60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

脳と読書

2009-01-13 22:38:58 | Weblog

 図はメアリアン.ウルフ「プルーストとイカ」から。
 上は大人の英語の読み手が文字を読んでいるときの脳が活動している場所を示したもので、左側の脳の一部が主に使われていることがわかります。
 右下の図は子供など、文字の読みについては初心者の場合の脳の活動領域を示したものです。
 これらのずを見ると、文字を読む能力が発達している場合に比べ、能力が未発達の場合のほうが広い範囲にわたって脳を使っていることがわかります。
 子供が文字を読むときは大人よりも脳の活動は左右両半球のハタラキが広い範囲で、はるかに活発な働きをしています。
 このことについての説明は、どんな技能もそれを身につけるときは、脳のいろんな部分を使い多大のエネルギーも必要ですが、上達につれて無駄なハタラキをしなくなり効率が向上するからだとしています。

 これはもっともな話で、体の運動の場合でも技術が身につかないうちは無駄な筋肉を使ったりするため、効率が悪くエネルギーを余分に使うので疲れます。
 多くの筋肉を使ってくたびれるからといって、より身体が活性化しているというふうには思わないでしょう。
 筋肉を効率的に動かせるようになれば、あまりエネルギーを使わずに効果的な運動が出来るのですから、筋肉をやたらに動かしているほうが活性化していると評価することはありません。
 脳の場合も使い方が効果的かどうかを無視して、単に広い範囲で血流量が多い、つまり活性化しているといって喜ぶというのはどうかしているのです。

 日本では、文字を音読しているときに、広い範囲にわたって脳が活性化しているということから、脳を鍛えるには音読が良いという風に信じられるようになったのですが、これはもう一度考え直す必要があります。
 まず、脳を鍛えるというのですが、目的は何なのか、またどのような状態が鍛えられた状態なのかあいまいです。
 身体の場合にたとえれば、特定のスポーツの能力を身に着けるのであれば、それぞれに応じて鍛え方が違うはずです。
 相撲とマラソンでは訓練方法は明らかに違いますし、結果としての身体の形も違います。
 ばくぜんと身体を鍛えるというと、ボディビルのようなものをイメージする人もいるかもしれませんが、ボディービルダーが身体の望ましい鍛えられ方だというわけではありません。
 そのボディービルにしても、筋肉の鍛え方はシステマティックで、単に多くの筋肉を同時に動かせばよいというものではありません。

 音読をしているときは脳の多くの部分の血流量が増し、それも速く音読するときに著しく脳が活性化するということで、音読で脳を鍛えようとするらしいのですが、この活動は長くは続けられません。
 10分もやれば相当に疲れてしまいますから、本などを読むという目的には適いません。
 速く音読したところで10ページともたないだけでなく、意味の理解もおぼつかないので、読書としては不適格です。
 身体を動かす場合でもやたらに速くいろんな場所を動かせば、全身に血が回るということにはなりますが、すぐに疲れてしまいますし、運動能力は向上しません。
 ともかく脳の血流量が広い範囲にわたって増えたのだから、脳が鍛えられているに違いないというのは粗雑な考えです。
 脳の血流量を増やすために音読するというのは、脳をほとんど使わなくなった人には意味があるかもしれませんが、普通の人間には意味がありません。

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計算と脳の働き

2009-01-09 23:15:18 | 脳の議論

 図は、川島隆太「脳を育て、夢をかなえる」からのもので、大学生を使って、計算をしているときの脳の血流状態を画像化したものです。
 赤くなっているところは、脳の血流量が多く脳が活性化している事を示していると考えられています。
 Aは5+7とか6+3のように一桁の足し算をゆっくり暗算で解いているときの脳の状態で、Bは速く計算しているときの状態です。
 Cは54÷(0.51-0.19)というような、やや複雑な計算を暗算で解いているときの状態です。

 この結果から見ると複雑な計算をしているときは左の脳の一部分だけが強く活性化するだけで、簡単な計算をしているときと比べ脳はあまり使われていないように見えます。
 常識的に考えるなら、簡単な計算をするより複雑な計算をするほうがアタマを使うし、計算あるいは数学の能力が向上すると考えられはずです。
 ところが、脳の血流量という点で見ると、簡単な計算をするときのほうが脳の多くの場所で血流量が増え、脳が活性化しているようにみえます。
 そこで、複雑な計算をするより簡単な計算をするほうが、脳がより鍛えられるから、脳を鍛えようとするなら簡単な計算のほうが効果的だといった考えが生まれるようです。
 極端な人は簡単な計算をしていれば、学力が向上するように主張したりします。

 もちろん簡単な計算ばかりしていては、いつまでたっても数学の能力が向上するわけはありません。
 子供が簡単な計算が出来るようになったら、さらに複雑な計算が出来るように教育しなければ、学力が向上しないので、いつまでも一桁の計算ばかりさせていれば、個人的にもまた日本全体としても不幸な結果を招くだけです。
 それでも、簡単な計算をしているときのほうが、脳の血流量が多いのだから、やはり簡単な計算のほうが脳を活性化させるのではないかと思うかもしれません。
 しかし脳の血流量が増すことが、すなわち良いことで、脳が鍛えられて能力が向上すると単純に考えるのはどうかと思います。

 第一に、複雑な計算のなかには、単純な計算が含まれているので、複雑な計算をしたら脳が活性化しないというのは不審です。
 複雑な計算をするときは、計算の過程を考えてこれに注意を集中し、途中の結果を一時的に記憶しなければならないというふうに、簡単な計算に比べれば多くの種類の脳の働きが必要です。
 より集中力が必要で、そのため計算に必要でない部分の脳の働きを抑制しなければならないので、その結果狭い範囲しか活性化していないと考えられます。

