60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

眼の解像度と文字の解像度

2007-09-30 22:50:28 | 眼と脳の働き

 普段ものを見ているとき、はっきり見えるのは眼の中心のごっく狭い部分でしかないということに気がつきません。
 たとえば図の一番上の行で、真ん中にある小円の部分に眼を向けると「南船北馬・東奔西走」と眼を動かさなくても、すべての文字がはっきり読み取れます。
 これは目の中心から外に向かうにつれ、文字が読み取りにくくなるのを補うために、文字の大きさを中心から遠ざかるにつれ、大きくしているためです。
 ここで、もし眼を先頭の「南」に向けると、「北」という部分はぼやけて見え、「馬」という部分は読み取れなくなります。
 逆に「走」に注意を向けて見ても、やはり離れた場所にある「奔」はぼやけ「東は」読み取れなくなります。
 目の中心から遠ざかるにつれて文字が小さくなっているので、目の中心から遠ざかると、見えにくくなるということがはっきり分ります。
 
   ここで字の大きさを同じにしたのが次の行ですが、まん中の小円に注意を向けて見ると、一番上の行との違いがはっきりします。
 この場合は真ん中の小円を見て、眼を動かさなければ、左右の文字を読み取ることが非常に困難です。
 これは文字の大きさを同じにした場合は、文字の間隔が大きくなっているためではないかとも考えられます。
 そこで次の二行は文字の大きさが同じ場合には、文字間隔をつめています。
 この場合でも中心から離れるにつれ文字が大きくなっている場合は、楽にすべての文字を見ることができますが、文字の大きさが同じ場合は視線を動かさずにすべての文字を読み取るのは難しくなります。

 特殊なメガネがあって、文字列を見たとき左右がだんだん大きく見えるようになっていれば、楽に文字を読み取ることができて好都合なのでしょうが、そういうものはありません。
 ここで、目の中心から離れたところがはっきり見えないということについては、二つの対策が考えられます。
 ひとつは一点に注意を注意を集中するのではなく、注意を左右に分割する方法です。
 文字がよほどに小さくない限り、一点に集中してみなくても文字は読み取れます。
 一つ一つの文字をじっと見ていけば、文字ははっきり見えるのですが、活字の場合はじっと見なくても読み取れるので、注意の幅を少し広げることで視幅を広げるように努めればいくつかの文字を一度に読み取れるようになります。

 もう一つの方法は、解像度がある程度低くても文字を読み取れるようにする方法で、瞬間的に文字を読み取ることに慣れることで可能になります。
 活字文字はあまり小さくなくて、楽に読める大きさであれば解像度が高くなくても読み取れます。
 一文字一文字読む習慣から抜けられないと、どうしても文字をすべてはっきりと見ないと読み取れないのですが、慣れれば解像度が多少落ちても読み取りは可能になります。


漢字の情報力

2007-09-29 22:37:31 | 眼と脳の働き

 漢字をスクリーンに映した後すぐに隠した場合、映っている時間が0.01秒以下という短い瞬間であっても文字を読み取ることができます。
 渡辺茂「漢字と図形」では表示時間が千分の一秒以下でも漢字は認識できるとしていますが、このことから漢字には何か神秘的な情報力のようなものがあると感じる人もいます。 複雑な形をした漢字を何千も覚えるということは、脳にとって大きな負担となるので、漢字を減らそうとか、漢字を簡略化しようという運きが常にあります。
 これに対する漢字擁護派にとって、漢字がすばやく認識できるという実験結果は大きな支えとなったようです。

 ところで漢字を一度だけ表示するのでなく、B図のように一つの文字を表示してからすぐに隠し、次に同じ場所に別の文字を瞬間的に表示して隠すとどうなるかを試してみます。
 そうすると表示時間が百分の一秒以下のときは、後の文字は読み取れますが、最初に表示された文字は読み取れなくなります。
 もし最初の文字が読み取れた場合は、逆に次の文字が読み取れません。
 つまり、漢字を百分の一秒以下の間隔でで瞬間的に連続表示をした場合、連続して認識はできないのです。

