60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

音読みの種類

2008-08-31 00:12:41 | 文字を読む

 漢字は字の構成を見れば知らない字を見ても、読み方が類推できるので分りやすいというふうに言われることがあります。
 たとえば「豆」は「豆腐」「納豆」のように「トウ」と読むということを知れば、「頭部」はトウブ、「登記」はトウキと読むことができます。
 さらに「逗留」「天然痘」「橘橙」など少し難しい字でもトウリュウ、テンネントウ、キツトウというふうに読むことができます。
 ところが「豆」はトとつまって読む場合もあり、「登山」はふつうトザンと読みます。
トウザンと読んでもよいのですが、普通はトザンと読んでいます。
 しかし「登頂」「登坂」「登攀」「登城」などになるとトウチョウ、トウハン、トウジョウと読みむ人もいれば、トチョウ、トハン、トジョウと読む人もいます。
 既に読み方が固まっている人は良いのですが、はじめてこれらの単語を見た人は読み方に戸惑うでしょう。
 また「豆」は「伊豆」のようにズという読み方もあって、「頭蓋骨」はトウガイコツとも読みますが、ズガイコツのほうが一般的です。
 全部トウと読んでも間違いではないのですが、慣用が優先し、地名に使われた場合は「伊豆」「小豆島」をイトウ、ショウトウトウとすれば間違いです、

 読み方が一通りでないという例は、他にもたくさんあります。
 図にある「尺」「訳」「駅」「沢」「釈」はふつうシャク、ヤク、エキ、タク、シャクというふうにいくとおりもの読み方になっています。
 訳、駅、沢、釈は旧字体では譯、驛、澤、釋で旁を尺にしているのは略字ですが、尺を共通音符にして略字を作っているのですが読み方は違っています。
 「立」にはリツとリュウの二通りの読み方があり、粒はリュウ、拉の場合はラツでまだよいのですが、泣はキュウでリュウと離れていますし、位はイで似ている部分がありません。
 じつは「位」会意文字で音を表わす部分がなく、旁の部分の「立」は音を表わしてはいないということですが、字を見ただけではそんなことは分りません。
 「勺」は約はヤク、酌、杓はシャク、的ハテキ、釣はチョウです。
 最も変化の多いのは各がカク、落がラク、客、略、路、額はキャク、リャク、ロ、ガクです赤ら、かなり読み方の種類が多くなっています。
 適当は普通テキトウと読みますが、字典を見ると本来の読みはセキトウで、滴、敵、摘はテキですが、嫡はチャク、謫はタクと読むのが普通です。
 
 このように音を表わす部分が同じなのに読み方が違うというのは、もともと違う発音なのに近い発音なので同じ音符にしてしまったのか、あるいはほぼ同じ発音であったものが発音がだんだん離れてしまったのか分りません。
 かんじは文字が即単語なので、単語の意味や発音が変化すれば、文字の形と発音や元の意味からのズレが激しくなってきます。
 漢字の形や意味、発音が整然とした形で結びついていると考えたいところなのですが、実際は言葉というものが変化するためにかなりくずれています。
 原理主義的に覚えようとするとかえって混乱する場合もあるので、基本的には個別に覚えてその後つながりを知るというのが自然です。
 たいていの人は知識が増えれば自然にパターンを見つけようとするので、過度にパターンを一般化しないように注意することが必要のように思われます。
 


字面を見て分る漢字の長所と短所

2008-08-28 23:17:16 | 言葉と文字

 子犬や子馬を「仔犬」「仔馬」と書くことがありますが、犬や馬なのになぜ人偏をつけた「仔」の字を使うのか気にかけていないようです。
 本来「仔」は人間の子供の意味だったはずですが、小さいとか細かいという意味にも使われ、仔細というような熟語も出来ています。
 「仔細」というような言葉になれば、「子供」という意味は消えていて、単に小さいという意味になっています。
 「仔犬」や「仔馬」の場合は、「小さい」という意味と「子供」という意味が残っていますが、「人間」の意味は残っていませんから、文字のなかの「ニンベン」という要素は無視されています。

