60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

見えたとおりに描いて失敗

2008-01-29 23:36:11 | 視角と判断

 図Aは立方体に見えますが、黄色い正方形の面が前方にせり出して見えたり、あるいは広報に後退して見えたりします。
 反対側にあるもうひとつの正方形は黄色い正方形と同じ大きさなのですが、、黄色い面が前方に見えるときは、黄色い面のほうが小さく見えます。
 逆に黄色い面が後退して見えるときは黄色い面のほうが大きく見えます。
 図が立方体に見えるため、奥行き感が生じ、前方にせり出して見えるときは焦点が変化して、小さく見えるのです。

 もし黄色い面が小さく見えた状態を記憶して、図を模写するとすればCのような図を描くことになりますし、逆に大きく見えたときの記憶で模写すればBのような図を描くことになります。
 いずれもAが立方体であると思って模写するのですが、見え方が変化するため違った図を描くことになります。
 見えたとおりに描こうとしても、見え方が変化するので、見えたとおりに描こうとすると見本と違った結果になるのです。
 
 模写を成功させようとするなら、右脳を使って見えたとおりに模写をすべきだという説がありますが、この場合は逆になります。
 左脳を使うなら、立方体を見たとき前方に見える面は後方の面より大きく見えるはずですから、黄色い面が前方にあると思えば黄色い面のほうを大きく描くはずです。
 ところが黄色い面が前方にあると思ったときは、黄色い面のほうが小さく見えているので、見えたとおり小さく描けば元の図とは違ってしまうのです。

 同じように、D図の場合も上が広がって見えたり、狭まって見えたりするので、見えたとおりに模写をしようとすると元の図と違ったものになってしまいます。
 間違いのもとは、平面図形なのに奥行きを感じて、三次元のものを見るように焦点を動かして見てしまうからです。
 人間の目はもともと三次元のものを見るようにできていて、平面に三次元像を写すことは不得意です。
 三次元の世界でものを見るときは、見るものの距離に応じて焦点距離を変えて見ています。
 平面を見るときにも焦点距離を変えてしまえば、実際とは違った見え方になってしまいます。
 
 平面に三次元の像を写そうとするなら、写真のように焦点を動かさないで見た状態で写すべきです。
 ところが焦点を動かさず、視線を動かさずに見た場合は焦点の当てられている部分しかハッキリ見えません。
 どうしても目を動かさなければならないので、遠近法とかいろんな技法を使ってつまり左脳に頼って描くということになります。
 絵を描いたりするのは右脳のはたらきだと思い込んでいても、実際は左脳にも大きく依存しているのです。


右の脳で描く?

2008-01-28 22:40:21 | 視角と判断

 図のAとBを見たとき、二つのテーブルの天板がまったく同じ形であるといわれても、とても信じられないでしょう。
 ところがこれらを逆さまにした、CとDを見た場合は、二つのテーブルの天板はまったく同じ形だといわれれば、そうだと感じるはずです。
 BとCは同じ図形を逆さまにしたものですが、天板部分はBのほうが細長く見えます。
 またAとDではAのほうが奥行きが長く感じられます。
 そのためAとBはかなり違って見えるのに、CとDは同じように見えます。

 原因はAやBを見るときは奥行き感が感じられ、上のほうが奥にあると感じて、目が自動的に焦点を画面より奥に調節するためです。
 天板として描かれた平行四辺形の上辺が画面より奥にあると感じて、焦点を画面より奥にあわせるので、天板の上辺が下辺より長く見えて、全体が奥にむかって長く見えるのです。

 ところが逆さまにすると、絵としては平行四辺形の下辺が奥にあるのですが、平行四辺形は上辺が奥にあるように見えるので、奥行き効果ガが打ち消されてしまうのです。
 CとDの場合は平行四辺形の上辺が奥にあるように見えるはずなのに、絵画的には下辺が奥にあるように見えるため、効果が打ち消しあってどちらも奥にあるように見えないという結果になっています。
 
