60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

表音文字と表語文字

2008-09-30 23:59:39 | 言葉と文字
 アルファベットは表音文字と言われますが、文字が音を表すために使われているという意味で、文字を組み合わせた綴りは単語をあらわしますから、表語文字でもあります。
 表音文字といっても、発音記号ではないので、単語の綴りの文字と発音が厳密に対応しているわけではありません。
 単に音と文字を対応させるということであれば、アルファベットでなくてもモールス信号でも、コンピューターのコードのように、0と1で表現してもよいのです。
 英語のはドイツ語などと比べて、文字綴りと発音が一致しないものが多く、読み方を覚えるのが難しいのに、読みやすくしようという流れにはなっていないようです。
 
 たとえばclimb(クライム),Wednesday(ウェンズデイ)などのb、dは黙字で発音されません。
 よく例に挙げられるknightは、もとはkが発音されていたのが、発音が変化しnightと同じ発音になったけれども、見て区別できるように、綴りはそのまま維持されたと説明されます。
 もちろん音声では同じですから、区別できないのですが、実用的に困るということはないようです。
 それなのに、文字表示されるときは区別しなければならないという説明は何かヘンです。
 区別したいならknightをniteとでもすればハッキリ区別できたのに、そうしなかったのは文字を読みなれている人には抵抗があったからでしょう。
 
 lightなどはドイツ語では「明るい」という意味ではlicht,軽いという意味ではleichと言葉が分かれたのですが、英語の場合はlihtenという形から発音も綴りも変化したのに、同音同綴りのままです。
 あとから、ビールなどの商品用にliteが軽いという意味で作られましたが、全面的にこちらに変わるということはなく、見慣れたlightのままです。
 綴りが音声を表現することを目標としているなら、わざわざ読みにくい綴りを維持することはないのにそうしないのは、目で単語として見ているからです。
 文字を読みなれてくれば、いちいち音声に直さないで、単語を瞬間的に識別するようになりますから、綴りは必ずしも発音に忠実である必要はなくなるのです。
 
 よく漢字は見れば読まなくても意味がすぐにわかるなどといわれますが、英語でも文字を読みなれている人は、読まなくても意味がすぐにわかります。
 速読法というのはアメリカで生まれたもので、たいてい基本のところで、単語は音読せずに見て意味がわかるように訓練することになっています。
 音読のクセをやめ目で見るだけで理解する訓練をするのですから、読まなくても意味がわかるというのは、なにも漢字に限ったことではないのです。
 英語のつづりも、表音的であると同時に表語文字としての役割を持っているのです。
 見てすぐ意味がわかるというためには、同じものを何度も見慣れることが必要ですから、たとえ表音的には不合理な綴りでも、見慣れたほうがわかりやすいということになり、変化に対してはどうしても保守的になるのです。
 
 なかにはdoubt(ダウト),receipt(レシート)のように、もとは発音に近い綴りであったのに、語源のラテン語とかギリシャ語の綴りを意識して、黙字を加えてしまい発音はそのままというものもあります。
 island(アイランド)などももとはilandであったのにislandとを加えて発音はそのままです。
 indict(インダイト;告訴する)は、もとはindite(詩文を書く)が起訴をする意味を持つようになってラテン語のindictareの綴りに近づけた(英単語を知るための辞典)ものだそうです。
 このような不自然な変化は、文字を扱う学者など少数の人が、語源を意識して読みにくい綴りにしてそれが文字綴りとして定着したのでしょう。
 これらの場合は表音よりも標語的機能が優先されてしまっているのです。

漢字の記憶術と字源

2008-09-27 23:55:28 | 言葉と文字

 漢字の大部分は形声文字といって、音声を表す部分と意味を表す部分で作られているというのですが、音声部分というのは中国語のものですから、現代日本人にはわかりにくいものがかなりあります。
 たとえば「視」の読みは「シ」ですが、音を表す部分が「見」だと思うと間違いで、「ネ」が音符で、「ネ」は実は「示」で「シ」と読むことになっています。
 似たような字で「規」のほうは、音符は「夫」でなく「見」で、「ケン」→「キ」と変化したということになっています。
 一貫性がなくわかりにくいものです。
 「示」という字は「ジ」とも読み、この方が普通で「暗示」「示談」「訓示」「示現流」などいずれも「ジ」と読みます。
 しかも「示」のつく字は「礼、宗、祈、神、祝、禅、禁、祭」など音符として「シ」と読ませるものはありませんから、「視」という字面から「シ」とよむのは困難です。
 「視」には異体字で「目」+「示」で「シ」読む字がありますが、「視」の字が変則的だからこのような字が作られたのでしょう。