 じつは百分の一秒以下の表示でも眼は文字を知覚できるのですが、脳に貯蔵されている漢字の記憶と照合して、分ったと思うのにかかる時間は100分の一秒以上かかるのです。
 脳が最初に見た文字を記憶と照合し終わらないうちに、次の文字が表示されると、最初の文字の照合を棄て、次の文字を記憶と照合しようとするので、最初の文字は認識されない結果となるのでしょう。
 最初に見た文字を認識しようとこだわっていれば、次の文字を記憶と照合する作業に入らないので、次の文字が認識ができなくなるのです。

 ところがC図のように漢字を二文字にして表示し、表示時間を同じように百分の一秒以下とした場合はどうなるかというと、この場合は二文字を同時に認識することができます。
 この場合表示される漢字は複雑なものであっても、記憶の中にある漢字、つまり知識として持っている漢字でなければなりません。
 読み方も意味も分からない未知の漢字であれば、一文字であってもある程度複雑な漢字は認識できません。

 こうしたことから考えると、瞬間的に漢字を読み取ることができるということは、漢字自体に情報力みたいなものがあるというより、読み取る側にしっかりした記憶があるからなのです。
 また、複雑であってもよく見る漢字であればすばやく認識できるわけですが、それだけでなく、瞬間的に読み取る練習をすると、記憶との照合時間が短縮できるようになります。
 これはアルファベットの場合でも同じで、単語のつづりをしっかり覚えていて、読みなれていれば瞬間的に表示されても読み取れ、練習によって瞬間的読取能力は向上します。
 瞬間的に読み取れるというのは漢字だけではないのです。


知ってる名前

2007-09-25 22:53:29 | 言葉とイメージ

 「みそさざい、せきれい、うずら、つぐみ、しぎ、ひよどり」などといった鳥の名前はほとんどの人が知っていますが、漢字でどう書くかといわれたら一つも書けなかったりします。
 それどころか、漢字で示されても全部は読めないでしょう。
 漢字で書かれたものを読めないというだけでなく、実物を並べられても、どれがどれと選り分けられなかったりします。
 名前は知っていても、実物についての知識となるとあやふやだったりするのです。
 鳥に詳しい人なら、形や色や大きさといったことだけでなく、何を食べ、どこにどのような巣をつくり、どんな鳴き声で、どんな行動をするかなどといったことまで知っていたりしますが、漢字でどう書くかなどということは知らないかもしれません。。
 
 植物についてでも、春の七草の名前はよく知られているのですが、漢字でどう書くかあるいは漢字で書かれたものが読めるかとなると全部は無理でしょう。
 実物を選り分けられる人もいますが、ほかの植物を加えて並べられると、これと名指すことができない人もかなりいるでしょう。
 なかには実物はどれがどれと分らないけれども、漢字の読みはできるという人もいたりして、こういう場合は漢字を覚えることにエネルギーが使われて肝心の実物を知ることが忘れられています。

 本来なら実物についてその名前を覚えるはずなのですが、言葉を先に覚えてしまって、言葉に慣れてしまうと、実物について知らない状態に慣れ、そのうち実物について知っているように錯覚したりするのです。
 耳で言葉を覚えるだけでなく、漢字でかかれたものを覚えると、何か実物について覚えたような感じになるのでしょう。
 また言葉の意味が判らずに国語辞典を引けば、簡単な説明がついているので、実物に当たらなくても実物について分ったような気がしたりします。
 辞書で得られる知識は言葉による説明で、実際の知識ではないのですが、実際の知識も言葉で説明される場合が多いので、見境はつかなくなります。
 
 こうしてみると、同じ言葉を聞いたり読んだりしても、受けとめる側の人の知識は、人によって多かったり少なかったり、実物についてだったり、言葉だけだったりするので、受けとめ方は千差万別です。
 言葉が同じだから誰でも同じ受けとめ方をしていると考えるわけにはいかないのです。
 誰でも同じ受けとめ方をしているような感じがするのは、言葉だけしか知らない人も、言葉を知っていることで安心して、実物について知っているかのようにふるまうからです。
 というと、実物について知らないで言葉だけしか知らないのは良くないと言っているようですが必ずしもそうではありません。
 知らないことについて、なんでもかんでも気にしていたのでは身が持ちません。
 ある程度いい加減な知識のままで流すことができるので、心の平衡が保たれているからです。

