっているため、聴覚障害者は普通の計算能力が劣るけれども、非言語的方法での数把握を行ってみると、健聴者より優れた結果を出すそうです。

 たとえば上の左の図はスクリーンの真ん中の+印を見てもらい(1)、瞬間的にいくつかの点を示した後(2)、ふたたび+印を見てもらった後(3)、前回より少ない数の点を示し(4)TEST画面にした後(5)いくつかの点を示します。
 ここで2番目の画面の点の数から4番目の点の数を引いた答えと、6番目の画面の点の数と比べどちらが多いかを答えてもらいます。
 画面は瞬間的にしか表示されないので、一つづつ言葉を使って一、二、、、、と数えていっては間に合わないので、言葉を使わないで数の把握をしなければなりません。
 
 このテストをやると右の表の様に、聴覚障害者のほうが健聴者より成績がよいので、非言語的な方法での数把握は聴覚障害者のほうが優れているといいます。
 ところがこのようなテストでなく、スクリーンに22-11=?というように数式を一瞬表示して答えさせると、図のように健聴者のほうが聴覚障害者より成績がよくなるそうです。
 22-11という数式が示されれば、これは「ニジュウニヒクジュウイチ」というように読んで、言葉を使いながら計算をしますから、これは言語的な方法による数把握で、この場合は健聴者のほうが成績がよいのです。

 22-11を言語化して計算をするときは「ニジュウニ」と「ジュウイチ」を音声化するため、音韻ループという一時記憶システムに貯蔵され、計算が終わるまで記憶が利用できる仕組みになっています。
 これに対し視覚記憶は0.5秒以下しか持続しないので計算が終わるまで保持されない可能性があります。
 健常者は数字を見て音声化するため、音韻ループに数字を貯蔵して計算を行う習慣が身についているので聴覚障害者より成績が良いと考えられます。

 これらのことは、人間が数を把握する方法はひとつでだけでなく、方法を変えれば別の能力が身につくことを示しています。
 健聴者であっても、言語化を抑制すれば非言語的な方法で数を把握できるわけで、ソロバンの熟達者は見取り算で数字をソロバンイメージに変換することで計算を行うので、言語化するより速く計算できます。
 計算だけでなく、ものを考えるのは一般的には言葉を使って考えますが、適当な道具とかイメージを使えば、それらを使うことによって思考と同じ結果を出せる場合もあるということなのです。