60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

原因なのか結果なのか

2006-06-30 22:26:49 | 視角と判断

 図 a では上の円のほうが大きく見えますが、普通の説明では、「斜めの線が遠近感をもたらすので、同じ大きさの場合手前側が大きく見えるのだ」としています。
 遠近法による説明には反対意見もあるのですが、別の説明法として立命館大学の北岡教授のつぎのような説があります。
 図 a で縦に引いた二本の線は平行線なのですが、斜めの線が交差すると鋭角がやや広がって見え、その結果二本の線は上がやや開いて見えます。
 したがって垂直線に接するように円を描けば上のほうの円が大きく見えることになります。
 二本の垂直線が上で広がって見えるということは b 図のように外側に同じ大きさの円を持ってきても、やはり上のほうが大きく見えるだろうと予測され、実際に上のほうが大きく見えます。
 いわゆるポンゾの錯視の場合は、この垂直線はないのですが、二つの円を比べるときこの原理が作用するというわけです。
 
 このせつめいでは、二本の垂直線が斜めの線と交差するときに、鋭角が開いて見えるのはなぜか、という説明がないので、分かったような分からないような感じです。
 遠近法によって説明したがる人からすれば、二本の平行線が上に開いて見えるのは遠近感を感じるためだというかもしれません。
 ところで平行線に斜めの線が交差すると平行線が一方に広がって見えるというげんしょうは、 c 図のような場合にはっきりと現れています。
 これは、いわゆるツェルナーの錯視図といういうもので、北岡教授の例と比べてみると、実はポンゾの錯視と、ツェルナーの錯視は同じ原理だったのだということに気がつきます。

 そうすると、考え方によってはツェルナーの錯視は遠近感の錯視なのではないかということです。
 そこで、ポンゾ錯視のときと同じように、真ん中に二本の垂直線を配置し、二本が同じ長さに見えるかどうかを試そうというのが d 図です。
 両脇の二本の垂直線が開いて見えるなら、真ん中の線は上のほうが長く見えるはずですが、なかなかそのようには感じられないはずです。
 両方の長さを見比べようとして二本の線を同時に見ていると、 c 図では上が広がって見えた両脇の垂直線がいつの間にか平行に見えているでしょう。
 真ん中の二本の線を見ていると錯視が消えるのは、離れている二本の線を同時に見るためで、 c 図の場合は気がつかないうちに上下に眼を動かしていたということです。

 垂直線に斜めの線が交差したとき、鋭角が広がって見えるのが遠近感をもたらすのか、それとも遠近感によって、鋭角が広がって見えるのか難しいところです。
 心理学の説明というのは原因によって結果を説明しているのか、あるいは結果によって原因を説明しているのか分からなくなるような場合があるようです。


縦縞はスマートに見えるか

2006-06-29 22:55:51 | 視角と判断
 横縞のほうが縦縞よりも肥って見えるというのが常識なのですが、図の下の正方形を見ると縦に線の入った真ん中の図は横に広がって見えます。
 したがって横縞より縦縞のほうが幅広に見えるので、肥って見えるはずです。
 名古屋市立短大の高橋春子教授の実験によると、実際に図のようなワンピースを作って、生徒に見せて調べた結果、縦縞は肥って見え、横縞は背を高く見せることが分かったそうです。
 中川越「錯視.錯覚ゲーム」によれば、この図を知り合いの女性に見せて感想を聞いたところでは、7割が縦縞より横縞のほうが肥って見えると答えたそうです。
 正方形の場合であれば、真ん中の縦縞の四角形が縦長に見えるという人はいないでしょうが、洋服の形にすると7割もの人が逆の答えを出したのです。
 よくみれば縦縞のワンピースのほうが幅広に見えるのですが、先入観のために横縞のほうがスマートに見えてしまう人が多いようです。
 
 本に紹介されていたのは平面的な図なので、実際の洋服を着た場合のように立体感を与えたらどうなるかを見るために、陰影をつけたのが右の図です。
 立体感を与えると肥って見えた縦縞の姿もかなり細く見えますが、横縞のほうも~スマートに見えますから、横縞の法が肥って見えるということはないと思います。
 この図の例に限っていえば横縞のほうが肥って見えるというのは思い込みの影響が強いといえそうです。
 
