60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

旧漢字と視覚能力

2008-12-09 22:54:52 | 文字を読む

 真ん中の丸印に目を向け、両側の文字を読み取ろうとすると、上の場合は左側の二文字か三文字程度しか読み取れないのではないでしょうか。
 右側の文字ならばひとつも読み取れないかもしれません。
 上の場合は左側が新字体、右側が旧字体ですが、旧字体のほうは字形が複雑なため周辺視野では読み取りにくいためです。
 読み取りにくいのは字体のせいではなく、左のほうが読み取りやすいのだという可能性も考えられます。
 そこで、こんどは下の丸印に目を向けて見ると、今度は左側のほうが読み取りにくくなっています。
 下のブロックでは左側が旧字体になっているので、やはり旧字体のほうがずっと読み取りにくいことがわかります。
 
 つぎに左上の新字体のブロックの真ん中に視線を向けた状態で、このブロックの文字を読み取ろうとすると、内側の10文字ぐらいは読み取れ、人によっては、ほとんどの文字を読み取ることができるかもしれません。
 これに対し右上の旧字体のブロックを同じ要領で見た場合、読み取れる文字数は半減します。
 これは一つ一つの文字が読み取りにくいだけでなく、複雑な文字が密集するとよけいに読み取りにくくなるためです。
 旧字体の文字を読むときは、ある程度字が大きくないと文字の読み取りに集中力が必要となるので、どうしても早く目が疲れます。
 だいたい、老眼になると視力が衰えているだけでなく、文字が小さく見えるので旧字体で漢字が多い文章は読むのに苦労をします。
 
 子供は複雑な字体でも、苦にせずに文字を覚えるというようなことを主張する人もいますが、旧字体のほうが新字体よりも覚えやすいというわけではありません。
 旧字体で漢字を覚えたとしても、文字を読んだり書いたりするときは、より集中力を必要とし、活字でも字が小さければ、より目を酷使することになるので不利です。
 若いときは目を酷使しても耐えられるかもしれませんが、年をとってくれば視力が衰えて、字がぼやけて見えるようになり、複雑な字は読み取りにくいので目を凝らしてしまい、目が疲れてしまいます。
 文字の読み取りに注意とエネルギーを奪われてしまうと、文章の意味が理解しにくくなり、さらに疲れて文字も読み取りにくくなるという悪循環に陥ります。
 審美的には旧字体のほうが好ましいという人もいますが、意味を伝える手段としては負担と犠牲が多いので厄介なものです。

 漢字を瞬間的に表示して読み取らせるという実験で、百分の一秒以下、千分の一秒でも読み取れるという結果が得られたそうですが、どんな漢字を誰に読ませたのかがハッキリしないまま、千分の一秒でも読み取れるというハナシだけが伝えられているようです。
 実際には複雑な字よりも簡単な字のほうが読み取りやすく、シッカリ覚えてなじんでいる漢字は、うろ覚えの漢字より読み取りやすいものです。
 これは簡単な実験で確かめられることで、千分の一秒で読み取れるというのは、その漢字が記憶にシッカリ定着していることと、表示される大きさが十分に大きくて判別しやすいことが必要です。
 漢字自体が神秘的な力を持っていて、カナやアルファベットより短い表示時間で読み取れるということではなく、漢字でもよく記憶されていれば瞬間的な表示でも読み取れるということなのです。
 
 


文字の大きさと視野

2008-12-06 22:58:15 | 文字を読む

 図の一番上の段の文字の大きさは、ワープロなどに標準的に使われる10.5ポイントで、その下の段は9ポイントです。
 一文字の大きさはわずかな違いなのですが、印象はかなり違いずいぶん小さくなっているような感じがします。
 戦前の本には10.5ポイントのものが多くあったようですが、現在では9ポイントのものが主流のようです。
 もしかすると戦前の本は、漢字が旧字体であることや、それに対応してルビ画振られていたためかもしれません。
 