 


分類と名前

2007-09-24 23:31:52 | 言葉とイメージ

 ヘイズ夫妻が訓練したチンパンジーのヴィキはナット、ボルト、釘、ねじ、ワッシャ、クリップの山を分類して六つの缶に入れることができたそうです。
 同じものは同じものとしてまとめるだけなので、このくらいのことができても驚くにはあたらないと思うかもしれませんが、ヴィキの分類能力はこれだけではありません。
 図のような多数のボタンがあると、これを二つに分けるのですが、そのときどきで色で分けたり、形で分けたり、大きさで分けたりして分類するのを楽しむ風だったといいます。

 いろんな種類のボタンがごちゃごちゃあるので、人間が分類しようとしてもどのように分けたらいいか迷うのではないでしょうか。
 人間でも、丸と四角に分けるとか一通りの分け方をしたら、それ以上ほかのわけ方を考えないヒトもいますから、チンパンジーといえども柔軟な考え方ができるようです。
 ただチンパンジーは言葉を持たないので、分類をしても白ボタンとか灰ボタンあるいは丸ボタン、角ボタンというふうに分類に名前をつけるということはありません。
 ところで、丸ボタンというのは、大きさや色の違ったボタンをまとめているので、具体的にイメージ化しにくいもので、抽象化されたものです。
 色や大きさを捨象しているので視覚イメージ化しようとするなら、色も大きさもないようなボタンをイメージしなければならないということで、イメージ化しにくいのです。
 
 二つに分けるという課題であれば、性質によって分類して分けるという方法だけでなく、二つの山が同じになるという分け方もあります。
 右と左に同じものを分けていって、左右の山が同じようにするいわゆる山分けの方法もあります。
 チンパンジーは山分けを好まないのかもしれませんが、より抽象的なわけ方のほうを選ぶのですから不思議です。
 しかも、チンパンジーは、せっかく抽象的な分類ができても、それに名前をつけることができないので、それを他人に伝えることはできません。

 人間の場合は名前をつけることで、抽象的な概念をも頭の中に記憶することができ、名前によって他人に内容を伝えることもできますし、思い出すこともできます。
 ただし、人間は言葉を聞いて名前だけを覚えることができるので、実際にその意味を知らなかったり、不完全にしか知らなかったり極端な場合はまちがっていたりします。
 意味を知らなかったり、間違っていても言葉を使うので、なまじ言葉を使うために混乱することもあるのですから皮肉なものです。
 
 


見えない形を見る

2007-09-23 22:36:49 | 部分と全体の見方

 ヒトの2歳児とチンパンジーに図形aで三角形を覚えさせ、四角形や丸などと共に図形b,c,d,eなどを示して選択させると、2歳児もチンパンジーもb~eを三角形として選択したそうです。
 とくにeの場合はヒトの2歳児もチンパンジーも、60度ほど頭を傾けて図形を見比べて正しい反応をしたといいます。
 eはdを逆さまにしたものですが、図形を頭の中で回転させるのではなく、自分の頭のほうを傾けて見ているので、この段階ではイメージの回転はできていません。
 しかし、ともかく三角形の輪郭が示されていれば、大きさの違いや白黒の反転があっても三角形を他の図形から見分けることはできています。 
 つまり図形を形によって分類する能力はあることがわかります。

