60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

視線のスリップ

2006-03-31 22:56:42 | 眼と脳の働き

 左図はフレーザーのねじりひもの錯視というものです。
 渦巻状に見えますが実際は同心円です。
 線を鉛筆などでたどると、もとの場所に戻るので同心円であることが分かります。
 しかし、同心円であるといわれて、もう一度見直しても、やはりうずまき状にみえるでしょう。
 ためしに外側から二番目の線をたどってみます。
 線がねじれひも状になっているので、線を眼で追うとスリップして隣の線に視線が移ってしまいます。
 線を眼で追うとき、ゆっくりと追えばいいのですが、相当集中しないとスリップします。
 ふつうは線を眼で追う場合、途中で注視点をツイ線から離してしまうのでスリップしてしまうのですが、注視点が線から外れないようにすれば、元のところに戻ります。

 線をたどらないで確かめる方法もあります。
 中心点に注意を集中して見続けると外側の線は周辺視野で見えてきます。
 このとき視線を動かすと無意識のうちにスリップして、渦巻状に見えてしまいます。眼を動かさずじっと見続けなかればなりません。
 もう一つの方法は外側の円をいっぺんに見る方法です。
 眼の力を抜いて外側の円をパッと見てそのまま視線を動かさなければ、円が途中切れたように見えるところがありますが、同心円に見えます。
 切れて見えるのは、一本のひも状に見える線が、実は両端が三角の白い短線と黒い短線が組み合わさっているものなので、つながって見えない場合があるためです。

 右の図のほうは、左の図と似たようなものですが、同心円ではありません。
 内側の円ほど中心が上にずれているので、共通の中心というのはありません。
 したがって、渦の中心のように見えるところは円の中心ではありません。
 この場合も、一番外側の線を眼でたどっていけば一周してもとの所に戻ってくるのですが、ちょっと集中が途切れるとスリップして隣の線に移ってしまいます。
 しかし、ゆっくりと眼で追うか、線から注視点を離さないようにして見て行けば、元のところに戻ってくるので、やはり円形だということが分かります。

 複雑な図形を見るときは、視線が無意識のうちに動いて形を見極めようとします。
 このとき同じような図形のパターンが繰り返されていると、視線がスリップしてしまいます。
 そうすれば、外側の線と内側の線がつながって見えるのですから、渦巻きに見えてしまうのです。
 心理学では、背景にある図形のパターンによって、脳が誤って解釈するので、渦巻状に見えるという説明がされますが、脳の誤解ではありません。
 実際視線が動いてしまうため渦のように見えるのであって、視線が動かなければ内側の線と外側の線が離れて見えるので、渦巻状には見えなくなるのです。
 線が離れて見えているのに、「脳が誤った解釈をしてしまう」というような説明は、もっともらしくはあっても、とってつけた説明に過ぎないのです。


まとまりへの集中

2006-03-31 00:04:49 | 眼と脳の働き

左図の斜めの線はかなり曲がって見えますが直線です。
曲がって見えるのは、見るときに無意識のうちに視線を動かしているからです
斜めの線と垂直線が交差することで奥行き感が出て、焦点距離が変わるためです。
視線を動かさなければ曲がって見えないかどうか試して見ましょう。
視線を動かさないといっても、いろんなやり方があるので、とりあえず一点に視線を集中して見ます。
どこでもよいのですが、ここでは左の星印に視線をあてじっと見続けます。
視線を動かさなければ右側の斜めの線は一直線に見えてきます。
このとき、直線は周辺視野にあるので線の端はハッキリ見えないかもしれません。
線の端をよく見ようとして視線を動かすと、斜めの線は曲がって見えてしまいますから、視線を動かさないようにします。
見る点はこの星印でなくてもどこでもかまいません。
視線を動かさないための手がかりなので、斜めの線に近ければどこでもかまいません。