 第二に、AとBを比べればわかるように、簡単な計算でも速くやったほうがずっと多くの場所で血流量が増え、脳が活性化しているように見えることから、速くやることが良いことだとしてしまうことです。
 もちろん一桁の足し算ぐらいは、考えなくても出来るくらいは速くなったほうが、より高度な計算をする上で有利ですが、それはそこまでのことでです。
 たとえば、からだの動きにしても、何でもヨイから速く動かせば、体の血流量が増し活性化したことになりますが、合理的な動かし方をしなければ運動能力は向上しません。
 準備運動にしてもやみくもに速く手足を動かしたのでは、かえって害になることもありますし、ゆっくり動かした方が良い運動もあります。
 血流量が増えることが活性化であるとするのはよいとしても、それが直ちに価値のあることだと考えてしまうのは即断です。
 簡単な計算をすると脳の血流量が増すというのは、画期的な発見だったのでしょうが、その原因はまだよくわからないので、脳が鍛えられるといったところで、どんな風に鍛えられるのかはハッキリしません。
 脳を鍛える万能薬であるかのように過剰な期待を持っても、結果が得られないので、近いうちに計算熱も冷めるかもしれません。

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速読とストループ効果

2009-01-06 23:13:31 | 眼と脳の働き

 左の図で文字ではなく文字の色を答えようとするとき、つい文字を読んでしまいそうになります。いわゆるストループ効果です。
 そのため文字を読むときに比べ、答えるのに時間がかかったり、間違って文字を読んでしまったりします。
 この課題を実行するとき脳の前頭葉が使われるということで、また前頭葉に問題のある人はこの問題の成績が悪いとかで、この問題を実行することが前頭葉を鍛えることになるというふうに考える人もいます。
 この問題にはポイントが二つあって、ひとつはものの名前を言うより、文字を読むほうが自動化されていて速いので、色の名前より文字の読みのほうがさきにでてくるということです。
 もうひとつは、簡単な問題でもスピードを上げて速くやろうとすると、前頭葉が活発に働くようになるということが知られています。
 
 前頭葉を使う課題はそれこそいくらでもあるので、このような課題にとくに注目する理由はわかりません。
 この課題を実行すれば前頭葉が能率的に鍛えられ、ほかのアタマを使う能力も向上するという期待があるのかもしれませんが、そういうことは確かめられていません。
 繰り返し練習すれば、間違えずに早く答えることができるようになるかもしれませんが、だからといってほかの能力も向上するとは限りません。
 どうせ前頭葉を使う作業をすうrというなら、新しい物事やことばを覚えたりするほうが有用な気がします。

 右側の図は文字の配置がランダムで、しかもいろんな角度で表示されています。
 こちらの場合は、文字の色を答えるとき、左の場合よりも戸惑いが少なく、文字を読んでしまうということもおきにくくなっています。
 文字の大きさは同じになっていますが、逆さまになったり90度回転したものがあったりして、そうした文字は読みにくいので、自動的に読んでしまうということが少ないためです。
 わざと読みにくくしてあるのだから、読みが遅れその結果文字の色を先に答え易いということなのですが、そんなことをする意味があるかと思われるでしょう。

 アメリカの速読法の訓練の例を見ると、いろんな方法で文字を読みにくくして、文字を読み取らせようとしているのがあります。
 綴りを逆さまにしたり、母音を抜いた文章や、単語の文字配列の一部を変えたりして、読みにくくしたものを読ませるのです。
 これは単語や文章のすべてを正常な状態で見なくても、単語や文章の意味を理解できることを目指しているからです。
 文章をすばやく読もうとすれば、単語や文字の細かい部分をすべて確認しなくても、部分的な情報から自動的に読み取る能力が必要となります。
 速読などをしなくても、文章を理解するためには、あるていど文字や単語を自動的に読み取る能力が必要で、そのために長い教育期間が投じられています。
 文字を自動的に読むという能力自体は、長い学習の結果得られたもので、その能力を抑えて、文字の色を答えるというような訓練をすることにどんな意義があるのか不思議ではあります。

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分類の判断

2009-01-02 23:09:10 | 視角と判断

 知能テストなどに使われたもので、仲間はずれはどれかという形の問題があります。
 たとえば「みかん」「りんご」「バナナ」「ミートボール」のうち仲間はずれはどれかというのがあります。
 最近はいじめ問題などが注目されているので、仲間はずれという言い方は穏当でないかもしれませんが、子供に分類が異なるのはどれかと言ってもわからないので、仲間はずれという言い方をしたのでしょう。
 答えは、「バナナ」というのでしょうが、大人なら「ミートボール」ではないかと思うかもしれません。
 ほかの3つが果物で、生のまま食べられるのに、ミートボールは肉の加工食品で加熱処理をしなければ食べられないからです。
 この問題は文字で出題されていると、わかりにくいのですが、絵で出題されていれば、目で見て丸い形をしていないのがバナナだけで、幼児にとって答えやすいでしょう。
 
 目で見て判断する課題でも、図の2番目の例のような場合は考えなくてはわからないかもしれません。
 答えはCでほかの例では二つの図形が左右対称の組み合わせになっているのに、Cだけが非対称になっているからだといいます。
 この答えに納得する人は多いでしょうが、この場合にも人によっては別の答えが正しいと思う可能性があります。
 たとえばBは直線だけでできている図形で、ほかの図形は直線と曲線でできています。
 またAは左右の二つを近づけて合わせればピタリとつきますが、他はくっつけたときの接点はひとつです。
 さらにDは半円と直角三角形と二種の図形の組み合わせで、ほかは一種類の図形の組み合わせです。

 こうなるとドレを選んでも正解になりうるのですから、いっそのこと問題を変えて、ドレかひとつを選び、ほかの図形とどのように違うかを説明させるほうがよいかもしれません。
 あるいは任意の三つを選び、共通要素を見つけよという問題としてもよいでしょう。
 このような分類課題については、正解とされるものに対して異論を持つ人がいつもいて、正解をするのは知能と関係ないという意見もあります。
 それでもこうした問題が作られたのは、どのような分類基準が重要かということについて、かつては暗黙の了解があったからでしょう。