 漢字は字面を見れば偏などによって何にかかわる言葉なのか見当がついて、意味が類推しやすいということになっていますが、そうとばかりはいえません。
 よく使われる漢字でも意味が分かっていても、あらためて文字の構成要素を見ると、かえってわけが分らなくなるものもあります。
 たとえば「黙る」という字でも、黒い犬とどういう関係があるのか辞書には説明があっても、納得のいく説明ではありません。
 「突」は新字体では穴に大ですが、旧字体では穴に犬で、穴から犬が跳びだしてくるという意味だなどと説明されていて、面白くはあってもご無理筋の感じです。
 たいていの人は黒犬とか穴から犬などと思わずに、単純に漢字を覚えていて読み書きしているはずです。
 
 図は人偏を使った漢字の例で、どれもよく目にするものですが、なぜニンベンかと、あらためて考えるとハテナということになり、合理的な結びつきが思い浮かびません。
 ニンベンは人の意味ですが、これが「変化」「化学」の「化」とどう結びつくのか、直感的には分りません。
 漢和辞典では、「物の代表としての牛と、牛を引く人からなる」というような説明ですが、意味不明で「件」の意味を知らなければ、字の説明を見ても意味が分かりません。
 「什」のように「ムカシの軍隊の十人一組の単位」ということから派生して「数多い物品」という意味だというのは一応納得できますが、現代では「什器」という場合の使われ方が主で「日常の器具、道具」の意味ですから、ニンベンとは結びついていません。
 
 「低」は背の低い人を示す文字ということになっていますが、現代では「低」だけで背の低い人を表わす用法はなく、ただ「ひくい」という意味ですから、ニンベンが付いていても「人」の意味が意識されることはありません。
 ニンベンに注意すればかえって戸惑うだけです。
 「併」は「并」が合わせるという意味で、これにわざわざニンベンがついているのですが、偏がついていることで意味が変るわけではありません。
 したがってニンベンが付いているからということで、「人」の意味が意識されるわけではないのです。
 
 漢字は一字で一単語となっていて、意味を持っているのですが、言葉の意味というものは別の意味に変化したり、拡大あるいは縮小したりします。
 意味が変化したり拡大あるいは縮小したからといって、それに応じて漢字の形が変化するわけにはいきません。
 漢字が意味を表わすような形で作られていれば、意味が変化したとき漢字の意味と形は
ズレを生じてくることになります。
 あまり使われない漢字であれば意味の変化も少ないので、形と意味のズレは少ないかもしれませんが、よく使われる漢字は多義的になったり、意味が広がったりするのです。
 「漢字は字面を見れば分る」というのは長所をいっているようですが、矛盾を含んでいることを表明しても入るのです。
 


視野と注意の集中

2008-08-26 23:29:50 | 視角と判断

 上の図では内側の四辺形の色は同じ濃さの灰色ですが、背景の色の濃さが違うため右に行くほど色が薄く見えます。
 背景の色との違いが際立つように見えるため、背景が明るい色であれば実際より濃く見え、背景が暗ければ実際より薄く見えるのです。
 ところで下の図は上の図と同じなのですが、横に棒が渡され四つの四辺形がつながって見えます。
 こうした状態で一番目の四辺形と二番目の四辺形を見比べるとほとんど同じ濃さの色に見えます。
 同様に二番目の四辺形と三番目の四辺形を見比べると同じ濃さに見え、三番目の四辺形と四番目の四辺形も同じ濃さに見えます。
 その結果いちばん左の四辺形といちばん右の四辺形は同じ濃さの色のように見えます。
 もともと同じ濃さの色なので同じ濃さに見えて当然なのですが、上の図ではかなり濃さが違って見えたのですから、見え方が違っているのです。

 下の図では横棒で四つの四辺形がつながっているので、全体が一つの図形に見えます。
 そのため図形を見るとき四つの四辺形をつなげた全体に注意が向かうので色の濃さも同じように見えるのです。
 上の図の場合は一つ一つの四辺形が離れているので、一つ一つを別に見るように注意が向かうので、それぞれの背景との比較で色が濃く見えたり、薄く見えたりするのです。

 ここで上の図のいちばん左の四辺形の内側にある小さな正方形に注意を向けてジッと見つめて見ましょう。
 そうするとこの正方形の色が薄くなり、正方形の外側の四辺形も色が薄くなって見えます。
 つぎにいちばん右の四辺形の中の正方形部分に、同じように注意を向けてジッと見続けると、こちらのほうはだんだん色が濃く見えるようになります。
 つまり狭い範囲に注意を向けて集中視すると、背景の影響が少なくなるので、実際の色に近づいて見えるようになるのです。
 