 「耿」という字は「コウ」と読み、音符は「火」ですが、「カ」がなぜ「コウ」となるのかわからない上に、意味は「ひかり」で耳とどう関係するのか不審で、むしろ耳の部分が目であったほうがつながりやすいように思えます。
 「鼻」はもともと「自」が象形文字で「ハナ」を表していたというのですが、それなら「ビ」ではなく「ジ」と読みそうなものです。
 ところがこれは「鼻」の「自」の下の部分が音符で、これが「ビ」と発音するというのですから、ジ(はな)という単語が姿を変えた上に「ビ」という音声に変わったというかから厄介です。
 「汪」という字は日本では「オウ」と読みますが、中国で犬の鳴き声をあらわすときは「ワン」ですし、また「往」は普通なら「シュ」と読むのですが、もともとの字は主の部分が「王」だから「オウ」と読むそうです。
 
 このように形声文字の音符が漢字理解の助けにはならないので、もっぱら連想によって漢字を解釈しようとする人もいます。
 たとえば下村昇「みんなの漢字教室」には図の左側のように「迷」という字を説明しています。
 従来の説明では「米」と「しんにょう」で「しんにょう」歩く意味で、「米」は「米粒で小さく見えにくい」あるいは「暗くて見えにくい」という意味の「メイ」で、歩こうとして迷うという意味だとしています。
 ぎこちない説明なのですが、下村説では「米」をずばり「道路」に見立て、「道が四方八方に広がっているから、どっちに行けばよいのかわからないので「迷う」のだと説明しています。
 要するに漢字のいわゆる字源にこだわらず、見た目から直感的にわかりやすい説明をつければよいのだというのです。
 
 漢字の字源説というのは諸説あって、古い時代のことであるのと同時に中国人のものの捉え方が基礎になっているので、理解しにくく、またどれが正しいかもわかりません。
 それなら実際の字源説明でなく「なるほど」と思いやすい説明にすればよいというものです。
 ところが、こうした説明は思い付きが主体となっているので、ほかの人が見ると別な解釈が可能となって具合の悪い面があります。
 「米」の部分を道路に見立てるといっても、現実の道路は八叉路というのはめったになく、多くわかれても十字路がふつうです。
 十字路に「しんにょう」は「辻」という字で、この解釈法で行くと「辻」が「まよう」という意味の漢字になってしまいます。
 また「迷」を「道に迷う」という意味に結び付けすぎると「迷惑」という日常用語の意味はわからなくなって迷ってしまいます。
 字源解釈で漢字を記憶するのはよいのですが、ほどほどということもあるのです。
 


漢字の擬声語

2008-09-26 00:06:34 | 言葉と文字

 「牛」とか「犬」は象形文字ですが、「グ(ゴ)」とか「ケン」という音声は泣き声からとったものとされています。
 つまり古代の中国では、牛や犬は「グ(ゴ)}とか、「ケン」と言う声で鳴くからそのように名づけられたということです。
 ところが、この呼び名は牛の場合は「ギュウ」となり、現代では「ニュウ」となっていて、犬は「ケン」から現代では「ツアン」と変化してきています。
 ところが鳴き声も同じように変化したのかというと、牛は「モウモウ」で、犬は「ワンワン」となって日本と似てきています。
 「モウ」は口偏に「牟」と書くので、新たに作られた漢字ですから、「モウ」という音を表すために造字されたものと思われます。

 「牟」という字は漢和辞典を引くと会意文字で、「牛+モウと声が出るさま」となっていて、牛の鳴き声をあらわすとしていますが、「もとめる、ふえる、大麦、眸(眸)」などの意味も表します。
 音はモ、ボウ、モウと変化して、牛の鳴き声を表すために作られた文字が、ほかの意味をも持つようになって、鳴き声専用の字として口偏に「牟」という字が作られたようです。
 犬のほうは現代では「ワン」と鳴くとして文字のほうは「汪」という字を使っていますが、これは単に「ワン」という音を表すために「汪」という字に同居しています。
 つまり、最初は鳴き声に似せて名前をつけたのですが、名前と鳴き声がそれぞれ変化して別物になっているのです。

