60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

アナログ的に見る

2008-04-12 23:25:16 | アナログとデジタル

 A図と同じものを先に見せておいた後、先に見た図はA,Bのどちらに似ているかと聞かれると、人間の場合はBのほうだと答える場合が多いそうですが、これはBのほうが外側の点をつなげたとききちんとした三角形となっているためだと考えられます。
 ところが注意して見るとAのほうは、外側の点をつなげたとき線が曲がって、ゆがんだ三角形となっています。
 なんとなくA図を見たとき六個の点は二等辺三角形のように見えるので、二等辺三角形を見たと思ってしまいます。
 六個の点の配置をそのままに記憶するのでなく、二等辺三角形を見たと記憶していると、AとBを見せられたとき、先に見た図に近いのはBのほうだと思ってしまうのです。

 これに対し、ハトのほうはどちらかというとA図のほうを選ぶそうですから、ハトは人間よりも見たものをありのままに記憶しているといえます。
 人間は二等辺三角形という概念を知識として持っているので、それに近いものを見れば、二等辺三角形を見たと思い、そのように記憶をするのです。
 似たようなものを同じと見てしまうわけですが、同じとみなす根底に、二等辺三角形という原型がイメージとしてあって、少し変形したものとみなすのです。

 ハトは二等辺三角形というような概念知識は持っていないので、見たままを記憶することになります。
 ということになると、先入観でものを見る人間は左脳型、ありのままに見るハトは右脳型ということになるのでしょうか。
 右脳が左脳より数十万倍も情報処理能力があるという、右脳優越論に従えば、ハトは人間よりズット情報処理能力があるということになります。

 人間は二等辺三角形という概念を持つことで、それに近いものを同じようなものとしてアナログ的に見ることができます。
 ただしこの場合は、点が示されているだけで、二等辺三角形は目に見えるわけではなく、人間が点の配置からイメージしているものです。

 下の絵は一番左が原画で、右の三つは段階的にモザイクをかけたものです。
 細部にこだわれば右の画はどれも原画とは違うのですが、アナログ的に見ると二番目の画は原画と同じだと判定できます。
 4番目は原画と同じとは見なしにくいですが、二番目と三番目、三番目と四番目というふうに比較していくと、4番目も同じように見えてきます。

 ハトはそれではモザイクをかけたりすると全く違う画と見てしまうのかというと、そうではなくモザイクのかけかたが小さければ同じと見ることができ、モザイクのかけかたが大きくなるにつれ、同じと見難くなるそうです。
 人間でなくてもアナログ的な見方をするのですが、三角形のように目に見えない場合ではなく、色とか形とか目に見える場合だけのようです。


サルには人間の意図が分からない

2006-10-18 22:48:31 | アナログとデジタル

 2枚の色板を見せて、同じ色なら○、違う色なら×を選ぶように訓練してから、次に訓練のときとは違った色でテストをすると、サルは混乱してしまうといいます。
 サルは訓練で同じ色の場合と違う色の場合を区別できるようになるのですが、色を変えるとまた新しい問題として最初から学習しなければならないのです。
 ところが同じことをチンパンジーにやらせると、チンパンジーは色を変えても正しく出来るそうです。
 理由は、チンパンジーの方がサルよりも前頭葉が発達しているからだと説明されそうですが、そうともいえない事実もあります。
 同じようなテストをするとオームやカラスはやはりチンパンジーのように正解をするのだそうです。
 それだけではなく、ドイツでの実験ではミツバチも違う刺激に対して同異の弁別ができたということですから、このテストに合格できるかどうかで前頭葉の発達を判断することは出来ないのです(アザラシもこのテストは合格するそうです)。
 
 ハトの場合はサルと同じように、同異の弁別は訓練によってできるようになるのですが、刺激を変えるとまたあらためて訓練しなければ出来ないそうです。
 そうするとハトはオームやカラスより賢くないと思いたくなるでしょうが、サルがカラスより賢くないとも思えないし、ミツバチの例もあるので単純に知能の差だとはいえません。