 ところで縦縞は必ず横長に見えるかというと実はそうとは限りません。
 下の一番右の正方形は細かい縦縞なのですが、真ん中の場合とは違ってよこながにはみえないのです。
 縦線が多くなると分割が見えにくくなり、全体がまとまったように見えて黒の正方形のように見えてきています。
 そのため、一番左の正方形と同じように見えてくるので、横長には見えず、むしろやや縦長に見えてくるほどです。
 分割線が入ると横長に見えるというのは程度問題で、ある程度以上になると横長に見えなくなってくるのです。
 
 もし縦縞の服を作ってしかも細く見せたいというのであれば、縞を細かくすることと、
最近のジーンズのように真ん中が白く見えたり、光って見えるようにすればよいのかもしれません。
 単に縦縞のほうが細く見えるはずだということで作ると、期待に反してかえって太く見せるという結果になりかねません。
 細く見えているというのは錯覚で、思い込みでは細く見えても、本当は太って見えていることになるので困った問題なのです。

遠近か接近か

2006-06-28 22:55:13 | 視角と判断

 左の図はポンゾ錯視といわれるもので、日本の横線は同じ長さなのですが、上の線のほうが長く見えます。
 長く見える理由として、「遠くに伸びる道路が遠くに行くにしたがって狭くなるように斜めの線が遠近感を感じさせるので、上の線は下の線より遠くにあるように見える」からとされています。
 道路や線路など平行の線は遠くのほうは幅が狭く見えます。
 遠くのものと近くのものが同じ大きさに描かれていれば、遠くにあるものは近くにあるものより大きいと脳は解釈するというのです。
 つまり遠近法の知識があると「上の線のほうが長いと感じる」という説明です。

 この遠近法による説明はなんとなくおかしい、釈然としないと感じる人もいるのではないでしょうか。
 眼で同じ長さと見ているのに、脳が間違った解釈をしているというのですが、ここでは二本の線が同じ長さだと知っているのに、違って見えるのですから説明は逆なのです。
 まともな説明なら「二本の線は同じ長さに見えるが、もし実際の道路にある線ならば、上の線は見かけと違って実際はずっと長い」というような説明になるはずです。
 遠近法による説明はおかしいと感じる人は、昔からいて右の図のような例が示されています。
 もし遠近法的な説明が正しいのなら、右の図のたての二本線は上のほうが永く見えるはずなのに、同じ長さにしか見えないのはなぜかというのです。
 たしかに、実際の道路で同じ長さの長い線を引いてみれば、る遠くにあるほうが短く見えますし、等間隔の電柱でも遠くのものは狭い間隔に見えます。
 二本の縦線の上のほうが長く見えたとしてもそのように感じられないほどのわずかなさなのだということになります。
 遠近法による説明というのは、遠近法の知識と結び付けられるのでいかにも気の利いた説明ということで広く受け入れられているのですが、論理的には破綻しているのです。

 それではなぜ左の図の場合上の線のほうが長く見えるのかといえば、それは上の線と下の線を同時に見ないからです。
 上の線はすぐ横に斜めの線が接近してきているので、横線の外側まで見ようとするので、横に線が接近していない場合より長く見えるのです。
 視野を縦の方向に広げ、二つの線を同時に注視すると、二つの線の長さは同じに見えるようになります。 
 右の図の場合は上の線を見るときも下の線を見るときも、縦の方向に注意が向くので二本の線を同時に見ることができるので、二本の線は同じ長さに見えるのです。
 
 遠近法による説明がおかしいのは、目では同じ長さに見えるのに脳が勝手に別の解釈をするとしている点です。
 遠近を感じたときは眼は自動的に焦点距離を変えるので、遠くにあると思うものを見るときと、近くにあると思うものを見るときとでは焦点距離が変わるので、実際に眼には長さが違って見えるのです。
 だから上下の二本の線を同時に見ると、焦点距離が同じになるので長さも同じに見えるのです。


そばにある線の影響

2006-06-27 23:19:34 | 視角と判断

 図の a の上のほうの線の垂直位置は、右の三本線の一番上の線と二番目の線との間にあるのですが、二番目の線と同じ位置にあるように見えます。
 ところが b のように二本線の下のほうの線をとると、先ほどより上に上がって、一番上の線に近づきいて見えます。
 さらに今度は c のように上に線を加えると、今度は右の一番上の線と同じ位置にあるように見えます。