 現在の新書本のようなものもほとんど9ポイントなのですが、この図で見れば実際の新書本の活字のほうが大きいのではないかと感じるでしょう。
 モニターに映った文字が小さく感じるのは、活字に比べれば大きさが同じでも解像度が低いためです。
 視力が落ちると目の解像度が落ち、文字が読み取りにくくなるのですが、同時に字が小さく見えるようになるのです。
 じっさい同じ大きさの印刷文字をモニターにくっつけてみると、字が同じ大きさなのに活字のほうが読みやすく大きく見えます。
 モニターに映る文字は、活字印刷に比べると解像度が低いので文字が大きくないと読みにくく、文字が大きければ中心視野で捉えられる文字数が少なくなるので、活字に比べると読みにくく、ストレスが多くかかります。

 3番目のブロックは8ポイントの大きさですが、こうなると文字が楽に読み取れないので、一つ一つの文字を見極めようとしてしまい、意味を読み取る前に文字の判別にエネルギーを奪われ、かなり読みにくい状態です。
 これはモニターに映った状態なので余計に読み取りにくいのですが、活字印刷の場合でも楽ではありません。
 健全な目を持つ成人が読むことができる活字の大きさの最小限は、8ポイントとされているようですが、戦後から30年ぐらいまでの文庫本などをあらためて見ると、こんなに小さな活字を読んでいたのかと思います。
 岩波文庫などで、字の多いものは一ページ19行、一行43文字というものがあり、文字がぎっしり詰め込まれた感じです。
 紙を節約するための一ページあたりの文字数を増やしたのでしょうが、これでは目が疲れてしまいますから、目を悪くする人が増えても不思議ではありません。

 現在では文庫本よりも少し大きい新書本でも、活字は9ポイント程度が普通で、行数も16行ぐらいで、比較的に文字の詰まった中公新書のようなものでも、16行×43文字で、688字ですから古い文庫本の文字量の多さがわかります。
 最近では一ページあたりの文字数を減らしたものが出てきて、10ポイントの活字で15行×40字というものもあります。
 文字数が少ないほうが読みやすいのですが、文字数が少ない分情報量が少ないように見られがちです。
 16行43字のものに比べれば、単純比較で87%ですから、目の負担を考えれば紙を余分に使ってもページあたり文字数が少ないほうがよいです。
 文字があまり大きいと、認識視野に入る文字数が減るのでかえって読みにくくなってしまうのですが、10ポイント程度までは、ページあたりの文字数が少ないほうが読みやすい感じです。
 文字が小さいと多くの文字が認識視野に入りますが、多すぎれば一度に処理ができないので、妨害刺激となってしまいかえって読みにくくなるのです。
 


字源解釈と記憶補助

2008-10-07 22:36:34 | 文字を読む

 「件」は音読みでは「ケン」、訓読みでは「くだん」ですが、文字の形が「人」と「牛」でできているので、なぜこのよう漢字が作られたか不思議に思われます。
 「件」という字は「ものや事柄をかぞえることば」で、訓読みの「くだん」は文書などでは「前述した事柄」の意味です。
 それではなぜ「人」と「牛」と書くのかというと、漢和辞典を引くと「物の代表としての牛と、牛を引く人」などとあってなんだか要領を得ません。
 そのせいかどうか、「くだん」は「顔が人間で体が牛の化け物で、人語を解し流行病や戦争など重要なことを予言し、いうことが常に当たっている」ので、「よって件の如し」という風に使われる。
 というような説が九州や中国地方で広まっていたそうです。
 
 「くだん」という言葉自体はこのような説が現れるより数百年前からありますから、この説は後から考えられたもので、漢字遊びの一種でしょう。
 「人」と「牛」から、人面獣身(人面牛身)と考えてしまうところがユニークな解釈で、普通なら顔が牛で体が人と考えそうなものです。
 顔が牛で体が人だと、地獄の獄卒で牛頭、馬頭というのが昔からあるため、それとは違うということで体が牛で、顔が人という怪物を考え付いたのかもしれません。
 この漢字そのものは中国で生まれたものですから、中国でそのような怪物が考えられていたかというとそういうことはありません。
 そのうえ「くだん」は訓読みですから、人面牛身というのは、日本で創作した落語的字源解釈のようですが、案外まじめに受け取る人もいるようですから面白いものです。