 目は上辺か下辺かいずれが奥にあるか決めかねて、結局上辺と下辺が同じ平面にあるように見てしまうので、両方とも正しい平行四辺形に見え、同じ形に見えるのです。
 ベティ.エドワーズ「脳の右側で描け」には模写をするとき、手本を逆さまにして描けば正しい輪郭の絵が描けるとしています。
 エドワーズは手本が逆さまでないときは、左脳がはたらいて頭の中にある既成イメージで描こうとするため、正しい輪郭で描けないのだとしています。
 手本を逆さまにすれば、手本の絵は既成イメージと違うので、輪郭を目で見たとおりに描けるとしています。
 そうして既成イメージというのは左脳のはたらきで、目で見たとおりのイメージは右脳のはたらきだとして、絵は右脳で描けば正しい輪郭で描けるというのです。

 ちょうど右脳信仰が盛んであった折から、この説明は広く受け入れられたのですが、常識的に考えれば根拠のない強引な説明だということが分ります。
 エドワーズの説では、正しい輪郭で描くといいうことは、遠近法に忠実で写実的な絵を描くことのようになっていますが、写実的イコール右脳的というのは納得できません。
 正しい輪郭で描くのは、こどものうちは難しくても、遠近法などを覚えた大人になれば可能になりますが、子供のほうが大人より左脳的というのは、むしろ逆ではないかと思われます。

 上の図の例で言えば、AやBが実際と違った形に見えてしまうのは奥行き間を感じるためで、左脳とか右脳とかは関係がありません。
 模写をするにしても、マンガの似顔絵のように平板な絵であれば、見たとおりに模写することが易しく、逆さまにしないほうがうまく模写できます。
 平板な絵は奥行き感がないので、焦点距離を変えないまま見ることができるからです。
 エドワーズの紹介しているテクニックは焦点距離を動かさずに見るテクニックで、右脳で見るということとは別問題です。


奥行き感で視線を動かす

2008-01-27 21:56:01 | 視角と判断

 図のAとBは同じ形の平行四辺形です。
 Aのほうが細長く見えるのですが、同じ形だといわれて注意して見ればそうかもしれないと思うでしょう。
 Aのほうが長く見えるのは、平行四辺形は奥行き感を感じさせるので、図形が縦の方向に伸びているように感じるためです。
 平行四辺形として見えるときは向かい合っている辺が平行に見えますが、このとき二つの図形は同じように見えます。
 ところが長方形の板が並べられているというふうに見ると、上の辺は奥にあるように感じられ、下の辺よりやや長く感じられます。
 そうするとAのほうが細長く見えてくるのです。

 この見え方をハッキリさせたのが下の図です。
 C図とD図はテーブルの形に描かれていますが、天板部分は同じ形の平行四辺形です。(BとC,AとDは同じ)
 CとDは同じ形の平行四辺形だといわれて、よく注意して見てもとても同じ形には見えないのではないでしょうか。
 論より証拠で、実際モノサシをあてがってみれば、それぞれ二組の辺が同じ長さですから、本当は同じ形の平行四辺形であることが確かめられます。

 AとBなら向かい合っている二辺の長さをそれぞれ測り、長辺と短辺がそれぞれ同じだと分って、AとBが同じ形だと頭で分ると共に、目でも同じ形であると見えるようになります。
 ところがCとDでは、頭では同じ形と思っても、目で見るととても同じとは思えないのではないでしょうか。
 視覚的にはどうしても、Dのほうが細長く見えてしまい、Cのほうがズングリしているように見えてしまうのです。
 このとき、注意してみると平行四辺形の上の辺のほうが下の辺より長く見えることに気がつきます。
 上辺と下辺が同じ長さなのに、上辺が奥にあると感じるために長く見えてしまうのです。

