60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

計算と脳の働き

2009-01-09 23:15:18 | 脳の議論

 図は、川島隆太「脳を育て、夢をかなえる」からのもので、大学生を使って、計算をしているときの脳の血流状態を画像化したものです。
 赤くなっているところは、脳の血流量が多く脳が活性化している事を示していると考えられています。
 Aは5+7とか6+3のように一桁の足し算をゆっくり暗算で解いているときの脳の状態で、Bは速く計算しているときの状態です。
 Cは54÷(0.51-0.19)というような、やや複雑な計算を暗算で解いているときの状態です。

 この結果から見ると複雑な計算をしているときは左の脳の一部分だけが強く活性化するだけで、簡単な計算をしているときと比べ脳はあまり使われていないように見えます。
 常識的に考えるなら、簡単な計算をするより複雑な計算をするほうがアタマを使うし、計算あるいは数学の能力が向上すると考えられはずです。
 ところが、脳の血流量という点で見ると、簡単な計算をするときのほうが脳の多くの場所で血流量が増え、脳が活性化しているようにみえます。
 そこで、複雑な計算をするより簡単な計算をするほうが、脳がより鍛えられるから、脳を鍛えようとするなら簡単な計算のほうが効果的だといった考えが生まれるようです。
 極端な人は簡単な計算をしていれば、学力が向上するように主張したりします。

 もちろん簡単な計算ばかりしていては、いつまでたっても数学の能力が向上するわけはありません。
 子供が簡単な計算が出来るようになったら、さらに複雑な計算が出来るように教育しなければ、学力が向上しないので、いつまでも一桁の計算ばかりさせていれば、個人的にもまた日本全体としても不幸な結果を招くだけです。
 それでも、簡単な計算をしているときのほうが、脳の血流量が多いのだから、やはり簡単な計算のほうが脳を活性化させるのではないかと思うかもしれません。
 しかし脳の血流量が増すことが、すなわち良いことで、脳が鍛えられて能力が向上すると単純に考えるのはどうかと思います。

 第一に、複雑な計算のなかには、単純な計算が含まれているので、複雑な計算をしたら脳が活性化しないというのは不審です。
 複雑な計算をするときは、計算の過程を考えてこれに注意を集中し、途中の結果を一時的に記憶しなければならないというふうに、簡単な計算に比べれば多くの種類の脳の働きが必要です。
 より集中力が必要で、そのため計算に必要でない部分の脳の働きを抑制しなければならないので、その結果狭い範囲しか活性化していないと考えられます。

 第二に、AとBを比べればわかるように、簡単な計算でも速くやったほうがずっと多くの場所で血流量が増え、脳が活性化しているように見えることから、速くやることが良いことだとしてしまうことです。
 もちろん一桁の足し算ぐらいは、考えなくても出来るくらいは速くなったほうが、より高度な計算をする上で有利ですが、それはそこまでのことでです。
 たとえば、からだの動きにしても、何でもヨイから速く動かせば、体の血流量が増し活性化したことになりますが、合理的な動かし方をしなければ運動能力は向上しません。
 準備運動にしてもやみくもに速く手足を動かしたのでは、かえって害になることもありますし、ゆっくり動かした方が良い運動もあります。
 血流量が増えることが活性化であるとするのはよいとしても、それが直ちに価値のあることだと考えてしまうのは即断です。
 簡単な計算をすると脳の血流量が増すというのは、画期的な発見だったのでしょうが、その原因はまだよくわからないので、脳が鍛えられるといったところで、どんな風に鍛えられるのかはハッキリしません。
 脳を鍛える万能薬であるかのように過剰な期待を持っても、結果が得られないので、近いうちに計算熱も冷めるかもしれません。

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右脳と左脳の役割

2006-12-23 22:51:41 | 脳の議論

 図はエルコノン.ゴールドバーグ「老いて賢くなる脳」からで、何かに取り組むときの右脳と左脳の活動の様子を端的に表したものということです。
 ゴールドバーグによれば、経験したことのない新しいことに取り組むときは右脳が主となって働くといいます。
 左脳には過去の経験で得られた知識や技術がパターン化されて蓄えられていて、直面した問題がその中のどれかに当てはまれば、それを使って処理をするといいます。
 過去の経験や知識を応用して解決できる問題の場合は左脳が主となって処理を行うというのです。
 新しいことや、自分が知識や技術を持っていないことに取り組むときは、左脳では処理できないので、右脳が主力となって働いて処理をするのです。
 