 人と動物を組み合わせた漢字というのは「件」だけではなく、漢和辞典で調べれば「伏、佯、偽、像、、他」などがあります。
 これらを「件」の「人面獣身」式で解釈すれば、「伏」の場合は体が犬で顔が人といくところですが、里美八犬伝の伏姫は犬の精を受けて八犬士を生むというので別として、「佯」は「いつわる」という名前の体が羊で、顔が人間のうそばかりいう怪物だということになります。
 「偽」は旧字体が「僞」で「爲」は鼻の長い「象」の象形文字だということですから、これも体が象で顔が人の、うそばかり言う怪物だということになります。
 ところが「人」と「象」でできた「像」はどうなるかというと、これは「姿かたち」とか「形が似ている」という意味です。
 「像人」といったからといって象のような人間という意味ではなく、「人に似ている」という意味です。
 「」は体が虎で顔が人ではなく、またタイガーマスクでもなく、「チ」と読むときはどういうわけか「車輪」の意味で、「コ」と読むときは「虎」の意味です。
 「他」は「也」が「蛇あるいはさそり」で「人」+「蛇」というかたちですが、これも蛇人間の意味ではなく「ほか」という意味です。

 ようするに「人」と「動物」を組み合わせた漢字で、人と動物を肉体的に合体させた意味を表そうという発想は中国漢字にはないようです。
 「くだん」のような字源解釈は事実ではないのですが、それではこのような解釈が絶対だめなのかというと、そうとばかりはいえません。
 このような説明であれば、荒唐無稽ではあっても印象には残りますから、「件」が「くだん」とも読み、人偏に牛と書くということは強く記憶されます。
 「羊と為(ぞう)は「うそつき」だと覚えるとすぐに覚えて忘れにくいでしょう。
 漢字の字源解釈というのは多分に思いつきのようなものが多く、場当たり的で一貫性がないのですが、記憶補助ぐらいに考えればよいのかもしれません。
 


単語の構成要素と意味

2008-10-04 22:53:52 | 文字を読む
 英語の話者の場合、会話ができるのにアルファベットが読めなくなる失読症という症状があります。
 日本人の場合も脳に損傷を受けた患者が、ひらがなやカタカナが読めなくなることがあるのですが、かなは読めないのに漢字は読める場合があるといいます。
 このことから、漢字がマジカルな力を持っていると思ったり、あるいは日本人の脳が特殊であるように感じるかもしれません。
 しかし、これは初期のころの脳科学者が、漢字が文字であると同時に、単語であり一文字で意味を持っているということを考慮しないで、カナやアルファベットの一文字と同列に考えて比較してしまった結果です。

 失語症が発見された初期には、アルファベットやカナなどの表音文字がわからなくなるという例が目立ったのですが、その後研究が広がるにつれ、英語でも単語なら読めたりする例も発見されています。
 また漢字の場合でも、漢字一文字は読めても熟語になると読めないという例(たとえば花が読めても花弁となると読めないなど)がでてきています。

 たとえば漢字の「花」は単語としての構成要素に分解すると草冠に「化」で、草冠が意味の範囲を示し、「化」が「カ」という音声を示しています。
 したがって、「花」という字が読めても、もしこれらの要素をひとつずつ順に示せば、意味がわからないという可能性が高いのです。
 カナやアルファベットは一文字単位では意味がなく、文字列となったとき単語の音声を表し、その音声が示す単語の意味をあらわすということになります。
 したがって文字を十分に読み慣れていれば、文字綴りの形が単語の意味と結び付けられ、綴りを見れば意味が思い浮かぶようにもなります。
 アメリカで速読術のようなものが最初に作られたのも、読みなれれば単語を音声に変換しなくても、見るだけで瞬間的に意味が思い浮かべられるからです。