 下のほうに線があればその影響を受けて位置が下に感じられ、上に線があればその影響を受けて位置が上に感じられるのです。
 ちょうど引力が生じて引っ張られるかのようです。
 線が二本あればお互いに干渉しあって、上の線は実際より下にあるように感じられ、下の線は実際より上に感じられます。
 もっと分かりやすいかたちは d と e の例で、d の上の線を動かして下に持ってきたのが e です。
 d では下の線は右の線より下の位置にあるのですが、 e のように上の線を移動して下に持ってくると右の線より下にあるのがハッキリします。

 すぐそばにある線の影響を受けるので、同化作用のように見えます。
 そばに線があれば注意がそちらに向けられ、視線が動くので元の線はそばにある線のほうに近づいて見えるのです。
 直線のようにまぎれにくいものでも錯視が生ずるのですから、曲線になればもっと効果が大きくなります。
 文字を線で囲むと文字が大きく見えたり、同心円の内側のほうが大きく見えたり、外側の円が小さく見えたりするのも同じ種類の現象です。
 
 そばにある線と線は普通に見るとどうしても接近して見えるのですが、瞳孔を開いてジッと注視すれば間隔は少し開いて見えます。
 そのため細かい字を見ようとするときは、つい眼を凝らして見つめてしまうのでたちまち眼が疲れてしまいます。
 字が小さく感じられ、読みにくくなってきたら無理をせず、とりあえず老眼鏡を使用した方がよいのはそのためです。


横じまのほうが細く見えるはずなのに

2006-06-26 23:06:25 | 視角と判断

 a から e まではすべて同じ正方形なのですが、縦横の比率が同じには見えません。
 a と e を比べると e のほうが縦長に見えます。
 これは横の線によって分割されているために起きる錯視ということで、分割の錯視といわれるもので、分割線が縦線の場合は横長に見えます。
 なぜこのような現象が起こるかについては、心理学で説明はないのですが、ほかの錯視現象とか自分がものを見るときの注意の向け方を考えれば、およその見当はつきます。
 ところで、分割線が入れば縦長に見えるように必ずなるかというと、そうとは限りません。
 a とb を比べた場合、b のほうが分割線が二本入っているのに高さが低く見えてしまうのです。
 これは正方形の内側に分割線がはいることことで、この正方形の上下の境界が内側に意識されるためです。
 ちょうど二つの同心円の外側の円が小さく見えるのと同じ原理です。
 輪郭線の内側に線が来ると輪郭が内側に意識されるためです。

 ところが c のように上下にもう一本ずつの分割線を加えるとどうでしょう。
 こんどは b よりも縦長に見えますから、a から b への変化とは逆転しているのです。
 これは上下それぞれ横線が三本づつになるので境界は内側と外側の両方に意識されるためです。
 三重丸の同心円の場合に、真ん中の円は内側の円との関係では小さく見えるはずなのに、外側の円との関係では大きく見えるということで、どっちつかずになる現象と同じです。

 分割線をさらに増やし d , e のようになると分割線が正方形の輪郭ではなく図柄に見えてきますから、正方形の輪郭は外側に意識されるようになるので、c などよりも縦長に見えるということになります。
 このように考えると、分割線が入るということ自体が縦長に見える原因というわけではないことが分かります。
 ファッションなどで横じまは肥って見え、縦じまは細く見えるという風に信じられていますが、この説は分割線の錯視とは逆の現象です。
 
 実際に縦じまと横じまの洋服を作って見比べてみると、縦じまのほうが細く見えるという人のほうが多かったというデータがあるそうですが、なぜ分割線の錯視が起きなかったのかは説明されていません。
 上の例から考えれば、縦長に見えるかどうかは縞模様であるかどうかだけの問題ではなく、輪郭がどのように意識されるかによるので、実際のデザインしだいだということです。
 
 


