60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

音読しないで読む視読

2007-11-27 23:17:47 | 文字を読む

 図のA,B,Cのうち、どれか一つの文を読んで、2,3分ぐらい経ってから、三つの文のどれを読んだのかを聞かれた場合、たいていの人はどれだか迷ってしまいます。
 文章の細かい部分は違っているのですが、文章の意味としてはどれも同じようなものなので迷うのです。

 もし文章を見て写真のように見えたままを記憶しているのであれば、その記憶とそれぞれの文章を重ね合わせて見ることですぐに答えは出ます。
 いわゆるカメラ記憶ができていれば、その記憶とそれぞれの文章を重ね合わせて、同じか違うかはっきり分るからです。
 普通の人はこういう視覚的記憶能力はないので、見た単語とか、読むことで理解した文章の意味の記憶で判断しようとします。

 単語でもすべての単語を覚えているわけではないので、主に記憶として残るのは文章の意味です。
 文章の意味が何らかの形で記憶されなければ、本を読んでも全体としてなにを書いてあったか分らなくなってしまいます。
 文章を読む上で一定の記憶力が必要なのですが、その記憶の主な内容は文章の意味なので、どれほど的確に文章の意味を理解できるかが鍵となります。
 単に文字を見て視覚的に記憶しても、文章が長くなれば膨大な数の文字になり、そこから意味を組み立てることはできなくなり、何のために読むのか分らなくなります。
 単なる視覚的記憶は、記憶のための記憶になってしまいます。

 文章を見て意味を読み取ろうとすれば、あまりゆっくり一つ一つの文字を読み取っていったのでは、読み進むうちに前の部分を忘れてしまったりしてしまいます。
 そうしたことを防ぐには、視野を広くして文章を構成する単語を同時に見渡せれば有利なのですが、それにも限度があるので、すばやく単語を読み取る早さが必要です。
 
 単語をすばやく読み取るというのは、たんにすばやく見るということではなく意味をも読み取り判断することです。
 これはある程度練習すればできることで、一つの単語を読み取るだけでなく、二つ以上の単語を同時に見て、単語を組み合わせた意味を判断する練習をすればよいのです。
 いくつかの単語の組み合わせ、つまり文の意味をすばやく読み取れれば、このとき音読ではなくいわ視読の状態になります。
 このときは単語を一つずつ読む状態よりも視野が広がり、目が動くので、狭い範囲を見ることによる固視にならなくてすむので、眼は疲れにくくなります。
 


音読と視線の停滞

2007-11-26 23:17:31 | 文字を読む

 アルファベットやカナの場合は、いくつかの文字の組み合わせで一つの単語が表され、一つ一つの文字には意味がないのが普通です。
 漢字は一文字で「花」と書かれるのに、英語なら「flower」は6文字で、「f」とか「l」などが意味を持っているわけではありません。
 したがって「flower」という文字を見て、そのまま「花」という意味を感じ取る必要があります。
 漢字の場合はいくつかの文字が組み合わされて作られた単語の場合、それぞれの文字が意味を持っているので、単語の意味は意味の組み合わせであるというふうに思われます。
 そうするとたとえば「有効視野」という単語の場合「効力のある視る範囲」というように意味を組み立てて解釈するということになります。
 こういう言葉でも日常的に頻繁に使っていれば、単語を見るたびに意味を解釈しなくても直感的にわかるようになります。

 ところが「後天性免疫不全症候群」のように見慣れない単語になれば、一目見ただけでは意味が分からず、構成要素となっている文字あるいは単語の意味から全体の意味を感じ取るということになります。
 文字数で言えば10文字なので、一目ですべての文字を見渡すことができるのですが、意味は直感的に理解できるわけではありません。
 これが「エイズ」というようなカタカナ語になれば、文字からでは意味が分からないので、単語の意味を文字をおいて理解しようとすることになります。
 「エイズ」と書かれてあれば、「エイズ」というカタカナから意味を類推しようとせず直接意味を理解しようとすることになります。