 「蚊」「蛙」「猫」などは、象形文字ではなく音を表す文字を既成の単語から借り、偏をつけて意味を暗示していますが、音はやはり鳴き声からとっていて、擬声語だといいます。
 蚊は「モンモン」と羽音が聞こえるので文(モン)という字を借りて、虫偏をつけて文字を作ったといいます。
 「かほどうるさきものはなし、ぶんぶといひて」という狂歌では蚊は「ぶんぶ」と羽音を立てると意識されていますが、これは「文」という字を「ブン」と読むようになったからではないかと思われます。
 ふつう「ブンブン」といえばハエやハチのイメージで、蚊の羽音を聞いても「ブンブン」というふうには聞こえません。

 現代の中国語では蚊は「ウェン」と発音し、蚊の羽音も「ウェン」と発音します。
 現代中国語では文章の文も、紋章の紋も、蚊も「ウェン」と発音しますから蚊という昆虫の発音だけが変わったのではありません。
 羽音も「ウェン」と変わったのですが、文字は口偏に翁(ウェン)と造字して擬声音であることを示しています。
 蛙の場合も名前が「エ(ア)}から「ワ」と変化するのにつれて、鳴き声も「ワ」に変化していますが、鳴き声は哇(ワ)でカラスの鳴き声と同じ字に当てられています。
 猫の場合は現代語では「ミャオ」で口偏に猫というやり方で造字されていますが、「猫」という動物の名前は「マオ」となっていますから、鳴き声と似ていますが少し違います。

 このように鳴き声から名前がつけられたものでも、その後の名前と鳴き声の変化の仕方はバラバラで、一貫性がありません。
 鳴き声の変化と名前の変化が一致する場合もあれば、まったく違うものもあり、それぞれ固有の変化をしています。
 擬声語にしても、単純に音声を借りる場合だけでなく、意味を持たせようとして造字したりする場合もあり、一貫性がありません。
 表音文字的な傾向に努めようとするかと思えば表意化しようとするので、一貫した表意文字化にはならないのです。


漢字の表音

2008-09-23 23:30:05 | 言葉と文字

 「交」という字は「コウ」と読み、校、郊、効、皎、絞などいずれも「こう」と音読みしますから、これらの字の音を表わす部分、つまり音符となっています。
 「比較」の場合は「較」を「カク」と読んでいますが、本来は「コウ」と読み「比較
は「ヒコウ」と読むのが本当なのだということになっています。
 漢字の大部分は意味を表わす部分の意符と音を表わす音符で構成された形声文字だといわれています。
 ところが音を表わす部分は表音文字のように、曲がりなりにも規則的になっているかというと、そうではありません。
 
 たとえば「旬」という字は「ジュン」と読みますから、荀子、殉死などは字を知らなくても「ジュンシ」と読めるのですが、「絢爛」を「ジュンラン」と読んでしまうと、「百姓読み」と軽蔑されてしまったりします。
 現代中国語では「旬」はシュン、「絢」はシュアンのように発音するらしいので、同じ音符としてみることに抵抗がないのかもしれませんが、日本での「ジュン」と「ケン」は違いすぎます。
 漢和辞典をひくと「旬」は「めぐる」とという意味で、「絢」の「旬」も「めぐる」と言う意味だそうですから、「絢」を「ジュン」と読むのも無理からぬことです。
 しかし「絢爛豪華」をいまさら「ジュンランゴウカ」と読んでもいいとはいえませんから、漢字の音読みというのは読み慣わしに従うものだとしかいえません。

 情報を「漏洩」するという単語の読みは、「ロウエイ」と読み慣わしていますが、「ロウセツ」が正しい読みだと言われています。
 「洩」には「エイ」という読みと「セツ」という読みがあって、「もれる」という意味のときは「セツ」と読むということになっています。
 「曳」は「伸びる」というような意味で「エイ」と読みますが「セツ」とは読みません。 「洩」はサンズイに「曳」「のびる」で、水が漏れるという意味になるということから「もれる」という意味の「セツ」という言葉に当てられたようです。
 「セツ」という言葉に「洩」という字が当てられたので、「洩」は「セツ」とも読むようになったわけです。

 ところが同じようにして「泄」という字にも「もれる」という意味の「セツ」という単語があてられたので、同じ意味で二つの文字が出来ています。
 「泄」は「排泄」という風に使われていますが、「漏泄」というふうにも使われ、これは「漏洩」と同じ意味です。
 「泄」の「世」も「伸びる」という意味があるので、「エイ」という読みの「洩」と同じ意味でも使われ「エイ」とも読みます。
 二つの文字の意味が同じなら、いっそ「セツ」には「泄」、「エイ」には「洩」を専属させて、「ロウセツ」「ハイセツ」はともに、「漏泄」「排泄」とすれば紛らわしくなく、記憶の負担も少なくてすんだはずです。
 