一点集中というのはどうしても眼に力が入り、毛様態筋を緊張させっぱなしにするので、じきに眼が疲れてしまいます。
そこで今度は、眼の力を抜いて斜めの線の全体をいっぺんに見ることにします。
いっぺんに見るということは上のほうから順に見るということでなく、上下が同時に見えるように全体を見ることです。
縦の棒と交差しているところなど部分的なところに注意を向けてしまうと全体が見えなくなり、線は曲がって見えてしまいます。
部分に集中するのではなく、全体のまとまりへ集中することが肝要です。

ところでこの斜めの線が点線だとどうかというと、荒い点線のばあいは、普通に見ても斜めの線は直線に見えます。
横の星印の助けを借りて一点注視のようなことをしなくても、斜めの線はまっすぐにつながって見えます。
これは線が荒い点線なので、つながっていない部分を脳が補って見ているためためです。
部分が抜けているところを補って直線としてみているので、余分なところに注意を向けず全体のまとまりに目が行くのです。

全体の形を見るには、細かい部分に気をとられないで、全体を荒く見ることが必要なのだということがわかります。
マンガやイラストが写真のようなものより、分かりやすかったりするのも、部分的なところを無視して全体的なつながりを表現しているためだということが推測されます。
文章を読む場合も一文字一文字に注意が向いてしまうと、眼が疲れるだけで文章の意味が理解しにくくなるといったことがあります。
ある程度の長さの文字列を一まとまりのものとして、いっぺんに見たほうが眼が疲れず、広く理解できるようになります。


話し言葉と漢字

2006-03-29 22:44:14 | 言葉と文字

話し言葉の音声と漢字は意味が同じでも一対一に対応してはいません。
たとえば書き言葉で「お前」とあっても、話し言葉で「おまえ」とが対応しているというのは、教科書の上のことです。
地方により、人により「おま、おまい、おまん、おみ、おみい、おみゃあ、おまえ、おめ、おめい、おめえ」などいろんな表現のされ方となります。
こういう例を見ると、日本語は耳で聞いて漢字を思い浮かべると言われても、「ソウナンダロウカ」と疑問に思われてきます。
言葉は視角と聴覚が一致するところに成立するなどと言われても、実感とは程遠い感じです。

こうした説は、教科書の言葉が日本語だと思っている学者が考えそうなものなのです。
日本といっても広いもので、沖縄、九州から北海道までいろんな方言と発音の仕方があります。
どこでも教科書的な読み方と、話し言葉が一致するとは限りません。
普通の辞書に載っているのは、いわゆる標準語というか、教科書で教える読み方で、方言とか、日常会話的な発音の仕方ではありません。

かつて民俗学者の柳田國男が地方に伝わる民話を紹介しましたが、地方の人たちの話し言葉をそのまま文字に写さずに、書き言葉に代えて記録しています。
おそらく話し言葉をそのまま発音どおりに書き記そうとすると、漢字かな混じり文には、し難かったでしょう。
ひらがなで発音を忠実に表現できないという問題もありますが、漢字も読み方が方言の発音に対応しないということも原因だったと思われます。

図の右側の例は、落語で使われる江戸っ子弁の文字表現です。
落語ですから、漢字にカナを振るというのではなく、落語の話し言葉に漢字を当てたということで、いってみれば振り漢字です。
これらは、発音の方を手がかりにして辞書を引いても、出ているとは限りません。
たとえば、いわゆる国語辞典で「つっこむ」というのを引くと「突っ込む」としか出てきません。
競馬で「何万円つっこむ」といえば「注ぎ込む」のことで、「突っこむ」ことではありません。

落語の江戸弁は方言の一種ですが、これまでラジオで放送されたり、レコード化されたりで、ひろく聞かれているのですが、辞書にはあまり相手にされていないようです。
かんがいる」とか「おせえる」のような発音は無視されているので、音声から辞書を引いても出ていないのです。
逆に漢和辞典で「考」、「教」というのを引いても読み方として「かんがい」とか「おせえ」というような読み方はでていません。
そうすると、音声だけを聞いたのではどんな漢字を当てていいのか、辞書的な知識では分からなくなります。
話し言葉として意味を知っていなければ、漢字をあてがうことすら出来ないのです。
つまり、音声を聞いて漢字を思い浮かべて意味を取るのではなく、意味を取って漢字を思い浮かべることが出来るのです。


