60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

文字の読みと音声変換

2008-04-29 23:37:50 | 言葉と文字

 生まれて最初に覚えるのは音声言葉です。
 音声言葉を覚える前に文字を覚えることはありませんし、文字を先に教えるということもありません。
 文字を覚える場合は、文字の読み方をまず覚えますが、読み方というのは音声に変換することですから、音声言葉があるていど身についていることが前提になっています。
 そこで既に音声言葉として知っている言葉であれば、文字で表わされた言葉は読み方を知れば意味も分かるということになります。
 文字の読み方は一度で覚えられればよいのですが、普通は繰り返しリハーサルをして覚えますから、文字を見ると音読する習慣がが身につきます。
 文字を見て意味が分かっても、読み方を忘れているということもありうるのですが、たいていは読み方を思い出すことによって、文字の意味も思い出されます。

 アルファベットのように文字が音声を表わすものであると考えられていると、文字を読むというのは音声化することで、そのことによって意味が分かるということになります(図の読み①)。
 日本語で使う漢字のように表語文字と呼ばれるものでも、学習の過程で音読の習慣がついていれば、やはり文字を音声に変換して意味を理解しています(実際に声に出さなくてもココロの中で音声に変換しています)。

 ところが文字を読むとき、いつも音声に変換していたのでは時間がかかるので、能率の面からいえば音声に変換しないで直接意味が理解できればそのほうが良いと考えるのが人情です。
 実際、よく見慣れた単語(たとえば自分の名前)の場合は、音声に変換しなくても直接意味が分かる場合があります。
 意味を熟知して見慣れている単語は音声に変換しなくても、意味がすぐに思い出されるので、音声変換する必要がないのです。

 文字を覚えるとき、読み方を覚えると同時に意味を確実に覚えていれば文字を見たとき音声に変換しなくても意味が分る可能性があります。
 小中学校で読み書きのテストをするときに、読み書きを独立させず、意味を必ず答えさせていれば国語力も上がるはずです。
 読み方だけのテストをすれば、意味が分からなくても読めれば満足する習慣を作るので、音声変換すれば意味が分かったような錯覚するようにもなります。

 漢字の場合は言葉の意味が分らなくても、読み方の規則を知っていれば読み方が推測できるものがあります。
 また単語を構成する文字や文字を構成する部分から、単語の意味が推測できる場合もあります。
 推測がいつも正しければよいのですが、間違っている場合もかなりあるものです。
 大人になっていればたいていの場合、長年にわたって意味が良く分らないままに文字を読んできていて、誤解やあいまい理解がたまっているので、できるだけ辞書を引くようにすべきです。
 


書字の運動イメージ

2008-04-28 23:33:16 | 言葉とイメージ

 図の上半分は横書き文章を180度回転させたもので、下半分は縦方向に裏返したものです(文章の一番下に鏡を縦に置いたときに映る鏡像)。
 180度回転した文章のほうは、文字が逆さまになっているだけではなく、右から左へ、下の行から上の行へと読んでいかなくてはならないので読み難いのですが、それでも下の場合と比べるとはるかに楽に読めます。
 一つ一つの文字を読み取るのは、文字イメージをアタマの中で回転させたものと、脳内辞書にある文字を比較しているように思えます。
 ところが、「地球温暖化」とか「調査結果」というような文字のかたまりであっても逆さまの状態のまま読み取ることができるので、この場合も逆さまになった熟語を頭の中で回転させているかというと、心もとなくなります。
 
 そこで実際に、いくつかの文字のかたまりをアタマの中で回転させてそのイメージを想いうかべようとするとなかなかうまくいきません。
 漢字熟語のようなものをアタマの中にイメージしようとしても、ボンヤリとしかイメージできないので、それをアタマの中で180度回転するとなると、回転されたイメージがハッキリしないので読み取り困難となります。
 したがって逆さまの文字を読むときに、わたしたちは逆さまになっている文字をアタマの中でイメージ回転して読みとっているのではなく、別のやり方で読み取っているのです。