 「該当」を「カクトウ」と読み誤る例がありますが、「亥」を「カク」と読む例は「核」ぐらいしかなく、「亥」だけでは「ガイ」で「亥」を音符とする字は劾、咳、該、骸、駭など「ガイ」と読むほうが多数派です。
 それでも該当の該を「カク」と読んでしまうのは、「ガイ」と読む字がなじみがうすく、「ガイ」という音も意味の喚起力が日本人に対しては弱いためです。
 「核実験」のように「核」はなじみがあり、日本語化しているので、その読みの連想から「該当」の「該」もつい「カク」と読んでしまったのでしょう。
 音読であってもひとつの文字に、いろんな読みが当てられているので、まぎらわしいく、漢字の表音方法というものは一貫性がないのです。
 


慣用読みでもよい

2008-09-20 22:59:43 | 言葉と文字

 漢字の読み方についての本には、「消耗」という単語をふつうは、「ショウモウ」と読んでいるけれども、ほんとうは「ショウコウ」と読むのだと書いてあります。
 「耗」という字の旁は「毛」なので「モウ」と読んでしまうのですが、正しくは「コウ」で、「毛」だから「モウ」だと単純に思い込んではいけないというのです。
 こうした思い込みで間違った読みをすることを「百姓読み」というそうです。
 「洗滌」は「センジョウ」と読むのが百姓読み、本来は「センデキ」、「憧憬」は「ドウケイ」でなく「ショウケイ」、「貪欲」は「ドンヨク」でなく「タンヨク」だなどという例がよくあげられています。

 ところで「消耗」の「耗」は「コウ」という読みしかないのかと漢字字典を引いてみると、じつは「コウという読みだけでなく「ボウ、モウ」という読みもありますから、「モウ」とは読めないということではありません。
 ただ、「ボウ、モウ」と読むときの「耗」は「くらい」という意味で、「コウ」と読むときは「へる」という意味なので、「消耗」は「ショウコウ」が正しいということになるようです。
 旁の「毛」は毛皮の「毛」という意味ではなく、「亡、莫」とおなじで「ない」という意味で、そこから「へる」という意味が派生したとあります。
 そうするともとは「ボウ、モウ」と読み「ない」あるいは「くらい」という意味だったのが、あとから「へる」という意味が派生し、「へる」という意味の「コウ」という単語を表わすのに「耗」が使われるようになったようです。
 日本語では「へる」という意味で「コウ」と発音する言葉はありませんから、「耗」という字を見てもこれが「へる」という意味だと分かったとしても「コウ」とは読めません。
 日本人にとっては「耗」が「へる」という意味だとしても、読みは「コウ」でも「モウ」でもよいのです。
 したがって「消耗」の場合、慣用読みの「モウ」は百姓読みだとして、「コウ」にどうしてもしなければならないというほどのことはないのです。

 「洗滌」の「滌」も字典を引くと「テキ、デキ」という読みのほかに「チョウ、ジョウ」という読みもあるので、「滌」は「ジョウ」とは読めないということではありません。
 漢和辞典によれば「滌」あるいは「條」の源字は「攸」で「水が細く流れる」という意味だというのですが、読みは「ユウ」です。
 「洗う」という意味の「テキ、デキ」という言葉が、「攸」という字を借り、それが「滌」という字に変化したということですから、「滌」という字が「テキ、デキ」としか読めないということではないのです。
 「耗」の場合と同じように、音声言葉が先にあり、借字をしているのですから、文字の元の読みではないのです。
 したがって「センデキ」と読むのが正しいと言って、今から改めるほどのことではありません。

 「憧憬」の「憧」も旁の「童」は「ドウ」と読むのですから「憧」も元来は「ドウ」と読んだはずです。
 漢和辞典を引けば、「憧」は「なにもしらず、おろか」という意味では「トウ、ドウ」と読み、「あこがれる」という意味の時は「ショウ」と読みます。
 したがって「憧憬」の場合は「ショウケイ」が正しいということになるのですが「童」は「おろか」とか「なかがぬけている」といった意味が原義なので、「憧」の元の意味は「なにもしらず、おろか」ということで、読みも「トウ、ドウ」が本家のようです。
 「あこがれる」のほうは派生義で、「あこがれる」といういみの「しょう」という言葉が、「憧」にヤドカリをしたのでしょう。
 中国語では「憧」という字を借りたからといって、読みを「トウ、ドウ」と変えるわけにいかず、「憧」に「ショウ」という読みを付け加えたのです。
 「貪欲」の「貪」は仏教用語のときは「トン、ドン」、漢語のときは「タン」で、時代による発音の変化ですから、どちらが正しいということもありません。
 こうしてみると日本語の中での慣用読みは、百姓読みとしてきつく否定するほどのことはないように思われます