 なまじ漢字には意味があるために、単語全体を見ないで一つ一つの文字に注意を向けながら、意味を理解しようとすることになるので視線はここでとまってしまいがちになります。
 慣れてくれば単語を見たら瞬間的に意味が分かるようになるのですが、その単語に十分に慣れていないうちは文字の読取に時間がかかります。
 新聞のニュースに現れてくるような時事的な単語の場合は、造語されてからの歴史が浅いので、直感的には分りにくく読み取りに手間取り、視線の動きが停滞してしまいます。
 新聞のニュースを読むと以外に眼が疲れるのは、こうした漢字の造語が多いためです。
 
 もう一つ眼が疲れやすいのは音読の場合で、文字を読むとき「目の移動距離は平均して3.5文字程度」とされたりするのは、声に出さなくてもいつの間にか心の中で音読している人が多いためです。
 一目で見てはっきり認識できる文字数は7文字程度なのに、目の移動距離がその半分というのは、無意識のうちに心の中で音読しているためで、そのため視線が狭い範囲内に停滞してしまうのです。
 実際に声を出して読む場合は口を動かし、発声する作業が加わるので、十分も続ければそれだけで疲れ、ついでに目も疲れるのです。


文字の大きさ、鮮明度と視覚的持続

2007-11-25 23:06:09 | 文字を読む

 漢字は千分の一秒見せられただけでもその漢字がなんという字だかわかるといいますが、これは文字を見ての視覚的記憶が生じるためです。
 この視覚的持続は0.5秒以下だということですが、ともかくこのために文字が何かを脳が判断できるのです。
 文字を見る時間は100分の一秒以下でもいいのですが、文字の大きさとか文字の鮮明さなどは関係ないかというと、関係があります。
 
 瞬間的に文字を見た状態と同じことを体験するには、眼を閉じた状態からパッと目を開け、文字を見た瞬間に眼を閉じたときに、見た文字を思い浮かべれば可能です。
 たとえば、図の一番上の行を瞬間的に見た場合、全部の文字を思い出すことはできなくても2,3文字程度なら想いだせるでしょう。
 しかし同じ大きさの文字でも下にある鮮明でない文字を見た場合は、ほとんど一つも思い出せないというか、瞬間的に見ただけでは文字がほとんど見えない状態です。
 ある程度時間をかけて見れば(たとえば1秒)文字がなんだか分るのですが、ほんの一瞬ではわからないのです。
 人間の目は中心だけがはっきり見えて、周辺部分はぼやけてしか見えないので、周辺部分は瞬間的に見た場合、どんな文字か読み取れないのです。

 つぎに文字が小さくなるとどうかというと、文字が小さくなれば瞬間的に見せられた文字は読み取りにくくなります。
 上の図の二行目は一番上の行と文字数は同じですが、大きさが4分の1でゆっくり見るぶんには、上の行よりも全体を読み取りやすいでしょう。
 つまり普通に読むときはあまり大きい字よりも、適当う名大きさのほうが読み取りやすいのです。
 しかし瞬間的に見る場合は、上の大きな文字のほうが読み取りやすく、文字が小さくなるほど読み取りにくくなります。
 本のページをパラパラと高速にめくった場合、中の文字が小さすぎると文字が目に飛び込んできませんが、文字がある程度大きければ目に飛び込んでくるが出てきます。
 新聞の見出しが大きな活字になっているのは、ざっと見渡して視線を速く動かした場合でも目に入るようにするためです。

 大きな文字の場合は、文字がぼんやりしていても、ある程度ゆっくり見れば下の枠内の文字のように読み取ることができますが、同じ薄さの文字でも文字が小さくなると、極端に読取にくくなります。
 一番下の行のようにさらに文字を小さくすると、もうほとんど読み取れなくなりますが、同じ大きさでも下から二番目の行のように文字が濃ければ何とか読み取ることができます。
 つまり文字が小さいときは目を速く動かしたとき、中心視できる部分は読み取れても、周辺視野にある文字は読み取れないということになります。
 


伏目で見ると疲れる

2007-11-24 23:53:41 | 文字を読む

 老眼になると近い距離に焦点が合わなくなるので、文字を読もうとしたとき字がぼやけて見えます。
 このときに焦点を合わせようとして、文字を離して見ようとする方法もありますが、本などをそうそう離して見るのも見にくいものです。
 そうると、つい目を細めて見ることになります。
 目を細めて見るとやや焦点が合うようになるので、ぼやけたり二重に見えていた文字が何とか正常に見えることがあります。
 
