60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

擬態語と方言

2006-07-31 23:20:21 | 言葉とイメージ

 「どん」とか「ぽん」というような擬音語は音を聞いた感じを表現しているので、「なぜそういうのか」と考えず、直感的に理解します。
 「にやり」と笑うとか、「めそめそ」泣くといった擬態語の場合は、音でなく状態とか様子を表現しているので、なぜそういう表現になるのかは分かりません。
 よほど語源好きの人でも、擬態語について語源を詮索することはあまりないようです。
 日本語の話者であれば、これはこういう意味と教えられたり、辞書を引いたりしなくても直感的に分かるような気がするからです。
 擬態語の場合はほとんどの場合漢字を当てられることはないので、漢語ではなく和語のような感じがしますが、必ずしも大昔から使われているものばかりとは限りません。
 ものの名前とか形容詞などは和語であっても、わざわざ当て字をして漢字で表現するのを好む人でも、擬態語を漢字にしようとはしないでしょう。
 漢字にしようとしても適当な語が見当たらないことと、漢字を無理やり当てはめようとするとかえって意味が分からなくなるからでしょう。

 擬態語は日本人なら誰でも自然に分かるような気がしてはいますが、擬態語にも方言があって、方言を異にする人にとっては、同じ日本人の擬態語であっても意味が分からないものもあります。
 図の下の3行は秋田県の鹿角の擬態語方言ですが、関東や関西の人にはピンと来ないのではないかと思います。
 文字にした場合は実際の発音を忠実に表していないので、実際の発音なら感覚的に分かるのかもしれませんが、かえって分からない可能性もあります。
 その地方の言葉に慣れ、発音やアクセントを覚えて自然に言葉を理解できるレベルになれば、擬態語も意味の説明を受けなくても感覚的に理解できるのかもしれません。
 
 擬態語はお互いに感情移入できるような間柄でないと語感を共有できない場合があるので、若い世代とか、特定グループで使用されているものなどで、普通の大人には分からないものもあります。
 「げろげろ」とか「げしげし」とか以前にはなかった表現は初めて聞けば意味が分からず、語感で解釈しようとすれば誤解するでしょう。   日本語が乱れてきていると感じるかもしれませんが、もとは発音とかアクセントに現れるような感覚の違いがあるのです。
 日本人の擬態語だから感覚的に分かると思っても、感覚が違うから分からない場合もあるのです。
 


てれすこ、すてれんきょうの語源

2006-07-30 21:07:42 | 言葉とイメージ

 ものの名前の付け方には何らかの理由があると思うのは、誰にでもある自然な感覚でしょう。
 すべての名前がまったく独立して、お互いに関係がなければ、単純に記憶するだけでも脳に負荷がかかりすぎ、言葉を使うのが非常に難しくなります。
 「なぜそれは~というのか」という問いは、単なる好奇心だけではなく、その言葉を何らかの形で理解することで言葉のイメージを強化することにつながります。
 たとえば、タイとかヒラメといった言葉は大人にとっては熟知している言葉なので、語源をいまさら知ったところで効用はないのですが、それでも語源を明かされると興味を持ったりします。
 
 タイはもと平魚と書かれタイラ魚と呼んでいたのが、縮めてタイとなったというのが歴史的語源らしいのですが、落語の中では「めでたい魚だからタイというのだ」というふうに説明されたりします。
 ヒラメは「平たいところに目があるからヒラメだ」といい、「平たいところに目があるからヒラメだというなら、カレイはどうなんです」と聞かれ。「カレイはヒラメの家来、家令だからカレイだ」などと発展します。
 こういう説明は記憶法のようなもので、学問的には問題にされませんが、覚えやすく記憶に安定感をもたらすのでこころ惹かれるのです。

 語源欲求というのは強いといっても、どんな言葉についても語源が求められるかというとそうとも限りません。
 まったく知らない分野の言葉とか、見たことのないものとか、知らない外国語の単語とかは語源を聞いても理解できないので、そのまま受け取るしかないからです。
 「てんぷら」を「天竺から浪人がフラッとやってきてつくった」などというのは、「てんぷら」を外国語のまま受け入れてしまった後からのこじつけです。