 C図やD図をテーブルであると見てしまうと、平行四辺形の上辺は奥にあると思いますが、そうなると目は上辺を見るときは焦点をやや奥にあわせようとします。
 しかし実際の図は奥にあるわけではないので、上辺は実際より長く見えることになります。
 つまり奥にあると思う部分を見るときは、焦点を画面より奥に調節するためその部分が大きく見えるようになるのです。
 このような焦点調節は自動的に行われるので、気がつかないうちにある部分が実際より大きく見えるようになるのです。

 ということは、視線を動かさずに画面上の線を注視すれば特定の部分が実際より大きく見えるということがなくなるということです。
 じっさい、C図の天板部分を視線を動かさずにジッと注視してみます。
 そうするとこの平行四辺形は、最初のズングリした形から、だんだんに細長く見えるようになり、Bと同じ平行四辺形に見えるようになります。
 同じようにDも視線を動かさずに注視し続けると、Aと同じ平行四辺形にみえるようになり、CとDは同じ形だということに視覚的にも納得がいくようになります。
 


アナログ的な心理学的説明

2008-01-26 23:40:32 | 視角と判断

 図Aの二本の赤線は上のほうがやや長く見えます。
 これは普通、線遠近法によって説明されています。
 線遠近法では、遠くにあるものは同じ大きさでも近くのものより小さく見えることから、遠くのものを小さく描くことで遠くにあることを表現しています。
 図上では同じものでも遠くのものは小さく描かれるので、同じ大きさに描かれているものがあれば、遠くのものは近くのものより大きい者として描かれていることになります。
 そこで同じ長さの線が遠くと近くに描かれている場合、遠くに描かれているほうが長く見えるというふうに説明されるのです。

 ところがこの説明ではどの程度長く見えるということは分りません。
 線遠近法の表現では、A図の場合で言えば上の赤線と下の青線は同じ長さです。
 視覚的には下の青線は一番上の赤線よりズット長いのですが、図の表現としては同じ長さなのです。
 線遠近法の規則では下の青い線と一番上の赤い線は同じ長さなのですが、だからといって二本の線が視覚的に同じ長さに見えるわけではなく、下の青線はやはり一番上の赤線よりはるかに永く見えるのです。
 つまり、二本の赤線のうち上のほうが長く見えるといっても、線遠近法の規則に従っているわけではないのです。

 このことは同じような図形でB図のように斜めの線を増やすと、上の線がより長く見えることでも分ります。
 線遠近法の規則に従うならば、B図の場合でも同じように上の腺が長く見えるはずなのに、斜めの線が加わることで上の腺長く見える割合が増えているのです。
 さらにC図を見ると、B図よりさらに上の赤線が長く見える度合いが大きくなっています。
 C図の斜めの線は平行線なので、線遠近法の規則に従っていないのですが、上のほうがおくに見える奥行き感があります。
 そのため上の赤線のほうが下の赤線よりかなり長く見えるようになっています。

 これらの結果から、上の赤線のほうが長く見える原因は、斜めの線が多く交わるためと予想がつきます。
 実際A図の類似例で、a図のように斜めの線が横線に交錯するようになると、やはり上の線がより長く見えます。
 同じようにb図でもB図に比べ上の線が長く見える度合いが強まっています。
 これに対してc図の場合はC図と比べ相違が感じられないのは、斜めの線が交錯する度合いが同じためです。
 線遠近法による説明は比喩的な説明で、なんとはなしの説得力はあるのですが、心理的な解釈しすぎて事実から離れてしまっているのです。


中心視力と周辺視力

2008-01-22 23:04:48 | 視角と判断

 図は視力検査などに使われるランドルト環を並べたものですが、「見える」ということでは、全体が目に入りますから見えます。
 しかし一番上の矢印の辺りに視線を向けて見ると、すべての環が見えていても、左右両端の環の切れている部分が上下左右どの方向なのかはわかりません。
 何気なく図を眺めたときはすべての環がハッキリ見えているような気がするのですが、環のどの部分が切れているかという細かい点は分らないのですから、ぼやけてしか見えていないということが分ります。
 人間の目は中心から離れると、視力が極端に落ちるのに、普段ものを見ているときにはそのことに気がついていません。
 本を開けたときもページ全体が見えているように感じても、そのページのすべての文字が実際にハッキリ見えているわけではないのです。