 どうして逆さまの文字や単語、熟語を読み取れるのかというと、それは文字に対する記憶が視覚イメージとしてあるだけでなく、書字の運動感覚が記憶されているためです。
 江戸時代の寺子屋の師匠は寺子と向かい合った状態のまま字を書いて見せたといいますから、字を逆さまに書くことができました。
 この場合文字のイメージを逆さまにしてそのさかさまにしたイメージにしたがって描くのではなく、自分が相手側の立場に立ったイメージを持って書けばよいのです。
 そうすれば、後は記憶している書字の運動感覚にしたがって書けばよいのですから、きちんとした字を書くことができたのです。

 そうなれば下の鏡像イメージの文章が上の逆さまな文字に比べて極端に読み取りにくいのは、アタマの中で文字イメージを鏡像に変換するのが難しいからではなく、鏡像文字の書字の運動イメージがないためだということが分ります。
 アタマの中に鏡像イメージを思い浮かべること自体は、180度回転した文字のイメージを思い浮かべるより難しいというわけではありません。
 視覚イメージだけの問題であれば、逆さまのイメージを想いうかべるよりも、鏡像イメージを想いうかべるほうがむしろ易しいのです。
 たとえば馬が右を向いている画像があれば、この鏡像は左を向いたイメージですが、この鏡像イメージをアタマの中に思い浮かべるのは、逆さまのイメージを想いうかべるより楽です。
 鏡の中に左右が反転した自分の顔の鏡像が写って見えても違和感を感じませんが、顔が逆さまに映れば違和感を感じるものです。
 視覚イメージとしては倒立イメージのほうが、鏡像イメージよりわかり難いのです。
 
 文字の場合は逆さまの文字のほうが、鏡像文字より分りやすいというのは、文字を見て理解をするとき、視覚イメージとして見ているだけでなく、書字の運動イメージも連動して見ているからなのです。


視覚言語と文字

2008-04-27 23:47:31 | 言葉と文字

 人間の社会で言葉のない社会というのはありませんが、文字のない社会というのはあります。
 言葉といえば基本は音声言語で聴覚を使うので聴覚言語と呼ばれますが、これに対して視覚言語というものがあるとされています。
 視覚言語というと文字言語のことだと思われがちですが、文字は音声言語とは成り立ちも役割も違うので、視覚言語というのは適当ではありません。
 音声言語と同じような役割を果たして、手段が聴覚でなく視覚であるということになれば手話こそが視覚言語というべきです。

 手話というのは手の動きや形、位置の組み合わせで言葉を構成していますが、図の例のように手の動きや形や位置は言葉を区別する要素として使われていて、身振りのように模写をするものとは限りません。
 視覚言語だからといって絵を描いて見せるとか、身振りで真似てみせるということでは必ずしもありません。
 平和とか正義とか言う抽象概念も表現できるので、単なる意味を持ったジェスチャーではなく、独立した言語になっています。

 人間がいつから言語を使うようになったかは直接的な証拠がないのでハッキリは分りません。
 文字のほうは文字が記されているものが残っていれば、それによって少なくともその記された年代を知ることができます。
 つまり話し言葉は内容を直接保存できませんが、文字は記された情報を保存あるいは貯蔵できます。
 というよりも文字は情報の保存がその始まりで、音声言語や手話のようにコミュニケーションの手段として始まったわけではないようです。
 最古の文字とされるシュメールの文字のもとは、土器で作られたトークンで、財産や取引の記録につかわれています。

 社会が複雑化すれば情報の記録、貯蔵が必要になってきますが、最初は統治目的や宗教目的に使われていたにすぎません。
 今でこそ活字が普及し、識字率が向上したので文字は万人のものになっていますが、かつてはごく一部の階級に占有されていたものです。
 文字が作られたのがそう古い時代のことでなく、さらに普及したのがつい最近であることを思えば、文字を視覚言語というふうに呼ぶのは不自然です。
 文字言葉はことあらためて教育をして覚えさせたり訓練しなければ身につかないものなのです。
 江戸時代からのいわゆる「読み書きソロバン」というのも、話し言葉と違って、文字言語は特別に訓練をしないと使えるようにならないことを意味しています。
 