 たとえば、左右対称ということについては、孔雀が雄を選択するとき羽模様が左右対称であるものを選ぶとか、左右対称の顔が美人に見えるといったことが言われたりして、非常に重要視されたことがありました。
 しかし人間の脳でも左右の脳は形も機能も同じではありませんし、心臓の位置も真ん中ではありません。
 手や足がまったく左右同じであれば、人間は単純な動きしかできず、知能も発達しにくかったでしょうから、今ではなんでも左右対称がよいということではなくなっています。
 現代のように価値観が多様化してしまうと、分類課題のような問題は答えの正しさの客観性が保証されません。
 回答者は、出題者がどんな分類基準を考えているのかを推量して答えなければ正解することができないというようなことになります。
 出題者の意図を推量する能力が求められるということで、その意味では知能テストとして有効だということになります。

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類推による説明

2008-12-30 22:26:24 | 視角と判断

 図Aでは、左側の縦線は外向きの<印にはさまれていて、右側は内向きの>印に挟まれている結果、左の縦線のほうが長く見えます。
 左側のほうが長く見える原因の説明として、左側は部屋の隅を連想させ、右側ワ建物の角を連想させるからだというのがあります。
 部屋の隅を連想させるというのは縦線の部分が引っ込んで置くにあるように見え、右側は建物の角を連想させるので、手前に突き出ているように見えるというのです。
 同じ長さであれば、引っ込んで置くに見えるものは長く見え、手前に突き出ているものは短く見えるので、左側の縦線の長さが長く見えるというわけです。

 平面図の上で同じ長さのものが、遠くにあるように見えれば長く見え、手前にあれば短く見えるというのは、B図のような例で確かめられます。
 B図では、斜めの二本の線が奥行きを感じさせるため、二つの水平の板は上のほうが遠くにあるように感じるので長く見え、したの不が近くにあるよう感じるので短く見えます。
 こうした例からすれば、A図で左側のほうが長く見えたのは、左側の縦線が奥まって感じられて長く見え、右側の縦線は手前に感じられて短く見えるのだという説明が正しいように見えます。
 ところがB図と同じ大きさの板をC図のように配置してみるとどうでしょうか。
 >と<の外向きの矢羽に挟まれた軸線が奥にあるように感じられ、<と>の内向きの矢羽に挟まれた軸線が手前にあるように感じられるとするならば、B図と同様に上の板のほうがしたの板よりも長く見えるはずです。
 
 C図で二つの板を見比べてみると、上のほうが長く見えると思いきや、そう見えないばかりか、逆に上のほうが短く見えます。
 矢羽の向きが遠近感を感じさせることで、間に挟まれた軸船の長さ違って見えるというならば、このようなことは起き得ないはずです。
 あるいはCの上の図のほうが奥にあるように感じられるけれども、何かほかの要因が働いて、奥行き感による見え方を打ち消して、見え方を逆転させてしまっているということも考えられるかもしれません。
 そうだとしてもB図とC図では見え方が逆転しているのですから、やばねが遠近感を感じさせるという説明は苦しいといわざるを得ません。
 
 A図で左側のほうが部屋の隅を連想させるので奥まって見えるとか、右側のほうが建物の角を連想させ、手前にあるように見えるというのは、形の類似からの類推です。
 実際に左の縦線が奥に見えるとか、右の縦線が手前に見えるというのではありません。
 もし、左側の縦線が奥まって見えるというのであれば、部屋の隅を連想させるとか、右側は建物の角を連想させるという必要はありません。
 理由がわからなくても、奥まって見えたり、手前にせり出しているように見えるのなら、
説明は要らないのです。
 実際は、そのような説明がなくても、左側が長く見え、右側が短く見えるのですが、部屋の隅が奥まって見えたり、建物の角が手前にせり出して見えるということから類推して、左側の縦線のほうが長く見えるとしているのです。
 つまりこの説明は、実際に確かめたものでなく、類推による説明にとどまっていたのです。

 矢羽に挟まれた軸線の長さが矢羽の向きによって違って見える原因は、遠近感によるものではなさそうだということは、D図のように片側だけを取り出して比較してみるとよくわかります。
 D図では水平な軸線は同じ長さなのですが、どうしても上の図の軸船のほうが長く見えます。
 この場合は矢羽が片側だけなので、部屋の隅を連想させたり建物の角を連想させるということはありません。
 それにもかかわらず、上の軸線のほうが下の軸線よりかなり長く感じられます。
 片側だけでかなり差があるように感じられるのですから、A図のように両側が示されればさらに長さの違いが感じられのです。
 心理学の説明は類推が多いのですが、実際に類推が当てはまるのかどうか確かめられる場合は、この場合のように確かめてみるべきなのです。

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漢字の読み方

2008-12-26 23:58:48 | 言葉の記憶

 明治時代にはゲーテ(Goethe)のことをギョエテとかゴエテと表記したということがおかしな話として伝えられています。
  いまはゲーテと表記するのが通り相場となっているので、明治時代にいろんな読み方で表記されたのを見て、ずいぶん滑稽な読み方をした人もいるものだと感じてしまいます。
 シカシ、ドイツ語など知られていなかった時代では、綴りを見てどのように発音してよいかわからないけれども、カナ表記しなければならないので、なんとか当て推量で表記したのでしょう。
 読み方が分からないでヘンな表記をするぐらいなら、原語のままアルファベットで表記すればよいと思うかもしれませんが、読みを与えないと頭に入らないので、無理にでも読みをつけてしまったのです。
 ヘンな読みを与えてしまっても、意味がかわるわけでなく、ギョエテと表記したところで、Goetheはファウストの作者であることに変わりはありません。