 上の図ではいちばん左の四辺形といちばん右の四辺形とを同時に注意を向けて見るのが難しいのですが、下の図はつながって一つの図形に見えるために、両端の四辺形を同時に注視することができます。
 そのため両端の四辺形が同じ濃さの色に見えるのですが、視野が狭いとどうしても両端の四辺形を同時に注視することが出来ません。
 注視というと、どうしても一点に注意を向けて見ようとしてしまうのですが、つながった四つの四辺形全体を眺めるようにして、注意だけを両端に向ければ両端の四辺形の色が同じように見えるようになります。
 狭い範囲を集中視するのと、視野を広げて見るのとでは、一点集中のほうがやりやすいのですが、目は速く疲れます。
 視野を広げてみるほうは慣れないとやりにくいかもしれませんが、眼は疲れにくいので、文字を読むときも視野を広げる見方が出来ることが必要です。


集中視と錯視図形

2008-08-22 23:20:27 | 視角と判断

 図はE.H.エーデルソンが考案した図形で、矢印で示されている二つの平行四辺形は同じ濃さの灰色なのですが、上と下ではかなり濃さが違って見えます。
 二つの平行四辺形の間の正方形と隣接する上下左右の四辺形を同時にコピーしたものが真ん中下の図形ですが、こうして見ると確かに上としたの四辺形は同じ濃さであることが分ります。
 この図形が左の図の中にはめ込まれると、下の平行四辺形が他の三つの四辺形より明るく見えるのはなぜかという問題です。

 まず左の図を見ると紙が折られて真ん中の部分がせり上がっているように見えます。
 そこで心理学では、この折られた紙に上から光が当たっていると、脳が判断するからだという説明をします。
 上から光があたっているので矢印で示された下の部分は陰になっていると判断するというわけです。
 同じ濃さなら陰になっている部分はもっと濃く見えるはずなので、下の四辺形は色が明るいと推定されるというのです。
 つまり視覚的には同じ濃さだけれども、陰になっていると判断するため、陰によって濃くなる分を差し引いて判断する結果、明るい色だと意識してしまうというのです。
 目は同じ濃さだと見ているのに脳は違う濃さだと判断しているということになります。

 真ん中下の図のように平面的に表示されれば同じ濃さに見えるものが、左の図のように立体的に見える環境にはめ込まれると、見え方が変るというわけですが、このように説明されると思わずそういうものかと思ってしまいます。
 ところが同じように紙を折った形で立体的に見える右の図の場合を見るとどうでしょうか。
 この場合は上から光が当たるとすれば矢印で示される二つの平行四辺形は、いずれも光が当たる面で陰になる面ではありません。
 従って先の説明で行けば同じ濃さの色なら同じ濃さに見えるはずです。
 ところが上と下の平行四辺形は同じ濃さなのに、やはり下のほうが明るく見えます。
 
 そうすると、光が当たって陰に見える部分だから、陰による濃さを割り引いた明るさを脳が感じるのだ、という説明は成り立たないことが分ります。
 真ん中下の図と上の左右の図と違う条件というのは、平面的に見えるか立体的に見えるかということではなく隣接する部分の色の違いだということになります。
 矢印の指し示す二つの平行四辺形の隣接する左右の四辺形の色の濃さを見ると、上の四辺形の左右は明るく、下の四辺形の左右は濃くなっています。
 そのため上の四辺形は濃く見え、下の四辺形は明るく見えるのです。

 ここで四つの四辺形の中央の正方形に注意を向けてジッと見ていると、隣接する上下左右の四辺形は同じ濃さに見えるようになります。
 真ん中の正方形に注意を集中すれば、真ん中の正方形との比較だけが目に入りますから同じ濃さだと感じるようになるのです。
 なにげなく見たときは他の部分との比較が目に入りますが、意識を集中できれば実態が見えてくるのです。
 


視覚の集中力

2008-08-20 22:49:05 | 視角能力

 A図で4本の横線はすべて水平線なのですが傾いて見えます。
 斜めの線が交差しているためですが、これも水平線に意識を集中して見ると平行に見えるようになります。
 横線に意識を集中して、斜めの線からの影響を取り除いて見ることができ
れば、本来の水平線に見えるのです。
 水平線に意識を集中して見る方法は、水平線の左右両端に同時に注意を向けてみることです。
 たとえば真ん中の二本の横線の左右両端に注意を向けて見ると、二本の横線は水平に見えるようになります。