 


音声と文字の区切り

2008-04-26 22:47:15 | 言葉と文字

 図の一番上は「four score and seven years ago」を中国系アメリカ人の言語学者の発音の音波だそうです。
 その下は発音記号。
 次はアルファベットによる英文で、その下の行は日本語によるカタカナ書き、その下は日本語によるローマ字表記です。
 こうして見ると、アルファベットによる英文や、日本語によるカタカナ表記やローマ字表記は、いずれも各文字が一つづつ分かれているように見えますが、音波のほうはこれらに対応してハッキリ分かれているわけではありません。
 発音記号は音声を一つ一つの要素に分けて表記していますが、発音されている音声のほうでは発音記号の区切りに一つ一つ対応しているわけではありません。
 発音のほうは連続していて、区切りがあるように見えてもその区切りは発音の要素の区切りとは一致しません。
 発音記号による区分というのは人工的な、理論的にこしらえられたもので、実際の音声の中に区切りがあるわけではないのです。

 同じ文でももっと区切りがハッキリしない発音の人もいますから、音声の要素の区切りは実際はこの例よりもさらにあいまいです。
 日本人が英語の聞き取りが不得意というのは、英語の発音に慣れていないからとか、発音ができないからだとかいわれていますが、それだけではありません。
 英語を習うとき、文字とセットで習うので、単語や発音の区切りがあるものとして頭の中にイメージされています。
 音声を聞くとき、頭の中にある区切られた音声の要素と、実際には連続している発音とを照合しようとするのでうまくいかないのです。

 アメリカ人の子供でも、言葉の聞き取りができず、発音もうまくできないと言葉をうまく覚えられない場合があるそうです。
 知能が遅れていなくても言葉が遅れるために、知能が劣るように見えるのですが、言葉の訓練で知能の遅れも解消できるのだそうです。
 この場合ゆっくりと区切りのある発音から訓練して、段階的にスピードを上げ、区切りの分らない段階にまで慣れさせるそうです。
 発音のスピードを上げていって、一つ一つの音素と発音を対応を意識しなくてすむようになれば自然に聞き取れ、意味が分かるようになるのです。

 文字を読む場合も一つ一つの文字と単語や文との対応を意識しているうちは、理解がうまくいきません。
 文字を覚え始めの段階では、文字と単語の対応を意識しなければなりませんが、単語を読み取るスピードを上げていって、対応関係を意識しなくても読み取れるようになる訓練をする必要があります。
 学校の教育ではたいていこうした訓練をしないので、文字の読取がうまくいかない生徒が置き去りにされてしまうのです。
 単語を見てスムースに頭に入るような訓練を意図的にすべきなのです。


日本語の由来

2008-04-22 23:12:33 | 言葉と文字

 月本洋「日本人の脳に主語はいらない」によると、日本語は母音を重視する言語で、英語は子音を重視する言語ですが、母音を重視する言語は主語を省略する傾向が強く、子音を重視する言語は主語を省略しない傾向が強いそうです。
 ところで、現代の英語は主語が必要とされる言語の代表ですが、古英語の場合は主語が省略される場合が多かったそうで、そうなると古英語は母音を重視する傾向が現代より強かったのではないかと推測されます。
 上の表はこの本にある現代英語と古英語の対照表の抜粋です。
 古英語の場合の発音は文字通りに読めばよいということですが、この例で見る限り古英語は語尾が母音で終わっているものが多く、現代英語が子音で終わっているのと対照的です。
 つまり英語はもとは母音重視の言語であったものが、子音重視の言語に変化したのです。