 たとえば「てれすこ」という落語がありますが、これは見たことがない魚がとれたというので、名前を知っているものに褒美を与えるということから、ある男がそれは「てれすこ」だと答えて賞金をせしめたという話です。
 賞金を与えた奉行は「なぜ、てれすこというのだ」とは質問しなかったのですが、答えは怪しいと見て、その魚を干物にして、また名前を知っているものに褒美を与えるとしたところ、同じ男が現れ「すてれんきょう」だと答えます。
 おなじものを「てれすこ」と答えたり、「すてれんきょう」というのは「オカミを愚弄するものだ」ということで死罪ということになるのですが、刑の執行前に家族に言い遺すことはないかと聞かれ「子供にイカの干したのをスルメと言わせないように」と言ったため、申し開きが立ったということで許されます。

 これは、まったく知らないものの名前は、そのまま受けいれざるを得ないという前提で成り立っている話ですが、どうしても語源を探求したいという人はいるもので。「てれすこ」は「テレスコープ」、「すてれんきょう」は「ステーレン(星)鏡」だという説をひねり出した人がいるのですから、語源欲求の根強さには驚かされます。


音声と視覚イメージ

2006-07-29 22:40:03 | 言葉とイメージ

 文字の場合は象形文字から出発しているので、音声の言葉の場合も音声それ自体に意味があると思いたくなるのが人情です。
 エジプト文字であれ、漢字であれ文字が最初にできたときは、ものの形に似せた図形から始まっているので、音声言葉の場合も物の音に似せるとか、ものの形にふさわしい音によって言葉が作られたと類推したくなるのです。
 図はW.ケーラーが行った実験で、「takete」と「maluma」という名前をどちらに当てはめたらよいかを選んでもらったものです。
 結果は、左側を「takete」と当てはめた人が94%、右側を「maluma」に当てはめた人が97%だったそうです。
 日本人であってもほとんどの人は左側が「タケテ」、右側が「マルマ」と答えるでしょう(何%かの人は別の答えになるらしいのですが、どうしてかは分かりません)。

 言語学では言葉の意味と音声とは直接結びついてはいないということになっているのですが、一部の言葉は音形と意味との間になんらかの関係があると思われるものがあります。
 単純に音を似せる例では、幼児が犬を「ワンワン」とか自動車を「ブーブー」とかいう形で呼ぶ場合がありますが、大人に矯正されてしまいます。
 しかし電子レンジで「チンする」といったり、原爆を「ピカドン」といったりしたようにそれまでになかったものを言葉にしようとするときは、感覚的に似せた表現を採用する傾向があるのですから、音声言葉に何らかの感覚的な要素を求めようとするのは自然ではあるわけです。
 
 上の実験ではある種の音声は直線的な感じを与え、別の種の音声は曲線的な感じを与えることがあるというに過ぎず、特定の音声が特定の形を意味するということではありません。
 実際には、音声を聞いただけで意味が感覚的に分かるとは限らないのですが、音声言葉に視覚的イメージなどの感覚的根拠を求めようとする気持ちは根強いものがあります。
 言葉の語源探しというのは「~は、なぜ~というか」というものですが、学者が答えようとするときは歴史的な変化で説明しようとします。
 ところがいわゆる民間語源というのは感覚的にもっともらしいというもので、事実に基づいているかどうかということには頓着していません。
 言葉が感覚的に分かるかどうかを重視しているためで、学問的であるかどうかは問題ではないのですが、言葉のあり方としては案外この方が健全なのかもしれません。