 アルファベットは音声を表すためのものであるといっても、それは文字を覚え始めのときのことで、何度も文字を読んでいれば、いちいち音声に直さなくても意味がわかるようになります。 
 また単語によっては耳で覚えるよりも先に、活字などの形で目で先に覚えるものもあります。
 英語の場合は特にギリシャ語とかラテン語、フランス語などから借り入れた単語が多く、普通の人には読み方がわからないものもありますから、文字と意味が直接結びついてしまっている場合もあります。

 日本語の場合はカナのほかに漢字を使っていて、意味の部分は漢字で書かれる場合が多くなっています。
 ところが漢字は基本的には中国のもので、外国語ですから読み違いが多発しても当然で、意味は漠然とわかっても間違った読みをしている場合があります。
 意味がわかる場合でも、熟語の場合などは全体として意味がわかっていながら、ここの漢字の意味になるとわからないという場合もあります。
 「会議」なら「会して議する」というように直解できても「銀行」「会社」「遊説」など、個々の漢字の意味を理解しないまま熟語全体として意味を理解している場合がかなりあります。
 こうした例では、単語を覚えるときも構成要素に注意を向けるとかえって記憶の負担が増すので、単語全体の意味を覚えたほうが手っ取り早いのです。
 


読書スピードと目の疲れやすさ

2008-10-02 22:52:25 | 文字を読む

 日本語は縦書きと横書きが並存していますが、これは日本特有の現象のようです。
 もともと縦書きであった中国でも現在は横書きになっているのですから、漢字を使うと縦書きでなければならないということではありません。
  ビジネス文書は数字が多く使われるので、横書きが便利なため、ほとんど横書きですが一般の書籍や新聞雑誌は縦書きがまだ主流です。
 新聞などは横書きにしたら売れなくなるので、縦書きでなければならないという人もいますが、中国では新聞が横書きになっているのですから、本当は日本の新聞が横書きであっても差支えがないのかもしれません。
 
 日本語は縦書きのほうが読みやすいか、横書きのほうが読みやすいかという場合、読む速度を比べることで判定しようとするのが一般的です。
 これまでに行われた研究では、小学生から大学生までを対象として、縦書き文と横書き文を読ませ、その読書スピードを比べることでどちらが読みやすいのかを判定しようとしています。
 普通に考えれば、目が横に二つついているので視野は横に広く、また視線の移動も横のほうがスムーズなので、横書きのほうが早く読めるのではないかと予想されます。
 しかし実際に読書スピードをはかってみると、小学生は縦書きのほうが速く、年齢が高くなるにつれ差が縮まり、大学生になると、あまり差がないという結果でした。

 これは字を教える国語の教科書が縦書きのため、縦書きに先に慣れているためで、大学生になれば横書きにも慣れてきているので、差があまり見られなくなっているものと考えられています。
 少なくとも、横書きのほうが生理的に読みやすく、その結果速く読めるというようなことではなく、慣れの問題が大きな要因になっているということのようです。
 もし、縦書きも横書きも、慣れれば読むスピードが換わらないなら、すべて横書にしてしまったほうが能率的です。
 縦書きから教えられているのに、慣れてくれば横書きの読書スピードも縦書きとほぼ同じというなら、最初から横書のみにしていれば、横書の読書スピードのほうが上回る可能性もあります。

 しかし読みやすさというのは読書スピードだけで決まるものではありません。
 どちらのほうが目が疲れないかという問題もあります。
 校正をする場合、横書のほうが疲れやすいという話がありますが、これは横書のほうが、少ししか目を動かさずに読むことができるためです。
 横書のほうが視野が広いので、目に入る文字数が多く、結果として焦点を固定した状態で読むことになり、目を少ししか動かさないで、固視に近い状態で読み、毛様態筋を緊張させやすいためだと考えられます。
 縦書きの場合は、上下に視線を動かすので、固視しなくなるのと、多くの文字を捉えようとすると、目を大きく開けるので、焦点距離が長くなるためです。