 それなら目を細めて見ればよいかというと、そうはいきません。
 まず第一に目を細めてみた場合は、図の下のように目に入る光の量が少なくなるので視野が暗くなります。
 また見える文字の大きさが小さくなるため、読みにくくなり、狭い範囲に注意を集中させるようになり、文字の見える範囲が狭まります。
 そのため文章を見渡せる範囲が狭くなるので、意味の理解に時間がかかるようになります。
 特定の文字を見分けるという程度ならいいのですが、文章を読むということになると非常に能率がよくないのです。
 そればかりか、目の筋肉を緊張させ続けるため、眼がすぐに疲れてしまい、少しの時間しか文字を読むことができません。

 意識的に目を細めなくても、伏目になる姿勢で文字を読んだ場合も結果的には目を細めて読む場合と同じになるので注意が必要です。
 眼が疲れないようにと、目の下に文字が来るようにして読むほうが良いと考えがちですが、目の下に文字が来るようにしてみると、自然に伏目がちになります。
 その結果いつのまにか焦点を近くに固定しようとしているため、毛様体筋が緊張していて眼が疲れてしまいます。
 
 伏目勝ちの状態で文字を読んでいるときは、自然で楽な状態で読んでいると考えられるので、目が疲れないと思ってしまいますが、実際は焦点距離を固定しているため、眼筋は疲れてしまうのです。
 本や雑誌をを顔の前まであげて読むようにしたほうが、目に入る光の量が増え、視野も広がるので眼は疲れにくいのです。


少ない手がかりから判読する

2007-11-20 22:24:28 | 文字を読む

 図は文字の上に穴の開いた紙をかぶせた状態を示したものです。
 穴が開いた部分だけが見えるのですから、文字の一部分が隠され、一部分が見えるといった状態です。
 この状態で見ると、右の「あ」が一番判読しやすく、左の「礼」がこれにつぎ、まんなかの「禮」が一番判読しにくくなっています。
 文字によって判読しにくい文字と判読しにくい文字とがあるわけですが、複雑な文字ほど判読しにくいようです。
 
 穴が開いている部分だけしか見えない状態で文字を判読するということは、部分的な手がかりから全体を判断するということで、少ない手がかりから判断できる文字は楽に読める文字です。
 少ない手がかりでは判断しにくい文字というのは、読み取りにくい文字で、読み取るのに多くの手がかりが必要です。
 読み取るのに多くの手がかりが必要ということは、それだけ注意力が必要になり、エネルギーが費やされるので、読むのに疲れやすいということでもあります。

 画数の多い漢字のほうが当然読みにくいわけですが、そうなると上の例のように新字体と旧字体とを比べれば、読取には信じたいが有利であることが明らかです。
 現在ではさすがに、多くの印刷物では、新字体となっているのでよいのですが、戦前までは旧字体で、しかも複雑で難しい漢字が多く使われ、文章の中での漢字の割合も高かったため、読むのに多くのエネルギーを必要としました。 
 そのためか、メガネをかける割合が多く、日本人が識字率が高かったということもあるでしょうが、日本人といえば眼鏡をかけているように、欧米人からは見られるようになっていました。

 以上は文字そのものから来るものですが、文字を読むがわの問題とすれば、少ない手がかりから文字を読み取る能力があれば見時を読み取るのに多大のエネルギーを必要とせず、楽に読めるということになります。
 まずは文字が脳の中にはっきりと記憶されていることが前提となりますが、文字を見てすばやく記憶と照らし合わせる能力が必要です。
 文字をすばやく読み取る練習をすると、文字を瞬間的に読み取ろうとするので、文字のすべての部分を確認しなくても、部分的な照合だけでも判読できるようになります。
 逆説的ではありますが、文字を瞬間的にすばやく読み取れるようになれば、文字の読取が楽になり、眼が疲れないですむのです。 


カタカナ語表記の変化

2007-11-19 23:51:22 | 言葉と文字

 カタカナ語は英語の発音とずれが大きいので、英米人には通じないというようなことが言われます。
 たとえばゼネラルは英語発音に近づけようとするなら、ジェネラルとすべきで、コンテストやコンファランスというのはカンテストとカンファランスにすべきだというのです。
 しかしこれらは英語として英米人に伝えようとするのではなく、日本人に伝えようとするので日本人の感覚に合うようなものになっているのです。