 最初は右脳が働いて処理をしても、そのうちに左脳も参加するようになり、処理の経験が重なるにつれて処理パターンが経験として蓄積されていきます。
 経験が蓄積されれば左脳がこれを利用して処理をするようになりますから、右脳の働きは左脳が働くにつれ弱まるということになります。

 右脳と左脳の役割については左脳が言語を処理して、右脳が視覚や空間の処理をするといったこれまでの説とはガラリと変わった説ですが、経験的には納得のいくものです。
 たとえば子どもがひらがなを覚えるときでも最初は苦労するのですが、繰り返し練習して覚えてしまえば、すらすら読めるようになり、さらに進めば文字を見たとたんに自動的に読むことが出来たりします。
 計算にしてもそうで、一桁の足し算でも覚え始めは頭をしぼって計算しますが、繰り返して練習すればパッと答えが出せるようになります。

 この説は右脳とか左脳とか大雑把に分けて説明しているので、漠然としたところはありますが、新しく何かを覚えようとするとき、最初は苦労して頭を使いますが、なれてくれば楽にできるようになるので、頭の働きが変わるということが実感されるので、説得力はあります。
 くりかえして慣れてくれば、たいていのことは楽にしかも上手に出来るようになって、脳の負担も少なくなるというのはもっともなことなのです。

 そうすると音読や簡単な計算をすると脳が活性化するという現在の流行はどういうことになるのでしょうか。
 繰り返してやっていくうちには、自動的に出来るようになって、脳はあまり使われなくなるのではないかと考えられるでしょう。
 いくらやっても簡単な計算や音読をするのに脳が莫大なエネルギーを使ってしまうようでは、その脳はよほどに不経済な脳だということになるからです。

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模写と錯視

2006-11-25 22:49:11 | 脳の議論

 左上は立方体の写真です。
 これを模写しようとするとき,立方体であると意識すると、右のように各辺を平行にして描く人が多いでしょう。
 実際に写真の各辺をトレースすると一番右の図のようになるのですが、この場合は各辺が平行でないことが分かります。
 線遠近法の知識がある人なら、収束点を頭の中に入れて描こうとするのでしょうが、この場合はかなり収束点が遠方になってしまうので画面上におくことが出来ません。
 目に見えた感じでは各辺を描けば真ん中のようにようになりがちなのです。
 ところがトレースした線画と比べればかなり違いますから、立体感のある図を正確に模写するのはかなり難しい作業なのです。
 
 下の一番左の図では横の二本の線は左側に開いて見えます。
 この図形を模写しようとして先ず二本の横線を描けば真ん中のようになるでしょう。
 そこで交差している斜めの線を描き加えれば右のような図になります。
 ところが右の図では横線は真ん中の場合よりも左が開いて見えてしまうのですから、模写しようとした原画である左の図とはかなり違って見えます。
 実は左の図の二本の横線は平行なのですが、斜めの線が加わっているために左側が開いて見える錯視図なのです。
 左の図が錯視図であり、二本の横線が平行であると知っていれば、先に平行線を描いて後から斜めの線を描きこめばよいので、結果として原画に近い模写が出来ます。
 このような錯視現象というものは他にもたくさんありますから、見えたとおりに模写しようとしてうまくいかないということは、いくらでもあるということなのです。

 上の場合は頭の中のイメージに引きずられて描いてしまうと、原画に忠実でなくなるという例ですが、下の場合は実際の見え方に引きずられると、原画と離れてしまうという例です。
 左脳とか右脳とかいう議論でいけば、上の例は左脳の解釈が間違いのもとということになりますが、下の例では左脳の解釈を入れないから間違えるということになります。
 右脳で描けばうまくいくと思っても、そうならない場合はあるのです。
 平面に絵を描くということは、平面に描けばどのように見えるかという知識がないとなかなかうまくいくものではありません。
 天与の才能でもあれば別ですが、試行錯誤などによって経験を積んだり、あるいは絵画の描き方を習ったりしないと、イメージを平面上に的確に表現するのは難しいのです。
 