 図は縦書きの文章と横書の文章を、逆方向から書いたものと、180度回転させたものとを並べています。
 横書の場合は180度回転して逆さまにしても、文字の配列を逆にしても比較的に楽に読めます。
 縦書のほうは、逆方向からの読みに慣れていないということもありますが、たいていの人は、横書に比べ逆方法はとても読みにくいと思います。
 これは下のほうから読もうとすれば、上の方の文字が認識しにくくなり、視幅が狭くなって全体が読み取りにくくなるためです。
 横書の倍は行全体を見やすく、目をほとんど動かさないで読めますが、縦書の場合は目を動かさずには行全体を読み取りにくいのです。
 縦書の場合でも正常方向の文字並びの場合には気がつきにくいのですが、逆方向のならびになると、行全体がよく見えていないことに気がつくのです。
 読書スピードはともかく、ある程度長時間文章を読むときは縦書のほうが目は疲れにくいのです。


音読みの種類

2008-08-31 00:12:41 | 文字を読む

 漢字は字の構成を見れば知らない字を見ても、読み方が類推できるので分りやすいというふうに言われることがあります。
 たとえば「豆」は「豆腐」「納豆」のように「トウ」と読むということを知れば、「頭部」はトウブ、「登記」はトウキと読むことができます。
 さらに「逗留」「天然痘」「橘橙」など少し難しい字でもトウリュウ、テンネントウ、キツトウというふうに読むことができます。
 ところが「豆」はトとつまって読む場合もあり、「登山」はふつうトザンと読みます。
トウザンと読んでもよいのですが、普通はトザンと読んでいます。
 しかし「登頂」「登坂」「登攀」「登城」などになるとトウチョウ、トウハン、トウジョウと読みむ人もいれば、トチョウ、トハン、トジョウと読む人もいます。
 既に読み方が固まっている人は良いのですが、はじめてこれらの単語を見た人は読み方に戸惑うでしょう。
 また「豆」は「伊豆」のようにズという読み方もあって、「頭蓋骨」はトウガイコツとも読みますが、ズガイコツのほうが一般的です。
 全部トウと読んでも間違いではないのですが、慣用が優先し、地名に使われた場合は「伊豆」「小豆島」をイトウ、ショウトウトウとすれば間違いです、

 読み方が一通りでないという例は、他にもたくさんあります。
 図にある「尺」「訳」「駅」「沢」「釈」はふつうシャク、ヤク、エキ、タク、シャクというふうにいくとおりもの読み方になっています。
 訳、駅、沢、釈は旧字体では譯、驛、澤、釋で旁を尺にしているのは略字ですが、尺を共通音符にして略字を作っているのですが読み方は違っています。
 「立」にはリツとリュウの二通りの読み方があり、粒はリュウ、拉の場合はラツでまだよいのですが、泣はキュウでリュウと離れていますし、位はイで似ている部分がありません。
 じつは「位」会意文字で音を表わす部分がなく、旁の部分の「立」は音を表わしてはいないということですが、字を見ただけではそんなことは分りません。
 「勺」は約はヤク、酌、杓はシャク、的ハテキ、釣はチョウです。
 最も変化の多いのは各がカク、落がラク、客、略、路、額はキャク、リャク、ロ、ガクです赤ら、かなり読み方の種類が多くなっています。
 適当は普通テキトウと読みますが、字典を見ると本来の読みはセキトウで、滴、敵、摘はテキですが、嫡はチャク、謫はタクと読むのが普通です。
 
 このように音を表わす部分が同じなのに読み方が違うというのは、もともと違う発音なのに近い発音なので同じ音符にしてしまったのか、あるいはほぼ同じ発音であったものが発音がだんだん離れてしまったのか分りません。
 かんじは文字が即単語なので、単語の意味や発音が変化すれば、文字の形と発音や元の意味からのズレが激しくなってきます。
 漢字の形や意味、発音が整然とした形で結びついていると考えたいところなのですが、実際は言葉というものが変化するためにかなりくずれています。
 原理主義的に覚えようとするとかえって混乱する場合もあるので、基本的には個別に覚えてその後つながりを知るというのが自然です。
 たいていの人は知識が増えれば自然にパターンを見つけようとするので、過度にパターンを一般化しないように注意することが必要のように思われます。
 