 このテストの意味は人間が考えたもので、「同じ」とか「違う」ということが具体的に分かるだけでなく抽象概念として理解できるかどうかを確かめようとしたものです。
 二つの色が同じとか違うとかいう事は、どんな動物でも見分けられます。
 サルにせよハトにせよ訓練を受けなくても、二つの色が同じかどうかぐらいはわかるはずです。
 訓練されて身につくのは、特定の色の組み合わせのときに特定の反応をすれば報酬が得られることに対する理解です。
 その後、新しい色の組み合わせを示されたとき、同じ色だということが分かっても、前に報酬を受けた色とは違うので反応しないのです。
 人間のほうは同じ性質のテストだと思っているのですが、サルやハトは人間の意図が分からないのです。

 訓練によってサルやハトは、色の組み合わせの異同を判断できるようになるというのですが、正答率は100%になるのかといえばそうではなく90%前後ということです。
 ということは同じ色かどうかは100%分かっているはずですから、報酬が得られるかどうか100%確信を持ってはいないということです。
 同じ色の組み合わせに反応すれば報酬が得られるということは、自然現象ではなく人間の側の意志ですから、他の色になったときも報酬が得られるかは不定です。
 他の色になっても同じように反応すれば報酬が得られるだろうと思うのは類推です。
 人間の側はサルやハトが原理を理解しないと思うかもしれませんが、彼らの側からすれば類推の問題なのです。


サルには類推が難しい

2006-10-17 22:21:59 | アナログとデジタル

 A.パスパレーとE.K.ミラーの実験でサルに2枚の色板を見せ、同じ色ならレバーを引かせる訓練をします。
 最初は赤、青、黄の三色のカードを使って訓練して、サルが十分訓練され、正解を出せるようになったらこんどは別の色を使ってテストをします。
 そうするとサルはどうしたらいいか分からなくなったそうです。
 この結果、サルは「色が同じならレバーを引く」ということが課題なのだとは理解していなかったと解釈されたのです。
 つまりサルは「赤と赤」「青と青」「緑と緑」という個別のケースを覚えて、そのときレバーを引くことを覚えていただけだったというのです。
 赤、青、緑の三色でやった訓練から類推して茶、黒、黄のときでも同じ色ならレバーを引くという応用が利かなかったのです。
 人間ならこどもでも同じ色ならレバーを引くんだということが簡単に分かりますが、サルは前頭葉が未発達なので、「色あわせ」という「大きな枠組み」を理解できなかったというのです。

 サルは人間に比べれば前頭葉が小さく、抽象的なルールの理解とか、状況の変化に応じた頭の切り替えは難しいのでしょうが、このテストでそういうふうに結論付けるのはサルに対し不公平です。
 サルは言葉が分からないので、あらかじめ言葉で指示は出来ません。
 最初に赤、青、黄の三色のカードで訓練する場合も、サルはただ二枚のカードを示され、同じ色の場合にたまたまレバーを引いたら報酬を与えられるという試行錯誤が繰り返されただけです。
 どーやら「赤と赤」「青と青」「緑と緑」の場合にレバーを押せばよいということを覚えた後、別の色のカードを示されるのです。

 人間相手なら「さてこんどはどれが正解でしょう」とか何とかテストが変わることが伝えられるのですが、何の説明もなければサルにしてみればとまどうでしょう。
 サルは人間のようにテストに慣れているわけではないので、前の訓練とルールが同じなのだからできるはずだと言われてもそうはいかないのです。
 色が変わってもルールは同じだから分かるはずだというのは、テストをするほうの理屈で、されるほうには分かるとは限らないのです。
 
 訓練の手続きとしては別の色でも試行錯誤で、同じ色なら正解という訓練をして、色が変わってもルールとしては同じだという訓練をすべきなのです。
 「色が変わってもルールは同じ」ということを何回やっても覚えられないということであれば、そこではじめてサルは規則の規則つまり一般原理が理解できないといえるのです。
 人間の場合は赤ん坊のときから言葉のシャワーを浴びて育っているので、このようなテストに順応できるようになっています。
 言葉を覚えれば、言葉の中にある原理とか考え方も同時に覚えているからです。
 サルと比較するのなら言葉を覚える前の幼児段階でテストするしかないのです。


漢字文化のほうが論理的?

