60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

文節読みの練習

2007-01-30 23:36:30 | 文字を読む

 上の文章では20%程度が伏字となっていますが、文章の意味を理解することは難しくはありません。
 文字を読むとき、文字の形の一部分が欠けていたりゆがんでいても読めますが、文章の場合も一部分が欠けていたり間違っていても読める場合があります。
 アメリカの速読の練習では母音を省いたり、間違った綴りの単語を入れた文章を読ませるものがあります。
 単語をいろんな形で読ませることで、単語に対する経験を増やし、単語に対する感覚を敏感にさせようとするのです。
 単語や文章を読みなれてくれば、書かれている文字や単語のすべての部分について細かいところまで確認しなくてもわかるようになります。
 たとえば人の顔を見る場合、毎日見慣れている相手の顔であれば、遠目に見てもあるいはチラッと見た場合とか一部分が隠れたりしていてもそれとわかるものです。
 よく知っている人の顔であれば、眼や鼻や口などを細かくチェックしなくとも、パッと見ただけでわかりますし、これは×××の顔だなどとことさら意識することもありません。
 
 よく知っているものなら、少ない手がかりからそれとわかるようになります。
 漢字を読むときでも、子どものように文字の覚えたてであれば一点一画について確かめようとしますが、大人になって読み慣れてくれば、見ただけで瞬間的にわかります。
 ところが文章となると、音読の癖がついていると見ただけでは意味が頭の中に入りません。
 実際に音読するか、心の中で音読するなどしないと頭に入らなかったりします。
 日本語の文章では英語のように単語の分かち書きがしてないので、文節単位で眼に入れていくというふうにしないと頭に入りにくいのです。

 図の下の例は文章を右から左に書いたものです。
 これを右から左へ読んでいく場合は、一文字づつ読んでいこうとすると非常に読みにくいでしょう。
 これは文字を読むとき視線を左から右に動かしなれているためですが、これを「米中西部を/中心に/前週末から/続いている/寒波で、/、、、」と文節ごとに読もうとすれば抵抗感が少なくなります。
 つまり逆順の文章を読むことが逐次読みでなく、文節読みの練習になるのです。
 伏字のある文章でも文節単位で読もうとするから理解できるのです。
 最低でも文節単位に見ていくことに慣れると、いくつかの文字をかたまりとしてとらえるので、理解しやすいのです。
 

 


速く読めるほうが理解できる

2007-01-29 23:01:25 | 文字を読む

 上の図で最初の行では文字が上下に切り離され、二行目は三分の一ほどが消去され、三行目では文字が変形してゆがんでいます。
 文字の標準的な形とはずいぶん違うのですが読むことが出来ます。
 読むことができるということは、文字のもとの形が記憶されていて、それと照らし合わせることが出来るからです。
 しかし、読めるといっても標準的な文字を読むときのように素早く読めるわけではありません。
 すらすら読めないのは文字を判断するのに脳が手間取っているためです。
 文字が眼に入るスピードは形とは関係ないので、読み取りがスムーズに行かないのは脳での処理に時間がかかっているためです。

 手書きの文字というのは、活字の文字から比べると標準的な形からのずれが大きいため、読み取りスピードがかなり落ちるのも同じ原理です。
 ビジネスの世界で、ワープロ文書が当たり前になったというのは、体裁がよいということより読む側に負担がかからず、読み取りにかかる時間が格段に違うからです。
 活字のほうが読む側の時間が節約され、文字の読み取りに対する脳の負担が軽くなるということは、手書き文を読むときは脳に負担がよぶんにかかると言うことです。
 いま流行の音読で脳を活性化するということからすれば、大活字の振り仮名月の文章を読むより、手書きの作文を音読するほうがよほどに活性化するはずです。

 文字を読むスピードが落ちるのは、文字の形が読みにくいという場合だけとは限りません。
 知らない漢字や、なじみのない文字あるいは意味を知らない単語などがあると、スピードがダウンするだけでなく眼も疲れます。
 スピードがダウンするというのは、視線が一箇所にとどまっている時間が長くなるからですが、脳の処理が手間取っているために視線が動かないためです。
 なじみのない文字や知らない単語にぶつかれば、そこで視線がとどまるのはやむをえないのですが、すぐ理解できる文字や語までゆっくり読む習慣が身についているとよけいわかりにくくなります。
 