 


形声文字

2008-09-19 00:31:29 | 言葉と文字

 「江」や「河」のような漢字はサンズイが意味の分類を表わし、「工」「可」という部分が「コウ」「カ」というふうに音を表わしているとされています。
 こういう種類の漢字を形声文字といい、漢字の80%は形声文字だと言われています。
 形声文字の音を表わす部分(音符あるいは声符)を覚えていれば、知らない漢字であっても音読することが出来るので、漢字は覚えやすく便利だというふうな主張もあります。
 ところが「意」とか「以」は、どちらも「イ」と読みますが、「億」「似」という字になると「オク」とか「ジ」と読むので、なまじ形声文字の知識を応用しようとすると間違えることになります。
 「工」「可」にしても「空」「阿」は「クウ」「ア」と読むのが普通ですから、うまくいかない例があるのです。
 「空」や「阿」も元来は「コウ」「カ」と発音していたのかもしれませんが、時代が変わって「クウ」「ア」と発音するようになったのかもしれません。

 少し極端な例では、図にある「各」のような場合があります。
 「各」自体は、漢和辞典を引いても「カク」という読みしかないのですが、「各」を音符とした文字の読み方は、「カク」だけでなく「キャク、コウ、ガク、キュウ、ラク、リャク、ロ」など幾種類もの読み方があります。
 もともとは同じ読みだったのかもしれませんが、読み方がいくつにも分かれてしまっていますから、「各」を「カク」と読むというふうに思っているだけでは、読み違いとなる場合が多いのが分ります。
 これらのうち「格」や「客」のように、おなじ文字が「カク、キャク」のように読み方が複数あるものは、いわゆる漢音、呉音の違いで、中国では時代の変化につれて音声が変化したのに、日本では古い読みが消えず、変化後の読みと同居しているようです。
 日本と中国で発音が同時に変化すれば、日本でも一つの読みに統一されたのでしょうが、日本で中国と同じ発音変化がなかったので二つ以上の読みが生きているのです。
 
 これにたいして「洛、落、絡、酪、烙」などは「ラク」という読みしかありませんから、「格、客」などとは違ったグループの文字です。
 「路、露、賂」なども「ロ」という読みで他のグループと離れています。
 どれも「各」という音符なのでもとは同じ発音の文字だったのかもしれませんが、何らかの意味で別の単語グループだったので、音声の変化が別々だったように見えます。
 読み方のグループが同じであれば、「各」の部分の意味に共通性があるかというと、洛と落、絡のように意味の共通性のないものがありますから、発音が同じだから意味も近いとは必ずしもいえません。
 格と客、喀などについて、「各」は「つかえてとまる」という意味を共有しているという説明が漢和辞典にはありますが、日本人にはイメージ的に分りやすいものではありません。

 漢字の訓読みは日本語なので、読みを知れば意味が分かるという場合が多いのですが、音読みの場合は、読みを知ったからといって意味が分かるわけではありません。
 「各」の例で見られるように、一つの音符に対して読みがいくとおりもあると、どの文字にどの読み方が当てはまるのかは、文字を見ただけでは分りません。
 一つの音符の読み方を覚えるときに、いくとおりもの読みがあったのでは、覚えやすいとはいえません。
 漢字の場合は文字が単語でもあるので、発音も意味も変化するため、文字と発音や意味とのズレがでてくるのです。
 漢字の読みとか意味に、きちんとした規則性があると思い込みすぎると期待を裏切られることになります。
 
 
 


会意文字が多い

2008-09-16 23:18:21 | Weblog

 「翠」と「みどり」と読み、青緑色を意味しますが、「羽+卒」がなぜ「みどり」という色になるのか、字面からは読み取れません。
 字典を引けば「翠」は「かわせみ」の雌で、雄の「かわせみ」を指す「翡」と合わせて「翡翠」が「かわせみ」を指します。
 かわせみの色が鮮やかな青緑色であることから、青緑色を意味し、そこからこの色の宝石である「翡翠輝石」をも意味します。
 日本語では「翡翠」を「かわせみ」と読めば鳥の名で、「ひすい」と読めば石の名ですが、色名のときは「翠」だけを表示して「みどり」と読みます。
 中国では「翠」(スイ)が「翡翠」を代表し、鳥の名、色名、石名を兼ねているのですが、日本ではバラバラになっています。
 日本では「かわせみ」が青緑色を連想させ、それが翡翠輝石を連想させるというふうになっていないので、読み方がバラバラになるのです。
 漢字の解釈といっても、中国と日本では発想が違うので、中国式の連想のつながりで説明されても日本人が納得できるとは限らないのです。