 母音の比重が変化するに伴って単語の発音が変化し、同時に単語のつづりも変化しています。
 日本語の旧カナ遣い論者がよく引き合いに出す、knightのようにもとはkが発音されていて、その後発音が変化してもつづりは変っていないというような例ばかりではないのです。
 もとは発音にあわせて綴りができたのでしょうから、発音の変化に応じて綴りが変化しても不思議でないし、自然でもあったのです。

 この本では母音の比重の大きさによって、多くの言語を分類し、母音の比重の高い言語ほど主語を省略する傾向が強いと分析しています。
 この結果世界の言語の中で日本語はポリネシア語と並んで、最も母音の比重が高く、主語の省略傾向が強いとしています。
 世界の大多数の言語に対して、ごく少数派の特異な言語という形になっています。
 
 日本語の語彙の中にはポリネシア語由来のものもかなりあるので、日本語の起源はポリネシア語だという説は以前からあります。
 母音比重が高く主語を省略する傾向も共通なので、いよいよ日本語のルーツはポリネシア語かと思われそうですが、語順など文法的には全く違います。
 文法的には日本語はモンゴル語や朝鮮語と同じ語順で、アルタイ語系といわれ、朝鮮語と同系という説もあるのですが、母音の比重で見ると朝鮮語とは距離があります。
 
 そうなると日本語は朝鮮語などのアルタイ語系の言語と、ポリネシアごとが混交して出来上がったとも言えそうですが、英語のように母音の比重が時代を経るにつれ変化したと考えれば、アルタイ語系だという可能性も棄て切れません。
 アルタイ語系で子音の比重が高かったのに、語尾の子音が落ちて語尾が母音になったと考えられなくもないからです。
 とはいえ、子音の比重が減って母音重視言語に変ったという例が他にあるわけではないので、こうと即断するわけには行きません。
 日本語の場合は、***語と同系だというと、そうではないという証拠がたくさん出てくるので由来を特定することはできないのです。


身体、動作のイメージを使って考える

2008-04-21 23:43:14 | 言葉とイメージ

 図a回転させた形と同じものはb、cのどちらかという問題を考えるとき、イメージ操作の得意な人は回転イメージを想いうかべられるのですぐにわかります。
 しかしたいていの人は、イメージを回転させてもボンヤリしたイメージになってしまうので、どちらがaと同じになるか分りません。
 aの斜め下に円で囲んだ図は佐伯胖という心理学者が考案したもので、図を人間の身体に見立て、上に頭を乗せた見たものです。
 横に伸びているのが腕、胴から直角に脚が出て膝が曲がっているような感じです。
 a,b、cそれぞれに頭を乗せたイメージを想いうかべると、aの腕は右腕、bの腕は左腕、cの腕は右腕となりますから、cがaと同じだということが実感できます。
 a,b,cに頭を乗せたイメージを想いうかべるといっても図形イメージに集中してしまうとうまくいきません、
 自分の身体を図のイメージに同化させて見る、つまり自分の身体を使ってイメージを想いうかべると、図の中に腕、胴、脚がイメージされ、どのように回転させたかが実感できます。

 図を言葉で説明しようとした場合、a図なら黒点を原点として、「立方体左方向に3つつながり、左端の立方体の下方向に三つの立方体がつながり、最下端の立方体から奥に二つの立方体がつながり、一番奥の立方体の下にひとつの立方体がある」という表現になります。
 bは「右斜め上方向に3つの立方体がつながり、三番目の立方体の斜め右下に三つの立方体がつながり、その三番目の立方体から左奥に二つの立方体がつながり、一番奥の立方体の斜め下にひとつの立方体がつながる」といったような表現となりますが、これではaと同じなのか違うのか判断できません。

 これも自分が四角い部屋の中を進んでいくイメージで表現するとaは「前に進んで3つ目の部屋から下がり、一番下の部屋から右に曲がり、二つ目の部屋でひとつ下がる」となり感覚的に理解しやすくなります。
 bは「前に進んで、3つ目の部屋から下がり、一番下の部屋から左に曲がり、2つ目の部屋でひとつ下がる」となってaと比べれば、一番下の部屋から右でなく「左に」曲がるので、aとの違いがハッキリします。
 