 ところがfやgのように小円でできた三角形のパターンを見せると、ヒトの二歳児は三角形として認識するのですが、チンパンジーは混乱してしまい、正解率は50%のチャンスレベルに落ちてしまったといいます。
 チンパンジーはfやgを三角形として認識しないのです。
 fやgは人間の大人が見れば三角形ではありますが、aと同じ意味では三角形ではありません。
 fやgにあるのはいくつかの小円であって、小三角形ではありません。
 aと直接比較をすればfやgにある図形は小円なので、三角形として選択することはできなくなります。
 つまりチンパンジーは木を見て森を見ていないのに、ヒトの二歳児は森のほうを見ているということになります。

 fやgには実際の三角形の輪郭はありません。
 ヒトの2歳児は「さんかく」という言葉を知らないし。三角形の定義もできているわけでもないのですから、fやgを三角形として認識できるのは不思議といえば不思議です。
 小円でできている図形を全体としてとらえる能力があるということですが、それは見えていない輪郭を見ることができるからです。
 個々の小円の形を超えて全体の配置からパターンを感じ取っているのです。
 チンパンジーはあくまでも眼に見える形を見ているのに、ヒトの二歳児は見えない形をパターンとして見ているという違いがあります。

 なぜ違いが出てくるかという点については、ヒトの二歳児は図形を見るときに指で輪郭をなぞるという行動が見られることからの推測があります。
 指で輪郭をなぞると三角形の角の部分が印象に残り、線の部分は印象が薄くなり、途中が途切れていても補ってしまいがちです。
 三本の線で囲まれるという感覚から、三点を結ぶという感覚に移行でき、そうなると線が見えなくてもパターンとして三角形を認識できるようになります。。
 眼だけでなく指を使ったりすることで、抽象化された三角形のパターンが意識されるようになると考えることができるのです。


チンパンジーの図形言語

2007-09-22 22:54:45 | 言葉と文字

 図は京大の霊長類研究所でチンパンジーに覚えさせた図形言語です。
チンパンジーなどの類人猿は人間のように音声をうまく操ることができないので、身振りか図形言語のような視覚言語を教えるのが主流になっています。
 図形言語の場合は単語を一つの図形に対応させて覚えさせるのが普通なのですが、この場合は、いくつかの基本的な図形を記号素として作っておき、この記号素を組み合わせて作った図形で単語を表しています。
 たとえば錠前は記号素Oと記号素Wを組み合わせたもの、手袋は記号素Cと記号素Hをくみあわせたものとしています。
 
 チンパンジーはこれらの記号素と単語を覚えた結果、たとえば「リンゴ」という単語を表現するためにR、C,Bという記号素を選ぶことができたそうです。
 食べ物の名前を記号素を使って答えさせると、ほぼ正しく答えることができたそうですから、まるで文字を覚えて文字で単語を表したように見えます。
 このような表現法はあたかもH2OとかCO2のように分子を元素記号で現したような形で、文字言語の一種だとする学者もいます。

 ところがこの記号素は人間が使っているアルファベットや漢字と違って、表音記号でも表意記号でもありません。
 個々の記号素は何を表すということもないので、組み合わせ方に規則とか原理というようなものがありません。
 たとえば水平線のHと円形のCは手袋と人参に使われていますが、理由はわかりません。
 手袋に黒い菱形が加わると人参になるという規則はどう頭をひねってもでてきません。
 
 チンパンジーは何らかの規則にしたがって記号素を組み立てたというのではなく、林檎やバナナといった言葉を表わす図形を覚えて、その図形の中にある記号素を選び出したのでしょう。
 もしチンパンジーが記号を覚えてそれを組み合わせて単語を表現することができるのであれば、アルファベットとかカナを覚えさせればよいわけで、わざわざ別の記号を作らなくてもよいわけです。
 アルファベットやカナは、種類が多い上に形も複雑なので、数が少なく単純な形のものにしたのでしょうが、規則性がないので文字記号としての機能を持っていません。