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絵画的な手がかりによる奥行き感

2006-11-24 22:27:22 | 脳の議論

 図の右上の二つのテーブルの天板は同じ形の平行四辺形です。
 シェパードという心理学者の考案した錯視図ですが、二つの平行四辺形が同じ形、大きさだといわれても、とても信じられないのではないでしょうか。
 実際測って見れば分かるのですが確かに同じ大きさの平行四辺形です。
 これは遠近感による錯視だといわれていますが、いわゆる遠近法に従った図形ではありません。
 どちらの天板も手前側より奥側のほうが広がって見えるのですから、普通の遠近法と逆です。
 奥行き感があるのに、手前側と奥側が同じ長さに描かれているため、奥側が長く見えてしまうということなのです。

 左下は右上の図を180度回転させたもので、つまり右上の図を逆さまに見たものです。
 こうしてみると、二つの平行四辺形は左側のほうが細長く見えますが、右上の図の場合ほどではありません。
 右上の場合は二つの平行四辺形の形はだいぶ違って見えたのですが、左下の図ではあまり違って見えません。
 左下の場合は、それぞれの平行四辺形の四隅に注意を向けて見れば、ほぼ同じ形に見えてくるでしょう。
 それだけでなく右上の場合はゆがんで見えた平行四辺形が、左下の場合はゆがみが少なく見えます。

 同じ図であるのに右上の図と、左下の図では形が劇的に違ってしまっています。
 その理由は奥行き感の違いです。
 右上では感じられた奥行き感が、左下の場合はほとんど感じられないのです。
 右上の図でのテーブルの縁や脚は線遠近法には従わない形で、絵画的に示されています。
 このままなら少し違和感があっても、テーブルを立体的に描いたものと見るので、奥行き感が感じられます。
 ところが180度回転した形で見るとテーブルの立体図としてはかなりの違和感があり、そのため脚のついているほうが特に手前に感じられるということがなく、奥行き感があまり感じられないのです。
 その結果左下の図は平面的に見えてしまい、実際の姿である平行四辺形に見えてくるのです。
 
 つまり逆さまのほうから見た場合は、ありのままの姿に近く見えているのです。
 B.エドワーズ風にいえば右脳で見るからだということになるのでしょうが、逆さまにしたほうの図を模写すれば右上の図を模写するよりも忠実に描けるのは確かです。
 そうすると右上の図は左脳で見ているということになってしまいそうですが、本当にそうでしょうか。
 右上の図は絵画的に遠近感を表現したのですが、線遠近法に従っていないので、さかさまにした左下の図は絵画的な手がかりが力を失ってしまっているのです。
 この例では逆さまにして見ることで錯視効果がなくなり、忠実に模写しやすくなるのですが、逆さまに見れば必ず錯視効果が解消されるというものではないからです。

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見えたとおりに描こうとして

2006-11-23 22:45:50 | 脳の議論

 図のA1を模写しようとして輪郭を描くとA2のようになります。
 そのあとA2に陰影をつけるとA3になるのですが、これはA1とはかなり形が違って見えます。
 奥行き感のある図形を模写しようとすると、模写したつもりでもかなり違った形になってしまうことが分かります。
 それでは原画であるA1を180度回転して逆さまの方角から見たらどうでしょうか。
 
 B1はA1を180度回転させたもので、逆さまの方向から見たものです。
 原画では左のほうが明るく見えたのですが、逆の方向から見ると明るく見えるのは右側です。
 B1を模写しようとして輪郭を描けばB2のようになるのですが、これに陰影をつけるとB3になります。
 ここでB3をB1と比べて見るとやはり形が違って見えます。
 原画を逆さまにして模写をすれば見えたとおりに描けるというわけではないのです。

 A1は実は正方形なのですが、陰影があるために左辺のほうが右辺より長く見えるのですが、見えたとおりに描こうとして輪郭を描くと、輪郭は正方形ではなくなります。
 見かけがゆがんでいるので、見かけどおりに輪郭を作ってこれに陰影をつけるとさらにゆがんで見えてしまうのです。
 B.エドワーズ「脳の右側で描け」ではゆがんで見えるのは左脳が働くせいなので、原画を逆さまにしてみれば右脳が邪魔をされず働き、ありのままに描けるというのですが、逆さまにしてもB1は正方形に見えず、ゆがんだ模写しか出来ません。