 一番上の矢印のついている環に視線を向けたとき、その下の環の切れ目が分るのは三つ目ぐらいまでで、その下になれば視線を動かさないと見分けられないでしょう。
 複雑で細かな部分を見極めるというのではなく、上下左右いずれかの方向での切れ目を見分けるのですから、これは単純な課題です。、
 それが見分けられないということは、周辺視力は主観と比べるとだいぶ落ちるということです。

 左右の場合でどのていどまで見極められるかは、上の図では紛らわしいので、下の図のように4~9個の環で試してみます。
 最初の4個の場合はすべての切れ目が同時に目に入るでしょう。
 次の5個の場合、あるいはその次の6個の場合までは視線を動かさないで同時に切れ目を見ることができると思います。
 ところが7個になるとやや難しく、あまり真ん中に注意を手中すると左右両端が分りにくくなります。
 さらに8個、9個となると限界に近づいてきて、注意を分散してもハッキリは見えにくくなっています。
 
 このような結果から考えると、文字を読む場合でも7文字ぐらいが視線を動かさないで読み取れる範囲だというのも納得がいきます。
 それでも一つの文字に注意を集中してしまうと、視野は7文字より狭まってしまうので、文字列全体を見るようにすることが大事です。
 目の中心で見る部分は注意を集中しなくてもよく見えるので、強いて一つ一つの文字に集中する必要はないのです。
 したがって、文字列全体を見る習慣を身につけるほうが、理解しやすいだけでなく余計なエネルギーを使わずに済み、眼も疲れにくくなります。


図形と文字の視幅

2008-01-21 22:45:58 | 視角と判断

 本の一ページを図の上半分にあるような黒い四角形で埋め尽くしたとします。
 ページの中央に視線を視線を向ければ、誰でもすべての四角形を見ることができますが、これが普通の本のようにすべて活字になってしまうと、すべての文字を見極めることはできません。
 文字があることがわかっても、なんと言う文字が印刷されているかは分らないのです。
 目を向けた位置を中心にして3~4文字程度が読み取れる程度というのが普通です。
 これは文字になると文字を読もうとして、神経を集中するため視野が狭まるためで、本当はその周りの文字も眼に入っているのに、意識から遮断してしまうからだという説明があります。

 図形なら読む癖がないので、広い範囲を見ることができ、文字になると狭い範囲に神経を集中してしまう習慣が教育によって身についているからだというのです。
 図形を見るときは右脳がはたらいて、広い範囲を同時に見ることができるが、文字を見るときは左脳がはたらいて、狭い範囲しか見えなくなってしまうというのです。
 そのため文字を左脳で読むのではなく、右脳を使って図形のように見れば、ページ全体とか行全体を一度に読むことができるという主張もあります。

 ところが人間の目は中心部分に視細胞が集中していて、周辺部分はまばらになっているので、感度が悪くぼやけてしか見えません。
 図の例のような黒い四角のように、単純な形でハッキリしたものであれば、ぼやけてしか見えなくてもそれと見分けることができます。
 もしこれが複雑な図形で、一つ一つが違っていたりすれば、離れたところにある図形がどんな形かは分らなくなります。
 
 ヨーロッパ人の中にはTシャツに漢字をプリントして楽しむ人たちがいますが、これは漢字を知らないので単に面白い図形として使っているのです。
 そこで、漢字で埋め尽くされたページを漢字を知らない子供やヨーロッパ人に見せて、周辺視野にある漢字を書き写させようとしてもできません。
 周辺視野にある漢字はぼやけてしか見えないため、どんな形かハッキリ見分けられないためです。
 文字でなく図形として見ても、形が複雑なら見分けられないのです。