主観的輪郭と影のイメージ

2006-06-25 23:01:38 | 視角と判断

 図の一番上は影つき文字で、左側は白地に文字色が白、影が黒で、右は白黒反転したものです。
 右と左とでは左側のほうがどんな文字なのか分かりやすいと思います。
 文字色が白で影が黒の場合は文字が前面に浮き出てくる感じなので背景が白であっても文字の輪郭が感じ取れます。
 ところが白黒反転させた場合は、黒の文字色は背景の黒よりも黒く感じはするのですが、左の場合と比べると文字が背景から浮き出ていないので読みにくくなります。
 それでも真ん中の例に比べれば読みやすいのは背景色より文字色が濃く感じられるためです。
 真ん中の左の例は赤地に赤の文字色、青の影なのですが、文字色と背景色が同じに見えるので文字の輪郭を感じにくくなっています。
 これは右のように赤青反転しても同じでさらに文字の輪郭が感じにくくなっています。

 影つき文字のように立体感を感じさせるものの場合は文字色と影の明度差が重要な役割を占めていることがわかります。
 影の部分のほうが暗ければ立体感が感じられ、文字の部分が浮き出てくるように感じられるため輪郭が感じられるようになるようです。
 白黒反転した場合でも立体感が感じられるのは右下から光が射しているようにも見えるためで、この場合は文字の黒さが白い部分と隣接しているのでより黒く感じられ、文字色が背景より黒く感じられています。
 赤字に影が青では立体感が感じにくく、赤文字を背景の赤から切り離して感じにくいのですが、これは二つの色に明度差がないためで、文字の輪郭を脳が感じにくいためです。
 赤と青で明度差がないのですが、人間の感覚では寒色である青が影のイメージに結びつきやすいのでやや文字の輪郭を感じやすくしています。
 ところが右のような場合は、赤が影としてイメージしにくいため文字を立体的に感じにくくさせ、輪郭を感じにくくさせています。
 
 一番下の例は THE という文字ですが、影ではなく背景と文字色の違いから文字の輪郭を感じ取る問題ですが、この場合は左と右とでは文字の読み取りやすさに差はなく、むしろ背景に青い地に赤い文字のほうが輪郭をつかみやすくなっています。
 この場合は文字に影がなく背景と文字色の違いがあるだけですので、立体感が感じられず、そのため文字が浮き出てこないのです。
 このように主観的な輪郭を感じる手がかりのない場合は立体的なイメージが生じにくく、文字の輪郭を感じにくくなります。


日本語文法では分かりにくい

2006-06-24 23:48:56 | 言葉とイメージ

 英文法には主語がありますが、日本語に当てはめようとするとおかしくなります。
 図の a と b はどちらも「ぼく」が主語のように見えるので、どう違うのかと突っ込まれます。
  もともと日本には文法というものはなくて、欧米語にならって文法を作ったので、なんでも文法で説明しようとすると無理があるのです。
 大野晋「日本語練習帳」では助詞の「が」初出を表し、「は」が既出を表すとして「昔あるところに、おじいさんとおばあさんがありました。おじいさんは山に...」という例で「おじいさんとおばあさんが」と最初に出てきたときには「が」がつかわれ、つぎに「おじいさんは」と「は」が使われると説明しています。
 しかし a のような例では別にこの文章の前に「ぼくが」と言うような文章がなくてもかまいません。
 「吾輩は猫である」というのも小説の出だしですから、「は」は既出であるというのは、桃太郎の話の例を説明できても、ほかでは説明できない場合があるのが明らかです。
 
 そこで、「は」というのは主題を表し、「が」が主語を表すというような説明もでてきています。
 「は」は主題だとすると、「ぼくは山田です」では「ぼくは」が主題となるので、主語はなくなります。
 柴田武「日本語は面白い」では「ぼくは山田です」は「ぼくは(ぼくが)山田です」のことで(ぼくが)が隠されているのではないかとしています。
 専門家の言うことだけど変だなというのが率直な感想です。

 無理に文法解釈をしようとするのでおかしくなるのです。
 思考の流れで見れば「###は***」というとき「は」の次には***についての判断が様繰るので、選択とか限定を示す内容になります。
 「ぼくは」ほかでもない「山田です」ということで、「山田はぼくです」となれば、「山田は」ほかの人ではなく「ぼくです」ということになります。
 「***が###」というときの「が」は***という判断内容つまり選択とか限定の結果が示されています。
 「ぼくが山田です」は、ほかの人ではなく「ぼくが」「山田です」ということです。

