60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

分りにくい逆の錯視

2008-05-31 23:07:48 | 眼と脳の働き

 なにげなしに見れば図Aは図Bの縦線部分に見え、図Dは図Cの縦千部分に見えます。
 ところが実際は図Aは図Cの縦線部分であり、図Dは図Bの縦線部分です。
 図Dは平行な垂直線なのですが、これに斜めの線が加えられたのがB図であり、斜めの線が加わったために、縦線は垂直に見えなくなっているのです。
 もしB図を模写しようとするなら、縦線は垂直に見えないのに垂直に描かなければならないということになります。
 また、もしC図を模写しようとするなら、縦線が垂直に見えるのに、A図のようにやや斜めに描かなければなりません。
 見えたとおりに描くと、思ったとおりの結果が得られないのです。

 B.エドワーズ「脳の右側で描け」では模写をするとき原図を逆さまにして描けばうまくいくというふうに書かれています。
 わたしたちはものを見るとき既成概念で見る、つまり主として左脳を使って見るので、ありのままに見えないためうまく模写できないというのです。
 しかしB図にしてもD図にしても、これらの図を逆さまにしても見え方が変るわけではありません。
 B図は逆さまにしても縦線が垂直に見えるようにはなりませんし、C図も逆さまにしても縦線はやはり垂直に見えます。
 両方とも逆さまにすれば逆さまには見えますが、ありのままに見えるようになるわけではありません。
 
 B図の縦線が垂直に見えないのは、斜めの線が遠近感をもたらすためなのですが、視線を動かさなければ遠近感が感じられなくなり、縦線は垂直に見えるようになります。
 ひとつの方法はB図の上端と下端を同時に見る方法です。
 目を見開いて図の上端と下端を同時に見ると焦点が画面の後方になり、両眼開放視の状態になり、縦線は垂直に見えるようになります。
 もうひとつの方法は、図の真ん中に焦点をあて視線を動かさないで凝視する方法です。
 図の上端も下端も周辺視野に入りますが、縦線は垂直に見えるようになります。

 ところがC図の縦線が実は垂直ではないことを見破るのは、B図の垂直線が垂直であることを見破るようにはいきません。
 C図の上端と下端を同時に見ても、あるいは図の真ん中を凝視しても縦線はA図のように見えてはきません。
 「曲がって見えるものが実はまっすぐ」という場合は、見破ることができても、「まっすぐに見えるが実は曲がっている」ということを見破るほうが難しいのです。
 Bの中の縦線が実はD図のように垂直であるということは、垂直線はイメージしやすいけれども、A図のような直線はどの程度の傾きかあらかじめ分らないのでイメージしにくいからです。
 正しいことはイメージしやすいけれども、正しくないということは具体的にはイメージしにくいからです。


文字の意味の暗示と連想

2008-05-27 23:27:53 | 言葉と文字

 C.K.ブリスの考案した絵文字では屋根の下に女を組み合わせて母という文字になっています。
 ブリスが参考にしたという漢字では屋根はウ冠で、女という文字を組み合わせると「安」という文字になって、「母」ではありません。
 意味を持った図形を組み合わせて作った図形は、決まった意味を伝えるとは限らないことが分ります。
 ブリスの場合は家を支配している女性ということからの連想で、「母」としたのでしょうが、古代中国ではそういう発想はなかったようです。
 漢字の「安」は落ち着くとか、安定するといった意味ですから、女は家で落ち着かせるという考えだったのでしょうか。
 このように図形を組み合わせて表現する意味は、比較的にハッキリした意味の図形どうしの組み合わせでも出来上がった図形の意味はあいまいです。
 
 漢字のほとんどは意味を持った要素の組み合わせですが、その意味はハッキリ決まるわけではなく、解釈はいくつも可能で、最初に決まった意味があったとしても、立場の違いや時代の変化によって意味が変ってきます。
 たとえば「正」という字は「一」と「止」の組み合わせで、「止」は足をさす文字なので、目標の線をめがけてまっすぐに進むということで「ただしい」という意味だとされていました。
 ところが研究が進むうちに「一」の部分は古い時代には城を現す□になっていたということで、「城に向かって進軍して征服する」という意味だと解釈されるようになりました。
 ところが後に「正」は「ただしい」という意味に使われるようになったので、もとの進軍という意味の文字は「征」という字が作られて使われるようになったのだそうです。
 