 慣れないとどうしても斜めの線が意識の中に入り込んで、横線に意識が集中しにくいかもしれません。
 そこでB図のように横線を太くしてみます。
 B図でも普通に見ると横線は少し傾いて見えますが、横線に注視を集中して見るのはA図の場合より楽です。
 A図のときと同じように真ん中の二本の横線の両端を同時に見るようにすると、二本の横線は水平に見え、その他の二本の横線も水平に見えます。
 B図のほうが楽に横線に注意を集中して見ることが出来るのは、線が太くなっているためで、簡単な理由です。
 
 横線に意識を集中できれば、錯視がなくなり水平に見えるとするならば、横線を太くしなくても、色を変えてみるという考えも出てきます。
 C図は横線の色を赤く変えてみたものです。
 この場合も普通に見れば横線は傾いて見えますが、赤線に意識を集中して見れば横線は水平に見えるようになります。
 色が変っているため横線に意識を集中しやすいので、A図の場合より楽に横線が水平に見えるようになっています。
 こうしてやや楽な条件で横線に意識を集中して見る訓練をしたあと、A図に戻って横線に意識を集中して見ると、最初のときより横線が楽に水平に見えるようになります。
 横線に知識を集中する能力が一時的に高まったのです。

 横線に注意を集中しやすければ、横線が水平に見やすくなるということであれば、逆に横線に意識を集中しにくくすれば、横延はどうしても傾いて見えてしまうということになります。
 D図は斜めの線のほうを太くしているのですが、水平線のほうに意識を集中しようとしても、斜めの線が太く強いため非常に困難です。
 それだけでなく、横線に注意を向けて見ると横線は動いて見えるでしょう。
 横線に注意を向けて見ると水平に見えるようになりかかるのですが、斜めの線の干渉が強く傾いて見えるようになるため、ゆれて見えるようになるのです。
 この場合さらに意識を横線に集中して見続ければ、線のゆれが消え横線が水平に見えるようになります。

 水平な横線が傾いて見えるのは、斜めの線が妨害刺激となっているためですが、年をとってくると妨害刺激に弱くなるため、意識を集中して水平に見ることが難しくなってきます。
 D図の場合はかなり難しいですが、B、Cを経てA図で横線が水平に見えるくらいの視覚の集中力は欲しいものです。
 


視覚能力と錯視

2008-08-18 22:12:11 | 視角能力

 図Aでは上の図の軸線のほうが下の図の軸線より短く見えますが、実際は二つの横線は同じ長さです。
 よく知られているミュラー.リヤーの錯視図というものですが、これは誰でも同じように長さの差を感じるかというとそうではありません。
 子供や老齢者は成人に比べると長さの差を大きく感じるそうですし、同じ人でも見ているうちに差を少なく感じるようになるといいます。
 つまり経験とか視覚能力が関係してくるようなのです。
 
 ところでA図のそれぞれの矢羽の部分を半分切り取って、B図のような形にすると、やはりA図のときと同じように上の図の軸線のほうが短く見えるかというとそうではありません。
 この場合は上の軸線のほうが短く見えないというどころか、なんと上の線のほうがむしろ長く見えます。
 A図では軸線の先端が矢羽と接しているために、軸線の長さを比べようとしても線端があいまいになっています。
 A図では上の軸線の線端は実際よりも内側にあるように見え、下の図の軸線は実際よりも外側にあるように見えます。
 つまり軸線を矢羽から切り離して見ることが出来ないので、上の図の軸線のほうが下の図の軸線より短く見えるのです。
 そこでB図のように矢羽根の半分を取り去ってみると、軸線の線端がはっきり見えるので、上の軸線のほうが短く見えるという錯視効果は消滅するのです。

 したがってもしA図を見るときも、B図のイメージで見れば軸線を矢羽から切り離した見かたが出来ますから錯視効果はなくなります。
 そうはいってもA図を見るときは矢羽根が見えているので、B図のように半分を切り離したイメージを見るということは難しいものです。
 このように図のなかから特定の部分を抜き出したイメージを作り上げるのは、こどもは視覚能力が未発達なので難しく、高齢者は視覚能力が衰えた結果不得意になっています。
 その結果、子供や高齢者は成人に比べこの錯視の度合いが大きいという傾向が見られるのです。