 このように言葉を使って考えても解決できるのですが、最初の説明のように客観的に説明しようとすると分りにくいのですが、自分の身体やその動きのイメージを使うと理解しやすいのです。
 視覚的なイメージ操作と、言葉の操作とどちらが分りやすいかということとは別に、人間の身体や動作のイメージを使うかどうかで理解の度合いが大きく変るのです。

 では人間の身体や動作のイメージを使うのが万能かというと、必ずしもそうではありません。
 たとえば右下のRの形のうち、ひとつだけ違うのはどれかという問題では、無理に身体や身体動作のイメージを使わなくても、単純にイメージを回転させることで答えを出すことができます。
 ただ一番最初の例のように、頭をつけて人間の身体のイメージで考えたときは、「分った」という実感が強いのが特徴です。


イメージの操作

2008-04-20 23:30:55 | 言葉とイメージ

 人間がものを考えるときは言葉で考えているといわれると、そんなものかなと思いますが、言葉を使って考えるといえば、脳の働きだけのような感じがします。
 たとえば76+87という計算をするとき、暗算ならば「76に80を足して156、156に7を足せば163」というふうに頭の中で言葉にして考えて答えを出しているようにみえます。
 ところがソロバンを使って計算をするときは、同じ桁同士の数の足し算をするときの規則に従って珠を動かすだけです。
 珠を動かした結果を見ればそれで答えが分る仕組みになっています。
 
 ソロバンを使って計算するときは、規則に従って指を動かすことによって答えが得られるのですから、計算過程は指による珠の動きで、珠の動きはソロバンという道具の仕組みに依存しています。
 脳の働きよりも、ソロバンという道具の仕組みを使って、その結果答えが得られるのですから、頭で考えるだけでなく、外部のものの仕組みによって結果が得られています。

 珠を動かすのは脳の働きがあるからで、ソロバンの珠自体に計算の働きがあるわけではないというふうにも考えられますが、ソロバンの物理的構造が変ると計算できなくなりますから、やはりソロバンの仕組みによって計算ができるのです。
 たとえば、図の下のようにソロバンの珠がひとつなくなって、下段が3つの珠になっている場合は、76に87を足して156という結果を正規の四つ球の場合と同じやり方で得られるように見えます。
 ところが76に78を足そうとすると、同じ珠の動かし方ではできなくなります。
 10の位の7に7を加えれば10の位は4になりますが、この珠では4を表わすことができないのです。

 それではこのようなソロバンは全く役に立たないかというと、これは8進法の計算に使うことができます。
 上の珠は5でなくて4として使えば、珠の動かし方は10進法の場合と同じです。
 図の例では二桁目では上の珠が4と下の珠が2で6、一桁のところは上の珠が4で下が1ですから5で、数字で表わすときは65となります(10進法になおすと6×8+5で53)。
 これに66(10進法では8×6+6で54)を足すと6は8-2ですから2を引いて上の位に1を足すという操作で右のように153という結果が得られます(10進法では64×1+8×5+3で107)。
 
 もし8進法の65+66を言葉を使って暗算するとなれば、65と66を10進法に換算して10進法で計算し、さらにこれを8進法に直すというので頭の中だけではとても難しくなります。
 珠の動かし方を覚えれば、8進法のような計算は暗算でするより、専用ソロバンを使ったほうがはるかに楽になります。
 一番簡単なソロバンは2進法のソロバンで、上の珠がなく下の珠が1つのものです。
 ソロバンのように道具を使う場合はこれをイメージ化することができますから、珠を動かすというイメージ操作で結果が得られるから便利なのです。