英単語も表意語

2008-06-17 23:19:12 | 文字を読む

 図はチンパンジーの言語訓練に使われた図形文字の例です。
 一番上はSランボーがチンパンジーのシャーマンとオースチンの言語訓練に使ったもの、真ん中はピグミーチンパンジーのカンジに使わせたもので、一番下は京大の霊長類研究所でチンパンジーのアイに使わせたものです。
 人間の場合は文字の始まりは、シュメール文字にしてもエジプトのヒエログリフ、中国の漢字にしても、象形文字から始まっています。
 初期段階の文字は、ものの形を象った象形文字だというのが常識で、象形文字が一番わかりやすいという感覚がありますから、チンパンジーに文字を教える場合も当然象形文字であろうと普通は考えます。
 ところが、図の例で見るようにチンパンジーに使わせた文字はどれも象形文字ではありません。
 
 チンパンジーには人間の音声言語は理解できないので、視覚に訴える形で言葉を覚えさせようということになります。
 そこで図形文字のようなものを考案して覚えさせようということになるのですが、ものの形を象った象形文字のほうが理解しやすく、また記憶もしやすいと普通ならば考えるのですが、専門家の考えは別のようです。
 象形文字が見ればすぐ意味が分かるのであれば、なにもこのようなわけのわからない図形文字を作って苦労して覚えさせることはありませんから、象形文字を遣わない理由があるのでしょう。

 一つ考えられるのは、象形文字といってもかなり抽象化されたものですから、文字を習った人には分かりやすくても、チンパンジーにとっては案外わかりにくいかもしれないということです。
 抽象化されてわかりにくいからといって、写真のように特定のものに似せた図形にしてしまうと、見かけが同じでないものが排除されてしまうので不便です。
 たとえば犬の写真を見れば、犬だということはチンパンジーもわかるでしょうが、それを犬の代表とは思わないでしょうから、写真の犬と違う犬を見れば違うと判断してしまいます。
 普通名詞としての「犬」を表わす記号なら、具体的な犬に似ていないほうがよいのです。

 チンパンジーがものを表す記号として、図のような図形を学習することができるということは、人間でも可能なはずです。
 となれば漢字だけでなく、アルファベットで表された単語であっても訓練されれば見るだけで、音声化しなくても意味を理解できるはずです。
 漢字は表意文字で、アルファベットは表音文字といわれますが、アルファベットの文字を綴った単語は音声と同時に意味を表わしています。
 したがって単語は音声を伝えると同時に意味をも伝えますから、単語を見て音声を介さず意味を理解することが可能です。

 速読というのはアメリカで最初に開発されたものですが、単語を見て音読をしないで意味を理解する訓練をするようになっています。
 アルファベットといえば表音文字とされていますが、現実の読書行動の中では単語は表意語となっていて、見れば即理解されているのです。
 実際脳損傷などでアルファベットの文字の理解が失われても、単語の意味は失われていないという例があるそうですから、単語を文字つづりとして出なく、意味として記憶している場合があるのです。
 ちょうど日本語の場合、脳損傷によってカナが読めなくなったのに、漢字は覚えている場合があるのと同じ現象です。
 記号を意味と結びつけて記憶しているということ自体は、右脳の働きかもしれませんが、だからといって漢字だけの高度な機能だというわけではないのです。


英単語も表意語

2008-06-17 23:17:26 | 文字を読む

 図はチンパンジーの言語訓練に使われた図形文字の例です。
 一番上はSランボーがチンパンジーのシャーマンとオースチンの言語訓練に使ったもの、真ん中はピグミーチンパンジーのカンジに使わせたもので、一番下は京大の霊長類研究所でチンパンジーのアイに使わせたものです。
 人間の場合は文字の始まりは、シュメール文字にしてもエジプトのヒエログリフ、中国の漢字にしても、象形文字から始まっています。
 初期段階の文字は、ものの形を象った象形文字だというのが常識で、象形文字が一番わかりやすいという感覚がありますから、チンパンジーに文字を教える場合も当然象形文字であろうと普通は考えます。
 ところが、図の例で見るようにチンパンジーに使わせた文字はどれも象形文字ではありません。
 