 「翡翠」については「翡」がオス、「翠」がメスだというのですが、なぜメスの「翠」が「翡翠」を代表するのかわかりません。
 一般的には雄と雌があってどちらかでその種を代表するとすれば、目立つほうで「かわせみ」の場合は、どちらかといえばオスのほうが色鮮やかだそうですから、本来ならオスの「翡」で代表してもよさそうなものです。
 「鯨」などは雄の鯨だそうですから、オスが種を代表しています。
 「かわせみ」は小さくてかわいらしいからメスで代表させると、理由付けしようとしても、「おしどり」はオスの「鴛」が代表していますから、「かわせみ」だけがなぜ?という感じです。

 また「翠」は「羽+卒」という形になっていて、羽は鳥を意味するので分かるのですが、「卒」はどういう意味なのか分かりません。
 いわゆる形声文字であれば「卒」は音符、羽が意符ということで、「卒」の意味まで考えなくても良いのですが、「卒」は字典を引いても「ソツ、シュツ」という読みがあるだけで「スイ」という読みはでていません。
 字典では「翠」の「卒」は音符(シュツ)で「小さくしまっている」意味で小鳥のことだと説明しています。
 つまりここでは「卒」は意味を示していて、「スイ」という音は示していないので、「翠」は形声文字でなく会意文字だということになります。
 
 それでは「卒」の部分は「スイ」と読むことはないのかというと「純粋」「酔態」「憔悴」などは「スイ」と読んでいるので、「スイ」と読むときもあります。
 単独では「ソツ、シュツ」としか読まなくても、他の意符と組み合わさったときは「スイ」と読むことがあるのです。
 「粋」「酔」「悴」「翠」などには字典を引けば、「ちいさい」という意味が含まれていて、「卒」にも「ちいさい」という意味があります。
 「スイ」という音声言葉があってこれを文字にしようとするとき、「卒」の意味を借りて「羽+卒」、「米+卒」のように作ったものと思われます。
 文字より先に音声言葉があるので、「翠」は「ウ」とか「ソツ」と読まず、「スイ」と読むのですが、文字面に音声は表示されていません。
 字典では「翠」は会意兼形声文字とされていますが、実際上は会意文字であるようです。
 そうすると、漢字は形声文字が大部分と言われるのですが、会意文字が考えられていたより多いということになります。
 日本で作られた漢字が会意文字が主であるのは、中国の漢字も形声文字ばかりでなく会意文字がかなり多いと感じていたためかもしれません。


漢字の単語家族

2008-09-14 00:23:26 | 言葉と文字

 「青春を謳歌する」とか「わが世の春を謳歌する」というときの「謳歌」は広辞苑などでは「ほめたたえる」と説明していますが、普通に使われているときは「たのしむ」という意味です。
 漢和辞典を引くと「ほめたたえる」という意味がのっていて、日本風の意味として「たのしむ」とありますから、広辞苑は漢語の解釈をそのまま載せたのでしょう。
 夏目漱石は「世は名門を謳歌する」というふうに使っていますから、ほめたたえるというのが本来で、その後意味が変化してきているようです。

 「謳」という字はゴンベンが付いていますから「たのしむ」より「ほめたたえる」という意味のほうが自然です。
 漢和辞典で見ると「謳」の「區」という部分の意味は「うたう」という意味で、「謳歌」は「ほめうたう」ということになります。
 同じような意味の漢字で「嘔」、「歐」というのがありますが、これらはゴンベンの変わりに「口」(くち)「欠」(口を大きく開ける)となっていて、「うたう」という意味だということが納得できます。
 同じような意味なら一つにまとめてもよいのに、なぜかかたちまで似た字が三つもあるのです。
 しかも「區」には「はく、もどす」という意味があって、「嘔」、「歐」は「吐きもどす」という意味もあります。
 「嘔吐」というときは「嘔」が普通使われ、「歐」を使う例は見ませんが、「歐」のほうは「欧」のように略字があるのに使われないのは不思議です。
 さらに「區」には、「打つ、たたく」という意味があって、「毆」と「歐」は同じ意味ですが、「毆打」というときは「歐」あるいは「殴」が使われ、「歐」あるいは「欧」が使われる例は見かけません。