2006-06-06 23:50:37 | アナログとデジタル
 上の表は最近発表された、国際数学、理科教育動向調査(2003年実施分)のテスト成績順位です。 この調査は数学は昭和39年から、理科は昭和45年から実施されているものですが、当初は参加国が半分程度だったのですが、日本は両科目とも、中学も小学もほとんど一位でした。 2003年の結果は小学4年では数学、理科ともに3位ですが、中学二年はやや交代して5位と6位になっています。 この表で目立つのは、シンガポール、韓国、香港、台湾、日本といった極東アジアで、特に経済が発展している地域が上位を独占していることです。 これらの国はいずれもかつての漢字文化圏であることにも共通点があります。  数学とか理科という理数系の分野は、分析的、システム的な能力が必要な分野なので、どちらかといえば欧米人の得意分野と思われているものです。 漢字のようにアナログ的な文字を使っている人種は、アルファベットのようにデジタル的な文字を使っている人種より論理的でないなどといわれていました。 日本語は非論理的なので、英語を公用語にすべきだなどといった意見もあったほどなのですが、こうしたテストの結果を見ると、そういうことはいえないことが分かります。 この調査は主として欧米諸国とアジアの主要国(中国は不参加)で、アフリカや南米のほとんどははいっていません。 日本などの黄色人主の国が成績が悪ければ、白人優位の結論が導かれたのでしょうが、あいにく黄色人種の優位が示されてしまっています。  白人はともすると、頭脳面で白人が優位であるというようなことを示そうとするのですが、なぜか黄色人種は、知能テストなどでは白人より上位になるようです。 脳の重さなどを量って、黒人より白人のほうが優れた脳を持っているといってみたり、知能テストでは黒人は白人より劣るなどという説がいまだに大きな声で主張されたりします。 調査の方法には問題があるにせよ、平均すれば白人のほうが脳が重いとか、知能テストの成績が上回るというようなデータはあるようです。 その場合でも。比較のために集められたデータでは、黄色人種の方が白人より脳がおもかったり、知能テストの成績が上回ったりするのですから皮肉なものです。  日本語があいまいであるとか、論理的でないとかいった議論はナンセンスですが、最近での日本人の成績順位の下降を見ると、カタカナ語が大幅に増えてきている現状からすれば、日本語が英語に侵食されて、逆に非論理的になってきているのではないかとさえ思われるほどです。

猿マネをする

2006-04-08 22:45:03 | アナログとデジタル

 チンパンジーの子供は大人のすることを見るのが好きで、見ることでいろいろな技術を覚えていきます。
 ただ見ているだけでなく、マネをするのですがうまくいかなくても親のほうが手取り足取り教えるということはないそうです。
 マネというのは人間や類人猿に多く見られる行動で、犬や猫はあまりマネをしたりしないことからすれば、マネルには知能が必要だと考えられます。
 人間の子供とチンパンジーのマネの仕方を比べると、「見たとおりにマネをする」のは人間の幼児のほうで、チンパンジーには見たとおりにマネをすることが、難しいとされています。
 
 手の届かない所にある餌を熊手を使って引き寄せてみせ、マネをさせるのですが,引き寄せるときに熊手を回転させ、bのようにして引きよせます。
 このとき、人間の幼児の場合は、熊手を回転させるというところまでマネをするので、餌を引き寄せることが出来ます。
 チンパンジーの場合は、熊手の向きをそのままにして引き寄せようとするので、なかなかうまくいきません。
 チンパンジーは、熊手を使って餌を引き寄せるという目的は理解しているが、方法の細かい部分までマネをしないために失敗をしています。

 明和政子「なぜマネをするのか」によると、チンパンジーは他者の行為に含まれる身体の動きについての情報を処理する能力が人間に比べると弱いそうです。
 熊手を使って餌を引き寄せるのを見ると、熊手の使い方は自分流でやってしまって、お手本どおりにしないのです。
 細かな他者の動きを正確に猿マネをしなくても、目的と手段としての道具を理解したら、後は自分の経験や試行錯誤によってやってしまうのです。
 だからチンパンジーのやり方のほうが効率がよい場合が多いのです(この場合はわざと引っ掛けにくい熊手を使って、そのままでは引き寄せにくい向きにしてありますから、いかにも知恵足らずに見えますが)。
 人間の学習方法では、行為の中に含まれる目的とは関係しない、余分な情報も猿マネしてしまうために、効率が悪い場合も多いといいます。
 人は他者のすることを見て、身体の動きに注目するために、心の状態を察知しやすくなるとしています。