 B図は矢羽根の半分を取っているので、なにかごまかされたような感じがするかもしれませんが、C図のように矢羽根の一部をとっても、同じような結果が得られます。
 C図では矢羽根の部分は残っていますが、片側が短くなっているために軸線の先端を見極めやすくなっています。
 このため上の軸線と下の軸線とが同じ長さであるというふうに見えやすくなっています。
 B→C→Aというふうに順番に目を馴らしていけば、A図のなかにB図のイメージを見ることが出来、錯視効果をなくすことが出来ます。
 つまり、A図を見て上の軸線と下の軸線の長さが同じように見えてくれば、図形を妨害要素から切り離して見る能力が増したということになるのです。
 


簡体字の例

2008-08-12 23:23:41 | 言葉と文字

 図は中国の簡体字の例です。
 「態」という字は「能」という部分が音を現し、「心」が意味の分類を表わしていて、「心構えとか、すがたの様子」という意味の漢字です。
 この字の音読みは「タイ」ですが、音を表わす部分が「能」ということは、「能」は「タイ」と読めるということです。
 そこで漢和辞典を引いてみると、小さな漢字辞典では「ノウ」という読みしかのっていませんが、ある程度詳しい辞典には確かに「タイ」という読み方も載っています。
 発音の違う言葉が同じ文字に同居しているのですが、「タイ」という読みで「能」という字が使われる熟語というのは見かけません。
 したがって「能」が「タイ」と読むなどということは、よほどの学者でないと知りません。
 しかし「態度」という熟語を見て「ノウド」と読む人はまずいないでしょうから、普通の人は理屈ぬきに「態」は「タイ」と読むと覚えこんでいて、「能」が「タイ」とも読むと思っているわけではないのです。
 おそらく中国でも「能」という字を見て「タイ」と読める人は少なくなっていて、「太」という字をあてがったほうが分りやすいので造字したのでしょう。

 「願」は音を表わす部分が「原」、意味を表わす部分が「頁」ですが。、「願」と「原」は日本語では「ガン」と「ゲン」でちがうので分りにくいのですが、中国語では両方とも「ユアン」で同じですから、音を表わす部分が「原」だと分ります。
 意味を表わす部分の「頁」は「あたま、くび」の意味なので、それよりも「心」を使ったほうが「願う」という意味にふさわしいと考えたのでしょう。
 (日本人の場合は「願」を「ガン」と読んでいて「原」と読みが同じだとは思わないまま「願はガンと音読みして願うという意味だ」と理屈ぬきに覚えているのです。)
 ところが「愿」という字はべつにあるので、同じ時に別の意味が同居してしまうことになるのですが、もとの「愿」の字はあまり使われることがないのか、「願う」という意味に母屋を取られた感じです。

 「驚」の場合は音符が「敬」で意味を表わす部分が「馬」ということですが、そういわれても、どうしてここで馬が出てくるのか驚いてしまうのではないでしょうか。
 字典では「敏感な馬がハッと緊張することを表わす」などと説明していますが、何となく腑に落ちません。
 「驚く」のは心の問題だから意味を表わすリッシンベンに、音を表わす部分は同音でもっと簡単な「京」にしたほうが分りやすいということで造字したものと思われます。

 「護」の場合は右側が音符なのでこれを同音で簡単な「戸」に変え、意味の部分は「言」では分りにくいので手偏にして動作を示すようにしたものです。
 これらの文字はよく使われる文字なのに、どうしてこのように書くのかと改めて考えると分らなくなってしまう文字です。
 もう既に覚えてしまっている人にはどうということはないのですが、初めて漢字を覚えようとする人には理屈ぬきで覚えなければならないので、記憶の負担が大きいのではないかと考えられます。
 中国では文盲率が高かったので、ともかく覚えやすく書きやすく合理的な文字に変えようとしたのでしょう。
 簡体字のなかにはやりすぎで、おかしなものもあるようですが、日本で導入してもよいものもあると思います。