 漢字の場合でも、正式な読み方がわからないまま、当て推量で自己流に読んでそれが頭の中に定着してしまうという例があります。
 たとえば「生食」は「せいしょく」と読み、「なましょく」と読むと間違いとされていました。
 実際広辞苑などの国語辞典で、「なましょく」と引くと該当語がでてこないで、もちろん「生食」という語はでてきません。
 しかし実際には生のままで食べることを、現在では「せいしょく」というより「なましょく」という人のほうが多いようです。
 書き言葉では「生食」と書けばどのように読むにせよ「生のままで食べる」ことだと意味が伝わりますが、話し言葉では「せいしょく」ではわかりにくいという問題があります。
 「せいしょく」と聞けば生食だけでなく、生殖、聖職、青色、生色、声色、星食などといった語があって一瞬どんな漢字か迷ってしまいます。
 もちろん文脈を考えれば、「生食」と他の単語は意味が違うので紛らわしくはないといえるのですが、聞いてすぐにわからないという人も多いのです。
 そこで正規の読みではない「なましょく」いう読み方が導入され、この方が感覚的にわかりやすくて定着したのではないかと思われます。
 逆に「甘食」という言葉は、「かんしょく」ではなく「あましょく」が正解ですから、漢字の読みは難しいものです。
 「盛土」を「もりど」と読むのは間違いということになっていますが、正しいとされる「もりつち」よりも「もりど」という方がすっきりしているの、で誤っているはずの「もりど」という呼び方が広がってしまったのでしょう。

 最近、総理大臣が「踏襲」を「とうしゅう」と読まず、「ふしゅう」と読んでしまったということで、ずいぶん話題になりましたが、正式な読みが分からないでとりあえず当て読みしていたのが頭の中で定着してしまっていたのでしょう。
 もちろん意味がわからなかったわけではないのでしょうが、ほかから注意されないと間違ったままでいることになります。
 小説家でも「場末」を「ばまつ」と読んでいた人がいるので、こうした間違いは誰でもありがちなことかもしれません。
 総理の場合は、かなり前から間違い読みをしていたことが知れていたそうですが、地位の高い人には注意する人がいないため、直らないままだったものと思われます。
「踏襲」とか「未曾有」という言葉は、書き言葉で話し言葉に頻繁に登場するするものではないので、読み方の間違いには気がつかなかったのかもしれません。
 
 漢字は目で覚えられるといわれていますが、実際には間違っていても読みが与えられないと覚えにくいものです。
 たとえば子供にタケノコの絵を見せて、「筍」という字を同時に見せれば、筍という字を簡単に覚えるというのですが、この場合「タケノコ」という音声言葉を知っているから漢字を覚えられるのであって、知らなければ読みが分からないで漢字を覚えるのはずっと難しくなります。
 もちろん絵と漢字をつないで覚えるというやり方では、筍のほかの意味である「ほぞ」とか「かけざお」といった意味を覚えるのはさらに困難です。
 読みと切り離して漢字を記憶するのが難しいので、間違った読みであっても結び付けて記憶してしまうものだということがわかるのです。

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文字の読み取りと理解

2008-12-23 22:35:02 | 視角と判断

 視線を動かさずにものを見続けていると、眼筋の調整が利かなくなり、二重に見えたりぼやけて見えるようになったりします。
 文字を読む場合は、一つ一つの文字が読み取りにくくなるだけでなく、文字のまとまりを一目で読み取ることが難しくなります。
 図の二番目のブロックは文字が二重に見えている例ですが、一つ一つの文字は読みにくいとはいえ、何とか読み取れます。
 しかし、この文全体をぱっと見て意味を理解するのは困難です。
 一番上の正常に見える文ならば、文字を一つ一つ見ていかなくても、全体を一見しただけで大体意味がわかります。
 これは「台風」とか「日本列島」、「上陸」といった語が瞬間的に読み取れるので、語の読み取りが自動的にでき、注意を個々の文字に向けなくてすむからです。

 文章を読む過程は、一つ一つの文字を目で見て確認し、文字の集まりを組み立てて単語を確認し、さらに単語を組み立てて文章を理解するというふうに考えられます。
 しかし、実際にはそうしたやり方をしていては時間がかかるだけでなく、意味を理解することがとても難しくなります。
 実際に読んでいるときは、単語や文字句を瞬間的に読み取って文章の意味を理解しています。
 単語や文字句が瞬間的に理解できるのは、それらが記憶されていて、見た瞬間に照合できるからですが、文字がぼやけたり二重に見えたりしてしまうと、自動的な照合ができなくなってしまいます。
 自動的な照合ができないと、文字をひとつづつ読み取って、アタマのなかで組み合わせて単語や文字句を組み立てなければならないので、脳のエネルギーをそうしたことに使ってしまうことになります。

 文字がぼやけるとか、文字が小さすぎたりすれば、文字を読み取ることに集中しなければならなくなり、その結果文字を凝視することになり、そのことが目を疲れやすくさせ、さらに文字を読み取りにくくするという悪循環となります。
 老眼になっても離せば焦点が合うので、文字が見えるといいますが、離した場合は文字が小さく見えるようになるので、読み取りにくくなります。
 焦点が合っても細かい字を読もうとすると、読み取りにくくなり、そのため目を凝らすようになるので、文章は理解しにくくなり、目も疲れるということになります。
 最近は高齢化対応なのか、新聞も書籍もやや活字が大きくなったので、かつてに比べれば読みやすくなっています。
 そういう意味では字形が複雑な漢字が制限されたり、旧字体から新字体に変更されたことは時宜にかなっているといえます。
 漢字を多くしてそのうえ旧字体を使い、さらに振り仮名までしたのでは、高齢者だけでなく、若い人の目にも負担になってしまいます。