 日本人が英語の単語を借用したときの形がゆがんでいるというのですが、上の図のように、逆に英米人が日本語を借用したときの形の例を見ると、やはりもとの日本語とはズレがあることがわかります。
 柔道はジュウドウでなくジュドウでアクセントの位置も違うのでわかりにくくなっています。
 カラオケはキャリオウキですし、腹切りはハリキリ、将軍はショウガンですから日本人が聞いたら何のことか分らないでしょう。

 上の例は日本語を聞いてその発音を英語風の綴りにしたものではなく、日本語をローマ字で表記して、それを英語風に読んでいるものです。
 その点では日本で英語の言葉を借用するときに、英語の綴りを日本風に読んでいるのに通じますが、原語の発音とズレがあるという点でも共通しています。
 英語に借用された日本語の数はわずかなので、発音がおかしいとか、日本人にとってわからないといっても問題にならないのですが、日本が借用した英語のほうは数が多いので問題がおきるのです。

 最近では英会話が重視されてきたせいか、発音に近いカタカナ表記をしようとする傾向が出てきており、カタカナ語の表記はゆれてきそうで、しばらく混乱するかも知れません。
 コンセンサスをカンセンサス、カメラをキャメラ、コンピューターをカンピュータ、ゼネラルをジェネラルというふうに表記するようになれば、「長島のカンピューター」などといったダジャレは成り立たなくなります。
 それでもそうなったからといって、パソコンをパソカン、ゼネコンをジェネカンと言い直すわけにもいかないので、ジェネラルとゼネコンが両立するようなことにもなりかねません。
 これまでにもグローブとグラブ、フックとホック、トラックとトロッコなどと同じことばが二通りに表記されている例があるので、そうなる可能性はありますからやっかいなことです。


和製英語と和製漢語

2007-11-18 22:53:31 | 言葉と文字

 カタカナ語は漢字と違って造語能力がないと批判される一方、外国人には通じない和製英語がたくさんあるということでも批判されます。
 和製英語がたくさんあるということは、造語がたくさん行われていることであり、どのみちカタカナ語は批判されてしまうようです。
 漢字の場合ならば造語が行われると、漢字は造語能力があると評価され、新しく作られた言葉が、中国人を初めとした外国人には通じないからといって批判されるということはありません。
 
 たとえば「前」という漢字を使って作られた「出前」とか「手前」、「気前」などといった言葉は、日本人だけに通ずるもので日本語を知らない外国人には通じません。
 漢字を生み出した中国人に通じないから和製漢語というべきものですが、だからといって、こういう言葉はニセモノだと言って批判する人は少ないでしょう。
 中国人からどのように思われようと、日本で通用するならそれでよいというかもしれませんが、和製英語の場合はダメというのは矛盾した心理です。

 和製英語といえばカタカナで表示されて、英語の発音と違うとか、同じようなものは英語では別な言い方をするとか批判されます。
 和製英語をこしらえた人間が、英語をよく知らないので勝手な言葉の組み合わせを作ったり、さらに発音も違うとでも言うのでしょう。
 しかし和製英語にしても、英語が日本人にある程度広く普及した結果つくられたもので、英米人から見て理解できない正しくない言葉であっても、日本人には理解され、使い勝手がよければ、それでよいのではないかとする考え方もあります。

 外国語を借用して日本語の中で使おうとするのであって、なにも外国語をそのまま読み書きしようとするのではないのです。
 外国の側から見て理解できないとか、間違っているというのは筋違いの批判のように思われます。
 たとえば「サラリーマン」という和製英語の意味と同じような内容を英語で言えばオフィスワーカーというのだそうですが、日本語のサラリーマンは月給取りのことを言うので、オフィスワーカというというのとは違うみたいです。
 やはりサラリーマンのほうがぴったりするので、言い換えないほうがよく、もしかすると将来英米人がサラリーマンという言葉を採用するようになる可能性もないとはいえません。
 