 結局「欧」は三つの意味のどれも持っているのに、現在では「欧州」のように当て字で意味が分からない使われ方が一般的になっています。
 「歐」という字が四つの中でいちばん古く、書き分けのために「謳」「嘔」「毆」が後から作られたのかもしれませんが、「歐」だけでもよかったように見えます。
 「區」には他にも「オウ」という読みで違う意味があって、「まがる」という意味については「嫗」(老婆」「傴」(せむし)などがあり、これらは「歐」と別の意味です。
 サンズイに「區」は水につけるという意味で、さらにこれに「鳥」が加わると「かもめ」という字になっています(サンズイがなくて「區」+「鳥」でも「かもめ」)。

 「區」は「ク」という音で「区」「駆」「躯」、「スウ」という音で「枢」というような字があってそれぞれについて「區」が意味の中心部分としてか説明されています。
 これらの字は「區」という文字を共有することで、意味的に直接的あるいは間接的につながっているということになるのですが、「區」がいわゆる部首になっていないので、漢和辞典にはばらばらの場所に乗っています。
 「區」という字を共有していることで、血縁イメージを連想し「単語家族」という言い方をする立場がありますが、それにしては意味の広がりがばらばらです。
 「區」という字があれば、音が違ってもその意味に似たような言葉が寄ってきて文字を借りるということがありうるので、あとから家族関係にもぐりこんだという例もあるかもしれません。
 漢和辞典のあちこちにこれらの文字は散らばっているため、文字の関係が一覧できない状態なので偽家族が入り込んだり、家族関係が離れていったりごちゃごちゃになって分りにくいのです。

 


漢字と意味の多義性

2008-09-11 23:53:24 | 言葉と文字

 「靴」とか「鞄」と書くと革製品でなければならないような感じがしますが、布製鞄やゴム靴であっても漢字の部分は布にしたり、ゴムにしたりはしません。
 革のカバンを鞄と書き表すようになったときは、うまく表わしていると思われたでしょうが、布製のカバンやビニル製のカバンが普及してくると、文字が体を表わさなくなります。
 これがバッグとかシューズのようにカタカナ語であれば、革でも布でもビニルでも矛盾はしません。
 漢字が表意性があるために見ればその意味が分かるというのは、便利なようで不便なところもあるのです。

 「駅」という単語でも、現在では馬を置いているわけではないので、文字と内容がずれてしまっていますが、「ステーション」なら馬がいなくても問題がありません。
 そればかりか「駅」は鉄道の駅に変わっただけですが、ステーション(station)はサービス拠点という意味から「宇宙ステーション」、「放送ステーション」のようにも使われるようになり、意味が広がっています。
 馬を置いているときは「駅」は文字から意味が伝わる要素があったのですが、駅の内容が変化してしまうと名は体を表わさなくなってしまいます。
 カタカナ語のほうは名が体を表わしていないので、文字を見て内容が分るということはありませんが、、内容が変わっても差支えがないのです。
 
 図に示しているのはポピュラーな果物について、英語と漢語の意味の広がりの違いです。
 見れば分るとおり、英語は多義的で日本人の感覚では単純に思われるものでも、いくつかの意味を持っています。
 「リンゴ」といえば日本人の場合ならリンゴの実のことと受け取られ、リンゴと聞いてイメージするものが人によって違うのは、赤いリンゴか青いリンガかとか、西洋リンゴか和りんごかといった程度です。
 英語の字典を引くと、「大字典」といった詳しいものでなくても、いくつもの意味がのっていて、国語辞典や漢和辞典とだいぶ様子が違います。
 
 桃とか梅とか書くと木偏が付いているので、特定の植物をさしていることは、意味を知らなくても推定できます。
 どんな植物を表わしているかは、兆とか毎のような表音要素からでは分りませんが、植物であるということだけは分ります。
 英語のほうは文字面からだけでは何をさしているか分りません。
 木偏のようなものが付いているわけではないので、これらの単語を知らなければそれが植物かどうかの見当すら出来ません。
 その反面限定要素がないので、図のように多義化することができています。