ルビとレトリック

2006-03-28 23:16:56 | 言葉と文字

フリ仮名は本来、難しい漢字の読み方を示しただけのものです。
もともとは音読みのフリ仮名だったものが、訓読にも使われるようになると、訓読は漢字の翻訳なので、読み方というより、意味を示すという使われ方をするようになっています。
そうすると、もとの名前にたいして、ルビを振ってあだ名とか、通称を示したりすることも出来ます。
話し言葉では本名で呼ばず、あだ名で読んだりすることがありますが、書いた場合は何を指すか分かりにくくなるので、本名を書き、それにあだ名をルビで振って分かりやすくすることが出来ます。

講談などで豊臣秀吉をサル、徳川家康をタヌキなどということがありますが、本では単にサルとかタヌキと書かず、秀吉とか家康と書いてルビを振ったほうが分かりやすく、また雰囲気も出るのです。
別名をルビで振るということは、隠喩というレトリックをルビで表示することですが、そうなるとほかのレトリックもルビで表示するようになります。
「密偵」に「いぬ」というルビを振ったり、「ヤクザ」に「ダニ」というルビを振ったりするだけでなく、自動車(クルマ)、食事(メシ)などのように部分で全体を現す例にも適用されます。
このほか、一万円札(ショウトクタイシ)、米国政府(ワシントン)などは、一般的に理解されているレトリックですが、さらに進めば一般化されてはいない独自の意味づけに使うことも可能になります。

たとえば「過去」と書いて「カコ」とルビを振ればただの読み方の表示に過ぎませんが、「カコにすがる」を「栄光(カコ)にすがる」とルビを振れば、特殊な意味合いの過去をしめすことができます。
さらに「挫折(カコ)からたちなおる」とか「傷跡(カコ)にこだわる」という特定の過去のあり方を表現したりすることが出来るので、新しい表現が可能になります。
音声で「カコ」と表現されれば、普通の漢字表現では「過去」となりますから、意味として不適当とはいえなくても物足らないと感じがするとき、二重表記で意味を追加することが出来るのです。

日本以外では単語の並べ方は文法に従うことになっていて、二重表記などという変則技はないようです。
日本語は漢字にルビを振ったりしたために、文法外の語法を導入してしまったので、顔文字を使ったりすることに抵抗がなくなっているのかもしれません。


顔文字は退化か進歩か

2006-03-27 22:34:53 | 言葉とイメージ

ケータイに登録されているスマイルアイコンは、まだ数が少ないけれども、パソコン用でははるかに多く発表されています。
上の図は一例で、この何倍かがあり、今後さらに増える可能性もあります。
正高信男「考えないヒト」では、こうしたマークを使うのは、コミュニケーションがサル化していることの表れだとしています。
それだけでなく、文章の中にこういうマークを使うのは日本独特で、外国では見られないというのです。
そうすると、世界中で日本人だけがサル化しつつあるということになってしまうので、「ソンナ馬鹿な、サル化とは関係ないだろう」と思ってしまいます。
サル化だという理由は、言葉と違って表情をそのまま伝えてしまっていて、言葉のように文脈によって、好意を表したり、悪意を表したり出来ないからだといいます。
サルは、本当は怒っているのに笑ったりしないからだというのです。

しかしこれらのマークでも、使い方で皮肉な意味を持たせたり、好意の表れとして使ったりと意味を変えることは出来ます。
たとえば、つまらない冗談に対し「おもしろいですね。(^_^;」とすれば、おもしろがっていると受け取る人もいるかもしれませんが、馬鹿にしていると受け取る人もいます。
会話なら声の調子とか、表情しぐさなどで伝わる部分が文字になると見えなくなってしまうのですから、こうしたマーク(アイコン)を使うのも悪いことではないように思いますがどうでしょうか。