漢字の意味の違い

2008-08-11 23:34:21 | 言葉と文字

 「一番」という単語は「いちばん」とも「ひとつがい」とも読めます。
 「いちばん」と音読みするときの番は順番のことですが、「つがい」と訓読みするときは「ペア」の意味です。
 訓読みのほうはもともとの漢字の意味ではなく、日本で与えた意味です。
 もしもともと「番」に「つがい」という意味があれば「いちばん」と読んで「ひとつがい」という意味となるはずです。
 漢字は文字自体が意味を持つというふうにいわれても、日本人が漢字を使う場合は、独自に意味づけをしているのですから、日本風の意味づけをしているのです。
 音読みと訓読みでは「足跡」のように音読みでも訓読みでも同じ意味を表わす場合もありますが、意味が違う場合は訓読みのほうの意味は古代の中国人には理解できなかったでしょう。

 中国語入門書では、中国語と日本語で文字が同じでも意味が違う単語の例が紹介されています。
 「答応」は日本語では「応答」ですが、中国語では「応答」という意味のほかに「承知する」という意味で使われるそうです。
 「大意」というのは中国語では不注意とか油断という意味で、油断は油が切れるという意味だということです。
 これは「大」が「おおざっぱ」という意味だとすれば「不注意」という意味になるのも頷けることで、油断も中国式の解釈が読んで字の如しで、日本風の意味づけのほうが理解しにくいことに気がつきます。
 「到底」というの単語は現代の日本では「到底不可能だ」というように「どうしても~だ」というふうに使われますが、明治時代には「結局」という意味で使われたそうですから、明治期までは中国式の使われ方をしていたのです。

 「合同」は日本では数学用語以外では「ひとつにする、いっしょにする」という意味ですが中国では「契約」という意味になっています。
 お互い意の意見を一致させるということかもしれませんが、日本人の感覚とはかなり違います。
 「東西」は日本語ではどうしても「東と西」ですが、現代中国語では「もの」という意味だといいます。

 漢字はもとは中国のもので、日本人にとっては外国語だったわけですから、読み方にしろ、意味の解釈にしろ間違ったり、くずれたりしているという考え方があります。
 ちょうど英語の単語が日本に入ってきて、発音が日本式で間違っているとか、意味を日本式に誤解しているとか、英語の専門家から指摘されるような現象が、漢字についてもあるわけです。
 漢字の読み方などは「呉音」「漢音」「唐音」など時代の違う発音を模写したものが共存するという珍現象が起きています。
 漢字を音読みするとき中国人ならだいたい一通りの読み方なのに、日本では化石化した読み方が残ったので、いく通りかの読み方があるのです。
 漢字本来の読み方といっても何を基準にしてよいか分りませんし、そうかといって現代中国式の読み方もできません。
 「正しい読み方」とは、日本に定着して通用している日本式の読み方とするしかないのです。
 日本に入り込んだ漢字は日本語の一部になってしまっていて、中国語とは別物になっているので、漢字そのものを追求しても実用とはかけ離れてしまうのです。


文字の瞬間記憶

2008-08-10 23:38:50 | 言葉と文字

 図の①を1~2秒見たあと、いくつの文字を思い出せるかという問題ですが、思い出せる数の平均は4~5文字程度だそうです。
 たいていの人は文字をすべてはっきり見ているはずですから、4,5個しか思い出せないというのは、答えを思い出そうとしている間に忘れてしまったのか、それとも見たけれどもアタマに入らなかったのか分りません。
 12個の文字をいっぺんに表示するのでなく、一つ一つを表示しては消していった場合も、文字ははっきり見えますがすべてを思い出せるわけではありません。
 したがって視覚的に見たからといって、すべてを思い出せるわけではないのです。

 ところで同じ12個の文字ですが、②のほうを見た場合はどうでしょうか。
 たいていの人は②のほうが思い出せる文字の数が多いと思います。
 これは日本人の場合、アルファベットの大文字に比べると、ヒラガナのほうがはるかに馴染んでいるためにアタマに入りやすく記憶しやすいということがまず原因として考えられます。
 これがカタカナであれば文字の形はヒラガナより単純ですが馴染みが薄いので覚えにくく、漢字であれば形が複雑になるうえに、目にする頻度が低くなりますから、やはり覚えにくくなります。
 アラビヤ語の文字とかビルマ語の文字とか、ほとんど馴染みのない文字であれば2,3個でも思い出せないかもしれません。
 脳に対応するイメージが記憶されているほうが、すばやくアタマに入って記憶できるからです。