 「政治」の「政」という字も「政は正である」というように、正義を行わせることだというような説明がありますが、これももとは「正」に税金を取り立てるという意味があり、「攵」は「棒でたたく」という意味ですから、強制的に税金を取り立てるというような意味だそうです。
 これを強制力をもって正義を行うと、正義を前面に押し出して意味づけを儒教でやったので、一般化しするようになったというわけです。
 「武」という字の解釈もかつては「戈」を「止」めるという意味だとして「武力」を正当化していたのですが、最近では「止」は「足」で、武器を持って進むという意味だとされています。

 文字を図形的に解釈するということは、連想や暗示で意味を考えるので、見れば意味が分かるということではなく、分った気がするということです。
 たとえば「民」という字は「目を針でつついて目を見えなくした奴隷をさす」と解釈されていましたが、「目を針でつつく」まではよいとしても、あとの部分は解釈です。
 奴隷の目をつぶして逃亡を防いだというような解釈もありますが、目をつぶしては労働力としては役に立たないので不自然です。
 目を見えなくされたのはいわゆる奴隷一般ではなく「神に仕える者」だという説もあり、神に対しては盲目的に仕えなければならないため目をつぶしたというわけです。
 そうであれば民が一般人民のことを指すようになったのは、帝王が神のように権力を持つようになって、神に対するような奉仕を要求するようになったからと解釈できます。

 


表意文字の例

2008-05-26 23:45:27 | 言葉と文字

 上の列の図は受話器や封筒、男女、ナイフ.フォーク、タクシーを表わしていますが、これらは単なる絵ではなく、公衆電話、郵便局、男女トイレ、レストラン、タクシー乗り場の場所を示す図記号です。
 これらの記号の意味は図の形から理解ができると期待されています。
 公衆電話とかpublic telephoneといった文字の代わりをするのですが、これらの文字を学習しなくても、受話器のサインを見れば意味が理解できるという便利さがあります。
 「公衆電話」という文字で書かれたサインであれば、漢字を知らない外国人には意味が分かりませんが、この図形記号なら理解できます。
 もちろん「公衆電話」というものを知らない人には、このサインが何を意味するかは理解できないのですが、なんであるか知ってさえいれば理解できるとされています。
 
 こうした図形で言語の説明なしに、なんでも表現できるかというと必ずしもそうではありません。
 郵便局を知っていても、この形の封筒を使ったことがなければこの記号の意味側からいでしょうし、レストランでも和食や中華のレストランにはあわないサインです。
 しか果物し多少問題があっても、文字言語を学習しなくても直接意味が理解できるので、図形記号を工夫すれば言語の違いを超えて、世界中の人が目で見て直感的に理解できるサインを作れるという期待は根強いものがあります。
 
 下の図はC.K.ブリスという人が発明した図形文字の一部で、サイン(標識)に比べると扱いやすいように、形を単純化して抽象化してあります。
 ブリスは漢字をヒントにしてこうした図形文字を考案したのだそうですが、漢字のように表音機能を持たせず、表意機能だけを持たせています。
 真ん中の図の例では男、女、屋根といった基本的な文字から、これらを組み合わせて父、母、カップルなどの意味を持つ単語を作っています。
 ちょうど漢字の会意文字のようなもので、屋根の下にいる男が父親、女の場合なら母親と、中国人とは感覚がちがいますが基本文字から合成文字をつくるやりかたは似ています、

 下の段がこの図形文字を使って文章を作った例ですが、単語の並びは英語の単語の語順で、日本語などとは違うので世界共通に理解できるというわけにはいかないようです。
 単語にしても木とか花とか果物を象形的に表現していますが、この方法では松とか杉とか膨大にある木や花の種類を表わすことは困難です。
 表意文字を作ろうとすると、どうしてもたくさんの種類のものを表わすためにたくさんの文字を作らなければならなくなり、記憶が困難となって見れば分るというわけにはいかなくなります。
 