 C1は正方形に見えるのですが、陰影を取り去るとC2のようになり、実は正方形ではないのだということが分かります。
 陰影がつけられて奥行き感が与えられると、実際の輪郭と見かけの輪郭が違ってくるのですが、これは左脳で見るからそう見えるということではありません。
 従って、原画を逆さにしたらば解消されるというものではありません。

 グレゴリーという心理学者は錯視図の多くは三次元的に見えるからだとしていますが、三次元的なものを平面に描こうとすると錯視が生ずることを直観したのでしょう。
 立体的なものを平面に描くというのは難しいもので、忠実に描いたつもりでも輪郭線だけを見ると実感とは違ったりします。
 そこで三次元的実感を、紙という平面の上に表現しようとすれば、錯視現象を利用せざるを得ない場合がでてきます。
 たとえば奥行き感によって生ずる錯視を利用した絵を模写しようとするとき、原画に忠実に描いたつもりでもかけ離れた結果となってしまうのです。
 

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影が上に来ると平面的に見える

2006-11-22 21:49:29 | 脳の議論

  左側の2枚の写真は真ん中の写真を90度回転させたものです。
 上の写真だけを見たのでは誰だかわからないでしょうが、下の写真ならハンフリー.ボガートかなと気がつく人もいると思います。
 同じように90度回転させたのに、反時計回りに回転させた上の写真は分かりにくいのでしょうか。
 正立している真ん中の写真を見ると光は左上方からあたっているのが分かります。
 顔の左側に光が当たり、右側が影になっていますから、反時計回りに回転させると陰になっているほうが上になります。

 左上の写真は下から光が当たっているような形で、自然な感じでなくもとの正立写真とだいぶ印象が変わって見えます。
 さらによく見るとこの写真はもとの写真に比べ立体感が欠けて平面的に見えます。
 これに対し時計回りに90度回転させた下のほうの写真はズット立体的で、もとの写真よりも立体的であるから不思議です。
 もとの写真は左上から光が当たっているとはいえ、ほぼ左から当たっているといってよい状態です。
 そのため左側を上にした時計回りに90度回転させた写真のほうが上からの光を感じさせるので、立体的に見えるのです。

 一番右の写真はもとの写真を倒立させたものですが、この写真もやや下のほうから光が当たっているので、もとの写真と印象が違うだけでなくやや立体感を失い、平面的に見えます。
 人物画などを模写するときに、原画を逆さまにしてみれば立体感がなくなり、平面的に見えるので模写しやすいという風に言われていますが、この例では左上の写真のほうが平面的に見えます。
 したがって模写をするなら、左上のように反時計回りに90度回転させたほうが平面が飲み本としては適切だということになります。

 立体的に見える原画を模写するのが難しいのは、描く画面が平面なのに、描く対象が立体的に見えているためです。
 原画が平面的に見える工夫をすれば、見えたとおり模写をすればよいので、原画に忠実な模写が出来るということになります。
 もとの画像を模写しようとしてうまくいかないのは、左脳の解釈が入るためで、逆さまにすれば印象が変わって左脳の解釈が無効となってうまくいくという説がありますが、逆さまであることが重要なのではありません。
 原画が平面的に見えるということが重要なので、光が下から当てられたように見えれば平面的になりますから、この例では左上の写真が良い見本となります。
 模写の問題に左脳とか右脳とかいう解釈を持ち込むのは、あまりに観念論的で実際的ではありません。

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逆さまにすると立体感が失われるだけ

2006-11-21 22:38:42 | 脳の議論

 ベティ.エドワーズ「脳の右側で描け」では模写をするとき、原画を逆さまにするとうまく描けるとしています。
 原画を逆さまにする理由は、左脳が働くとものをありのままに見ないで、先入観で見て描いてしまうからだといいます。
 原画を逆さまにすれば、左脳はものの形が分からなくなるので、右脳が見るありのままの姿が描けるというのです。
 実際そのとうりなのかを簡単な図形で試して見たのが上の図です。

 上の円形は左側は下に影がついているので膨らんで球形に見えます。
 右側は左の円を倒立させたものですが、倒立した結果見え方が変わっています。
 倒立すると元の図形のような立体感が失われて平面的に見えることが分かります。
 見方によっては少しへこんで見えたりもするのですが、その場合でも左側の円が膨らんで見えるのと同じ程度にへこんで見えるわけではありません。
 形も左のほうがややつぶれた感じで、右のほうが真円に見えますから、左のほうの円を模写すればゆがんだ円を描くことになるでしょう。