 こんどは逆に図の下の例のように、形が簡単な文字を並べてみるとどうでしょうか。
 文字であっても簡単なものであれば、たとえページ全体が文字で埋め尽くされていても視線を動かさずに全部見ることができます。
 「く」とか「つ」とかいう文字は一目で一行全体を読み取れます。
 周辺視野にあってぼやけて見えても、字形が単純であれば細かい部分が見極められなくてもそれと見分けることができるからです。
 簡単に見分けやすい文字なら注意を集中する必要もないからです。
 図形と文字による見え方の違いという説明は面白いのですが、論理トリックなのです。


注意の向け方と視覚的判断

2008-01-20 22:39:13 | 視角と判断

 図の九つの白い円の内側にある黒点は、「田」の字状に整列しているのですが、何となく眺めるとバラバラに位置しているように見えます。
 人間の目は注意を向けた中心部分は細部まで正確に見えますが、周辺部分は大雑把にしか見えません。
 そのため全体を見た場合、細かな黒点の位置はハッキリは見て取れませんが、大きな円の位置は見て取れるような気がします。
 大きな円は「田」の字に並んでいるようであっても、整然とではなくかなりゆがんだ形になっています。
 そのため何となく漠然と図を眺めた場合は、円の中の黒点の位置もゆがんで見えてしまうのです。

 たとえば一番左の列の三つの黒点は上から垂直線上に等距離に位置しているのですが、注意してみないとそのようには見えません。
 最初に左上の黒点に注意を向けてみて、そのあとその下の二番目の黒点を見ると、二番目の黒点は真下にあることがわかります。
 そのあと三番目の黒点を注視すればこれが二番目の黒点の真下にあることが実感され、改めて三つの黒点を見れば垂直線状にあることが実感できます。

 同じように真ん中の列についても、三つの黒点は垂直線上にあることが実感でき、さらに右の列についても三つの黒点は垂直線上にあることが実感できます。
 そのうえで図全体の中央に視線を向けて図形全体を見ると、九つの黒点が「田」の字状に整然と並んで見えるようになります。
 
 三列の黒点が垂直線状に等間隔で並んでいた状態が視覚的に記憶されガの請っているため、大雑把にしか見えないはずの黒点の位置が正確に見えるようになるのです。
 
 これはちょうど視力検査をやるとき、あらかじめ両眼で見てが分ってしまったりすると、環が切れている場所が片目でも見えてしまうのと似ています。
 しかしこのような見え方は、視覚的な記憶が残っているときだけのもので、しばらく時間を置いて記憶がなくなった頃に見直すと、記憶が残っていたときのようには見えず、迷いが出てきます。

 ところで右側の図のように円がグレーの場合は、一見したとき中の黒点は垂直線上にない様に見えますが、グレーの円が穴があいていて下地が見えた状態と思ってみると、自然に三つの黒点は垂直線状に見えます。
 このような見方を応用して、左の白い円の場合も、穴が開いていて、下地が白であると思って全体を見れば、九つの黒点は「田」の字状に整列して見えるようになります。
 白い円に注目していると難しい場合は、円の外側に注意を向け穴のあけられた一枚の板のように見れば、穴の中に見える黒点が整列して見えるようになります。
 注意の向け方、つまり意識の仕方で視覚的判断が変わるのです。
 


「眺める」と「観察する」

2008-01-19 22:44:01 | 視角と判断

 上の一番左の図では二本の水平線は右側がやや狭まって見えますが、ほとんど気がつかないほどです。
 ところがまん中の図のように斜めの線が一本ずつ加わると、狭まり方が強まって見えます。
 つまり線が加わって見え方がハッキリしたわけで、右の図のようにさらに斜めの線が増えると一層二本の線の間隔が右に行くにつれて狭まって見えます。
 これをさらにハッキリ示したのが下の図で、はじめの二本の線の間隔が右に行くにつれ狭まって見え、次の二本の線も右にいくにつれせばまって見えますから、二番目の線と三番目の線との間隔は右に行くにつれ逆に広まって見えます。
 四本の横線はいずれも水平線なので、平行線なのですがとてもそのようには見えないのではないでしょうか。

