60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

熟知語でないものの名前

2007-04-30 22:56:30 | 文字を読む

 漢字語は意味を知らなくても文字から意味が推測できるといわれます。
 「人類学」という言葉から、具体的にはどんなものかわからなくても、人類についての学問だなと見当がつくというのです。
 英語ならanthoropologyといっても、anthoropoというのがギリシャ語の人類に由来するのでantholopoというギリシャ語を知っていれば、人類に関する学問だと分かりますが、普通の人はそんな知識がないといいます。
 本当にアメリカの中学生レベルではそうした知識がないのかというと、必ずしもそうではないような気がします。
 日本人が習う中学英語にはこうした言葉は出てきませんが、アメリカの中学教科書には出てくるのではないでしょうか。
 類人猿はantholopoid apeというのですから、なにもanthlopo
というのが特に高級語彙で、高度な知識を持った人しか知らないわけではないでしょう。

 「馬」とか「犬」といった子供のときから覚えてよく知っているようなたんふぉは、言葉自体に意味が示されている必要がありません。
 漢字の「馬」が元は象形文字であったにしろ、現在の形からは馬をイメージすることができないほど変形してしまっています。
 日本語としての「馬」とか「犬」とかいう言葉は意味を示すヒントが不要なほど良く知られた言葉なのです。
 
 英語で牛はox(雄牛)とcow(雌牛)と別々の名前になっているのを、日本語では牛という言葉があって、雄雌は牛の前につけて雄牛、雌牛と使い分けています。
 このほうが分析的だという言い方がありますが、そういうことではないと思います。
 日本人からすれば、牛の雄雌に関心があまりなかったので別々に名前をつけなかったので、英語圏ではoxとかcowというのが熟知語になっていて、わざわざ分けているという意識がないのでしょう。
 
 馬車のような言葉は英語では何種類かあるのですが、日本には馬車というものがなかったので、馬の引く車といった漠然とした訳語で済ませているのです。
 よく文字を読むとき視覚イメージを思い浮かべたほうがよいといわれますが、翻訳語ではどれをイメージ化してよいやら分からないものがいくらでもあるので、まじめな人は当惑するでしょう。

 英語であれ日本語であれ、新しく経験するもの(熟知語でなかったもの)については、すべてまったく違う名前をつけていては記憶しきれないので、それまでに使っていた言葉と関連付けて名前をつけるというのが自然です。
 望遠鏡は千里鏡とか縮遠鏡ともいわれたりしたようですが、望遠鏡が一番分かりやすいので一般化しています。
 英語のtelescopeも望遠鏡と名前の付け方は同じで、新しくできたものに名前をつけるときは同じ心理が働いているのです。
 
 


文節の意義

2007-04-29 23:23:08 | 文字を読む

 中学の国文法では文節という考え方が教えられます。
 文節というのは、文を実際の言葉として、不自然にならない程度に、なるべく小さく区切ったときの、ひとまとまりのものだといいます。
 たとえば「丸い大きな月が向こうの山の上に出た」という文は「丸い/大きな/月が/向こうの/山の/上に/出た}というふうに区切れます。
 区切り方のコツは文節の後ろにネとかサをつけてみることができるといいます。
 なるほど「丸いネ、大きなネ、月がネ、向こうのネ、山のネ、上にネ、出てネ、きたネ」とネを入れて意味が通じます。
 あるいは昔の学生のアジ演説のように「丸いィー、大きなァー、月がァー、向こうのォー、山のォー、、」とやれば文節に区切れています。

 「吾輩は猫である」は文節に分けると「吾輩は/猫で/ある」となるそうなのですが、同じ表現で「吾輩は猫だ」や「吾輩は猫なり」ならどう区切るのでしょうか。
 「猫だ」や「猫なり」は区切れそうにありませんが、区切れないとしたら「猫である」だけが「猫で/ある」と区切れるというのは釈然としません。
 「星が輝いていた」は「星が/輝いて/いた」と区切るのだそうですが、こう区切ると「星が輝いて居た」という当て字書きをしたような感じで、不自然です。
 自然にというなら、「吾輩は/猫である」とか「星は/輝いていた」と区切ったほうがよさそうです。
 
 ネを入れて区切るというのも「俺はね、そんなこと言いたかないね」というのを「俺はねネ、そんなことネ言いたかネないねネ」とするのは何か変です。
 文節の区切り方にはこのように、あいまいな点があるのですが、文節に区切ることは意味がないのかというとそうとばかりはいえません。
 文字を音読するときの区切り方がでたらめだと、いわゆる弁慶読みのように「弁慶がな、ぎなたをもって」という風になったりします。
 