 下のほうは両方とも正方形なのですが、左のほうは真ん中が膨らんで円筒形に見えます。
 輪郭も正方形に見えないで、下辺がやや短く見え、左右の辺はやや曲がって見えます。
 右側は左の図を逆さまにしたものなのですが、こちらのほうは左の図と比べると立体感が失われ、ほぼ正方形に見えます。
 もし左側の図を模写しようとするならば、たいていの人は正方形を描かず、ゆがんだ四辺形を描くでしょう。
 
 こうしてみると、紙に描かれた立体感のある図形の本当の輪郭は、目に見えた形とは違うのだということが分かります。
 目に見えたとおりに描こうとすると、実際の輪郭とは違った輪郭を描いてしまうことになり、模写したつもりがおかしな形になってしまうことになります。
 立体感が表現されると、元の輪郭は維持されず違った形に見えるのです。
 したがって、立体感のある図を模写するときは逆さまにしたほうが、正しい輪郭をつかめるので、その意味で模写の技法として、原画を逆さまにして見ることは有効です。

 しかしこれは右脳で見るとか左脳で見るとかいうこととは関係がありません。
 この例で立体的に見える図形は左右対称に見えますから、真ん中を見れば左視野も右視野も同じに見えます。 
 つまり右脳で見ようと左脳で見ようと同じで、上が明るく下が暗ければ立体的に見えるということに過ぎないのです。
 左脳で見るとゆがんで見えるというふうに考えてしまうのは、視覚は右脳が優位ということを極端に延長してしまったからで、このような考え方こそが左脳の論理なのです。

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部分処理で意図しない独創性

2006-11-20 22:48:05 | 脳の議論

 左の顔の絵は、岩田誠「見る脳.描く脳」にある相貌失認患者による自画像です。
 この患者は左右の後頭側頭葉の梗塞で目や口、鼻など顔の部分は分かるけれども、他人の顔が誰の顔か分からなくなっています。
 この絵は鏡を見ての写生でなく、記憶によって描かれたものですが、普通の描き方でなく、斜めになっているうえに画面からはみ出しています。
 これは口の部分から描き始め、それから鼻とか目とかを描き足していくため、全体の姿が画面にうまくはまっていないのです。
 普通なら顔の配置を決め、顔の輪郭を描いてから顔の部分を描くというように、およその全体的な構成を決めてから部分に進むのですが、いきなり部分から手をつけています。
 
 この患者は右のような絵を見ても、どのような状況を表した絵なのか分からなかったそうです。
 一人一人の子供の絵については説明できるのに、全体としてどんなことを表しているかが理解できないというのです。
 一つ一つの部分については理解でき、それが同時に示されていることがわかっても、全体をまとめて理解することが出来ないのです。
 真ん中の女の子のドーナツを左の男の子が食べてしまったのに、右の女の子が疑われて困っているのですが、にんまり笑っている男の子、怒っている女の子、困っている女の子というように部分を文字通りに受け取るだけなのです。
 
 この様子から考えると、左の顔の絵は部分処理から始まって全体に向かっているというだけの問題ではないようです。
 部分はそれぞれ明確にとらえられていて、お互いの位置関係も正しいのですが、全体をまとめてそれをどう評価するかという観点がないのでしょう。
 全体的な表現という意図がなくて、部分的処理に集中してしまうので、全体枠からはみ出したり、常識的な構図から外れたりするのです。
 そういう意味では意図せずしてユニークな描き方となったり、結果的に独特な迫力を持ったりしています。

 一般的には全体的処理は右脳の役割、部分処理は左脳の役割ということになっていますが、この場合は部分が欠けているわけではないので、表面的な全体性あるいは形式的な全体性は実現されています。
 ただ常識的というかまともな処理がなされていないのが特徴です。
 全体的な処理をする右脳が機能していないと解釈するのなら、右脳は常識的な処理をするのが本分で、独創的なあるいはユニークな処理ばかりするわけではないようです。
 右脳が機能しないほうが、常識の枠を破る独創性が生まれることもあるのかもしれません。