 ところで上の右側の図を見ると、二本の水平線は右側が狭まって見えるのですが、これは見方の問題です。
 二本の線の間隔が右側に行くにつれ狭まっていると見えるのですが、実は二本の線の間隔をよく見ないで判断しているのです。
 実際二本の線の左端の間隔をよく見て、次に線の右端に目を移し間隔を見ると左端の間隔と同じだということが見て取れます。
 つまりじっくり観察すれば、二本線の左端の間隔も、右端の間隔も同じだということが感じ取れるはずです。
 左右両端の間隔をよく見たあと、図の中央(黒丸のあたり)に目を向けて見ると左右両端は周辺になるので本当はハッキリは見えないのですが、じっくり見たあとなので同時に見えます。
 同時に見えたとき両端の間隔は同じに見えますから、二本の線は当然のことですが、平行に見えます。
 
 もちろん初めから二本の線の両端に同時に注意を向けて見れば、二本の線は平行に見えるのですが、慣れていないと同時に左右両端を注視することはできません。
 そのため左のほうから見てしまうのですが、右端は周辺視野で見えていてもハッキリと見えないので、間隔がよくつかめず、右に行くにつれだんだん間隔が狭まるという見え方に支配されてしまうのです。

 このような現象は下の図についてみるとさらによく分ります。
 この図で四本の横線は水平線なので、実際は平行線なのですが、真ん中の二本の線は傾いて見えます。
 ところが左右の尖端をよく観察すると、四本の線は等間隔に並んでします。
 左右両端の間隔が等間隔なのですから、間の二本の線も当然平行であるはずで傾いているということはありえないのです。
 この場合も視野が広ければ、同時に線の左右両端を見て、等間隔であることが見て取れ、その結果四本の線が平行であると見えます。
 しかし左右両端が遠いので、同時に注視できないので、つい左側から見て右端の間隔まで観察していないのです。
 そこで左右両端を別々に注意して観察し、そのあと図のまん中部分に目を向けながら左右両端に注意を向ければ四本線が平行に見えるようになります。
 「眺める」のと「観察する」のでは同じ視覚的判断でも結果が違うのです。


あいまいな比較

2008-01-15 22:26:30 | 視角と判断

 A図はいわゆるミュラー.リヤーの錯視図で、①の軸線のほうが②の軸線より長く見えるというものです。
 図形全体の長さでなく、矢羽根を切り離した軸線の部分の長さを比較するように求められるのですが、うまくいかないのが普通です。
 子供や老人は矢羽根の部分と軸線を切り離して見ることができないため、①の軸線と②の軸線がかなり違うように思ってしまうといいます。
 子供でなくても①と②を見比べれば、①の軸線のほうが長いと感じます。
 ①のほうが長く感じる理由については、いろんな説があるのですが、本当に軸線の長さを比較しているかどうかを確かめようとしていません。
 とくに②のほうは軸線と矢羽根とが重なる部分が多いので、軸線部分を切り離してみることは子供でなくても困難です。

 B図はいずれも正方形なのですが、色や線を加えて見え方がどのように変化するか試したものです。
 左の図形では暗い部分は明るい部分より縮小して見えるため、正方形の下辺が狭くなって見えます。
 まん中の図では斜めの線によって、正方形の左右の両辺が下にいく似に従って内側に傾いて見えるため、下辺は上辺より短く見えます。
 右側の図はA図の①を上辺に重ね、②を下辺に重ねたものです。
 もし①の軸線が②の軸線より長く見えるというのであれば、正方形の上辺のほうが下辺より長く見えるはずです。
 つまりこの四辺形は左の二つの図形と同様に、下辺が狭く見えるはずです。