 図の二番目の例のように「丸/い大/きな月が/向こう/の山、、、」のように読んでしまったりすることはありえないと考えるのは、ある程度読解力を持った日本人の大人の考え方です。
 小学校低学年とか、日本語を習い始めの外国人であれば、文を全体的に見ないで最初から一文字ずつ読もうとするので、区切り方がおかしいときがあります。
 そういう場合には文節を意識させることが、文章の意味を理解するための基礎として役に立つでしょう。

 大人の日本人が文を読むには、もう特に文節を意識する必要はないでしょう。
 もっと大きな単位で意味のかたまりをつかむことが必要で、図の三番目の例のように「丸い大きな月が/向こうの山の上に/出た」と文の全体構造をつかむことが必要です。
 「象は鼻が長い」というような場合でも「象は/鼻が/長い」と区切って象が主語か鼻が主語かなどと考え込むのではなく、「象は/鼻が長い」と見れば迷いません。
 「彼は腹が黒い」は「腹が黒い」を「腹黒だ」と置き換えてみれば、腹が主語か彼が主語か


文字は同時に見れる

2007-04-28 23:59:55 | 文字を読む

 言葉遊びにアナグラムというのがありますが、これは文字のつづりの順番を入れ替える言葉遊びです。
 日本の場合はカナで表記した文字のつづりの順番の入れ替えが普通です。
 一番簡単なのは逆さ読みにしたもので、「ばか」を「かば」としたり「たぬき」を「きぬた」とするような例です。
 「上から読んでもやまもとやま、下から読んでもやまもとやま」という広告はこの方式なら「上から読んだらやまもとやま、下から読んだらまやともまや」となるものです。
 カナ表記にせずに「山本山」と漢字表記にすれば広告どおりになるのですが、耳で聞いたとき「おや」と思わせて、漢字を見せてなるほどと思わせているのです。
 ローマ字で書くと「yamamotoyama」は「amayotomamay」となって、なにかわからなくなります。
 
 アナグラムというのは文字つづりを並べ替えるので、英語でもありますが、音声の並べ替えというのはありません。
 日本語なら文字に書かずに音声だけで「てぶくろのはんたいなんだ」といって「ろくぶて」と答えると六回ぶたれたりする遊びが可能です。
 音声を聞いてそれを逆さに言ったり、音を並べ替えたものから元の言葉を推測できるのは音が5つぐらいまでで、それ以上になるとむずかしくなります。

 文字では同時に見ることができるのですが、音声では順番に聞かなくてはならないので、記憶の負担が大きいため、並べ替えが難しいのです。
 「則天去私」を「私去天則」として「しきょてんそく」と読んで元の熟語を答えるのは大変ですが、文字を見て答えるほうはカナ表記でもまだ容易です。
 「しょきんてくそ」のように右から左読みの場合であれば、音声では元の熟語を答えられなくても、文字で見れば楽にできます。
 
 クイズなどで人の名前をカナ表記して、文字を並べ替えたものを見せ、誰の名前か当てさせるというのがありますが、これは文字だからできるものです。
 もし音声だけで「めそせつなうき」とか「めつなきせうそ」とかいって答えを要求してもわかる人はほとんどいないでしょう。
 これは文字レベルのことですが、単語レベルでも同じことが言えます。
 黙読の場合は同時にいくつかの単語を見ることができます。
 ただ見るだけではあまり役にはたたないのですが、単語をまとめて意味を理解できるようになれば効果が発揮されるのです。
 
 


抽象的に考えるほうが良いとき

2007-04-24 23:07:29 | 注意と視野

 「3×5の升目にはいくつの四角形が含まれているか」という問題を考えるとき、たいていの人はAのような図を描いて考えると思います。
 Bのように縦長の図を描いても良いのですが、横長に描くほうが自然に感じられます。
 全体をとらえるのには横長に見るほうが自然で、縦長に見るほうがとらえにくいのです。
 同じように5×3×3の直方体を描く場合でも、D図のようには描かずE図のように横長に描くのが自然です。

 ところで、実際にこの問題の答えを出そうとするにはどのように考えるでしょうか。
 たいていの人は一番小さな升目をまずかぞえ、次に小さな升目が二つ合わさったもの、次に三つ合わさったものと順にかぞえていって合計を出そうとします。
 答えは90個ですから、かぞえ方をきちんと組織立ててやらないと、かぞえ間違いが起きてしまいます。
 たとえば2個合わさったものは、縦1×横2のものと、縦2×横1のものがありますが、
4個合わさったものは縦1×横4の場合と、縦2×横2の場合です。
 また5個合わさったものは縦1×横5だけですが、6個合わさったものは、縦2×横3の場合と、縦3×横2の場合があります。

 こうしたかぞえ方は、そのつど具体的にかぞえていくので、升目が増えるとたくさんの計算をしなければならないので、能率が悪く見落としも出てきます。
 たとえば10×15などとなってくればとても大変です。
 年をとると具体的な考え方に執着しがちで、抽象的な考え方が苦手になるといいますが、具体的な考え方だけではうまくいかない場合もあるのです。