 


漢字の表意性

2008-05-25 23:49:56 | 言葉と文字

 漢字は表意文字あるいは表語文字といわれ、文字を見ると意味が分かるといわれると何となく納得しますが、本当にそうかと必ずしもそうとはいえません。
 たとえば「洋」とか「海」という字を見ると、サンズイが水を表わすということを知っていれば、水に関係する意味を持った文字あるいは言葉だということがわかりますが、サンズイに羊でなぜ「うみ」の意味なのかは日本人には分りません。
 この文字ができたときの中国人ならば「ヨウ」という音声言葉がいくつかあって、そのうち水に関係するものが「うみ」という意味だったので、「洋」という漢字が出来たのでしょう。

 日本人は「ヨウ」という音声を聞いて「うみ」という単語の候補がただちに思い浮かべられるわけではありません。
 サンズイに羊と書いて「ヨウ」という音読みの字が「うみ」という意味だということを習ったので「洋」が「うみ」を意味すると感じるようになったのです。
 「鮪」や「鯛」という字を見ても魚ヘンが魚を意味するという知識があれば、魚の種類だと見当がついてもどの魚を意味するか分かりません。
 「イ」とか「チョウ」という読みを聞いてもなんのことか日本人には分りませんが、中国人には意味が分かったのです。
 中国人にとっては漢字は表音文字であると同時に、表意文字であったわけですが、日本人にとっては音読みは外国語で、表意性がなかったのです。
 日本語では「まぐろ」や「たい」という和訳を訓読みとしてあててこれらの文字を取り入れたので、文字を見れば意味が分かるような気がするようになったのです。
 日本人が漢字の意味が分かるというのは学習の結果なのです。

 漢字の音読みでは同じで意味的にも近い文字も、和訳して訓読みするとそれぞれが違うために、全く違う文字だと意識される場合があります。
 たとえば義捐と義援の「エン」という字は音は同じで、意味も共通部分を持っています。
 「捐」は「棄捐」というときは「すてる」という意味ですが、「義捐」というときは「私財を出して人を助ける」という意味です。
 「援」は「援助」のときも「たすける」という意味ですから、「すてる」という言葉とは違いますが、「義援」としても「たすける」という意味で「義捐」とおんなじような意味になります。
 「反」は訓で「そる」、叛は「そむく」とすると意味が違うので、「叛乱」を「反乱」とするのは間違いだとされているようですが、音読みではいずれも「ハン」で
「反」にも「反対」のように「さからう」とか「むほんをおこす」という意味があるので、「反乱」でも「叛乱」でも同じ意味になります。

 「仄」は「ほのか」「側」は「かたわら」と訓読されると、「仄聞」を「側聞」とするのは乱暴のようですが、「仄」は「脇から寄る」という意味で「側」と同じ意味なので「側聞」も「仄聞」も同じ意味です。
 逆に訓読みが同じなら別の文字でも同じ言葉とみなすことができる場合があります。
 「涜職」を「汚職」にしてしまうのは乱暴のようですが、「涜」も「汚」も訓読すれば「けがす」ですから共通の意味を持ちます。


漢字の解釈と読み

2008-05-24 23:41:49 | 言葉と文字

 日本語で使う漢字には音読みと訓読みがありますが、訓読みというのはもともとは漢字の和訳で、意味を示すものです。
 たとえば「上」という字の訓読みは「うえ、うわ、かみ、あげる、あがる、のぼる、たてまつる、ほとり」などですが、これは「上」という漢字が多義語なので、意味の違いに応じて和訳したものです。
 語の意味の訳を読みにしてしまうというのは、日本語での漢字の使い方に特有のものです。
 これは英語に対してならば、topという語を「あたま、てっぺん、うえ、やね、いちばん、さき、うわつら」などと読むようなものです。
 日本語の中に英語が入り込んできているといっても、topは日本語読みしても「とっぷ」であって、「あたま」とか「うえ」というふうに読むことはありません。