 ところが予想に反して、この四辺形は下辺が狭く見えません。
 ということは軸線の長さだけを見ることが可能ならば、①の軸線と②の軸線は、ほぼ同じ長さに見えるということになります。
 そうなると①の軸線のほうが②の軸線より長く見えるといっても、きちんと比較して見てはいないということになります。

 B図は上下で比較したのですが、左右にしても同じ結果が出ます。
 C図は正方形の左辺のほうが長く見えるようにしたものです。
 ここでは左の図と真ん中の図は左辺が長く見えますが、一番右の図では左辺が長くは見えません。
 それどころか左辺のほうがこころもち短くさえも見えます。
 矢羽根の錯視というのは、錯視と言えるかどうか疑わしいのです。

 ①と②の軸線部分の長さを比較するといっても、矢羽根の部分と軸線部分の境目がハッキリしないので、軸線部分の比較をしているつもりでも、実際は比較できていないのかもしれません。
 どこからどこまでが軸線かハッキリ分らないまま判断しているのでしょう。
 比較できないまま、図形全体の長さを見比べた印象から①のほうが長いと判断している可能性があるのです。
 視覚の判断といっても、判断の対象があいまいな状態で判断を迫られたために誤るということもあるのです。


注意の向け方で変わる見え方

2008-01-14 22:45:49 | 視角と判断

 A図は有名なミュラー.リヤー錯視図で①と②の軸線は同じ長さなのに、①のほうが長く見えます。
 図形全体としては①のほうが長いのですが、軸線の部分は同じ長さです。
 ①の軸線のほうが長く見えてしまうのは、軸線の部分を図形全体から切り離して見ることができないため、図形全体の長さに影響されてしまうためだと考えられます。
 子供と高齢者はこの錯視の度合いが大きいのは、全体から部分を切り離して見ることができないためだとされています。

 B図は軸線の長さと直径が同じ円を描いて、そこに①と②を配置して見え方を調べたものです。
 左の図では②が横に、①が縦に配置されていますが、①のほうが②より長く見えるので、普通に見れば円は横長に見えます。
 軸線の部分は円によって境界がハッキリするので、理屈から言えば円が正しい円に見えれば縦と横の軸線は同じ長さに見えているはずです。
 ところが円でなく横と縦の線である①と②に注目してしまうと、①のほうが長く見えてしまうために円が横長に見えてしまうのです。

 同じように右側の図を見ると①が縦に②が横に配置されているため、円はこんどは縦長に見えてしまいます。
 円が縦横等しい正円に見えれば、①と②の軸線は同じ長さに見えるのですが、縦に配置されている①のほうが長く見えるために、円のほうが縦長に見えてしまうのです。

 C図はB図の縁の部分を赤くしたもので、直線でなく円のほうに注意を向けさせやすくしたものです。
 左側のずでは赤い円に注意を向けれれば、Bの場合と違って横長ではなく、縦横がほぼ等しい正円と見ることができます。
 線が赤いので①や②と切り離して見ることができるために、本来の正円と見ることができるのです。
 同じように右側の図は赤い円に注意を向けて見れば、縦長に見えていた円が正円に見えるようになります。

 円に注意を集中して見れば、円は正円に見えるということですから、こんどはB図にもどって、円に注意を集中して見れば以前より左右の円は正円に見えるようになります。
 それでも円が横長に見えたり縦長に見える場合は、円と直線が接する四点を同時に見るようにすると、円を注視したと同じ効果があり、正円に見えるようになります。
 見え方が変わるというのは、脳がどのように解釈するかによるというふうに言われることがありますが、実際にはどこに注意を向けるかによって見え方が変わるのです。
 脳の解釈によって注意の向け方が変わるということはありますが、目立つものに注意が向いたりするように、脳の解釈が必ず先にたつとは限らないのです。