 チンパンジーには人間の音声言語は理解できないので、視覚に訴える形で言葉を覚えさせようということになります。
 そこで図形文字のようなものを考案して覚えさせようということになるのですが、ものの形を象った象形文字のほうが理解しやすく、また記憶もしやすいと普通ならば考えるのですが、専門家の考えは別のようです。
 象形文字が見ればすぐ意味が分かるのであれば、なにもこのようなわけのわからない図形文字を作って苦労して覚えさせることはありませんから、象形文字を遣わない理由があるのでしょう。

 一つ考えられるのは、象形文字といってもかなり抽象化されたものですから、文字を習った人には分かりやすくても、チンパンジーにとっては案外わかりにくいかもしれないということです。
 抽象化されてわかりにくいからといって、写真のように特定のものに似せた図形にしてしまうと、見かけが同じでないものが排除されてしまうので不便です。
 たとえば犬の写真を見れば、犬だということはチンパンジーもわかるでしょうが、それを犬の代表とは思わないでしょうから、写真の犬と違う犬を見れば違うと判断してしまいます。
 普通名詞としての「犬」を表わす記号なら、具体的な犬に似ていないほうがよいのです。

 チンパンジーがものを表す記号として、図のような図形を学習することができるということは、人間でも可能なはずです。
 となれば漢字だけでなく、アルファベットで表された単語であっても訓練されれば見るだけで、音声化しなくても意味を理解できるはずです。
 漢字は表意文字で、アルファベットは表音文字といわれますが、アルファベットの文字を綴った単語は音声と同時に意味を表わしています。
 したがって単語は音声を伝えると同時に意味をも伝えますから、単語を見て音声を介さず意味を理解することが可能です。

 速読というのはアメリカで最初に開発されたものですが、単語を見て音読をしないで意味を理解する訓練をするようになっています。
 アルファベットといえば表音文字とされていますが、現実の読書行動の中では単語は表意語となっていて、見れば即理解されているのです。
 実際脳損傷などでアルファベットの文字の理解が失われても、単語の意味は失われていないという例があるそうですから、単語を文字つづりとして出なく、意味として記憶している場合があるのです。
 ちょうど日本語の場合、脳損傷によってカナが読めなくなったのに、漢字は覚えている場合があるのと同じ現象です。
 記号を意味と結びつけて記憶しているということ自体は、右脳の働きかもしれませんが、だからといって漢字だけの高度な機能だというわけではないのです。


部分を補って読む

2008-05-12 23:54:49 | 文字を読む

 よく使われる漢字熟語は記憶に深く刻まれていて、一部分が見えなくても全体を想起することができます。
 図は四字熟語の例ですが、一番上の行では一字が隠されていますが、「弱肉強食」「旗幟鮮明」「起死回生」と考えなくても自動的に熟語の全体が思い出されます。
 隠されているのが一字でなく二字であっても「先客□□」であれば「千客万来」、「不言□□」なら「不言実行」と前の二字から後の二字が続いて自動的に引き出されてきます。
 三行目の例のように、文字の間に隠された文字が入っている場合でも、「面目躍如」「自画自賛」「疑心暗鬼」のように思い出されるのは、これらの四字熟語が一つのまとまりとして記憶されていて、間に空白があってもほぼ重なり合うという印象があるためです。
 
 このように文字を読むときには、文字情報が100%与えられなくても読取が可能なのですが、これは見慣れていてすぐに記憶と照合しやすいためです。
 見慣れているということは、普通に考えるとよく知っているということで、細かなところまで目が行き届いていると考えがちですが、実際は自動的に確認をするので注意を払わなくなります。
 千円札に印刷されている人物は誰かと聞かれても、多くの人は答えられませんし、野口英世だと知っていても、ひげを生やしていたかとか、髪型はどんなかと聞かれても答えられません。
 それでもちらりと見ただけで千円札だということが分りますし、じっくり確かめないで使っています。