 漢字が日本語の中に深く入り込んでいるといっても、日本語に対して漢字が全面的に対応しているわけではありません。
 「手を上げる」という場合、上にあるものを取るのに手を上げるという意味だけでなく、「降参する、万歳する、暴力を振るう、腕前があがる、酒量がふえる」などといった意味がありますが、漢字の部分は同じです。
 「あげる」という語を辞書で引くと「上げる、揚げる、挙げる」などと漢字で書き分けるようになっていますが、日本語の意味のほうは図に示されているものの他にもまだたくさんあって、漢字で細かく書き分けるというわけにはいきません。

 漢字を使わなくても「あげる」という意味はわかるのに、漢字で書き分けようとするとかえって迷ってしまうのは、書き分けというのが実は翻訳だからです。
 漢字をよく勉強していて、漢字に詳しい人は日本語を漢字に訳すことができるかもしれませんが、普通の人は少ししかできません。
 漢字は日本語のために作られたわけではないので、なんでも漢字化しようとするのは難しいのがあたりまえです。
 ムリに漢字化しようとしても、適当な漢字がなければ漢字を創作しようということになるのですが、これには副作用があります。

 たとえば「しつける」という言葉がありますが、漢字を当てると「仕付ける」とか「為付ける」というふうになるのですが、礼儀作法を身につけさせるという意味に対して「躾」という漢字を作ってしまうと、これが元の意味のような印象ができてしまいます。
 「しつけ」を「躾」と覚えてしまうと縫い物の「しつけ」や農業の「しつけ」の意味が推量できなくなってしまうのです。
 また「峠」という字が作られると「尾根のたわんだところ」という感じが薄れて「山の頂上」のように受け取られたりします。
 漢字が表意機能があるからといっても、全面的にもたれかかれるわけではないのです。


漢字と視覚的記憶

2008-05-20 23:33:16 | 言葉と文字

 漢字は読めても書けないということがあります。
 ワープロなどを使うようになると、どんどん漢字を書けなくなるというのですが、これはワープロのせいではなく、手で書かないからです。
 読むほうは本だけでなく、新聞や雑誌などを読むので忘れないのですが、書くほうは手書きをしないので忘れてしまうのです。
 読めるということは、視覚的に漢字を記憶しているのですが、書こうとして書けないということは、視覚的な記憶があいまいだからです。
 もし漢字の視覚的イメージがアタマにハッキリ思い浮かべられるならば、その視覚イメージをなぞればよいのですから、書けるはずです。
 山とか川とか木などといった簡単な形の字ならば、アタマにハッキリと思い浮かべられますが、複雑な字になると細かいところはボンヤリしてうまく思い浮かべられません。
 
 漢字を書けるようになるためには何度も書いて覚えるというのが伝統的な方法で、江戸時代の寺子屋でも書くということを主体にして字を覚えさせています。
 書かなくても覚える方法というのもないわけではありません。
 たとえば旧字体の桜は木偏に貝が二つに女と書くので、「ニカイの女がキにかかる」といったり、旧字体の恋という字は糸と言と糸の下に心と書くので「イトシイトシという心」というふうに覚えるというのです。
 欝という字などは林四郎というふうに覚える人もいたそうです(この場合は正確ではありませんが、字の概略を伝えるのでこれを手がかりにするのです)。
 こういう覚え方はおもしろいのですが、覚えようとする漢字が増えてくると手がかりを考えて覚えるのに多くのエネルギーがいるので実用的ではありません。
 このように手が込んだ覚え方が考案されるということ自体、複雑な漢字を視覚的に記憶することがいかに困難かを示しています。

 英語の場合は読めれば知っている単語の意味が分かり、、難しい綴りであっても発音に応じた綴りを書けば、それが間違っていてもなんと書こうとしたのか推測できます。
 ところが漢字の場合はある程度の読みの規則を知れば音読はできますが、意味は分かるということにはなりません。
 図のBの例では音読みは「セイ、トウ、キン、シ、ホウ、カ、ボウ、オウ」と読めますが意味が分からないかもしれません。
 お経を聞いても意味が分からないのも、すべてが漢字でそれを音読みしているからです。