これらのアイコンを見ると、表情はさまざまで、笑顔を表しているといっても、どのような笑顔なのかを言葉で表すのは難しいでしょう。
サルはこんなに沢山の笑い方を使い分けるなどということはないでしょう。
その時々の雰囲気に合わせて使えば、文字では表現できないニュアンスを表すことが出来るので、結構便利な面があるように見えます。
ケータイのように小さな表示画面であれば、文字数が少なくなりますから、コミュニケーションといっても下手をすれば電報みたいになってしまうでしょう。
そういう制約の中で、文字以外のものを加えて、伝達する情報量を増やすというのはなかなかよいアイデアだともいえます。
これは単に漢字のような表意文字を使うというのとは違って、新しい表現とかニュアンスを作ったり出来るので独特のおもしろさがあります。
だから次々と新しいアイコンが作られたのでしょう。

日本人以外ではこうしたアイコンは使わないということですが、日本人はもともと造字が得意で、そのうえ文字の読み替えにも慣れているので、こうしたものに眼が向くのではないでしょうか。
工夫をすればいろんな表情を表すことが出来るのですから、おもしろいということで、今後外国人の間に広まる可能性はあります
そうなると、むしろ日本人が先をいっているのだともいえます。
顔文字を使うからといって、日本人だけがサル化しているなどと卑下することはないのです。


音声を聞いて漢字をイメージするか

2006-03-26 21:21:08 | 言葉とイメージ

 日本語は同音で意味が異なるものが多いので、漢字で意味の違いを判断するという説明があります。
 たとえば音声で「こうせい」という言葉は30以上あり、聞いただけではどんな意味か分からないけれども、漢字で示されれば分かるといいます。
 単語だけを聞けばどんな意味か分からないのは確かですが、普通の会話で使われるときは聞いただけで大抵意味が分かります。
 沢山の言葉があるといっても、特別な分野とか、文章語としてしか使われないものを除けば、話に関連した言葉は少ないので分かるのです。
 言葉を聴くときに漢字の知識が必要で、漢字を思い浮かべることによって意味を理解するというのは学者など特殊な人でしょう。
 
音声を聞く→漢字を思い浮かべる→意味を理解する」というやり方をしているのだとすれば、「音声を聞く→意味を理解する」より非効率です。おんせい
 音声を聞いただけでは、同音語が沢山あるから、漢字を思い浮かべないと区別できないときかされると、ツイそうかなと思います。
 しかし頭の中に一度に沢山の漢字が浮かんで、その中から適当なものを選ぶというのは、かえって大変ではないでしょうか。
 実際は言葉を聴いたとき、すぐに意味が分かるのが普通です。
 分かりにくいときに「これはこういう意味だ」と説明しようとして、「漢字でこう書く」といえば分かりやすいというだけのことなのです。

 聞いただけで意味が分からないことがあるというのは、なにも日本語だけのことではなく英語でもほかの言語でも同じです。
 音声を聞けば意味が分かるなら、英語の辞典などは発音を示すだけですんでしまうはずですが、沢山の意味が示されています。
 たとえば「公正」にあたるfairという単語をひくと20ぐらいの意味が示されています。
 同音でスペルのちがうというのはfareぐらいですが、同音同綴りで、「市とか、お祭り」のfairもあって、あわせると30ぐらいの意味が対応してしまいます。
 実際は、話の前後の関係で意味は限定されるので、いつも沢山の意味を思い浮かべてそこから選ぶわけではないでしょう。
 
 日本語でも同じ表記をしていながら意味がいくつもあるということはあります。
 たとえば、「苦しい」という言葉を辞書で引くといくつかの意味が示してあります。
 この場合、苦痛という意味以外では、「くるしい」と書くか、ほかの漢字を当てたほうがよいのに、「苦」を使ったままです。
 「苦しゅうない、面を上げよ」という場合なら「支障がない」といった意味ですから「支障(くる)しゅうない」とでも書くべきだったのでしょう。
 「生活が苦しい」という場合なら「生活が困窮(くる)しい」、「予算達成は苦しい」は「予算達成は困難(くる)しい」とすべきだともいえます。
 日本語が漢字を使わないと分かりにくいというのは、書いた場合の事情で、話した場合も同じだというわけではないでしょう。
 話し言葉の「くるしい」が書き言葉で「苦しい」になってしまうと、場合によってはなんかそぐわないという感じがします。
 そうすると意味に応じた漢字をあてがおうとして、当て字というか、振り漢字をするという動機が生まれてくるのだと思います。