 文字や単語を見てすぐにわからないときは、もう一度見直したりする(再入力)のですが、ゆっくり見直しているとその間にそれまで読んできた部分の記憶が失われたりします。
 例えば5桁程度の数字を0.5秒見て記憶する場合、数字を音読して覚えようとすると読み終わらないうちに数字が消え、記憶に失敗したりします。
 見るだけで覚える習慣が出来ていれば、0.1秒程度見てから瞬きをして再入力することが出来ますからこの方が記憶に残ります。
 速く読み取れるものは速く読むほうが、眼も疲れず理解度も高くなるのです。


じっくり見なくても読み取れる

2007-01-28 22:37:12 | 文字を読む

 図の文字は点で描かれているだけでなく、モザイクがかかっているのでぶれています。
 点の集まりですから普通に見ている文字とは別物であり、厳密に比べれば文字とはいえませんから読めるのが不思議です。
 もし右脳がものをありのままに見るということであるならば、上の図は点で描かれた単なる図形で文字として読むということはないはずです。
 ひらがなや漢字、アルファベットを学習して記憶している人であれば、図形であるとか模様であるとみなさず、読める部分を読もうとします。
 記憶があれば自動的に記憶と照らし合わせて読もうとするのですが、簡単に読めるものとそうでないものがあります。
 ひらがなとか、画数の少ない形の簡単な漢字ならすぐわかりますが、少し込み入ったものだとぼやけて読みにくくなっています。
 
 いまこれらの文字を普通に見るとぼやけて見えるのですが、目を細めて見たりあるいはピンホールマスクのように小さな穴を通して見ると、ややはっきり見えるようになります。
 二行目の左から三文字は無理としても他の文字は何とか読めるのではないでしょうか。
 眼を細めたり、ピンホールを通して見たりするときは光の量がしぼられるので、視野は狭まりますが、ピントがあった感じになりくっきり見えるようになります。
 光の量が少なくなるので暗く見え、細かい濃淡の差はわからなくなりますが、ピントがあってぶれがすくなくなったように見えます。

 こうして見ると、普通に文字を読んでいるときには、文字の読み取りに必要な量以上の情報が眼に入ってきていることがわかります。
 眼を細めたり、ピンホールマスクで見たときは眼に入る光の量をしぼって少なくしているわけですし、離れた点のみでつくられた形でも文字が読み取れているわけです。
 同じようなことは文字を瞬間的に見た場合にもいえます。
 眼を閉じた状態から、パッと眼をあけ瞬間的に文字を見たとき、瞬間的に見えた文字のぼやけ具合は感じられません。
 瞬間的に見たときの視覚刺激の量は、じっくり見たときに比べれば少ないのですが、文字を読み取るのに必要な量は十分あるのです。
 問題は眼で受け取った視覚刺激を脳が処理するスピードで、脳の処理スピードが上がれば文字を必要以上に長く見続けることはないのです。

 よく知っている文字、見慣れている文字であればじっくり見なくてもちらと見ただけで読み取ることが出来ます。
 二行目の三文字は魑鬱巖という文字で意味なく単に複雑で込み入った文字を並べたものですが、なじみのない人なら読み取れませんし、これらの文字に常時接している人ならはっきり読み取れなくても見た感じから読み取れたりします。


文字の読みと判断

2007-01-27 22:18:59 | 文字を読む

 レストランで「ストラングルドエッグをください」と言うと、ウェイトレスは瞬きもせずスクランブルドエッグを持ってきた、、、とウィン.ウェンガー「頭脳の果て」に紹介されている話があります。
 70回も同じことを試して見ても誰も気がつかず、そのうちの62回はハッキリと「ストラングルドエッグ」と言ったのにもかかわらずだそうです。
 ストラングルド(締め付けた)エッグなどと言うのはおかしい。スクランブルド(かき混ぜ)の間違いではないかとは誰も言わなかったのはどうしてか。
 ウェイトレスは、客のことばを聞いたとき、そのすべての音にいちいち注意している余裕がなく、客が注文するのは多分この料理だろうと頭の中にインプットされていることで仕事が効率よくスムーズに運ぶのだと著者は説明しています。
 あらかじめ答えを予想していて、固定観念が出来上がっているので、実際は違っているのに気がつかないと言うのです。
 ウェンガーの考えでは、普通の人は固定観念を持っているので、つい決められた考え方、型にはまった考え方をしてしまうので、感受性がはたらかず、大事なものを見落としてしまうのです。