 これにたいし本来の漢字でなく日本で作られた漢字は音読みはありませんが、意味を説明されればなるほどと思うので、意味すなわち読みとなり記憶に残りやすく書き方も覚えやすくなっています。
 覚えやすいのは形というよりも意味づけが覚えやすいからです。

 日本語は同音異義語が多いので漢字にすることで意味が伝わるというふうに言われることがありますが、漢字熟語があってそれを覚えたのであって、言葉があってそれに漢字をあてがったわけではありません。
 Dの例のように「こうかい」という読みに対応して熟語がたくさんあるといった場合に、ラジオニュースなどで使われたとしても、いちいち漢字を思い浮かべるなどということはありません。
 漢字熟語の多くは書かれた文章の中でしか使われないので、同音異義語が他にあってもかまわないのです。


聞いて分る重言

2008-05-19 23:37:37 | 言葉と文字

 日本人は会話をするとき漢字でどう書くかを思い浮かべているという人がいます。
 日本人が使う言葉は同音異義のものが多いので、意味を説明するとき漢字でどう書くかということですませることがあります。
 たとえば学校の「しりつ」と言ったのでは「私立」か「市立」か紛らわしいので「わたくしりつ」とか「いちりつ」といえば、「私立」あるいは「市立」という漢字を思い浮かべて理解してもらえるというわけです。
 漢字でどう書くかということが会話の中に入ってくるということから、会話をしているときに漢字の視覚的イメージが思い浮かべられるとして、日本語はテレビ型言語だという説もあります。
 しかし実際には人の話を聞いて、使われている言葉にたいしてその漢字が思い浮かぶなどということはほとんどありません。

 たとえば「独活の大木とかけて、郵便やととく、ココロは、はしらにゃならぬ」という謎を聞いて「柱にゃならぬ」「走らにゃならぬ」と二つの漢字が頭に浮かぶわけではありません。
 「柱」と「走」の意味は漢字を思い浮かべるより前に頭に浮かびますから、わざわざ漢字を思い浮かべなくても済むのです。
 文字で書くときも「はしらにゃならぬ」とカナ書きすればそれで謎解きができるので、漢字にする必要はありません。
 これを漢字で書こうとすれば「柱にゃならぬ」、「走らにゃならぬ」と併記しなければならなくなり、かえって分りにくくなります。

 「馬から落ちて落馬する」「落雷が落ちた」などといえば同じことを重ねて言っているので、オカシイ表現だと笑われますが、「あとでコウカイする」という場合はそのままとおってしまいます。
 「はんざいをオカす」「ひがいをコウムる」という表現は、テレビなどでも頻繁に使われていますから、重言であることが意識されません。
 これらは漢字に書けば「犯罪を犯す」「被害を被る」となりますから、何かヘンだなと抵抗感が生まれます。
 「えんどうまめ」は漢字で書けば「豌豆豆」、「ちゃのみじゃわん」は「茶飲み茶碗」または「茶飲茶碗」ですから漢字を思い浮かべていたのでは混乱してしまいます。

 重言は無駄なのだからやめればよいといっても、「えんどう」といっただけでは通じにくい場合がありますし、「ちゃのみわん」といったのではかえって分りにくくなります。
 「あとでこうかいする」、「いまだにみのう」などは重言には違いないのですが、表現としては単に「コウカイする」「ミノウ」というよりも強調表現となっていますし話し言葉としてはリズム感があり、耳に訴えるものがあります。
 漢字熟語でも「おおきい」と「巨大」では語感が異なり「巨大」のほうが迫力がありますし、「あがる」「さがる」より「上昇」「下降」のほうがインパクトがあります。
 重言は余分を加える言い方なのですが、これをすべて無駄とか間違いだとか言って排斥すべきではないのです。
 


日本語の漢字化

2008-05-19 00:08:55 | 言葉と文字

 「ダイコン」といえば「大根」と書くので漢語のようですが、もとは日本語である「おおね」を漢字に翻訳したものです。 
 「おお(大)ね(根)」と意訳して読みを漢語風に音読みにしてダイコンとしたものです。
 同じような例で「おおごと」→「大事」(ダイジ)、「ひのこと」→「火事」(かじ)などがありますが、音読のほうが歯切れがよいせいか、漢訳のほうが通用するようになっています。
 カナを発明したのですから、元来日本語である単語をわざわざ漢字で表現しようとすることはないと思うのですが、日本人は漢字が好きなせいかともかく漢字で書こうとしたようです。