見て意味が分かる歌詞

2006-03-25 22:49:53 | 言葉と文字
歌謡曲の歌詞には「何でソンナふうに読むんじゃ」というようなものがあります。歌の場合は声に出すのが前提なので、漢字の読み方をかえるというよりも、言葉に漢字をくっつけて別の意味をも伝えようとしています。「あいつ」というのに男とか彼女をあてたりするのは言い換えに過ぎないのですが、「まじ」などはどの字を当てるかで意味が違ってきます。「かこ」と聞くだけでは傷跡と重ね合わせて理解してもらえるとは限らないので振り漢字をしているのでしょう。耳でつまり、聞いただけでは理解してもらえないニュアンスを、漢字を使って眼で理解してもらおうとしているので、やはり日本語はテレビ型なのだといえそうです。 しかしこれは視覚的なイメージを与えるということではなく、歌詞を読ませようとするものです。日本の歌謡曲が昔からこんなだったかというと、そうでもありません。大体20年ぐらい前からで、耳で聞いていたのでは分からない単語が入るものが出始め、中には片言風の英語がアルファベットのまま出てくるものもあります。歌詞を見なければ突然英語などが挟まれ、なぜそこが英語でなければならないか分からなければ、耳だけでは理解不能です。歌詞を眼で見て、なんとなく意味というかニュアンスが感じ取れるかもしれないというのですから、日本独特ではあります。 歌詞を読んでもらうように作られているということは、レコードを買ってもらうということが前提となったからかもしれません。ラジオとか舞台で聞いてもらうことが前提ならば、歌詞を見ながら聞くとは思いませんから、読まなければ分からない歌詞を作るということはなかったでしょう。あるいは、あとからカラオケなどが出てきて消費者が歌詞を見ながら歌うようになったことも関係しているかもしれません。 漢字のあて読み(振り漢字)という日本独自のスタイルがあったため、歌のように言葉に特別な意味やニュアンスを加えたい分野では都合がよかったのでしょう。英語などでは振り漢字のようなものはないので、言葉に二重の意味を持たせようとするなら特別なレトリックが必要でしょう。日本でも、レトリックを使わないで意味を二重に表記してしまうというのは、普通の言葉の使い方からすれば反則なので、「ナンダこれは」といった反発をまねくこともありますが、便利なので定着する可能性はあります。なんといっても、振り漢字も作者のニュアンスをできるだけ伝えようということなので、積極面は評価すべきなのですから。