 この例は最初に見たときはナルホドと思うのですが、少し考えるとどこか作り物めいていて腑に落ちない点があります。
 ウェイトレスが新米であるとか、言葉がよくわからない外国語話者であれば、あやふやな発音にほぼ近い料理をメニューから探して、注文を調理人に伝えるかもしれません。
 ウェイトレスがベテランであれば、客の発音がおかしいと気づいても、他の料理をさいている可能性がなければ聞き返したりしないでしょう。
 店のメニューを完全に記憶していれば、客の注文がおかしな発音であっても、何を指しているか間違いなくわかるのです。
 「ストラングルドエッグ」というものがあるのなら、思い込みで「スクランブルドエッグ」を持ってきたウェイトレスは不注意と責められるべきですが、そういうものがなければ、ウェイトレスは正しい判断力を持っているということになります。
 まともな人間が「ストラングルドエッグをください」などという悪ふざけをするというのは想定外で、気がつかないからと言って不注意とはいえません。

 文字を読むときに、図のように虫食いがあった場合でも読めるのは、あらかじめ予測しているからでは必ずしもありません。
 視力が弱ければ読み取れないのはもちろんですが、文字をよく覚えていない人や、読みなれていない人も読み取れないかもしれませんが、文字を読みなれてしっかり記憶している人であれば読みとれます。
 虫食いがあっても記憶されている文字と照合して、大体一致すればこの字だと判断できるのです。
 虫食い文字は極端な例ですが、普通の印刷文字の場合でも、いちいち細かい点に注意して記憶と照合するのではなく、大体の一致で判断できるようになるのです。


情報が多すぎないほうが分かる

2007-01-23 22:50:58 | 視角と判断

 左上の写真と右下の写真は同じように見えますが違っている部分があります。
 Tom Stafford「MIND HACKS」によれば、二枚の写真を交互に見せるアニメーションで見るとどこが違うかわかりにくいけれども、左右に並べると簡単に気がつくとされています。
 上の図では真横に並べずに斜め横に並べているので、直接見比べにくく違いに気がつきにくくなっています。
 真横に並べた場合は、寄り眼にして見れば二つの写真が重なって見え、違っている部分はすぐにわかります。
 (二枚の写真を交互に見せるアニメーションの場合でも、同じ部分は動かないのに、違っている部分は動いているように見えますから、どのように違っているかハッキリわからなくても違っていることだけはわかります。)

 左上の写真と右下の写真のどこが違うのかを見つけようとするとき、どのようなやり方で見つけようとするでしょうか。
 後方の家を見比べたり、前方の人物を見比べたりという風に写真を構成する要素をしらみつぶしに比較していくというのが一般的なやり方です。
 ところがそうしていると案外違った部分に気がつきにくいものです。
 何箇所か比較しても同じであると、いつの間にか同じであることになれて、実際は違った部分を見比べているのに同じと思って見過ごしてしまいます。
 ちょうど原稿の校正をしているようなもので、一つ一つの部分を見比べていると、つい違った部分を見過ごしてしまうのです。

 ところで、左と右の二つの写真を縮小したものを比べてみるとどうでしょうか。
 縮小した場合は写真が小さいため、部分を詳しく見ることが難しく、比較しにくいのでよけい違いがわからなくなると思いますが、この場合は小さいほうが違っている場所に気づきやすくなっています。
 二つの写真を見比べたとき細かい部分に注意が向かず、まず全体的に見るので、写真の右下の部分の印象が違うのに気がつくでしょう。
 そう気がついてから右下の部分を見比べれば、地面の上の白線の引かれ方が違うのがわかり。大きいほうの写真で確かめれば、たしかに白線の位置が違っています。