 よく話題になるうなぎ文の「ぼくはうなぎだ」というのも注文のときの省略文ですが「ぼく(の注文)は」ほかでもない「うなぎだ」ということです。
 「ぼくがうなぎだ」は、うなぎの注文主を聞かれたとき、ほかでもない「ぼくが」「うなぎ(の注文主)だ」ということです。
 「象は鼻が長い」というのは「象は」(特徴として)「鼻が長い」
 「うちの娘は男です」は「うちの娘(の子供)は」女ではなく「男です」といった場合の表現です。
 「こんにゃくは肥らない」はこんにゃくが肥らないのではなく、「こんにゃくは」(食べても)「肥らない」ということです。

 主語とか述語とかいった文法の枠で考えようとすると難しい説明になるのですが、文脈や論理的な関係で見ようとすれば別に難しいことはないのです。


普通名詞と固有名詞

2006-06-23 22:39:28 | 言葉とイメージ

 サルであってもモノの種類を見分けることができます。
 別に難しいことを考えなくても自分と同類のものを見分けることができますし、ほかの種であっても犬なら犬と見分けられます。
 自分と同類のうち特別な関係にあるものを見分けることができます。
 このときサルはそれぞれに名前をつけたりしませんが、言葉を使うようになって人間はモノに名前をつけるようになっています。
 同じ種類のものは同じ名前で呼びますが、そのうち特別な関係を持つものには固有名詞をつけるようになります。
 犬の例で言えば、ポチとかシロというのは固有名詞ですが、種類としてはいずれも犬と呼びます。
 固有名詞を持つ犬であれ、名前がつけられていない犬であれ、犬は犬と呼ばれます。

 日本語で一匹の犬というとき「の」というのは特定する意味で、一匹のは数を特定しています。
 「ブチの犬」といえば犬の中でブチという種類を特定していますし、「松の木」といえば松の木の部分ではなく、木の中で松という種類を特定しています。
 「出羽の国」などというときも国の中の出羽という名前の国と特定しています。
 これに対して「犬が三匹」とか「鶏を二羽」というときは三匹や二羽は犬や鶏と同格で置き換えられ、数を示しています。
 英語のように単数のときと複数のときとで名詞の形が変わったり、具体的なものを表すときと、種類を表すときで冠詞が複雑に使われるなどということはありませんが、特別不自由ということはありません。
 
 日本語の場合は具体的な個別の犬も、種類としても犬は犬なのですが、英語の場合は犬という種類を意味するためにはいろんな方法で表現します。
 日本語なら「犬は忠実な動物だ」といえば、種類としての犬を指しているのですが、英語の場合は非常に分かりにくくなります。
 上の図の例で、A dog is.. というときは犬という種類の代表メンバー、 The dog is.. というときは犬という種類の典型、Dogs are .. というときは全体としての犬、という風な説明がされます。
 日本語の場合のほうが分かりやすいというのは、単に「犬は」というときは、「どの犬でも犬であれば」という意味で、難しく考える必要はないのです。
 「象は鼻が長い」というときも、象の代表とか典型的な象とか考えなくて、どの象でもかまわないが、象であれば鼻が長いという意味です。
 
 学者風の説明だと「象は鼻が長い」というときの象は具体的な象ではなくて、いろんな象の違いを取り去っ手、共通部分を取り出した抽象的一般的な象だなどといいますが、普通の人はそんなふうに考えません。
 世界中のいろんな象を見て一般的な象というものをイメージするなどということは現実的ではないからです。
 上野動物園の象しか見ていなくても象という言葉は理解できますし、象に詳しい人のイメージと違っていても、「象は鼻が長い」という意味を理解できるのです。


可算名詞、不可算名詞

2006-06-22 23:01:49 | 言葉とイメージ
 I am a boy.You are a girl. というのが、昔の中学の教科書にありました。
 「私は一人の少年です」という訳だったかどうか忘れましたが、英語というのはおかしな言葉だなどとは思いませんでしたが、考えてみるとおかしいですね。
 日本語では(ひとりの)などという部分をつけません。
 「我輩は猫である」というのを「我輩は一匹の猫である」とすれば、おかしな感じがします。
 「私は日本人です」というのを訳すと、上の図のようになるのですが、この場合英語は不定冠詞 a が使われるのに、ドイツ語では一般名のときは不定冠詞は使わないのです。、 この方がすっきりしていて、ほかのヨーロッパ言語でも大体ドイツ語と同じだそうですから、英語が特殊なのです。
 この場合の「日本人」は日本人という人種の名前で、具体的な人間としての日本人をさしているわけではないので(一人の)という数を意味しているのではないといいます。
 a というのは数詞でもあるわけですが、英語の名詞は単数形か複数形かのどちらかになるので、複数形でない場合は単数形ということで自動的に a をつけるので紛らわしくなるのです