 四行目の例では特定の文字が隠されているのではなく、文字列の下半分とか上半分あるいは中間が三分の一が隠されているので一つ一つの文字は単体では確認が困難です。
 それでも四字熟語として全体的に見ると「年功序列」「難攻不落」「独断専行」と読むことができるのです。

 ところがCのような例になると「二□三□」は「二人三脚」「二転三転」「二束三文」などと複数の該当例があるので自動的に当てはめることはできません。
 文脈から「がらくたばかりで、、」とあれば「二束三文」「ころころと、、」とあれば「二転三転」、「息があって、、」とあれば「二人三脚」という風に思い出されます。
 「七□□□」のように三文字も隠れている場合でも、「苦しくて、、」という意味なら「七転八倒」、「何度も起ち上がる、、」なら「七転八起」、「困難が多く、、」なら「七難八苦」というふうに思い出されます。
 文字を全部確認しなくても、文字情報の一部分とか文脈などからも文章の意味を引き出すことができるのです。


読書時の眼球運動

2008-05-11 22:57:09 | 文字を読む

 ものを見るときの眼球の動きは、注視点から次の注視点に急激にジャンプするという運動を繰り返します。
 文字を読む場合では一つ一つの文字を連続的に見ていくのではなく、ある場所を注視してから、いくつかの文字を飛び越えて次の場所に注視点を移し、さらにジャンプして次の注視点へ向かうという動作が繰り返されます。
 こうした眼球運動をサッカード眼球運動といいますが、サッカードの大きさは一定ではありません。
 図はアメリカの大学生の読み手の注視時間と、行替えを除いたサッカードの大きさの頻度分布だそうです。

 サッカードの大きさの分布は二つに分かれていますが、0以下のものは前にジャンプするのではなく後ろにジャンプする、つまりあと戻りをする場合を示していますが、これはごく小さな山ですからあと戻りは非常に少ないことを示しています。
 前に進むサッカード運動は5文字以下というのは少なく、8文字前後が多いのですが、20字を超える場合もあります。
 目が注視したとき7文字程度がハッキリ文字が読み取れる範囲なので、普通に考えれば次の注視点は7文字程度先ということになります。
 サッカードの大きさが10文字以上というのはハッキリ見えない場所に注視点を移すということです。

 先にある文字がハッキリ見えなくても、単語の形とか文字のおおよその形などから読取が可能になり、ハッキリ見える範囲を越したところまで中止点をジャンプすることができるのでしょう。
 音声で言葉を聞く場合は、話の流れから先を予測することはできても、聞こえるわけではありませんから先聞きというわけには行きません。
 文字の場合は、文脈から先を予測できるだけでなく、周辺視野にある情報から現在注視しているより先の文字や単語を読むことができるのです。
 また文字を読むとき、注視点より5文字程度から左側は手などで隠しても読みに差し支えはないのですが、右側は7文字ぐらいから先を隠すと極端に読むスピードが落ちるそうです。
 左側は既に見た情報で、右側はこれから見る情報なので、ハッキリ見えなくとも読むための手がかりとして必要な情報なのです。

 注視時間はどんな場合も同じというのではなく、200ミリ秒前後が中心になっていますが、100ミリ秒以下の場合もあれば500ミリ秒以上というのもあります。
 網膜に単語が映るスピードはどんな文字であれ単語であれ、変りはありませんから、注視時間に差があるということは、理解のスピードに差があるということです。
 分りやすい単語、出現頻度が高い単語、よく知っていて馴染みのある単語などは注視時間が短くてすみますが、逆の場合は注視時間が長くなります。
 脳が処理しやすい単語は注視時間が少なくてすみ、処理しにくい単語は注視時間が長くなるのですから、ムリに注視時間を短くしようとすると、意味が分からないで前に読み進むということになります。
 注視時間を短くするには何らかの方法で、単語理解の速度を上げる必要があるのです。