 大きいほうの写真では、部分がよく見えるので注意をひきつけるところがたくさんあって、つい個々の細かい部分に注意を向けてしまいがちです。
 小さいほうの写真では、細かい部分は見難いのであきらめてしまって、逆に全体に注意を向けやすくなり、違っている部分が発見しやすくなっているのです。
 全体的な情報は、細かい部分が見えないほうがわかりやすいのです。
 大きいほうの写真を見比べるときも、一つの写真をじっくり見ないで片方の写真を見たらパッともう片方の写真に目を移すという風に、瞬きをしながら交互に素早く見ると違った部分がわかります。
 瞬間的に見たときは細かい部分でなく、全体的な輪郭しかわからないのでかえって違いに気がつきやすいからです。

 
 


視覚体制によって見え方変わる

2007-01-22 23:12:52 | 視角と判断

 図Aでは左側は凸に見え、右側は凹に見えます。
 いわゆるクレーターの錯視と呼ばれるもので、日常経験では光が上から来るので、上が明るく下が暗いほうは凸型に見え、上が暗くて下が明るければ凹型に見えるといいます。
 ところがBのように楕円形にしてみると、なんと左側の図形は凹んで見え、逆に右側の図形は凸型に見えます。
 上から光がくれば凸型に見えるはずだったのに、なぜ逆に見えてしまうのでしょうか。

 すこし気をつけてみると、Aの背景は壁のように垂直に見えます。
 これにたいしてBの場合は地面のように水平に見えます。
 そのためBでは光が手前から奥に向かって斜めに照射しているように見え、左側の図形は凹んで見え、右側の図形は凸型に見えるのです。
 しかし背景そのものはAもBも同じものなので、背景の違いで見え方が換わるというのは正しくはありません。
 実際は図形の見え方が変わったために背景の見え方が変わったのです。
 Bの場合も背景が垂直であると思ってみれば、左側が凸型、右側が凹型に見えないことはないのですが、その場合は図形そのものを楕円形のものとして見るか、あるいは見る眼の位置を実際より斜め上方にあるとイメージするなど、意識的な操作がかなり必要です。
 経験から来る自然な見方からすれば水平面にある円形の凹みとか円盤を現在の位置から見た感じが最もぴったり来るので、無意識にそのように見るのです。

 次にCとDのように背景の形を変えてみると、見え方の違いはハッキリします。
 この場合は背景の形から、Cは水平面に、Dはそれに対して直角つまり垂直になっているように見えます。
 その結果同じ左側の楕円形がCでは凸に見え、Dではへこんでみえます。
 また右側の楕円はCでは凹んで見え、Dでは凸に見えます。
 つまり同じ図形でも、背景のように周囲が変われば見え方が変わるのです。
 もちろんこの場合も楕円に注意を集中すれば、背景の見え方による影響はなくなってくるので、同じ楕円が凸にでも凹にでもどちらにも見えます。
 周囲が変われば見え方が変わるのと同時に、意識的に視覚体制を変えれば見え方がはわるのです。

 


瞬間視と周辺視

2007-01-21 23:08:37 | 文字を読む

 文字が読めるのは文字の視覚イメージが記憶されているからですが、記憶されているイメージは固定した型枠のようなものではなく、パターンとして記憶されています。
 型のようなものであれば書体が違ったりすると、読めなくなるはずですがそういうことはありません。
 図の2行目のように、モザイクがかかったり、にじんでぼやけたりあるいは部分的に消えていたりすれば記憶と一致しないはずですが、読み取れるのはパターンとして記憶されているためです。
 細かい部分が一致しなくても、パターンが同じであると判定できればわかった感じ、読んだと思います。
 パターとして記憶されているから3行目のようによけいな刺激が加わっても読み取ることが出来るのですが、左上のように文字があまり小さければ、形としては正しくてもパターンとしてつかめないため読みにくくなります。

 もちろん文字の覚えはじめのときは、手本にしたがって覚えようとするので、細かい部分もお手本どおりに記憶しようとします。
 したがって文字を読むときも、細かい部分についてもお手本と一致しているかどうか確かめることで読み取ろうとします。
 したがって文字の覚えはじめのときは、文字に注意を集中して文字を一つづつジッと見つめて読んでいます。
 そうすると文字がにじんでいたり、ぼけたり変形していたりするとどうしても読み取れなかったりします。
 そればかりか、注意を集中し続けるために疲労が激しくなります。
 ところが読むことに習熟してくれば、文字の細かい部分についてハッキリ見分けなくても全体的なパターンから読み取ってしまいます。