左右で異なる錯視

2006-07-28 23:03:14 | 視角と判断

 上の図形でa1は長方形なのですが左側が広がって見えます。
 a2はa1を左右反転したものなのですが右側がそれほど広がっては見えないでしょう。
 a1を見るとき明るいほうの左側のほうに最初の注意がいきますが、a2を見るときにも明るいほうに注意が向くのかというと、やはり左側に注意が向くのではないでしょうか。
 普通に見れば暗いほうが縮小して見えるのですが、左側から見ると左右の差が強く感じられます。
 a2の場合は左側に最初に注意が向くので左右の差が少なく感じられるのです。
 a1の場合でも最初に右の暗いほうに注意を向けてみれば左右の差はあまり感じられません。
 人によっては右側に最初に注意を向けるでしょうが、その場合は逆の見え方をするのですが、いずれにせよ見方の癖によって見え方が違うということがあるのです。

 b1の場合は水平な真ん中の線が右上がりに見えるという錯視図ですが、ふつうは左の方に最初に注意を向けて見ると傾きが強く感じられます。
 もし最初に右側のほうに注意を向けて見て、それから左のほうに視線を移していけば、さほど線の傾きを感じられません。

 b2はb1を左右反転したものですが、真ん中の線は右下がりに見えるのですが、b1が右上がりに見えたほどには右下がりに見えません。
 しかし右側から左側へ視線を動かすようにしてみれば左上がりに見えるので、単純に右から見れば錯視が減少するということではありません。
 これは上下の白い四角形と黒い四角形が接している部分で、白い四角形が黒い四角形のほうに膨らんで見えるために起こる錯視です。
 b1の場合は左端の白い四角形が黒い四角形のほうに膨張しているのが目に付くので右肩上がりに見えるのですが、b2の場合は左端は黒い四角形どうしが接しているので右肩下がりが強く感じられないのです。
 
 それでも左から見ての右肩上がりと、右から見ての左肩上がりは同じ程度の上がり方には見えないでしょう。
 左から見る癖がついている人は、左から見て右肩上がりを強く感じ、右から見ても左肩上がりは強く感じないのです。
 右から見る癖の人ならb2を右から見て左肩上がりを強く感じ、b1を左から見て右肩上がりを強くは感じないでしょう。
 このような例を使えば、自分が無意識のうちに左右どちらの方からまず見ているのかを知ることができるのです。
 
 


顔は右脳が判断するのか

2006-07-27 22:37:12 | 視角と判断

 視覚イメージの処理は右脳が得意だとされ、顔の判断も右脳がやっている場合が多いといいます。
 左の写真はバート、D.Mトペレット、D.Iによるもので、男性の顔の半分と女性の顔の半分をあわせたキメラです。
 上の顔と下の顔を見て、どちらが女性で、どちらが男性に見えるでしょうか。
 顔の半分を隠せばどちらが男性的か迷うことはないのですが、両方が見えるのでやや判断に迷うでしょう。
 上の写真と下の写真とでどちらが女性的に見えるかといえば、多くの人は上の写真のほうだと答えるそうです。(大体右利きの人でしょう)
 上の写真は左側が女性のもので、右側が男性のもので、下の写真はその逆です。
 顔の左側が女性的であれば全体として女性的に見え、左側が男性的であれば全体として男性的に見えるということで、左側に見える部分が全体のイメージを決めているのです。
 
 顔を正面から見た場合、左半分のイメージは右脳に送られて処理され、右半分のイメージは左脳に送られて処理されるので、全体のイメージが左半分のイメージで決められるというふうに説明されています。
 左視野の情報が右脳に送られ、右視野の情報が左脳に送られるので、全体のイメージは右脳によって決められるというのです。
 
そういわれればそんなものかなと思うのですが、顔を右の図のように横にしてみるとどうでしょうか。
 上は左上の写真を左に90度回転したもので、下の写真は左下の写真を同じように左に90度回転したものです。
 右上の写真は男性的に見え、その下の写真は女性的に見えるのではないでしょうか。
 右の写真の場合は左右でなく上下に分かれていて、上のほうのイメージが全体のイメージを決めてしまっています。
 そうするとさきの説明のように、左視野のイメージが全体のイメージを決めるというわけにはいきません。