漢字単語の読み取り

2008-04-19 23:43:44 | 文字を読む

 「特殊戦後型日本式経営方式」のように長い単語は慣れない限り一目で意味が読み取れるものではありません。
 「特殊な戦後の型の日本式の経営の方式」というような意味ですから、造語するときは、つぎつぎに修飾語句を加えていっただけで単純です。
 長い単語なので意味を理解するのが難しそうですが、よく見れば文字の並べ方は中国語式ではなく日本語式です。
 日本語式の語順で、そこから助詞を省いた形のものですから、日本語のアタマで理解しやすい形になっています。
 このような擬似漢字熟語は、戦後になってから増えたものですが、「尊敬」を「尊び敬う」というように字づら解釈で済ませることができる便利さによって普及したものと思われます。

 このようなコトバに慣れてしまうと、元来の中国式の単語、熟語の意味を誤解するような例が出てきます。
 たとえば「登竜門」は「黄河の中の急流である竜門を登る」ことですが、「登竜の門」と解釈してしまう人が多いようです。
 辞書を引かなければ、竜門が黄河の中流の地名だなどとは分りませんからてっきり「登り竜」の門だと思ってしまいます。
 もう少し考えれば天に登る竜はよいとしても、門はどういうことかわからず、しっくりきません。
 中国語式の語順なら「登山靴」が山に登る靴ですから、「竜に登る門」か「竜門を登る」ですから、「竜門を登る」の「竜門」の意味を調べるということになるはずです。
 「登る竜の門」というふうな読み癖がついて、部分的に理解できないところがあっても何となく分った気になってしまうのです。

 「綺羅星」も「綺羅、星の如し」と音声では切って読むのですが、「綺羅星の如し」とあると綺羅が形容詞だと感じて、「キラ星」と思い込んでしまって「綺羅」の意味を辞書で調べなかったりします(ただしワープロで「キラボシ」と入力して漢字変換すると「綺羅星」とでるので間違えやすい)。
 「正誤表」を「正と誤の表」と思ってしまうのも、日本語式の語順につい従ってしまうためで、「誤りを正した表」と中国語式の語順で理解しなければならないところです(「正誤文」なら「正しい文と誤りの文」と複数の意味とは思わないので、「誤りを正す文」と解釈するのではないでしょうか」。

 「愛犬家」といえば「犬を愛する人」で「愛鳥週間」といえば「鳥を愛する週間」です。
 ところが「愛犬」とすると「愛する犬」で、「愛馬」といえば「愛する馬」ですが、「愛馬家」というのはありません。
 日本語での漢字の使い方は一貫しているわけではないので、一つ一つの文字を順に目で追えば意味が分かるというわけにはいかないのです。
 


単語の全体イメージ

2008-04-15 23:48:34 | 文字を読む

 「だ□こん」、「にん□ん」、「□まねぎ」の□の部分を埋めるという問題は大人ならすぐわかります。
 もちろん子供向きの言葉の訓練の問題ですが、なぜこういう問題が使われるかというと、単語の全体イメージを持たせるためのものです。
 子供が文字を読むことを覚えるときは、/だ/い/こ/ん/と読んでいって/だいこん/とつなげて「だいこん」という単語を読み取れるようになります。
 単語はもともとつながっているのですが、こどもに教えるとき音節で分けてゆっくりと/だ/、/い/、/こ/、ん/というふうに発音してから/だいこん/と続けて発音して教えます。

 日本語はひらがなを覚えれば、ひらがなで書かれたものは一字づつ読み上げれば音声に変換したということで、読んだ形にはなります。
 しかし実際に読んだといえるためには/だいこん/とつなげて読んで単語の全体イメージが浮かぶようにならなければなりません。
 単語の全体イメージが記憶に定着すれば、「だ□こん」を見れば「だいこん」が想いうかべられ、また「だ□こん」を見て「だいこん」を想いうかべようとすることで記憶が定着します。

 文字を読むときいつも一字づつ読んで、それを単語に組み立ててからさらに文章に組み立てて意味を理解するというのでは時間もかかりますが、大変な労力が要ります。
 一字づつ見てからでなく、単語全体をひと目見ただけでわかれば、理解が速く楽になるのですから、文字を読むときは、できるだけ一字づつ見ていくのではなく、単語全体を見ていく必要があります。