 このような違いはヒトとチンパンジーの母子関係の違いから来ると推測しています。
 ヒトの親は生まれて間もない子に,おせっかいといっていいくらいに積極的に働きかけ、あやしたりするが、チンパンジーは子どもの面倒を見てもあやしたりはしない。
 ヒトの親は子供が反応するようになれば、子供の真似をしてみせたりするので、子供は模倣する経験を引き出され、模倣する能力を早くから引き出され、他者の心を理解する能力を芽生えさせるといいます。

 チンパンジーだって、チンパンジー同士の心は理解できるのかもしれませんが、人間の心は同類でないので理解しにくいだけなのかもしれません。
 ヒトに飼育されたチンパンジーは、模倣能力がヒトの幼児に匹敵するレベルになるといいますから、育ち方の違いの影響も大きいのかもしれません。
 もちろん、人間でも必ずしも細かい動きまでそのまま「猿マネ」する幼児ばかりとは限りません。
 自閉症児などは「猿マネ」が不得意だそうですし、個性が尊重される時代では同調的な傾向は評価されないので、「猿マネ」をしない幼児を育てようとする風潮があるからです。
 どちらかというと日本人は同調性が強く、「猿マネ」傾向が強いとされてきたのですが,チンパンジーとの比較からすると、これらが必ずしも欠点ではなかったように思われますが、今後はどうなのでしょうか。


アナログ的な感覚

2006-04-07 22:44:45 | アナログとデジタル
 図のaとbが同じかどうかを判定するにはcのように、人間の体に見立てればパッと直感的に分かります。
 これは心理学者の佐伯胖氏が考えた方法です。
 普通なら頭の中でイメージを回転させてみて、同じになるかどうか想像するのですが、なかなかうまくいかないものです。
 人間はもっと、身体を思考の道具として使ったほうがよいというのが、佐伯教授の考えなのです。
 この場合は人間の身体を使うというより、回答者が自分がこの物体になったつもりになってみると身体感覚的に分かりやすいということです。
 cは横に出ているのが左手、足が前に出てひざが曲がっているという感じです。
 そういう感覚で見ればaは右手が出て、bは左手が出ているということになるので、aとbは違うということが直ちに分かります。
 
 これは別のものに見立てるという、アナログ的な見方をするとわかりやすいということなのですが、単に見立てるというだけでなく、自分がそのものになってみるとより分かりやすいということです。
 何かをほかのものに見立てるとか、なぞらえるということは、チンパンジーでも出来るのですが、そのものになってみるということはありません。
 かつて、将棋の坂田三吉は「銀が泣いている」と言ったそうですが、単なる擬人化をしたわけではありません。
 将棋の中に入り込んでしまったので、銀が泣いているように感じたのでしょう。
 このような感覚は昔から日本人が好むというか、得意とするようで、馬術では「人馬一体」というような言葉があったのですが、いまでは車の運転に、「人車一体」というような表現さえ使用されています。
 
ところで、この問題を解決するデジタル的なやり方では「廊下法」というのがあるそうです。
 aは、いちばん端の所から一つヅツ移動して、三つ目で左に曲がり、四つ目で奥に進み、三つ目で下に下がる、というようになぞっていく方法です。
 bは三つ進んで右に曲がり、四つ進んでから奥に三つ進んで下がるのでaとは異なるということが分かります。
 これでも確実に分かるのですが、どのように動いたかを記憶しておかないと、同じかどうか分からなくなってしまいます。
 デジタル的なやり方はどんくさいのですが、必ず解決できるような感じがし、実際解決できたりするのです。
 デジタル的なやり方は、確実ですが回りくどいのでエネルギーがだいぶ要るのです。
 アナログ的なやり方は、見立てがうまくいけばよいのですが、うまくいかないと、まったく解決に近づけないという問題がありますから、どちらも一長一短という所です。
 