 どこの国の言葉も意味内容が変化したり、新しい表現を受け入れたりすることがあるのですから、現在の英語にないからといって日本人による造語はすべて否定すべきだなどということはありません。
 リサイクルショップにしても、英語のsecondhand shopのように単なる中古屋というよりも広い意味あるいは積極的な意味をもっているので、セコハンショップなどと言い換える必要はありません。
 カタカナ語はあくまでもカタカナ語なので、より英語らしくアルファベットで表記しようなどと考えなければよいので、後は自然淘汰に任せればよいのではないかと思います。

 


カタカナ語のカナ遣い

2007-11-17 22:56:11 | 言葉と文字

 外来語は初めは耳で聞いた言葉を、日本流になぞった形で借用されていたようです。
 たとえば木綿のコットンがカタン、アメリカがメリケン、マシンがミシンといった具合です。 
 最初は外国人が日本にやってきて、彼らが話す言葉を聞きとって発音を真似たということでしょう。
 ところが西洋文化を積極的に取り入れようとし始めると、書物を通して言葉を導入するようになって、発音とはなれ文字をどう読むかという読み方の形で言葉が導入されています。
 「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳ができたのはゲーテの読み方ガゴエテ、ゲイテ、ギュエテ、ゲオエテなど30種近くの表記が試みられたためですが、文字綴りを見てどう読むか分らなかったからでしょう。

 外国語の綴りを見て、日本語風に読むとすれば、大体ローマ字読みとなるのですが、これはローマ字の知識が前提となるので、日常会話にあまり登場しない言葉のほうがローマ字読みとなっているようです。
 たとえばAの例のようにアルミニウムのほうがアルミニュームより優勢となっていますが、発音的に近いのはアルミニュームで、aruminiumのローマ字読みがアルミニウムです。
 ところがダイヤモンドのように日常会話に使われる語は耳から入ったためか、ローマ字読みのダイアモンド(diamond)よりも、発音に近いダイヤモンドのほうが優勢になっています。

 ローマ字式の読み方をしても、英語の発音の中には日本語にない音があるので、英語教育が普及するにつれて、fとかv、t、dといった音をカナで表現しようとするようにしたのが、ファとかヴァ、ティ、ディといった表記法です。
 以前はフィルムをヒルムと表記したりしていたのですが、現在ではCのようにプラットフォームとするのが優勢になっています(略語のホームはそのままですが)。
 同じように、パーティーやビルディングがパーチーやビルヂングより優勢になっていて英語らしさを意識しています。
 
 ところがfをファとかフィとか表現するならばvはブァとかブィというふうに表記するのが合理的なのでしょうが、なぜかヴァとかヴィというふうに決めたのですがこれは定着していません。
 ヴァイオリンよりバイオリン、ヴェルサイユよりベルサイユといった具合でこれはなにも、バイオリンなどが早くから取り入れられたからではなく、ヴァーチャルよりバーチャルが定着しているようにヴァやヴィが受け入れにくいからでしょう。

 カタカナ英語の表記はだいたい、綴りのローマ字読みに英語的発音を取り入れたような形に落ち着いてきているのですが、英語の発音を聞く機会が増えたためか、最近ではアンビリーバボーのように綴りではなく、聞こえたとおりに表記する例もでてきているので今後また変化するかもしれません。


カタカナ語の言い換え

2007-11-13 23:56:32 | 言葉と文字

 国立国語研究所というところで、外来語の言い換え帳というのを作っていますが、これをみるとカタカナ語の言い換えというのがなかなか難しいことが分ります。
 Aの例のように一つの言いかえですむもの(最適かどうかは別として)ものだけではなく、Bの例のように一つの言葉にいくつかの言いかえがあるものもあります。
 どの国の言葉でも一つの言葉には一つの意味しかないとは限らず、いくつかの意味を持っている多義語というのが多数あります。
 外来語というのは、はじめは一つの意味として借入されるのですが、同じ原語から多くの言葉が取り入れられると、同じ言葉のほかの意味も借用されるようになります。
 
 英語でも以前はアイデアは「考え」、アートは「芸術」、パイロットは「操縦士」といったふうにそれぞれ一つの意味で受け入れていました。
 漢字なら「先」は「先頭」、「先日」、「先方」、「先見」、「先生」などいくつかの意味に使われています。
 それだけ漢字は日本語の中に深く入り込んでいるのは、漢字が日本に入ってからの歴史が1000年以上にもなるからです。
 Bの例のようにいくつもの意味を持つものとして受け入れられるものが出てきたということは、英語がだんだん日本の中に深く入り込みつつあるということです。