 アルファベットやカナは音声を表わしますが、漢字であれば偏が意味につながり、旁が音を表わすというような規則性があります。
 もちろん漢字は不特定多数の人が長期間にわたって作り上げているので、厳密な規則性はありません。
 たとえば木偏の文字は木に関係するといわれても、文字を見てドウシテ木偏なのか分らないものがいくつもあります。
 「横」は黄色い木だと思う人はいないし、「村、査、案、極、業、概、様」など、なぜ木偏なのか思いつくのは困難です。
 「棄」などは辞書では、「生まれたばかりの赤子をごみ取りに乗せてすてるさま」など、とても思いつきようのない説明が載っています。
 それでも木偏のおおかたの漢字は木に関係する意味なので文字としての機能を持っているのでチンパンジー用の記号素とは違うのです。


漢字の透明性というのは

2007-09-18 22:58:17 | 言葉と意味

 Aのような漢字熟語は文字の意味が分かるので、組み合わせて作った言葉の意味が分ります。
 「落葉」、「水草」などは「ラクヨウ、おちば」「スイソウ、みずくさ」のように音読みでも訓読みでも意味が分かります。
 「禁止」「釈放」などは音読みであっても「禁じ、とどめる」「ゆるし、はなつ」と一つづつの漢字の意味を理解していれば熟語の意味が分かります。
 「電気」「電子」などは意味がよく分らなくても電気に関係した言葉だということは見当がつきます。
 このような例から、漢字は表意文字なので文字を見れば単語の意味が分かるし、完全に分らなくても見当がつくので、漢字で表現された言葉は透明性があるというふうにいわれることがあります。

 ところが漢字熟語はこのようなものばかりではなく、文字を見ても言葉の意味がわからないものはいくらでもあります。
 「皮肉」は皮と肉で身体のことを言いますが、「あてこすり」という意味はいくら頭をひねっても出てはきません。
 「青年」は「青」を「あお」と理解すると意味が分からず、辞書を引いて「若々しい」と知って意味が理解できます。
 「先生」は「先に生まれたから」という解釈では皮肉になってしまい、「まず生きている」などとエスカレートしてしまいます。
 「ヤボ」「シンジュウ」「セワ」「ムチャ」などは読み方が分かれば意味は分るでしょうが、漢字の意味と言葉の意味は結びつきません。
 「キキョウ」「リンゴ」「ニンジン」「ボタン」などの植物名の多くは読みが難しく、読めたところでドウシテこのような漢字が当てられているか分りません。
 なまじ漢字で表現されているために何のことかわからなかったりすることもあるのです。
 こうした言葉は漢字から意味を理解して覚えるのではなく、言葉をどのような漢字で書くかを覚えるもので、漢字の透明性はありません。

 「簡保」「農協」などの略語は「簡易保険」「農業協同組合」のように略さないで書けば文字から意味が分かりやすく透明性があるのですが、略してしまうと意味が分からなくなり、不透明になります。
 略語ができたときはもとの言葉が頭にあるので略語の意味が分かるのですが、後から略語だけを示された場合は意味が分からなくなります。
 分りやすくても長い言葉を避け、分りにくいけれども短い略語のほうを使うようになるのは、漢字の透明性ということを重要視していないからです。
 「簡保」「農協」といった言葉がどんなものかを理解すれば、漢字の意味を追求したりしないで、「カンポ」「ノーキョー」などカタカナで表現したりすることさえあるのです。
 言葉としての意味が分かれば、漢字の意味との一致ということにあまりこだわらないというのが実情ではないでしょうか。


漢字の意味に無頓着

2007-09-17 22:56:44 | 言葉と意味

 「出処進退」とか「新陳代謝」といった言葉の意味は分っていても、「処」とか、「陣」、「謝」の意味は?と改めて聞かれると、たいていの人はハテナと改めて漢字の意味を知らずに言葉を使っていたことに気がつきます。
 熟語を構成している一つ一つのかんじの意味が分かってからその熟語の意味を理解したのではなく、熟語の意味を全体として覚えているのです。
 意味が分からない漢字が含まれていても、全体の意味が分かれば辞書を引こうとしないからですが、読みが分ると安心してしまうのかもしれません。