言葉はハサミのようなものか

2006-03-17 23:06:15 | アナログとデジタル

言葉はハサミのようなものだという言い方があります
たとえば首と肩という言葉があります。
本来どこからが首でどこからが肩だという境目はないのに、言葉では首とか肩とかいうふうに切られてしまいます。
このように、もともと切れ目がないものを切ってしまうので、ハサミのようだというわけです。
このようにいわれれば、ついナルホドと妙に納得してしまいます。
そういえば「クビ」と「肩たたき」の境目もハッキリしないなあなどと思ったりします。

ところがこのようなアナロジーは、ことの一面をとらえているだけのものです。
たとえば「犬」という言葉は、シェパードやスピッツやブルドッグのように、ずいぶん違うものを同じ「犬」と呼ぶのですから、接着剤のようなものだともいえるのです。
首と肩の場合でも、皮膚で見れば境目がなくても、骨で見れば首の骨と肩の骨は分かれています。
アナログ的説明は、一つの例を挙げて一般論に拡大しようとするものですが、その後で、一般論として成り立つか、テストすることが必要です。

例が面白いとつい引き込まれて納得してしまいますが、めくらましにあったようなものです。
後のテストが示されていないときは要注意なのです。

首と肩というような名前は、人間の都合でつけたものであるということには違いがありませんが、だから根拠がないということではありません。
日常生活で、肩とか首という言葉がなければ不便で、首と肩の境目はハッキリしなくても別に不便ではないのです。
もし首と肩の境目が重要であれば別に名前をつけるでしょうが、名前がないのは名前をつけても意味がないからです。

たとえば「白」と「黒」は境目がハッキリしませんが、それでは境目がない状態のままでよいかといえばそうはいきません。
そこで間に灰色という言葉が作られているのです。
なんでも白か黒かハッキリさせたいひとは、グレイゾーンがいやかもしれませんが、白とか黒とか極めつけるわけにいかないことというものはあるのです。
それだけでなくグレイゾーンがあれば白と黒はハッキリと分けることができるというメリットもあるのです。


日本語と冠詞

2006-03-16 22:57:31 | アナログとデジタル
英語の冠詞atheが日本語の助詞の「」と「」に対応しているという説があります。もちろん学問的には根拠のない説ですが、案外多くの人が納得しています。例として挙げられているのが桃太郎の昔話で、「あるところにおじいさんと、おばあさん」というときに「」という助詞が使われています。このときの「おじいさんとおばあさん」は「あるおじいさんおばあさん」で特定の「おじいさんとおばあさん」ではないので英語なら不定冠詞(aまたはan)が使われるケースだというのです。つぎに「おじいさん山に芝刈りに、おばあさん川に」というときは「そのおじいさんは山に芝刈りに、そのおばあさんは川に」ということで、特定の「おじいさんと、特定のおばあさん」を指すので「」という助詞が使われ、英語なら定冠詞のtheが使われケースだというのです。 なるほどうまく対応しているなと、なんとなく納得してしまう人もいるでしょう。しかし、そのあとの「おばあさん洗濯をしていると」という場合のおばあさんは「そのおばあさん」であるのに「」という助詞が使われています。そうすると「」はaにも対応しているが、theにも対応していることになります。「」と「」がatheにそれぞれ対応しているという説はアヤシイナとここで気づくことになります。 そういえば、むかしの初歩の英語の教科書には「This is a pen.」というような文章があって、「これはペンです」と訳していて、「これがペンです」と訳してはいませんでした。また「これがそのペンです」を英訳すれば「This is the pen.」となって「」はtheに対応してしまっています。「竜馬行く」というときだって「ある竜馬が行く」という意味ではなく「その竜馬が行く」ということで「」は英語のaとはまったく無関係です。 「」と「」が英語のatheに対応していない例は探せばいくらでもあり、対応例のほうが少ないでしょう。英語の冠詞は主語となる名詞だけにつくのではなく、目的語の場合でもついてきます。ところが「」とか「」は目的語には使われないのですから、英語の冠詞に対応するのが「」と「」という助詞だという説はまったくの無理筋です。 このような説が出てきたのは、「日本語は冠詞がないのであいまいで論理的でない」などといわれたりするためだと思われます。日本語も英語のように論理的だと言いたいために「じつは冠詞に対応するものが日本語にはあるのだ」という証拠を出そうとしたのでしょう。しかし、二三の文例から類似の関係を見つけて、全体を推し量るというのはアナログ的とは言いながら乱暴に過ぎます。このような論理ではヤッパリ日本語は非論理的だとおもわれてしまいます。類推をするにしてももう少し多くの例を検討してから論を立てるべきでしょう。