 上の例は意訳ですが意訳が難しい場合は単に読みをあわせる形で、江戸時代の候文などは「闇雲」に漢字化しています。
 「馬穴」(バケツ)、「三馬」(さんま)などは夏目漱石の小説に出てくる当て字で、面白がらせるためにやっているのですが、こうした文字遊びのようなものが漢字好きの日本人にはうけるのです。

 漢字はもともとは外国語ですから、漢字の音読みを聞いても日本人には意味が分かりません。
 「咄」という文字は音読みは「トツ」ですが中国人なら「舌打ち」の意味だと思うのに、日本人は辞書を引かなければ分りません。
 中国語であっても音声が先で、文字が後からできたのですから、「トツ」と読めれば意味が分かるのです。
 日本人がこの字を見て読みが「トツ」であると分かっても意味は分からないので、文字の構成要素から推理をしてしまいます。
 そうすると口から出てくるものと考えて「はなし」と判断したのでしょう。
 口から出るのは話とは限らないので、「はなし」と決め込むのはおかしいのですが、「はなし」であってはいけない理由もないので、もとの意味にはない訳が定着してしまったのです。

 漢字には表音要素と表意要素が含まれている場合が多いのですが、中国人なら表音要素からも意味が分かるのに、日本人は分らないので、表音要素も表意要素と感じてしまいます。
 「親」という字を「木の上に立ってみる」などとして「木の上に立って子供を見守る」から親という意味なのだなどという説明までがまかり通っています。
 「嘘」、「樋」などの例も、漢字の元の意味とは違った解釈を、漢字の構成要素から日本人の感性で意訳して「うそ」とか「とい」と訓読みをしているのです。

 漢字を表意語であると考えると、どの日本語でもそれに対して漢字を当てることができます。
 この場合は、翻訳なのでひとつの単語について一通りとはかぎらないで、いくとおりもの表現が可能なのです。
 たとえば「いれずみ」は漢語では「黥」ですが日本語の「いれずみ」に対しての当て字は文身、刺青、入墨、天墨、彫物、我慢などといくつもあってそれぞれが説得力を持っているのです。
 


純粋な表意文字

2008-05-17 23:24:48 | 言葉と文字

 漢字は表意文字とか表語文字とかいわれますが、中国語の文字としては基本的には表音文字です。
 漢字が日本で使われるときは、音読みと訓読みというのがあり、訓読みというのは漢字の日本語訳です。
 日本語では表音文字としてカナが作られたため、かならずしも表意文字が絶対なければならないということではありません。
 読みにくいとか、分りにくいとかいっても、工夫をすればまがりなりにもカナ書き文で意味は通じます。

 漢字と訓読みをすべて対応させようとすると、中国にあって日本にないものは訓読みできないので、音読みのまま受け入れるしかありません。
 また日本にあって中国にないものについては、新しく漢字を作ろうとするようになります。
 馬とか梅はもともとは日本になかったので、「マ」「メイ」という音読みが変化して「むま」→「うま」「むめ」→「うめ」となり訓読みのような感じとなっています。
 「菊」のように変化しにくいものは「キク」のままですが、日本語に溶け込んでいるため、訓読みのように感じます。

 「榊」とか「峠」、「辻」などは日本で作られた漢字で音読みはなく、文字の中に表音要素がありません。
 文字を見て説明を聞けばなるほどと意味が分かりますが、「サ、カ、キ」という音声のどの要素もこの文字には反映されていません。
 「働」とか「搾」のように漢字の意味を拡張させたもの(動→働、窄→搾)はもとの漢字の音読みが残されています)は例外としてありますが、基本的には表音要素のない表意文字です。