 ではどう説明すべきかというと、多くの人は上から下へ視線を動かしてみるので上のほうのイメージのほうが強くなる、つまり眼の動かし方の癖によると考えられます。
 左右の場合は左のほうから右のほうへ視線を動かしてみる癖があるので左のほうのイメージのほうが強く感じると考えられます。
 ためしに左の図の場合意識的に右から左に視線を動かしながら写真を見れば、印象が先ほどと違って見えるはずです。

 真ん中にはめがね型の円が二つありますが、上の場合は左右差が小さく見えるのに、下の場合は左右差が大きく感じられるため不安定に感じます。
 これは無意識のうちに左のほうから視線を動かしてみるため、左側の円がやや過大視されるためです。
 右脳左脳の問題でなく、眼の動かし方の癖が影響しているのです。


変形ストループテスト

2006-07-25 22:24:45 | 言葉と文字

  ストループテストというのは文字を見て、文字の色を答えるという課題で、文字の色と書かれた文字とが違うとスムーズに答えられなかったり、つい文字を読んでしまったりしてしまいます。
 上の2行でやってみると、スピーディにはできず、ちょっと引っかかるところがあるのではないでしょうか。
 これは文字を見るとすぐに読めてしまうので、無意識のうちに読んでしまっているのと、答えを言葉で要求されているためです。
 色を判断して口に出す前に文字を一目で見て読み取ってしまっているからで、幼児のようにゆっくりしか文字が読めなければ失敗しません。
 もし赤、青、黄色、緑のボタンがあって「文字と同じ色のボタンを押せ」というのであれば迷うことも間違えることもあまりないでしょう。
 
 次の4行は文字の表示を少し変え、最初の一文字だけを目立つようにしています。
 こうすると注意を最初に文字の色に向けやすいので、文字全体を見て文字を読む前に、色の名前を口に出しやすくなります。
 最初の一文字が目立つため、最初の文字と他の文字が分けられ、文字列全体が自動的に読まれるのを防ぐことができるためです。
 成人して文字を読む経験が積まれてきていると、3文字程度の文字列であれば、意識しなくても瞬間的に読み取ってしまうので、最初の一文字に注意を向けさせるのです。
 このようにしてみた経験をもとに考えれば、文字を変えなくても最初の一文字にだけ注目すればうまくいくだろうと思うでしょう。

 じじつ、最初の二行のような場合でも、文字を見るとき最初の一文字だけに注目して、色の判断をして色の名前を言うようにすればスムーズに答えられるようになります。
 文字列を見てその文字列の色を答えるように要求されたとき、どこに注意を向けたらよいか分からないので判断が遅れるという側面があるからです。
 そこで最初の一文字に注意を向けることにすれば判断しやすく、文字列を読んでしまうことを防ぐことが可能になるのです。

 このテストは、言葉で色を答えるという、言葉の作業をするとき文字を見ると引きづられるということを示したものですが、なぜか脳の活性化の訓練ということに日本では使われたりしています。
 文字を読むことが自動化されるまで身についていなければ、ストループ効果というのは起きないので、引っかからないで速く答えられる練習をしたりすることが脳にどのような効果があるかは不明です。
 しいて言えば文字の色という部分にのみ集中するという事で、集中力の訓練にはなるかもしれません。
 しかし集中力の訓練ならもっと実用的な課題がいくらでもありますから、文字を自動的に読まない訓練などやってどうするのかと疑問に思います。