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視力と理解力

2008-12-19 22:43:09 | 視角と判断
 図は1から9までの数字を配置していますが、2箇所だけ伏せてあります。
 伏せられている数字は何と何かを判断するのですが、左の二つの図の例では上のほうが楽に判断できます。
 左下の図では文字がぼやけてはいますが、読み取ることはできますから、どの数字がないのか判断するのに支障はないように思えます。
 しかし実際は左上の場合と比べると、判断するまでの時間が多くかかります。
 文字がぼやけているので、文字を読み取るのに時間がかかるということが理由として考えられますが、それだけではありません。
 どの数字が伏せられているかを判断しようとする場合、見えている数字を確認できれば自動的に答えがわかればよいのですが、見えている数字を参照しながら判断しようとするでしょう。
 
 たとえば1から9まで順番に数字を探していき、見当たらない数字を記憶していけば、どの数字が伏せられていたかを答えることができます。
 この場合には数字を探す過程で何度も全体の数字を見ていますから、前に見た数字の記憶が残っていれば探している数字があるかどうかすぐわかります。
 数字がハッキリ見えているほうが記憶に残るので、探す数字があったかどうかすばやく判断できます。
 数字を探している途中で見るときも、ぼやけてしか見えない数字は読み取りに時間がかかるので、合わせて時間が余分にかかるのです。
 文字を見分けるのに時間とエネルギーをとられ、さらに短期的な記憶に残りにくいので、判断がしにくいという結果になります。
 どの数字が欠けているかということを判断する判断力自体があっても、実際に判断する能力は、視力が落ちるとだいぶ落ちてしまうのです。
 
 それでは文字が読み取りやすければ読み取りやすいほど判断がしやすいかというと,必ずしもソウではありません
 右上の図は文字が大きくハッキリしているので、左上の図の場合と比べ伏せられている数字が何かを判断しやすいかといえば、逆にやや判断しにくくなっています。
 一つ一つの数字を見比べれば、左の図の場合よりも右の図の場合のほうが読み取りやすいかもしれません。
 しかし、全体としてみれば左側の図のほうが読み取りやすいのは、中心視野で一度にすべての数字を見ることができるからで、右側の図の場合は図の面積が広いので若干目を動かさざるを得ません。
 字が大きくなると、一字一字は読みやすくても、全体として捉えにくいので、半田スピードのほうは落ちてしまうのです。
 
 一方で、目を動かさないで全体を把握できるという点では、右下の図で見ると、かえって判断に時間がかかるようです。
 まして、一番下の右の図のように小さい字でしかもぼやけてしまうと、さらに読み上げに時間がかかりるようになってしまいます。
 このように簡単な数字の場合でさえも、文字が小さくさらにぼやけて見えてしまうと読み取りにくくなってしまうので、漢字の多く混じった書籍などになると読み取りにくくなります。
 さらに文字が読み取りにくいというばかりでなく、判断力にも影響が出てきますから、小さな文字で複雑な漢字を多く使った自体や字の大きさのせいで、目が疲れるだけでなく理解もしにくいものとなります。 
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視覚イメージと記憶イメージ

2008-12-16 23:42:51 | 眼と脳の働き

 脳の活動状況を計測し、そのデータ解析によって人間がものを見ているときの画像を再現することができるようになったといいます。
 国際電気通信基礎研究技術研究所が開発した技術では、画像を見たときの脳の視覚野の活動パターンをMRIで読み取り、コンピューターの画面上に元の画像を再現できたそうです。
 実験で使われた画像は簡単な図形やアルファベットですが、かなりもとの画像に近いもので、将来的には複雑な画像も再現できる可能性がありそうです。
 この実験でははじめに数百種類の図形やアルファベットを見たときの脳活動データをコンピューターに記憶させ、そのあと別の記号や図形を見せたところ、ほぼ完全に再現できたということです。
 
 見たことのある図形については、コンピューターで脳の活動パターンが記憶されているので再現できるのは当然でしょうが、見たことがない図形や記号でもそれに対応した脳の活動パターンを計算して再現できたのです。
 そればかりか実際に図形を見せなくても、頭に思い描いた画像を再現できたケースもあったそうで、このことから夢とか想像を再現することも将来的には可能になるかもしれないといいます。
 頭に思い描いたイメージを画像化できたということは、記憶しているイメージが画像化できるということですが、このとき見ている画像のほうはどうなったのでしょうか。
 実験のときは目を閉じるなどして何も見ないようにして、頭のなかで思い描いた画像のみに注意したのかもしれません。
 現実には何かものを見ながら別のものを頭に思い浮かべることは可能で、たとえば幾何学の補助線などは図形を見ながら思い浮かべることができます。
 このとき私たちは実際に見ている線と、頭に思い描いて付け加えた線を区別できていますが、脳の視覚野では区別できるのでしょうか。

 人間がものを見ているときは、写真のようにそのまま見ているわけではなく、経験イメージを参照して見ています。
 たとえば犬を見たとき、犬だと判断するのは犬のイメージが記憶にあって、それとの比較で犬だと判断するわけですから、このとき記憶されている犬のイメージは脳に呼び出されているはずです。
 頭に思い描いた図形や記号が、視覚野の活動パターンに反映されるのであれば、ものを見ているときに記憶から呼び出されるイメージも反映されるはずです。
 先の実験では見て記憶された画像イメージと、実験で見ている図形が同じなのですが、日常経験では記憶イメージと見ているものにはずれがあります。
 このとき脳はどちらのイメージが優先しているのかわかりません。
 人によっては目に見えているものしか見えず、記憶イメージのほうが強く、目に見えているものを見誤るということもあります。
 もしコンピューターの画像解析が進んでこれらを同時再現できれば、落ちている縄を見て蛇と錯覚しているとき、視覚野では、目に見えている縄のイメージが薄く、記憶から呼び出された蛇のイメージが濃く再現されるのかもしれません。

 