テレビ型言語

2006-03-24 23:31:50 | 言葉とイメージ
鈴木孝夫「日本語と外国語」によれば、日本語はテレビ型言語、ヨーロッパ語などはラジオ型言語だといいます。日本語では同音で意味の違う言葉が多いので、耳で聞くだけでは意味のよく通らない場合があります。たとえば、「けいやくのこうかい」と聞いても更改なのか公開なのか分かりにくい。「ふねはこうかいにでた」の「こうかい」は公海か、黄海か、紅海か、それとも航海か耳で聞いただけでははっきりしないでしょう。アクセントとか、文脈で分かるかといえば、それでも分からないでしょう。 文字で書かれた場合はなおさらで、カナで書かれ、音声だけが表示されていれば意味を理解するのに苦労するようになっています。それが、漢字が使われれば意味の理解がズット楽になります。漢字が使われると、文字が音声を表現するだけでなく、意味を表すので、眼による意味の理解と音声による理解が同時に出来るからです。 日本語は、話を聞いているときに、単語がどんな漢字で表記されているかという知識がないと、意味が分からなかったり、取り違えたりします。漢字の知識によって、眼と耳による理解が成り立つのでたとえていえば、テレビ型言語だとしています。これに対し、ヨーロッパの言語は表音文字で書かれているので、もっぱら音声による理解なので、ラジオ型言語であるといいます。 現在の日本語は、文字表記を考えに入れないと成り立たない、テレビ型の言語になってしまっているけれども、眼は耳よりもはるかに弁別能力の優れた器官なので、音声のみで理解する言語より先進的ですらあるとしています。 日本語がテレビ型言語だというのは面白い説で、漢字を使わないと文章はとても分かりにくくなるので、ナルホドなと感じます。しかし、実際話を聞いているとき、いちいち漢字が頭の中のイメージとして浮かんだりしているのでしょうか、意味が分からないとき、「こうかいって?」と聞かれ、「おおやけにすることだ」とか「おおやけのうみだ」と答えられて納得することも出来ます。「こうかいのこうは、こうきょうのこうだ」とか「ハとムとかくこうだ」という漢字を示されなければわからないとは限りません。 大抵の場合は文字のイメージでなく、意味のイメージが浮かぶのではないでしょうか。たとえば、「くも」という言葉を聴いたとき、意味は「雲」か「蜘蛛」かそのときの状況で違いますが、思い浮かぶイメージは漢字ではなく、空の雲とか虫の蜘蛛といった言葉の意味なのではないかと思います。言葉を聴いて漢字がイメージとして浮かぶというのは、学者とか特定の人ではないかと思われます。いったん漢字が頭の中に浮かんで、それからその意味がイメージとして浮かぶというのであれば、何か遠回りをしていて、非効率な感じです。意味のイメージが先で、漢字のイメージはあとのような気がするのですが、どうなのでしょうか。

体は名を表すか

2006-03-23 22:42:41 | 言葉と文字

人間の言葉では、名前と意味のつながりはないのが普通だといいます・
日本語の「いぬ」は中国では「犬」、英語でdog,ドイツ語でHundですから、「犬」と呼ぶ必然性はないというのです。
言語学では記号の恣意性とか無契性とかいうのですが、鈴木孝夫「私の言語学」によれば言語にはもう一つの恣意性があるといいます。
言葉は意味の間の関係を反映しないというもので、たとえば「」という言葉は「」や「」より強く発音したり大声で言うというようなことはありません。
文字で表わすときも図のように「」を大きく、「」を小さく書くと言うことはないというのです。

これに対し、ミツバチが蜜のありかをほかのハチニ知らせる8の字ダンスの場合は、内容を形で示すそうです。
蜜の場所までの距離を、近いときは速い動きで、遠いときはゆっくりした動きで表わし、方角はダンスの軸の角度で示すそうです。

人間の言葉は意味を感じさせるようなカタチを持たないというのですが、いかにもそれらしいという感じを求める傾向というものはあります。
「おおきい」と「ちいさい」という言葉とくらべるといかにも「おおきい」が大きいにふさわしく、「ちいさい」が小さいにふさわしいという感じがあります。
「おおきい」が小ささを表わし、「ちいさい」がおおきさを表わすというのではしっくりこない感じです。
「かたい」と「やわらかい」でも「かたい」のほうが、いかにも硬い感じです。
たとえば、「かき」はなぜ「かき」というかというのに、「赤き木」がつまって「かき」となったと聞かされると、ナルホドと思うのも表現が意味ありげなほうが納得しやすいからです。

「ピカピカ」光るとか「きらきら」、「てかて人間の言葉では、名前と意味のつながりはないのが普通だといいます・
日本語の「いぬ」は中国では「犬」、英語でdog,ドイツ語でHundですから、「犬」と呼ぶ必然性はないというのです。
言語学では記号の恣意性とか無契性とかいうのですが、鈴木孝夫「私の言語学」によれば言語にはもう一つの恣意性があるといいます。
言葉は意味の間の関係を反映しないというもので、たとえば「大」という言葉は「中」や「小」より強く発音したり大声で言うというようなことはありません。
文字で表わすときも図のように「大」を大きく、「小」を小さく書くと言うことはないというのです。

これに対し、ミツバチが蜜のありかをほかのハチニ知らせる8の字ダンスの場合は、内容を形で示すそうです。
蜜の場所までの距離を、近いときは速い動きで、遠いときはゆっくりした動きで表わし、方角はダンスの軸の角度で示すそうです。