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右脳が常識的

2006-11-19 22:45:20 | 脳の議論

 図は20世紀はじめドイツで活躍していた画家コリントの絵で、左は脳卒中で右脳損傷を受ける前の自画像で、左は病気が回復してからの自画像です。
 岩田誠「見る脳、描く脳」によれば、病後の自画像はいずれも描かれた形態に独特のゆがみがあり、病前よりもはるかに深く、力強い印象を与えるといいます。
 ゆがみは右脳損傷によるものだという説があるけれども、その独創的な描画方式が評価されて、病気になる前よりも優れているとさえ言います。
 少なくともこの画家の場合は、右脳の一部を失ってからのほうが、よりダイナミックな絵を描いているようだといいます。
 この点から考えると左脳のほうがよりダイナミックな描画能力をもっていたということになり、通常の「右脳が独創的で、芸術的」というイメージとは逆の現象ということになります。

 これは特殊な例ですが、絵を描くことについては右脳が担当しているとか、右脳のほうが優れていると一概には言えないということでしょう。
 絵を描くという様な行為は、心理学のテストのように限定された行動ではなく、人間のいろいろな能力を使って実現する複雑な行為なので、単に右脳で担当するとかいうものではないのでしょう。
 人間の数百万年の歴史の中で、絵を描くというような行為はごく最近のもので、描画能力が右脳に限定される理由があるとも思えません。
 
 右脳に損傷を受けた場合は、全体的な輪郭の把握がおかしかったり、配置がおかしかったりするといいます。
 右脳のとらえかたは全体的で直観的、左脳のとらえかたは部分的で分析的だとされていますが、そのあと右脳が創造的で、左脳は現実的だから芸術などは右脳の分野だなどとと一般的には解釈されています。
 ところが新しいものに取り組む場合は、どんな動物でも先ずは類似の経験に当てはめてアナログ的に対応しようとするでしょう。
 新しい問題に取り組むときに先ず右脳がさきに働くそうですが、それは右脳は創造的というより経験的あるいは常識的だからです。
 
 新しいものに取り組むとき類似のパターンがあれば、自然にそれで対応しようとするでしょうし、そのほうが成功率も高く、素早く反応できます。
 まったく未経験のユニークな方法は右脳からは実際は生まれている例は少ないでしょう。
 左脳がもし分析的、論理的だとすれば、論理は経験を超えて暴走しますから、怪我の功名で独創的な方法の発見にたどり着く可能性があります。
 芸術の分野でも左脳が独創性に寄与することがあっても不思議はないのです。

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左脳のほうがユニークな絵

2006-11-18 22:16:11 | 脳の議論

 絵は右脳で描けといわれても、実際にはどうしたらよいか分からないものです。
 絵を描いているとき「イマ自分は左脳を使っている」とか「右脳が働いている」などということは自覚できるわけではありません。
 実際右脳を主として使って描いた絵はどんなものかを知るには、左脳が働かない人の絵を見て見れば見当がつきます。
 図はAが見本で、Bは左脳に損傷のある人の描いた典型として挙げられる例です。
 左脳が働かないので右脳を使って描いているのですが、全体的な輪郭はとらえられているとはいえ、細部が欠けているので、模写としては不十分なものです。
 
 逆に右脳を損傷している人が描いた例というのがCです。
 これは細部がある程度詳しく描かれていますが、全体的な形がおかしくなっています。
 部分の配置がでたらめになっているところがあるのと、細部が描かれているといっても抜け落ちているところがあります。
 特定の部分が無視され、描かれている部分は位置や方向が変更されていたりしているのですが、そのためダイナミックな感じが出ています。
 右脳で描いたほうは輪郭が全体をとらえているといっても、そこには力動感はなく無個性です。

 普通に見れば、左右どちらか一方の脳が損傷を受けていれば、いずれにせよ不完全な模写しかできないということに過ぎないのですが、そのことは脳に異常のない人は両方の脳を使って絵を描いているということを意味しています。
 左脳は言語や理屈を担当して、感性は右脳が得意とする分野だと思われて、絵を描いたりするときは左脳は邪魔だなどと言われたりするのですが、この絵で見る限りではそうとばかりはいえないようです。
 左脳が働かないで、右脳で描いたBのような絵は、全体的な輪郭をとらえているので、常識的ではありますが面白みはありません。
 その逆の右脳が働かないで、左脳で描いたCのような絵のほうがじょうしきからはずれてしまい、かえってユニークで面白みがあったりするのですから皮肉なものです。


 

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