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視覚と脳活動

2008-12-12 23:24:52 | 脳と視覚

 図は国際電気通信基礎技術研究所(ATR)が、つい最近、図形や文字を見たときの人間の脳活動を測定してコンピューターで画面に再現した様子を示しているものです。
 20代と30代の男性二人に図形やアルファベットなどを見せ、大脳の視覚野の血流量の変化をMRIで計測し、脳の活動パターンから画像を解読するプログラムによって、元の文字や図形を再現したということです。
 被験者に見せたのは白黒の画像で、被験者が画像を見てから4秒後にほぼ原画に近い画像をコンピューターで再現しています。
 現在の段階ではごく単純な画像の再現に成功しているだけですが、かなりハッキリした画像です。

 新聞によっては、見ているままの状態を動画にすることにも成功し、将来はカラー化も可能だというふうに報じています。
 カラー化はともかく、動画にすることにも成功したというのは紛らわしい表現です。
 MRIは時間の分解能が低いので、速い時間変化にはついていけないはずですから、動いているものを見てその状態を再現するということは無理だと考えられるからです。
 したがって別の報道記事では、音楽の場合は時間的な変化を追う必要があるので、脳活動の測定が難しいと伝えています。
 これはもっともなハナシで、たいていの人は視覚イメージよりも聴覚イメージのほうがハッキリしていて、聴覚イメージを測定できるなら、その方が意思の伝達には都合がよいからです。
 たとえば「山のあなたの空遠く」という語句を、文字イメージとして思い浮かべるよりも、音声イメージとして思い浮かべるほうが楽で、ハッキリしています。
 音声イメージなら男声でも女声でも、子供の声でもさらには他人の声色でもイメージできるのに、文字では楷書、行書、草書その他の字体で自由自在に思い浮かべるというわけにはなかなか行きません。
 漢字などで複雑なものになると、視覚イメージでは記憶しきれずに、空書のように手書きのときの運動感覚の記憶に頼るという場合すらあります。

 新聞記事には、将来は夢やさらには妄想まで視覚イメージを画像化できるかもしれないというようなことが書いてありました。
 睡眠中に夢を見ているときや、空想をしているときにも視覚野が活動しているということから、実際に目で見ていなくても視覚野の活動をイメージ画像化することができると予想しているわけです。
 しかし実際に見ている場合は視覚イメージはハッキリしていますが、空想とか夢ということになると、個人差が大きく、なかにはぼんやりとしたイメージしか湧かないだけでなく、まったくイメージが形成されないという人もいます。
 高齢者の場合には視力の衰えとともに、イメージ力も低下してきて、イメージ力も低下しているという場合があります。
 口で伝達する能力が失われても、目が見えれば視覚的な想像をMRIなどで、画像化することで意思を汲み取ることができるようにと期待されるのですが、高齢者の場合は、イメージ力自体が衰退している可能性が高いので難しい問題です。
 そこで、文字表を見せて、見ている文字を画像化すればよいというふうにも考えつきますが、この場合は視線の向いている先を測定する装置があるので、高価なMRIを使わなくても間に合ってしまいます。
 高齢者にとっての課題は、むしろ視覚イメージ力を保持あるいは向上させることなのです。

 

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旧漢字と視覚能力

2008-12-09 22:54:52 | 文字を読む

 真ん中の丸印に目を向け、両側の文字を読み取ろうとすると、上の場合は左側の二文字か三文字程度しか読み取れないのではないでしょうか。
 右側の文字ならばひとつも読み取れないかもしれません。
 上の場合は左側が新字体、右側が旧字体ですが、旧字体のほうは字形が複雑なため周辺視野では読み取りにくいためです。
 読み取りにくいのは字体のせいではなく、左のほうが読み取りやすいのだという可能性も考えられます。
 そこで、こんどは下の丸印に目を向けて見ると、今度は左側のほうが読み取りにくくなっています。
 下のブロックでは左側が旧字体になっているので、やはり旧字体のほうがずっと読み取りにくいことがわかります。
 
 つぎに左上の新字体のブロックの真ん中に視線を向けた状態で、このブロックの文字を読み取ろうとすると、内側の10文字ぐらいは読み取れ、人によっては、ほとんどの文字を読み取ることができるかもしれません。
 これに対し右上の旧字体のブロックを同じ要領で見た場合、読み取れる文字数は半減します。
 これは一つ一つの文字が読み取りにくいだけでなく、複雑な文字が密集するとよけいに読み取りにくくなるためです。
 旧字体の文字を読むときは、ある程度字が大きくないと文字の読み取りに集中力が必要となるので、どうしても早く目が疲れます。
 だいたい、老眼になると視力が衰えているだけでなく、文字が小さく見えるので旧字体で漢字が多い文章は読むのに苦労をします。
 
 子供は複雑な字体でも、苦にせずに文字を覚えるというようなことを主張する人もいますが、旧字体のほうが新字体よりも覚えやすいというわけではありません。
 旧字体で漢字を覚えたとしても、文字を読んだり書いたりするときは、より集中力を必要とし、活字でも字が小さければ、より目を酷使することになるので不利です。
 若いときは目を酷使しても耐えられるかもしれませんが、年をとってくれば視力が衰えて、字がぼやけて見えるようになり、複雑な字は読み取りにくいので目を凝らしてしまい、目が疲れてしまいます。
 文字の読み取りに注意とエネルギーを奪われてしまうと、文章の意味が理解しにくくなり、さらに疲れて文字も読み取りにくくなるという悪循環に陥ります。
 審美的には旧字体のほうが好ましいという人もいますが、意味を伝える手段としては負担と犠牲が多いので厄介なものです。