人間の言葉は意味を感じさせるようなカタチを持たないというのですが、言葉に対し、いかにもそれらしいという感じを求める傾向というものはあります。
「おおきい」と「ちいさい」という言葉とくらべるといかにも「おおきい」が大きいにふさわしく、「ちいさい」がちいさいにふさわしいという感じがあります。
「おおきい」が小ささを表わし、「ちいさい」がおおきさを表わすというのではしっくりこない感じです。
「かたい」と「やわらかい」でも「かたい」のほうが、いかにも硬い感じです。
たとえば、「かき」はなぜ「かき」というかというのに、「赤き木」がつまって「かき」となったと聞かされると、ナルホドと思うのも、表現が意味ありげなほうが納得しやすいからです。

「ピカピカ」光るとか「きらきら」、「てかてか」、「ぎらぎら」などという言葉も説明されなくても感じが分かったりします。
外国人にはこのような表現がそのまま伝わるわけではありませんが、日本語環境の中で育てば共有の音声感覚が出来て感じが共有されているのです。
流行語が出来る場合でも、意味だけでなく音声感覚が受ける場合があって、世代によっては不快に感じるものもあります。

ギャル文字のようなものは、白い眼で見られがちですが、このようなことからすれば共通するところがあります。
たとえば、文字で「きらい」と書くよりも「キライ」と書くほうがきつい感じがしたりするのですから、嫌い方を文字の形を変えることで表現しようとするのもそれほど不自然ではありません。
上の図の例でいけば、下の例になるにつれ嫌いさが強く表現されているような気がするのではないでしょうか。


文字イメージにこだわる

2006-03-23 00:11:16 | 言葉と文字

漢字は表意文字とされていますが、文字の意味が示せればよいというわけではないときがあります。
漢字制限などが行われても、固有名詞などは文字のイメージを変えたくないので頑固に変えないという例があります。
新聞社などは、新しい時代の流れに適応するものと思われがちですが、底のところでは保守的な面があり、看板の字体は変えようとしません。
読売新聞は旧字体を使っていますし、朝日新聞は朝の部分を作り変えたままです。
多少デザイン化した文字を使うのはよいのですが、旧字体を使ったり、一般に存在しない字体を使い続けるというのは、主観的なイメージを守り続けたいのでしょう。
文字の意味だけではなく、文字のイメージにこだわるのはギャル文字を使うのと似たところがあります。

森鴎外の鴎は旧字体でなければいけないという人がいますが、現在のワープロでは変換できません。
文字が意味を表す記号にとどまるなら、字体にこだわる必要がないのですが、意味以外の文字の形そのものにこだわるのです。
姓名には特殊な字体とか、特殊な読み方をさせるものがかなりありますが、他人がそれを変えさせるわけにはいかない、と一般には思われています。
特殊な字体とか、特殊な読み方というのは、いうなれば文字というより特殊記号のようなものです。
それでも、一般的な文字と共存しているというのは、日本語のふところの深さというものなのでしょうか。

名前については、ヨーロッパなどでは音声で示されるだけですが、日本では漢字を使うことで何か意味づけをしようとしています。
といっても、名前に漢字を使ったのは昔は男だけで、女は多くの場合カナでした。
サザエさんの家でもお父さんは漢字の名前ですが、お母さんはカタカナで二文字です。
男の名前は表意文字で意味ありげで、女の名前は表音文字で符丁のようなものだったわけです。
そればかりか、江戸時代までは年齢とか、地位が変わるにつれ名前を変えるという事もあったようで、男の名前だけに特別な価値を認めていたわけです。

女の名前は表音文字でヨーロッパ風だったということなのですが、最近は女性も名前にこだわるようになって、ひらがなとかカナ文字二字の名前などはほとんどないでしょう。
文字の意味だけでなく字のイメージで名づけがされたりして、何か逆戻りのようですが、簡単なカナだった女性の名前としては画期的な時代ではあるのです。
それでもヨーロッパなどでは考えられない、字画による姓名判断などが女性にも適用されたりすれば奇妙なことになってきたなと感じます。