左から見る癖

2006-07-24 23:10:22 | 言葉の記憶

 最初の4文字を1秒ほど見て眼を閉じ、後ろから思い出そうとしてみます。
 たった4文字でしかも間にーが入っているので覚えるのは簡単なはずなのですが、後ろのほうから順に思い出していこうとするとうまくいかなかったりします。
 前のほうから思い出そうとするのであればたいていの人は簡単に思い出せるはずです。
 記憶するとき、読まないで視覚的なイメージとして記憶しているのであれば、後ろのほうから思い出して読み上げることが簡単にできます。
 ところが数字を呼んで記憶すると、読み上げる順序を頭の中で逆にしなければならないので難しくなってしまいます。
 「さんよん ろくはち」と読むと、数字を覚えるのでなく音声として覚えていて、想いだすときに頭の中で「はちろく よんさん」と音声を並べ替えようとしたりすると難しくなってしまいます。
 音声で覚えるとき頭の中で数字を同時にイメージしていければ、思い出すとき、イメージを右から取り出していけばよいのですが、左から読む癖がついているとこれぐらいでも結構難しい課題になります。
 
 二番目は7つの数字なので1秒程度で視覚的に覚えるのはかなり大変です。
 「ごいちろく はちななきゅうに」というように読んで(音読ではなく内言で)音声として覚えることはできます。
 しかし左から二番目の数字と右から4番目の数字を足した答えを求められると、右から4番目の数字をどれかつきとめるのに苦労をしてしまいます。
 もちろん7つの数字を逆順に想いだすというのも、音声化して記憶している場合は並べ替えを頭の中でやるのが難しいのです。

 3行目はアルファベットの4文字ですが、1秒間では数字の場合より記憶しにくいと思います。
 音声化しようとすると慣れないせいもあって数字の場合より手間取るため、瞬間的に音声化して記憶するのが難しいのです。
 音声化をあきらめて視覚的に記憶すればできるので、視覚イメージとして記憶した後で音声化すればよいのです。
 4行目はアルファベットが7文字なので、音声化して記憶するのは1秒程度では数字の場合よりさらに困難です。
 
 音声化して覚えようとしてしまうのは、文字列が横に並んでいると、左から見て読んでいくという癖がついているためで、音声化しないで見るだけで理解したり記憶することができないためです。
 脳が理解するスピードは見る速度に比べればはるかに遅いのですが、音声化のスピードはそれよりさらに遅くなります。
 音声化をしないで理解することができれば同じところを見続ける時間が少なくなり、眼の負担が減るのですが、左から見るとつい音声化して(心の中で)読んでしまいます。
 そこで文字列を見て視覚的に記憶するときに右側から見て記憶する練習をするのもひとつの方法です。
 


平面では片目で見たほうが立体的

2006-07-23 23:02:29 | 視角と判断

 図は画像検索で得られた地球儀の写真ですが、光が当たっている角度はそれぞれ違っています。
 どれも立体感はあるのですが、明暗の差が比較的少ない左の地球儀がやや立体感にかけます。
 右の写真のように左下から光が当たっている場合でも立体感を強く感じますから、光が上から当たっている場合に立体的に見えるというわけではなく、陰影が強いほうが立体感を感じるようです。
 
 本物の地球儀のように立体的なものを見る場合、片目を閉じてみるとやや立体感は失われます。
 片目を閉じれば両眼視差による遠近感が感じられなくなるためですが、この場合のような写真を見るときはそのようなことは起こりません。
 むしろ片目を閉じたほうが両眼で見た場合よりもはっきりと感じられます。
 写真を両眼で見た場合は、写真の像は平面なので両眼視差は生じないので、両眼視差だけが手がかりであれば奥行き感は感じられないはずです。
 しかし明暗の差とか遠方のものが小さく見えるといったほかの手がかりによって奥行き感を得ることができるので、両眼視差がなくても奥行き感を感じることはできます。
 それでも、両眼で見ているときは両眼視差がなければ、陰影などほかの奥行き感の手がかりがあっても本当の奥行き感を感じません。
 
 片目を閉じて見たほうがより立体感を感じて、リアルに見えるのは、両眼視差を当てにしていないからです。
 両眼で見る場合は両眼視差があることが前提になるので、これがなければ単に奥行き感を感じないということでなく、奥行き感がないと感じるので、他の手がかりと競合してしまいます。
 片目で見るときは、両眼視差がないので他の手がかりは邪魔をされないので、両眼で見た場合よりも写真は立体的に見えるのです。