 漢字を瞬間的に表示して読み取らせるという実験で、百分の一秒以下、千分の一秒でも読み取れるという結果が得られたそうですが、どんな漢字を誰に読ませたのかがハッキリしないまま、千分の一秒でも読み取れるというハナシだけが伝えられているようです。
 実際には複雑な字よりも簡単な字のほうが読み取りやすく、シッカリ覚えてなじんでいる漢字は、うろ覚えの漢字より読み取りやすいものです。
 これは簡単な実験で確かめられることで、千分の一秒で読み取れるというのは、その漢字が記憶にシッカリ定着していることと、表示される大きさが十分に大きくて判別しやすいことが必要です。
 漢字自体が神秘的な力を持っていて、カナやアルファベットより短い表示時間で読み取れるということではなく、漢字でもよく記憶されていれば瞬間的な表示でも読み取れるということなのです。
 
 

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文字の大きさと視野

2008-12-06 22:58:15 | 文字を読む

 図の一番上の段の文字の大きさは、ワープロなどに標準的に使われる10.5ポイントで、その下の段は9ポイントです。
 一文字の大きさはわずかな違いなのですが、印象はかなり違いずいぶん小さくなっているような感じがします。
 戦前の本には10.5ポイントのものが多くあったようですが、現在では9ポイントのものが主流のようです。
 もしかすると戦前の本は、漢字が旧字体であることや、それに対応してルビ画振られていたためかもしれません。
 
 現在の新書本のようなものもほとんど9ポイントなのですが、この図で見れば実際の新書本の活字のほうが大きいのではないかと感じるでしょう。
 モニターに映った文字が小さく感じるのは、活字に比べれば大きさが同じでも解像度が低いためです。
 視力が落ちると目の解像度が落ち、文字が読み取りにくくなるのですが、同時に字が小さく見えるようになるのです。
 じっさい同じ大きさの印刷文字をモニターにくっつけてみると、字が同じ大きさなのに活字のほうが読みやすく大きく見えます。
 モニターに映る文字は、活字印刷に比べると解像度が低いので文字が大きくないと読みにくく、文字が大きければ中心視野で捉えられる文字数が少なくなるので、活字に比べると読みにくく、ストレスが多くかかります。

 3番目のブロックは8ポイントの大きさですが、こうなると文字が楽に読み取れないので、一つ一つの文字を見極めようとしてしまい、意味を読み取る前に文字の判別にエネルギーを奪われ、かなり読みにくい状態です。
 これはモニターに映った状態なので余計に読み取りにくいのですが、活字印刷の場合でも楽ではありません。
 健全な目を持つ成人が読むことができる活字の大きさの最小限は、8ポイントとされているようですが、戦後から30年ぐらいまでの文庫本などをあらためて見ると、こんなに小さな活字を読んでいたのかと思います。
 岩波文庫などで、字の多いものは一ページ19行、一行43文字というものがあり、文字がぎっしり詰め込まれた感じです。
 紙を節約するための一ページあたりの文字数を増やしたのでしょうが、これでは目が疲れてしまいますから、目を悪くする人が増えても不思議ではありません。

 現在では文庫本よりも少し大きい新書本でも、活字は9ポイント程度が普通で、行数も16行ぐらいで、比較的に文字の詰まった中公新書のようなものでも、16行×43文字で、688字ですから古い文庫本の文字量の多さがわかります。
 最近では一ページあたりの文字数を減らしたものが出てきて、10ポイントの活字で15行×40字というものもあります。
 文字数が少ないほうが読みやすいのですが、文字数が少ない分情報量が少ないように見られがちです。
 16行43字のものに比べれば、単純比較で87%ですから、目の負担を考えれば紙を余分に使ってもページあたり文字数が少ないほうがよいです。
 文字があまり大きいと、認識視野に入る文字数が減るのでかえって読みにくくなってしまうのですが、10ポイント程度までは、ページあたりの文字数が少ないほうが読みやすい感じです。
 文字が小さいと多くの文字が認識視野に入りますが、多すぎれば一度に処理ができないので、妨害刺激となってしまいかえって読みにくくなるのです。
 

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ハーマングリッドと注意の幅

2008-12-02 23:42:24 | 注意と視野

 図Aはハーマングリッドと呼ばれるもので、白い格子の交差部分に灰色の円がちらちらと見えたり消えたりします。
 見えたり消えたりするのは、視線を向けると消えるためで、普通に見ているときは目が無意識のうちに動いていて、灰色の円が見え視線を向けたところが消えるのです。
 交差する部分をひとつずつ順に注視していけば、注視した交点は白く見えることが確認できるのですが、このことを利用すれば、確実に決まった場所に視線を向けていく練習に使うこともできます。
 また交点をひとつだけ注視するのではなく、隣り合った二つの交点を同時に注意を向けて見ると、二つの交点は白く見えるようになります。
 さらに三つの並んだ交点を同時に注視できれば、三つとも交点が白く見えますから、注意の幅を広げる練習にもなります。

 白い格子の交差部分をじっと注視すれば、灰色の円が消えて白く見えるということはよく知られているのですが、交差部分ではなく黒い正方形の部分を注視することによっても交差部分は白く見えるようになります。
 たとえば左上の4つの正方形を同時に見ると、真ん中に挟まれている交差部分は白く見え、さらにその下の二つの正方形を含めた6つの正方形を見れば、間の二つの交差部分は白く見えるといった具合です。
 ただしこの場合、目の力を抜いてみることが大事で、目の力を抜いたほうが広い範囲に注意を向けることができ、目も疲れません。
 目に力を入れてしまうと、文字などを注視した場合よりも目が疲れてしまうので、注意が必要です。