脳の判断なのか

2006-03-15 22:34:19 | アナログとデジタル
エーデルソン錯視の変型判です。
線で示した部分はすべて同じ明るさなのですが、左の図形の場合は上の四辺形が暗く、右の図形の場合は下の四辺形が暗く見えます。
左側の図形の場合、下のほうが陰になっているので、上と同じ色ならもっと暗く見えるはずだと脳が無意識のうちに判断して、この四辺形は本当は上の四辺形より明るいと感じるので、明るく見えるのだという説明がされています。

「なるほど」と説得されそうな説明ですが、何か回りくどくて変だなと感じられるのではないでしょうか。
ためしに線で示している四辺形の両サイドの色を上下で交換してみたのが右の図形です。
なんと線で示した四辺形は色を交換したわけではないのに、色の濃さが逆転して見えるではありませんか。
二つの図形は並んでいるので光の当たり方はどう方向に見えるはずですから、右の図形の場合も下が陰になっていると脳は判断しているはずです。

してみると、陰になっていると脳が無意識のうちに判断するために見え方がこうなるのだという説明は事実ではないということになります。
陰になっていると判断するかどうかで見え方が決まるのではなく、両サイドの色によって見え方が変わっているのです。

脳の判断で見え方が変わるというタイプの説明は、遠近法の場合にも見られます。
「同じ長さのものが遠くにあるように見えれば、実際はもっと長いはずだ」と脳が判断するために、近くにある同じ長さのものより長く感じるというのです。
しかし、この場合は遠くにあるように見えるのは焦点距離が変わっているためです。
実際長く見えているのであって、長いように感じているのではありません。

これらは見え方の事実の説明ではなく、「このように考えれば納得しやすい」というアナログ的な説明にすぎず、条件を変えても成り立つ説明なのか検討されていないので、うまく当てはまらない例が出てきてしまうのです。

意味を見つけるアナログ的みたて

2006-03-14 22:57:39 | アナログとデジタル
 上の図は何に見えるかとと聞かれるとすぐ答えられる人はあまりいません。
 黒い部分の一つ一つの形にこだわってしまうと全体像はつかみにくくなります。
 角度を変えて見たり、見る距離を変えて見たりするうちに、全体がまとまりを持って意味がある形になったりします。
 左の図は「犬」ということになっています。 
 そういえばそう見えるなと思われるでしょうが、これは犬を表していると証明できるわけではありません。

 見て、座った犬を前から見たものだということを感じ取ってもらうしかないわけです。
 人によっては「二人の人が話をしているところだ」と思うかもしれませんが、それが間違いということでもありません。
 この場合は作者が犬を描いたので「犬だ」と感じるのが正解だと思うかもしれませんが、どのように解釈するかは見る人しだいなのです。
 アナログ的な「みたて」の問題は証明というものはないのですが意味を見つけることで理解を導くのです。。
 
 かつて日本では満月を見て「兎が餅をついている」と見立てたのですが、世界中どこでもそうかというと、「ライオンが咆えている」とか「蟹がハサミを上げている」とか「ワニが口をあけている」とか見立てた民族もあるのです。
月の影の場合は作者がいないので、見方はいろいろで、どの見方がもっともらしいかは判然としません。
 作者がいる場合は、作者の意図というものがあるので、作者の意図と一致した解釈がしっくりきます。

 右の図は何に見えるかといわれると、左の図を見た後ではかなり難しいと思います。
 左の場合と比べ、かなり図が拡散しているので、一つのまとまったイメージとして見立てにくいのです。
 なかなか分からないでいるとき、言葉でこれは馬に乗った騎士だといわれれば「なるほど」と感じ今までばらばらに見えていた図形が一つにまとまるから不思議です。
 言葉によって意味が与えられると、見立てができ、イメージがわくのです。
 
 コンピューターでは元の絵が分かっていれば、上の図のようなものを作り出すことができるのですが、上の図の状態から元の絵をつくることは困難です。
 デジタルは元の絵から部分を省略することはできますが、省略されたものから膨らませてもとのイメージを作るのは不得意なのです。