 両眼で見る場合でも親指と人差し指で輪を作り、その輪を通して写真を見るようにすると、写真がよりはっきりと見え、立体的に見えるようになります(指の輪を顔から少し離して両眼で写真が見えるようにします。このとき像はややちいさくみえます)。
 両眼で輪の中から見るときは両眼の視野が狭められ、やや寄り眼になったような感じになり、三次元のものを見るときは遠近感が失われますが、写真は立体感がまします。
 三次元のものを見るときと、写真のように平面の図を見るときとでは眼の使い方が違うので、平面図での見え方を、三次元で見るときの見え方と同じ原理で説明しようとすると混乱が生ずるのです。


論理的ではない見え方

2006-07-22 22:48:28 | 視角と判断

 図の4つの円形は球形にも見えますし、丸い穴の奥に光があるようにも見えます。
 球形に見えるのは、明るい部分が進出して見え、暗い部分が後退して見える状態が、明るい部分に光が当たり、暗い部分が影になっているというイメージと合致するためです。
 左上の場合は上からの光、左下は下からの光、右上は左からの光、右下は右からの光が当たった場合のイメージです。
 いま4つの円をいっぺんに見ると4つとも凸型つまり球形に見えます。
 光が同時に上下左右から当たって影ができているとは考えにくいのに、4つの円がすべて球形に見えるというのはどういうことでしょうか。
 もし、光は上から来るというふうに仮定すれば、左上の円だけが球形に見え、その他の3つの円は球形には見えないはずです。
 ところが左上の円が球形に見えるのと同時に他の3つの円も同時に球形に見えるのです。
 
 「上のほうから光が来るから下のほうが影になって見えるから球形だ」というようなことを脳がいちいち考えて判断するため円形が凸型(球形)に見えるのだとすれば、4つの円がいずれも凸型に見えるというのはいかにも奇妙です。
 脳は説明を好むといってもこれでは支離滅裂です。
 4つの円がいずれも凸型に見えるのはなぜかとかといえば、脳はそれほど論理的ではないということでしょうか。
 四つの円はそれぞれ球形に光が当たったときのイメージに合致するので、球形と感じ、光の方向の違いがあっても感覚のほうを優先させているのかもしれません。あるいは単に明るい部分が進出して見えるというだけのことかもしれません。

 これまでは明るい部分のほうに注目したので凸型に見えたのですが、円の暗い部分に注目すると穴の奥に光があるように見えます。
 右側の二つはトンネルの向こう側に出口の光が見えるような感じですし、左上の場合は穴のそこから見上げた場合、左下の場合は穴の下のほうから光が見える感じです。
 このように同じ図形が凸型に見えたり、凹型に見えたりするのは、見ている対象が立体的なものではなく平面図形だからです。
 実際の球形であれば、両眼視差によって立体的に見えるので、影の手がかりだけによるわけではないので見え方が変わるということはありません。
 平面に描かれた図形の場合は、影の部分をどう見るかによって見え方が変わるのです。「光が球形に当たったイメージ」とか「トンネルの向こうに光が見えるイメージ」というのは後から考えた類推(アナログ)的な説明なのです。

 右の二つの四辺形のうち、上のほうは真ん中が明るいので、真ん中が前に膨らんでいるように見えますが、逆にへこんでいるようにも見えます。
 普通の円筒形であれば、膨らんだほうが手前になるので大きく見え、下の図のような形に見えるはずです。
 それが逆に真ん中が縮小しているので、凹んでいるようにも見えるのです。
 逆に下の図は真ん中が暗いので,真ん中が凹んで見えるのですが、真ん中の部分が大きいので暗い部分が手前にせり出して見えます。 
 この場合は向こう側から光が当たり逆光で見た感じになります。
 これらの場合も平面に描かれた図を立体的に見ようとするため、見え方が不安定になっている例です。