 個々の漢字について意味を確かめていないで、熟語全体の意味を覚えていると「出所進退」と誤記されてあっても気がつかなかったり、書くときに間違って書いたりする可能性があります。
 あるいは熟語の意味が本来と違って解釈されていても気がつかなかったり、違った解釈をそのまま覚えたりすることもあります。
 たとえば「直情径行」の「径」は「すぐに」という意味で、自分の思ったことをすぐに行動に動かすことです。
 周りや前後の事を考えずにすぐ行動に移すということで、本来は非常識あるいは野蛮な行動という意味ですが、「直情」のほうに注意が向くと、素直あるいは正直というようにほめ言葉として使われるようになります。

 漢字は一字につき意味が一つではなくいくつもあるのですが、よく使われる意味の場合は熟語もなるほどと意味が良く分ります。
 たとえば「陳列」の「陣」は並べるという意味で、「陳列」が並べるという意味だというのは明快です。
 ところが「陳腐」の場合は「陳腐」を「ありふれた」という意味だと覚えていても、「陳」がどういう意味なのか(「ふるい」)疑問に思わないままでいたりします。
 「同僚」の「僚」は「ともだち、仲間」の意味ですが「官僚」の場合は「ともだち」では変です。
 「姑」は「しゅうとめ」ですが「姑息」は「姑の息」ではありません。
 「姑」は「そのままにしておく」ということで一時しのぎのことです。
 
 「姑息」の場合は文字から言葉を覚えるよりも耳から覚える場合のほうが多いようで、「ひきょうな」という意味で理解している人のほうが多いようです。
 文化庁の調査では、もとの意味で理解している人はわずかに12.5%なのに、「ひきょうな」という意味と思っている人は70%にもなるそうです。
 同じように「憮然」という言葉の場合も「失望してぼんやりしている」という元の意味は16%なのに、「腹を立てている」という意味にとる人が69%もいるそうです。
 なぜこのようになるかを考えてみると、おそらくこれらは漢字よりも言葉の響きから意味を感じ取っているのでしょう。
 「コソク」は「こそついている」ように感じられ、「ブゼン」は「ぶすっと」しているように感じて、漢字の意味がわからないまま熟語の意味を理解しているのではないでしょうか。
 けっこう漢字の意味には無頓着なままに、漢字熟語を使っている人が多いところを見ると日本人はそれほど漢字に依存してはいないような感じもします。


言葉の音感で解釈する場合

2007-09-16 23:06:36 | 言葉と意味

 最近、政治家がよく使う言葉に「粛々」という表現があります。
 「粛々と国会審議を進める」とか「法案を粛々と成立させる」といった言い方や「派閥がまとまって粛々とこうどうする」などという言い方もあります。
 「粛々」といえば有名なのは「鞭声粛々夜河を渡る、、、」という頼山陽の漢詩の一節がありますが、この場合の「粛々」はひそかに音を立てないという意味です。
 上杉軍が相手に知られないように河を渡った様子を描写したもので、音がしないようにひそかにということです。
 政治家の言う「粛々」は「国会審議をひそかに進める」とか、「法案をコッソリ成立させる」などとなれば、これはもう議会制度の否定ですから、「静かに目立たないように」という意味で使っているのではないでしょう。
 
 文脈から判断すれば、「整然と着実に」といった意味で使っているらしいのですが、辞書を引いてみるとそれらしき意味は載っていません。
 おそらく「しゅくしゅく」という音感がなんとなく整然と前進するように感じたものと思われます。
 鞭声粛々というとなんとなく鞭の音が「しゅくしゅく」と鳴るように感じてしまって、同時に行軍の様子を表しているように感じたのかもしれません。
 漢字の意味でなく音感で理解したのでしょう。

 「職責にしがみつかない」という表現は漢字の意味からはおかしいのですが、「しょくせき」と発音したとき何となく「せき」の部分が「席」を連想させ、「席にしがみつかない」という発言をしてしまったものと考えられます。
 「職席」という言葉はなかった言葉ですが、誰かがうっかり「職席」というような表現をしてしまうと、熟語としてありそうな感じなので、聞いたほうも何となく受け入れてしまったのではないでしょうか。
 「しょくせき」という音感から「職席」というあるかもしれない意味を感じてしまう人もいるということなのです。