 図の一番下の行のように文字が変形されていたり、簡略化されてしまったりしても読めたりするのは文字をパターンとして認識しているためです。
 そのため「鬱」のようにひどく込み入った文字で使用頻度が低いと、パターンとして記憶されにくく少し変形しただけでも読みにくくなります。
 文字をジッと見なくてもパッと見ただけで読めたり、あるいは視線を向けた中心近くの文字だけでなく周辺部分もある程度読めるというのも、文字をパターンとして記憶しているためです。
 逆にいえば文字や単語を瞬間的に読み取ったり、周辺視野で読み取れる範囲を広げることが出来れば楽に読むことができるようになります。
 


周辺視野と視幅

2007-01-20 22:46:34 | 注意と視野

 図の中央の赤い線に視線を向けた状態で左右を見ると、上の二行の黒い丸はいちばん端まで確認できます。
 次のひし形もなんとか確認できます。
 ところが4行目の漢字の場合はどうでしょうか。
 左右3文字ぐらいづつは読み取ることが出来ても、その外側となると読み取りにくくなるかもしれません。
 速読術などでは目を動かさないで文字や図形などを認識できる範囲を、識幅という風に呼ぶらしいのですが、文字を読もうとすると識幅は狭まると言います。
 実際、文字を読もうとせずなんとなく4行目を見ると、もっと多くの漢字が見えたような気がするはずです。
 また、眼を閉じていてパッと眼を開いた瞬間に4行目を見ると大部分の感じがよく見えたように感じます。
 そうすると、「文字を読もうとして注意を向けるから識幅が狭まるのだ」という説明は、ナルホドと思うでしょう。

 ところで5行目は察という字ばかりが並んでいます。
 真ん中の赤い線に視線を向けて左右を見た場合どの範囲まで読み取れるでしょうか。
 いちばん端までは無理としても、4行目の場合よりは多く読み取れるのではないでしょうか。
 これは察という文字であると言うことがわかっているから、実際にはハッキリと見えない範囲であっても察という文字だと判断してしまうためです。
 いちばん端のほうになるとハッキリと形をとらえられなくなるのですが、左端の黒い丸はそれと認識できるでしょう。
 となると漢字を読もうとすると識幅が狭まるといっても、黒丸はわかるのですから、漢字が読み取れないのは複雑な形だからではないかと考えられます。

 そこで6行目を見ると、真ん中の赤線に視線を向けたまま左右両サイドを見ると、両端の一と二という文字はハッキリとらえられるけれども、間のいくつかの漢字は読み取れないでしょう。
 つまり単純な形をしていれば離れた場所の漢字でも読み取れるのです。
 このことは漢字でなく記号を並べた7行目について見ればよりハッキリします。
 真ん中の赤線に視線を向けて左右の記号を見ると、真ん中に近い部分はもちろんハッキリ見えるのですが、遠いところでも○や□のように見慣れたものや単純なものが認識しやすくなっています。
 つまり中心から離れた形は、細かな部分に注意しなくてもそれとわかるものであれば認識しやすいということなのです。


瞬間的に文字を読み取る

2007-01-16 22:52:20 | 文字を読む

 画面の同じ場所に図のA、B、C、Dを0.1秒ずつ順に表示すると、AかCのどちらかは読み取れてももう一方は読み取れません。
 AあるいはCを0.1秒表示してその上にBを表示した場合は、それぞれ読み取ることは出来るのですが、連続すると一方は読み取れなくなるのです。
 0.1秒しか表示されなくても、視覚的記憶が0.5秒程度維持されるため、一回の表示であれば読み取りが可能です。
 ところがこの読み取り作業は0.3秒程度かかるとされているので、脳による読み取り作業が終わらないうちに次の文字が示されると、あとの文字を読み取ろうとすれば先の文字が読み取れないままとなります。
 先の文字の読み取ろうとするとあとの文字の読み取りにかかれないので、結局片方しか読み取れないことになるのです。
 
