Aはロシアの心理学者ルリヤが行った旧ソ連の文盲の人の三段論法のテストの例です。
この問いに対し
被験者「わからない」
実験者「考えて見てください」
被験者「私はカシュガルにしかいたことがないのでそれ以上のことは分からない」
実験者「私がお話したことからそこに綿が育つことになるのでしょうか」
被験者「もし土地がよければそこに綿が育つ。じめじめした悪い土地なら育たない。カシュガルのここみたいなところなら育つね。そこの土地がぼろぼろして軟らかくてももちろん育つ
実験者「私の言葉からどういうことがでてきますか」
被験者「われわれか異教徒のカシュガル人は無知な民族だ。われわれはそこに言ったこともないし、そこが暑いか寒いかも知らない。」
というような問答で、論理学的には正解の「イギリスでは綿は育たない」というふうには村人たちは考えないのです。
鈴木宏「類似と思考」では、論理学的にはカシュガル人の答えは間違っているとしても、事実問題としては「わからない」というのが正しいとしています。
イギリスといっても植民地もあるし、綿もいろいろあるから厳密に言えばわからないというのが正しいとも言えるわけです。
論理学は与えられた前提以外を考えてはならないという世界で、日常の経験的世界の考え方とは違います。
この場合の「イギリス」とか「綿花」というのはなんでもよくて、代わりに「ジョージア」と「abc]であっても論理的な答えは同じです。
人間が現実に即して考える場合は、そのような単なる理屈ではなく、実際にはどうなのかと考えるのでわからなかれば「分からない」とするのが正解だというのです。
カシュガル人の答えは理屈に走らないで、経験常識から来る総合的判断で、右脳中心の考え方といえます。
そうするとやはり左脳中心の理屈にだけの考え方より、右脳の考え方のほうが優れているのだなという印象を持つかもしれません。
ところで、質問がAのような形でなくBのような形だったらどうでしょう。
カシュガル人はやはり「わからない」と答えるでしょうが、それは正しくてもただそれだけのことです。
サハラで綿を育てようと考えて実行するかどうかということになれば、サハラで綿は育つと確信した人が成功するでしょう。
理屈で考えて確信するほうが、経験がないので分からないとするより実行に踏み切ることが出来るからです。
コロンブスのように西に向かってもインドにたどり着くと、理屈で考えて実行することで新しい発見につながることもあります。
左脳は理屈に走るので非現実的になるというようなことが言われていますが、非現実的なことを考えることが出来るから創造的になるということもあるのです。
学校教育を受けていない人は、相手の言った前提を受け入れた上で推論するという考え方に慣れていなくて会話が噛み合わないのでしょう。それは決して抽象的思考力が低いことを意味しない。
少なくとも2006年からから鈴木さんが主張されていることなんですね。