 「檄を飛ばす」という表現にしても、激励する意味で使うのは間違いだとしばしば指摘されているのにもかかわらず、新聞記事などにもいまだによく見られます。
 「檄」は「ふれぶみ」という意味だということですが、「檄」という文字だけを見て意味が分かる人はそう多くありません。
 たいていの人は「げきをとばす」という言葉を聞いて音感から「激をとばす」という意味に解釈するのものと思われます。
 「檄」じたいはもう死語になっていて、「げき」と聞いて「檄」だと思う人は少なく、ほとんどの人は「激」だと思うのですから、そのうち「激を飛ばす」が正式となるでしょう。

 こういうふうに誤解の例を見ると、言葉というものは間違って覚えたりするのはよくあるものだということと同時に、同じ言葉についてすべての人が同じ意味で解釈するということはないということに思い至ります。
 だれでも思い違いがあったり、うろ覚えがあったりするだけでなく、推測や新解釈も加わったりするので、人によって意味解釈が違うということはありうるのです。


文字だよりの誤解

2007-09-15 22:49:37 | 言葉と意味

 上手投げといえば相撲で相手の腕の上からまわしをとっての投げ技ですが、野球では上から投げ下ろす投球を指すという事になっています。
 広辞苑には「オーバー.スローの訳語」となっていますが、英和辞典でover.throwを引くと、なんと「暴投する」、「ひっくり返す」とあります。
 上手投げに相当する言葉はoverhand.throwです。
 広辞苑の説はまさに「暴投」なのです。
 overhand.throwを日本語訳したのが「上手投げ」で、上手投げを英訳してover.throwとしてしまったために「オーバー.スローの訳語」となったのでしょう。
 日本語の「上手」は「手を上に持っていく」という意味でなく「上のほう」という意味なので[オーバー.スロー」と訳したものと思われます。
 下手投げも「アンダー.スローの訳語」とあるのですが、under.throwのほうはじしょにはなく、underhand.throwはあります。
 漢字にしてしまうと、もとの言葉の意味よりも漢字表現に引きずられて意味を解釈してしまうからこのようなことが起きるのです。

 「自然」という言葉は日本語としては「おのずと」あるいは「万一」という意味だったのですが、明治になってnatureの訳語として使われるようになりました。
 natureの訳語としては「天然」というのもあって、この方が現在の意味の「自然」にちかいのですが、「自然」のほうが訳語として定着しています。
 natureには「自然の法則」というように、予測可能というとらえ方だけでなく、地震などの自然災害のように人間には予測できないというとらえ方もあります。
 natureは「人工」と対比されることがあるため、「自然」を予測できないもの、「人工」を予測できるものというふうに単純に割り切る考えも出てきたりします。
 
 「命題」という言葉もprpositionの翻訳語で「真偽を判断する文」の意味ですが、「命題」という言葉の「命」という漢字から「使命」の意味を連想し、至上命題などという言葉が使われるようになっています。
 漢字表現は知らない言葉でも漢字を頼りに意味が推測できる場合があるため、便利ではあるのですが、かえって誤解を招くこともあるのです。
 「君子豹変す」という言葉の意味は、個々の漢字を知っているので、何となく意味が分かるような気がするでしょうが、一番多い誤解は「豹変」を「豹になる」と解釈するものです。
 何から豹に変わるかは分らないが、豹のような猛獣に変化するとなれば、凶暴な態度になると感じてしまうでしょう。
 辞書には「豹の毛が抜け変わって鮮やかになるように、君子が過ちを改めると面目を一新する」というふうに道徳的な解説となっています。
 豹が毛が抜け替わっても豹は豹ですからこのようにとってつけたような解釈はヘンです。
 「君子豹変」という言葉は「大人虎変」と一緒に出てくるので、大人も過ちを改めると面目を一新するというべきなのに、なぜか君子だけが問題になっているのは、君子といえば道徳的という先入観があるためです。
 「君子」を道徳的に優れた人と思い込んでいるために出てくる解釈なのです。