 たとえば「ポイント」はそれぞれ使われる場所によって、要点とか、重点、地点、点数などとそれぞれ言い換えればいいのですが、使う人の頭の中にそれぞれが「ポイント」という言葉でまとめられいれば、「ポイント」という言葉のほうがふさわしく感じ、自然と「ポイント」という言葉を使うようになり、聞く側も自然に受け止めるようになります。
 このように英語の単語が、多義語は多義語として受け入れられるという傾向は、英語がどんどん日本に受け入れられるに従って増えてくるでしょう。
 これまで英語の意味を限定して受け入れているという批判がありましたが、すこしずつ多義語は多義語として受け入れられるようになると、こんどは英語が深く入り込みすぎるという恐れのほうが強くなるでしょう。

 Cの例は言いかえができない例で、日本にはなかった制度とか仕組みなので、そのままカタカナで書くしかない例です。
 明治時代なら何とか漢訳をする能力のある人がいて、強引にでも漢訳したかもしれませんが、これまでになかったものは漢訳したところで意味が分かるわけではありません。
 明治時代にソサエティーを社会、デモクラシーを民主主義と訳していますが、いつまでも社会とは何かとか民主主義とは何かといったことが論議されているのですから、訳せば意味が分かるというものではないのです。
 こうしたことから考えると、Aのように日本語化できるものは日本語化したほうがよいのですが、全体としてはまだカタカナ語は増える傾向にあると思われます。


カタカナ語の取り入れ方の問題

2007-11-12 23:29:04 | 言葉と文字

 カタカナ語は外国語を借用しているのですが、もとの言葉を忠実に取り入れていないということで非難されています。
 極端な場合は、単語を組み合わせて造語する場合で、日本人の感覚ではもっともらしい感じなので定着しているのですが、正しくないというものです。
 Aのように上が開いているからオープンカーというのは、日本人の造語感覚としてはピタリとくるのでしょうが、英語感覚ではないようです。
 エンジンがストップするのでエンストとかグレードを上げるのでグレードアップといったものも、日本人とすればそれでいいのではないかと思うかもしれませんが、それは通用しないので、借用語による造語ということになります。
 これらは正しい英語ではないので外国人には通用しないのですが、日本人には分りやすいので筋が悪くても、日本語としては通用しています。
 
 Bは発音の問題で、聞いたとおりをカタカナで表わしたものですが、日本人の音感と英米人の音感の違いで、日本流に訛っているもので、もとの単語の綴りを連想しにくいものです。
 カタカナで英語を書き表そうとすれば、どの道正確には書き表せないのですが、最近はテレホンをテレフォン、ビルデングをビルディングというふうにより英語らしく感じさせるような表記になってきています。
 バイオリンがヴァイオリン、ビーナスがヴィーナスといった具合に変化してきているのはより英語の発音に近づけたというふうにも見えますが、実際はスペリングを反映した表記法です。
 英語教育がある程度普及した結果なのでしょうが、音声化して実際に通用するのは、なまった表現のほうなのではないかと思います。
 なまっていても耳だよりの「プリン」が、つづりを意識した「プディング」よりも耳で聞く分には、外国人にそれらしく聞こえるでしょう。

 発音がおかしいとか、なまっているといったことや、おかしな造語は外国人には理解できないというのは、それはそれでよいのですが、意味が違っている場合は厄介です。
 たとえば、キャリアアップというとキャリアが上がるというつもりでいても、英語ではキャリアが終わるということになるそうですから、わざわざこういう言葉を使うことはないでしょう。
 ナイーブとかスマートといった言葉は日本語ではよいイメージで使われていても、英語ではどちらかといえば否定的なイメージで使われるので、やはり日本語で表現したほうがよいと思います。
 なにも英語に忠実でなければいけないなどということはありませんが、日本語で表現できるのにわざわざ英語で間違った表現をすることはないのです。
 借用語として外国語を取り入れるならそれなりの仁義は守るべきなのです。