 ハーマングリッドはふつう白と黒で構成されていますが、この正方形の黒の部分が赤なれば、交差部分の灰色はどうなるかというと、薄い赤になります。
 つまり白い部分が単に白く見えなくなるということではなく、正方形の部分の色に影響されるということです。
 しかしそれでは明暗という要素は関係がないかというと、そういうことでもありません。
 B図は青地にオレンジの正方形が配置されていますが、青の格子の交差する部分に薄いオレンジの色があるようにはなかなか見えません。
 青とオレンジは対照的な色なのですが、明暗の差がないので交差する部分に薄いおれんぎいろが薄いオレンジ色があるようには見えません。
 それでも青い格子の交差する部分に、薄いオレンジが見えているかどうか確かめようとすると、注視すれば、見えていたとしても見えなくなるのですから、確かめにくくなっています。

 

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注意と色の錯視

2008-11-29 22:53:42 | 視角と判断

 図AとBを見比べたとき、赤の部分はAのほうは朱に見えますが、Bのほうは赤紫色に見え、色がまったく違うように感じます。
 実際は同じ色なのですが、そういわれてみてあらためて見直しても、やはり同じ色には見えません。
 ところがAの右端の赤い長方形と、Bの左端の赤い長方形を比べてみると、ほとんど同じ色に見えます。
 つぎに、Bの左端の上の赤い長方形をしばらく見てから、となりの左から二番目の赤を同時に見ると、二つの赤い長方形はほぼ同じ色に見え、赤紫でなく主に近い色に見えます。
 またつぎに、左から二つの赤い長方形を見ながら同時に三番目の赤い長方形を見ると、これも赤紫ではなく、朱に近い赤に見えます。
 
こうして赤の部分を見る範囲を右に広げていくと、赤い部分は全体として青紫ではなく、やや朱に近い赤に見えます。
 最初に見たときの赤紫色にくらべると、、鮮やかな赤に見えるのですが、これは順応によるものではありません。
 順応というのはカラー写真などを、しばらく見続けると色の鮮やかさがだんだん失われてくるように感じるものですが、これは映像の処理の過程が疲労によって弱まるためだと説明されているようです。
 赤の長方形を左から順に注視していくという過程は、注意を赤に集中していく過程で、赤に注意が集中された結果、まわりの色からの干渉が弱められた結果です。

 赤に注意を集中する方法としては、B図が赤と黄色の横縞の地の上に、青い棒が乗っていると考えて、青い棒の下にある赤の横縞を見ようとするという方法があります。
 青い棒の奥に赤い横縞があるという風に意識してみると、赤に注意が向き青の色の永久が少なくなって、紫がかって見えていた赤が、朱に近い赤に見えるようになるのです。
 このような現象は、黄色の場合についてもおきます。
 何気なく見たときはBの黄色部分は青みがかって見え、A図の鮮やかな黄色に比べるとずいぶんくすんで見えます。
ところが赤の場合と同じように、黄色部分に注意を集中して見ると、黄色の部分は鮮やかな黄色に見えるようになります。
 とくに横に三本ある黄色の真ん中の帯に注意を向けて見ると、上下の黄色い帯も目に入り、それにつれて黄色の帯全体が鮮やかな黄色に見えるようになります。

 AでもBでも小さな赤の長方形は、青と黄色に囲まれているのですが、Aでは青よりも黄色に接する面が多く、Bでは青に接する面が多くなっていて、接する面の大きい色の影響を多く受けて見え方が変化しているのです。
 接している面による影響を少なくするために、注意を集中したり、見るときの意識を変えれば、本来の色に近づいて見えるのです。
 何気なく見たときは「見える」という現象で、錯視が起こりやすいのですが、意識的に注意を集中すると本来の見え方になるときもあるのです。

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注意の分割と集中力

2008-11-27 23:14:27 | 視角能力

 縦の4本の線は白と黒のヒモがより合わせてあるように見えますが、このより合わせたヒモは斜めに見えます。
 ところがこれはすべて垂直線です。
 黒と白の四角形は垂直に並んでいて、黒の四角形を見た場合、垂直に並んでいる同じ列の三つの四角形は同じであることが見て取れます。
 したがって、黒い四角形の上を通っている斜めの白い線は、垂直線上にあることがわかります。

 同じように、縦に並んでいる三つの白い四角形は、垂直に並んでいて、その上を通っている斜めの黒い線は垂直に並んでいるということがわかりす。
 このように一つ一つの部分を見た結果からは、斜めの白い線も黒い線も垂直に並んでいることが、理屈の上ではわかります。
 理屈の上では、白い線も黒い線も垂直に並んでいるのですが、実際に目で見ると、どうしても斜めに並んでいるように見えます。
 
 ここで目をすこし寄り目にして、立体視をして4本の線が五本の線に見えるようにします。
 そうすると5列の四角形のうち中側の3列が浮き出て見え、同時に5本の線はすべて垂直に見えるようになります。
 このときより合わさって見えていた真ん中の白と黒の線は、はなれて四角形の面からやや下方に突き出ているように見えます。
 また両隣の場合は上方に突き出ているように見えます。
垂直に並んでいるように見えはするのですが、立体的に見えるようになるのです。
 (ただし、寄り目にして立体的に見えるようになった場合でも、5列でなく6列に見えた場合は四角形の面から白と黒の線が突き出ているように見えるのですが、並び方は垂直でなく、斜めに見えてしまいます。)

 立体視をしなくても、たとえばどの列でも垂直に並んでいる3つの黒い正方形に同時に注意を向けて見ていると、白い線が垂直に並んでいるように見え、それにつれて黒い線も垂直に並んで見えるようになり、より合わさったねじれひもは垂直に見えるようになります。
 このとき、黒い四角形のみに注意を向けることが大事で、線のほうに注意を向けてしまうと斜めに見えてしまいます。
 注意を分割できる能力と同時に集中力が必要なのです。
 同じように、縦に並んでいる3つの白い四角形だけに注意を向けて見ても、やはり白と黒の線は垂直に並んで見えるようになります。
 ねじれひもの錯視というのは強烈な錯視で、どうしても斜めに見えてしまうような感じがしますが、見方がコントロールでき、集中力があれば実態を見極めることができるのです。。

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