、もうひとつの原因は、ヒラガナの場合は1音節だということで、いくつかの文字をまとめて、すばやく音に変えられるためです。
 たとえば①の一番上の行は「エフケイブイエイチ」ですが②のほうは「ねへそき」と半分以下になりますから、4文字程度でもひとまとまりの音に変えやすいので記憶しやすいのです。
 「ねへそき」とか「かえぽす」とか「のろにも」などというのは無意味な単語ですがとりあえず記憶することができ、二つ覚えれば8個となり、アルファベットを覚えるより大幅に成績が上がります。
 日本語の音は種類が少なく単純なため、同音異義語が多いといわれていますが、そのためかどうか、新しい言葉を受け入れやすく、その結果非単語とか無意味語に対する抵抗があまりありません。
 そのため多少ムリな語呂合わせなども受け入れることが出来るので、2の平方根を「ひとよひとよにひとみごろ」と意味不明の語呂で覚えることが出来たりします。
 数字を語呂で覚えるという方法は日本人の得意とするものなのです。

 


犬の漢字の意味

2008-08-09 22:29:54 | 言葉と文字

 図は犬に関係する漢字を集めたものです。
 狆とか狗、狛は犬の種類ですが、他の字は犬からヒントを得た意味を持つ漢字です。
 たとえば臭は自の下に犬と書いた字で、自は鼻の象形文字だそうで、犬が鼻で臭いをかぐ様子から作られた字だという事です。
 吠は口に犬で「ほえる」ということですが、哭は口が二つに犬で、「大声で泣く」という意味ですから犬はやかましく「ナク」と考えられていたのでしょう。
 ここまではよいのですが、然、献、厭という字になると「然」は燃やすという意味で「犬の脂肪を燃やす」、「献」は「犬の肉を食器に盛ってさし上げる」、「厭」は「犬のしつこい肉が口の中に一杯であきる」というように、犬は食用としてとらえられています。

 食用であれば、犬は人間にとってマイナスイメージではないと普通なら思いますが、他の字を見るとそうではありません。
 漢和辞典でけもの偏の部分が犬を表わしているものを拾い出してみると、古代の中国人は犬に対してよいイメージを持っていなかったようです。
 たとえば「狂」という字は「大げさにむやみに走り回る犬」という意味で作られた字だそうです。
 「狡」は「ずるい犬」で「猾」は「すばしこくて捕まえにくい犬」で「狡猾」という熟語は犬のイメージから作られています。
 「獪」も「ずるい」で「狡猾」というといかにも「わるがしこい」というイメージです。
 「犯」は「枠を超えて飛び出す犬」で従順でないイメージで、「猜疑心」の「猜」は「青黒い犬でなつかない、疑い深い犬」だそうです。
 「獰猛」の「獰」は「意地の悪い犬」「猛」は「抑えが利かずいきり立っている犬」ということで、犬は扱いにくく厄介な動物で手なづけると「なれなれしく」(狎、狃)なってしまうと考えられていたようです。

 このような文字のあり方は、ペットとして犬を飼っている現代の日本人からすれば馴染みにくいのではないでしょうか。
 嫌われ軽蔑された上に食べられてしまうのですから、犬にとって古代中国は受難の地であったわけです。
 漢字を覚えるときその字の成り立ちから覚えるべきだといわれても、こうした例を見ればわざわざ覚える価値があるかどうか疑わしくなります。
 日本人が古代の中国人のものの見方に合わせる必要はないだけでなく、こどもが「犬とはこういうものだ」と文字の知識から思い込んでしまったりすれば有害でもあります。
 
 そのほか「突」という字は「穴から犬が急に飛び出してくる様子」というような説明がありますが、なぜ犬が穴から飛び出すのかさっぱり分りません。
 「穴から急に飛び出す」のがネズミやウサギなら分りますが、犬が穴から飛び出すのは変です。
 「黙」も黒いい犬で、犬が吠えずに黙るという意味だといわれても、なぜ急に犬を持ち出すのか理にかなっていないので分りません。
 こうしたわけの分らぬ字源解釈はことば遊びとして面白がるなら良いのですが、まじめな顔をして子供に教えたりするのは感心しません。