 漢字は千分の一秒の表示でも読み取れると言うのは、ひとつの文字についてのことで、連続的に二つ以上表示された場合でも読み取れるということではないのです。
 ある程度複雑な文字でも瞬間的に表示されただけで読み取れると言うのは、その文字を知っているからで、複雑な文字であれば記憶と照合するのに時間がかかり、すぐに次の文字が表示されれば両方は読み取れなくなるのです。

 一文字でなく四文字熟語を表示した場合でも、知っている熟語であれば0.1秒の表示でも読み取れます。
 同じ場所に一文字づつ表示した場合は、0.1秒ずつで合計0.4秒かけてもすべて読み取ることは出来ないのに、同時に4文字表示されれば0.1秒ですべて読み取ることが可能なのです。
 文字を読むとき文字を一つ一つ読むのではなく、単語や文をひとまとまりのものとしてとらえて読み取らないと、スピードが落ちるだけでなく理解も難しくなるのです。

 次に下の図のように、二つの文字が同時に表示された場合はどうかというと、二つの文字がある程度離れていると、0.1秒程度の瞬間的な表示では、似たような文字は判別できません。
 中心窩で両方の文字を見ることが出来ないので、瞬間的に記憶された視覚像自体がぼやけているので、比較してもハッキリと区別することが出来ないのです。
 文章の中であれば文字がハッキリ見えなくても文脈によって判別することが出来るのですが、文脈なしで視覚だけで判別することは難しいのです。
 文字校正のように、校正する側の解釈する文脈で読んでいると、ハッキリ見えているのに間違いに気がつかないことがありますが、文字を読むときは視覚だけに頼っているわけではないと言うことです。


眼の解像力と統合力

2007-01-15 22:07:43 | 視角能力

 対角に並べられた二組の写真は、それぞれ一部分が異なっているのですが、どこが変わっているか分かるでしょうか。
 本来は同じ画面で写真が切り替わるのですが、そうすると部分的に変わっている部分があることに気がつきません。
 写真の片方が示されているときはもう片方が隠され、同時に示されないので直截比べることが出来ないからです。
 これを横に並べればどこが変化しているか比較的に分かりやすいので、対角上に並べてあります。
 片方の写真を見てから対角上にあるもう一方の写真を見る、というやり方をしているとどこが違うかなかなかわからないでしょう。

 ホッケーの写真の場合は視覚的にどこが違うかはなかなか分かりにくいのですが、数字の部分を読んでしまうとすぐに違いが分かります。
 単純に白いマークとして見ていれば違いに気がつきにくいのに、数字として読めば分かりやすいのですが、数字が逆さまになっているため、瞬間的には気がつかないのです。
 もし数字部分が逆さまでなければもっと気がつきやすいでしょう。
 
 もうひとつの戦闘機の場合は下の写真では長方形のチェック模様が妨害刺激となって、ついそこに注意が向けられるので、違っている部分を気づきにくいというものです。
 戦闘機の陰の部分は上の写真と下の写真ではかなり大きさが違うので、並べて見た場合はすぐに気がつきそうですが、妨害刺激のために注意が向けられにくく、気づきにくいのです。
 飛行機と影というつながりというか構造が、妨害刺激によって注意をそらされて、意識されにくくなってしまうため、相違部分に気づきにくくなるのです。

 写真を0.1秒ぐらいの間隔で交互に示されれば、眼の時間的分解能という点ではハッキリ別々の画像として意識されますが、内容の違いはハッキリととらえられません。
 写真の内容を統合してとらえることが出来れば、その構造に変化があればすぐに気がつきますが、とらえる内容に変化がなければ他の部分の変化には気がつきません。
 ホッケーの写真で人の配置に注目していれば違いは分かりませんが、数字に注目していれば違いにすぐ気づきます。
 戦闘機の場合であれば、戦闘機の着艦の動きに注目していれば、影が高さを表現するのですぐに違いが分かりますが、妨害刺激で注意がそれて違いを見失ってしまうのです。
 画像の違いをとらえるのは、視力つまり解像力だけではなく画像を統合する能力が必要だということが分かります。