 たとえば四字熟語のようなものでも、よく知っているものであれば「厚顔□恥」のような形になっていても「厚顔無恥」と読めるのですから、/厚/顔/無/恥/と順に読む必要はなく単語全体を見ればよいのです。
 「品行□□」、「栄□盛□」などよく知っている単語であれば、半分が隠されていてもわかりますが、「公益□報調□機関」、「行政不□□査法」など馴染みのない単語の場合はさっぱりわからなくなります。
 「公益通報調査機関」、「行政不服審査法」も/公益/通報/調査機関/、/行政不服/審査法/と見ていくほうが一字づつ順に見ていくより何となく意味は分かります。

 このような馴染みのない単語でも、何度も繰り返して見ていくうちに、ひと目見ただけでそれとわかるようになりますから、本当は内容がよくわからないのにわかったような気になってしまうことがあります。
 「読書百遍意自ずから通ず(義自ずからあらわる)」などといわれますが「論語読みの論語知らず」という現象もありますから、ことばに馴染めばそれでよいというわけではありません。
 漢字は文字自体に意味があるので、単語の名前がそのまま内容を表わしているように思いがちですから、馴染む前に意味を正確に知っておく必要があります。


黙読と音読

2008-04-14 23:23:29 | 文字を読む

 「坊主が屏風に描いた坊主が屏風に描いた坊主が屏風に坊主の絵を描いた」という文章を読んで意味がすぐに分かる人は少ないでしょう。
 これは月本洋「日本人の脳に主語はいらない」に出てくる文章を縮めたもので、原文はもう一度「坊主が屏風に描いた」が繰り返されていてさらにわかりにくくなっています(図も縮めたものです)。
 この文章は最後の「坊主が屏風に坊主の絵を描いた」が主文で、その前の「坊主が屏風に描いた坊主が屏風に描いた」が修飾部の文です。
 この修飾部の文は「(坊主が屏風に描いた)坊主が屏風に描いた」でカッコの部分が次の坊主を修飾しています。
 そこでこの文章は「((坊主が屏風に描いた)坊主が屏風に描いた)坊主が屏風に屏風に坊主の絵を描いた」という構造で、このように表現すれば何とか理解できます。
 
 図はこれをイメージ化したもので、4人の坊主を右から順にイ、ロ、ハ、ニとするとこの文は「((坊主イが屏風に描いた)ロが屏風に描いた)ハが屏風にニの絵を描いた」という形にすればややわかりやすくなります。
 このように図にしてイメージ化したり、構造を図式化すれば何とか意味が分かりますが、この文章を読み下すだけでは理解できる人は少ないでしょう。
 この文章が分りにくいのは、修飾部が長く、修飾される主語が最後のほうに来ているので読んでいる途中の段階では文の構造が見えないためです。
 
 日本語の場合は述語や結論が最後のほうに来るので、途中までは何を言っているかわかりにくく、文の最後になって全体の意味が分かる場合が多いようです。
 書かれた文章の場合は、読み返したりあるいは文末部分を同時に目に入れて論旨を把握できますが、話し言葉の場合はそうはいきません。
 音読と黙読とどちらが文章を理解しやすいかという場合、黙読のほうが理解しやすいという意見と、変らないとか、音読のほうが理解しやすいという意見があります。
 英語話者の場合は変らないとか、音読のほうが理解しやすいという人もかなりあるそうですが、日本語の場合は黙読のほうが理解しやすいとする人のほうが多いようです。

 日本語の場合は文章の結論が後に来るので、音読をした場合文章の構造が途中段階までわからないままに読み進まなければなりません。
 修飾部分とか前提などが長いと、前に読んだ部分を忘れてしまったりして、全体として理解できなかったりします。
 黙読であれば先を見たり、先に進んでから前の部分を見たり、あるいは文章をある部分をひとかたまりとして見るといったことが可能ですが、この場合は視野がある程度広く、同時に複数箇所を見る能力が必要です。