 日本語に漢字を当てて表意文字を作ると、一字で文字を造字するよりもいくつかの漢字を組み合わせた熟語の形にしたほうが表意しやすいと考えるようになります。
 表意語ということになると表意方法は何種類も可能なので、同じ言葉について漢字表記がいくつもできるようになります。
 表意文字とか、表意語というのは極端に言えば勝手にいくらでも作れるのです。
 たとえば「ほととぎす」は漢語では「小杜鵑」ですが「不如帰」ほか何種類もの表記ほうがあります。
 「あじさい」も漢語では「洋毬花」だそうですが、日本語では「紫陽花」他何種類かの表記があり、どれも「あじさい」という音声を反映してはいません。

 なまじ音声を意識すると「あゆ」のように寿命が一年なので「年魚」といったのが「ねんぎょ」→魚偏に「ねん」→「鮎」(ネン)と表記して、本来の漢語の「鮎」(なまず)と衝突してしまったような例もあります。
 「鰒」も漢語では「あわび」のことなのですが、「フク」と音読みして「河豚(ふぐ)」のことだと思ってしまったようです。
 
 日本語で漢字にルビを振るのは読みを分らせるためですが、すべて音読みならばルビはあまり必要ありません。
 音読みは表音要素があるのである程度読み方を会得すれば、ルビなどなくても読みは可能です。
 漢字の中に訓読み用の表音要素がないからルビが必要になるのですから、もしルビを廃止しようとするならば、当て字をむやみに使うことをやめるべきなのです。
 しかし当て字を全部やめてしまうと、日本語としては味気のないものになるので兼ね合いが難しいところです。


言葉を思い出す手がかり

2008-05-13 22:40:51 | 言葉と文字

 「むやみに軽はずみな行動をすること」を四字熟語でなんと言うか思い出そうとするとき「軽」という漢字が示されると「軽挙妄動」という熟語が思い出されます。
 「不意に現れたり消えたりすること」は「神」という字が手がかりとして示されれば「神出鬼没」と答えられます。
 「軽」とか「神」という手がかりがあると、記憶の中にある「軽挙妄動」とか「神出鬼没」といった熟語が引き出されるのですが、このときてがかりとなっているのは、視覚刺激としての「軽」や「神」という文字なのか、聴覚刺激としての「けい」や「しん」という音読みなのか分りません。
 漢字の視覚的な特徴を重視する人は「軽挙妄動」や「神出鬼没」という漢字の文字列の視覚的記憶が思い出されると考えるでしょう。 

 ところが「軽」や「神」は音読みでは「けい」、「しん」なので、文字を見たとき「けい」、「しん」と音読みすれば、それにつれて「けいきょもうどう」、「しんしゅつきぼつ」という音声イメージの記憶が思い出され他とも考えられます。
 文字をあまり知らない人でも、耳からの知識で覚えているという場合もありますし、熟語の全部の漢字を覚えていなくても、読み方の記憶だけが残っているという場合もあるのです。
 従ってこういう場合は手がかりが「け」とか「し」のようにもっと短い手がかりでも思い出される可能性があります。

 言葉を思い出す場合の手がかりとして、「どんな意味か」とか、「どんな字を書くか」といった文字イメージのほかに、「××」がつくというような音声の一部を利用する場合があります。
 音声手がかりは何となく幼稚な感じがするのか、文字手がかりのほうが強調される傾向がありますが、それは学者の感覚で、一般的には音声手がかりのほうが有力です。

 漢字の読みを覚える場合、たとえば「独活」は「うど」、「梔子」は「くちなし」ですがこのまま覚えようとしても忘れるので、思い出す練習をするのですが、答えを伏せて思い出そうとするだけでは覚えにくいものです。
 このとき手がかりとしての最初の音「う」とか「く」を漢字と同時に見るようにすると思い出しやすくなります。
 手がかりとしての「う」とか「く」を見て思い出せるようになったら、手がかりなしで思い出す練習をするというふうにすると覚えやすくなります。
 英語の単語を覚えるときでも、日本語訳を伏せて思い出すというやり方の前段階として、日本語の最初の音を手がかりにして思い出すという練習をすると記憶しやすくなります。
 これは意味に対応する文字を視覚的に記憶することは難しく、対応する音声を記憶するほうが容易で、音声を引き出す手がかりを示して思い出すほうが思い出しやすいためです。