かつては何かというと英語が合理的な言語で日本語は不合理であるかのように言われ、物の数え方についても英語には数えられるものとしての可算名詞と、形がなくて数えられない不可算名詞と分けられているのに、日本語の場合はそうした分け方がないなどといいます。
 ところが、英語の場合首尾一貫しているのかといえば、そうとは必ずしもいえないようです。
 たとえば、池上嘉彦「日本語論への招待」には英語の可算名詞と不可算名詞のゆれ方が多くあげれています。
 英語の場合はコーヒーのように形のないものは数えられない名詞、不可算名詞なので、a cup of coffee のようにあらわし、 a coffee というふうに書かないということになっています。
 しかし喫茶店などでコーヒーを注文するときいちいち two cups of coffee などといっているとは限らず、two coffees もありだということです。
 これは人間の側がカップ入りのコーヒーということが頭にあっていうので、コーヒーだから不可算名詞と決め付けるべきではないということです。

 名詞の数え方はそのものの種類によって決まるのが基本であるといっても、人間の側がどうとらえるかで変わってくるので、あまり固定的に考えると使いごこちが悪くなります。
 日本語でもコーヒーは二杯と杯を使うということになっていますが、喫茶店なら「ふたつ」と言う数え方が実際使われます。
 ビヤガーデンなどでも「大生四つ、枝豆三つ」という注文の仕方がされ、注文単位を何でも「いくつ」としたりしています。
 ビールだから「杯」を使わなければいけないというのはこだわりすぎなのです。
 

日本語の助数詞は名詞

2006-06-21 22:36:00 | 言葉と文字

 上の例は飯田朝子「数え方でみがく日本語」に紹介された例です。
 ある小学校で「兎の数え方が一匹、二匹のほかにほかにあるのを何だと思うか」と先生が聞いたときの生徒の答えの例です。
 このときの答えにはほかに「ひと耳。ふた耳」という答えもあったそうですが、先生は一羽、二羽が正解と答えたところ、子供は跳ぶからハネるのだといったそうです。
 このとき先生はなんといったか知れませんが、この本の著者は説明として一理あるとしています。

 ひと耳、ふた耳という数え方は昔あったらしいので、是も正解ということになるのでしょうが、「一ふわ」とか「一ぴょんとか」いうのは、それもひとつのアイデアと無条件に評価するわけに行きません。
 モノによって数え方が違うということを、子供に感じさせるのはよいのですが、兎の一羽という数え方は無理に覚える必要はありません。
 それよりも問題なのは、日本語の助数詞は名詞の置き換えですから、形容詞とか副詞のようなものにするわけにはいきません。
 日本語の助数詞は、形としては名詞と同じなので、「ふわ」とか「ぴょん」といったものは、イメージ的にはよくても、形としては認められないのです。
 子供の発想力を大事にするといても、無原則な逸脱から引き戻さなければ、教育にはならないのです。

 日本語の助数詞の性格は、中国語の量詞と比べるとその違いが見て取れます。
 細長いものを表すのには「本、筋、条」などがありますが、日本の「筋」と中国の「条」を比べると、どちらも道とか川とかに使われるという点で似ています。
 ところが中国の場合は、蛇と運命とか、魚までは細長いモノのイメージで分かるのですが、犬となると日本人の感覚ではなかなか理解できません。
 これは犬のシッポで考えるということで、牛の場合も条で数えるということでつじつまがあっているようないないような感じです。
 犬や牛がシッポが細長いから条でかぞえるということは、量詞が形容詞的なもので、日本の助数詞のように名詞の置き換えではないからです。
 中国の場合は「三条蛇」と名詞の前に来て、形容詞のように名詞を類別するので類別詞といわれます。
 日本語の場合は「一筋川」ということはしないで、「一筋の川」と「の」を入れるか、「川、一筋」と並列し増すから、「一筋」は名詞の形になります。
 川や道は筋と言われたり、本と言われたりで厳格に川や道は筋で表さなければならないということはないのですが、助数詞が名詞であるという点は変えられないのです。