 このように漢字で名詞を表現した場合は意味が限定される傾向があり、英語と比べると多義化しにくいように見えます。
 どちらがよいかは一概に言えませんが、表意性があるから漢字が便利だと断定するのは考えものです。
 漢字は字の形で意味を表現しようとする傾向があるので、、出来たときはよいのかもしれませんが、内容が変化したときついていけなくなるので不便なのです。
 機械は木製でなく金属製なのが普通ですが、そうしたことには目をつぶって使わなければなりません。
 字の構成などに気を使わずに、文字を処理しなければ不便になり、かといって字の構成に鈍感になっててしまうと漢字の特性が無意味となってしまいます。
 意味の変化が速い時代は漢字にとっては難しい時代なのです。

 


旧字体の文字の形

2008-09-10 00:06:14 | Weblog

 「学」という字は旧字体では「學」という字になっています。
 漢和辞典の説明では上の部分は図にあるように、「身ぶり手ぶりをならわせる」という意味だそうで、そのしたは屋根を表わしその中に子供がいるということで、学校を意味し、さらに学ぶという意味を持つということだそうでです。
 現在使われている新字体の「学」では、このような意味が字面に表現されていません。
 これは旧字体が良いという人がよく例に挙げる例なのですが、これだけ見ればもっともらしいのですが、現在ではこの知識はほとんど他に適用できないので役に立ちません。
 
 たとえば「撹乱」とか「撹拌」という字も、旧字体では「攪」となるのですが、この場合は「みだす」とか「かきまわす」という意味で、「学ぶ」という意味とは関係がありませんし読みもガクではありません。
 ふつうは「カクハン」とか「カクラン」と読んでいますが、漢字にうるさい人は「コウラン」「カクハン」が正しい読みだといいます。
 手偏に覚で「カク」とあとから読み慣わすようになったのでしょうが、音符の「覚」を「カク」と読むという知識が逆に作用してしまったようです。
 「撹」を「カク」読んだところで不都合はないのですが、「撹乱」いうような言葉を最初に導入したときは「コウラン」という読み方をしたということです。
 しかし「撹拌」のような言葉を使い始めたときには「コウハン」と言う読み方が定着していたかどうかは分りません。

 では「覚」は「カク」としか読まなかったかというと、実は「コウ」という読み方もあって、「覚醒」のように「さめる」という意味の場合は「コウ」という読みが漢和辞典を引くと出ています。
 「発覚」「覚悟」のように「あらわれる」とか「おぼえる」といった意味の時は「カク」という読みが当てられています。
 しかし現在では「覚醒」も「カクセイ」と呼んでいますから、すべて「カク」という読み方になっています。
 それで別に不都合はないのですから、「カクセイ」「カクラン」「カクハン」と言う読みが定着していても追認すればよいと思います。
 もちろん「覚」には「学ぶ」という意味とは直接関係がないのは明白ですが、字典では意味のつながりを何とか説明しようとするものがあります。
 それでも「覚」を「まなぶ」という意味とつなげるのはむずかしく、説明を読んでも論理がつながっていません。

 それぞれの文字の意味が違うのですから、こレらの背景に統一的な意味を感じ取ることは出来ません。
 したがっても字面が一緒でも意味も一緒というふうに考えないで、それぞれ個別に意味を覚えるしかないのです。
 「學」と同じ意味を持つ字としては「黌」という字があり、これだけ見てもややこしい字で意味が分からなくても「昌平黌」というふうに示されれば「ショウヘイコウ」と読むことはできるかもしれません。
 「黌」の上の部分は「學」と同じで、「学ぶ建物」という意味ですが、下の「黄」という部分が分りにくいものとなっています。
 まさか黄色い色をした建物という意味ではないでしょうから、あらためて字典を引けば「黄」は「ひろい」という意味で「広」の旧字体の「廣」と同じ使われ方です。
 したがって「学ぶための広い建物」ということで「ガッコウ」を意味することになります。(それでもこの場合は読みが「コウ」で学とはなぜか違います。

 「学」「覚」「撹乱」などは上の部分からは意味の共通性が見渡せないので、共通の意味をさぐろうとせずに個別に意味を覚えることになり、かえって好都合ですし、音読みも個別に覚えたほうが無難です。
 旧字体は文字の意味が字の形に埋め込まれているというのですが、この例でも見られるように同じ形が同じ意味とは限らないのです。
 「学」という字でも字源的な説明にある「身ぶり手ぶりをならう」というような意味は 「科学」や「数学」などの「学問」という場合にはなくなっています。
 言葉の意味が変化してきて元の意味から離れてきているのですから、文字の形が元の意味を反映していないほうが便利なのです。