 この問題の場合、四角形は二本の縦線と二本の横線で囲まれたものですから、日本の縦線を選ぶ選び方を数え、それに対して二本の横線の選び方を数え、この二つをかければよいのです。
 A図では縦線は6本、横線は4本です。
 縦線の最初の一本の選び方は6通りで、それぞれに対してもう一本の選び方は5通りですから、全部で6×5で30通りですが、同じ線が1本目にも、2本目にも選ばれているので実際の選び方は30÷2で15通りとなります。
 同じように計算すると横の2本の線の選び方は4×3÷2で6通りです。
 そこで四角形の数は15×6で90個となります。

 これを応用すればE図に含まれている直方体の数は15×6×6で540個となりますが、これを具体的な方法で数え上げるというのはとてもできたものではありません。
 数が多いというだけでなく、立体図では見えないところができてしまうので、具体的に眼で見て数え上げるということができなくなるからです。


縦書きのほうが眼が疲れない場合

2007-04-23 23:54:31 | 注意と視野

 図は視野と感度の関係(右目の場合)をあらわしたものです。
 上の図の円は目の中心からの角度を表し、黄色い部分が見える部分詰つまり視野をあらわしています。
 黄色い部分を囲む線は地形図の等高線にたとえていえば、等感線とも言うべきものです。
 ともかく見えると言う範囲で言えば、眼の鼻よりは60度、耳よりは100度、上下はそれぞれ60度と70度です。
 左の目はこれと左右対称ですから、両目の中心線を重ねれば、左の耳側が100度ですから、左右の視野は200度、上下は135度ということになります。
 
 ところが右目の鼻寄りの視野と左目の耳寄りの視野が重なり合うのは60度の範囲で、左目の鼻寄りの視野と右目の耳寄りの視野が重なり合うのはやはり60度の範囲です。
 したがって左右の眼の視野が重なり合うのは120度の範囲ですから、両岸の視野が重なり合う範囲は左右に120度、上下に135度ということになりますから、ある程度見えるという意味では上下でも左右でも同程度の範囲だといえそうです。
 眼が二つ横に並んでいるのだから、当然左右のほうが視野が広いはずだと思うかもしれませんが、二つの眼の視野が重なり合う範囲は上下のほうがやや広いのです。

 ところが、黄色い部分の内側にある等感線を見ると上下は35度ですが、耳寄りは50度ですからある程度よく見える範囲というのは、左右のほうが上下より広いということがわかります。
 実感としても左右の視野のほうが、上下の視野よりも広いのは、ぼんやりとでもともかく見える範囲というだけでなく、ある程度はっきり見える範囲をとっても、左右のほうが上下より広いからです。
 
 日本語は今でも縦書きのほうが主流ですが、世界的には圧倒的に横書きが主流です。
 文字は順を追って線状に並べて記されていますから、普通に見れば横書きのほうが一度に多くの文字が見えます。
 したがって横書き文字のほうが眼をあまり動かさないでも読むことができるということになります。
 それでは横書きのほうが眼が疲れないかというと、必ずしもそうではありません。
 人によっては横書きのほうが眼が疲れ、横書きが増えたせいで日本人の眼が悪くなったなどという人もいます。
 
 どちらのほうが眼が疲れるというようなことは、一概には言えないのですが、横書きの法が視線を動かさなくてすむため、固視に近い状態で読み続けがちです。
 縦書きの場合は一度にある程度の文字数を見ようとすれば、焦点距離を遠めにするか眼をすばやく動かさなくてはなりません。
 そのため凝視をしないですむので、かえって眼が疲れにくいのです。
 


立体視、平行法、そり眼

2007-04-22 22:57:15 | 注意と視野

 立体視の方法には2種類あり、ひとつは交差法(クロス法)で、眼を寄眼にして見る方法です。
 右の目で左の図を見て、左の目で右の図を見ることになるのですが、二つの図が合わさって見え、真ん中の四角形が手前に飛び出して見えます。
 この場合は焦点が画面よりも眼に近くなるので、合成されて見える図は小さく見え、またくっきりと見えます。

 もうひとつの方法は、平行法(パラレル法)というもので、左の図を左の目で見て、右の図は右目で見る方法です。
 この場合は、合わさった図の真ん中の四角形は遠くに後退して見えます。
 焦点が画面のの向こう側(裏側)になるので、合成されて見える図は交差法のときとは反対に大きく見えます。

 交差法のほうは寄り眼にすればよいので、たいていの人がすぐできるようになります。
 寄り目がしにくい場合、画面と顔の真ん中の距離で左右の図の中間に指を立て、その指を見つめると寄り目になりますから、指を下ろせばそこに左右が合わさった図が見えます。
 焦点を画面と眼の間に持ってくればいいのですから、指を立ててその指に焦点を合わせればよいのです。
 交差法は比較的に楽にできるのですが、目を寄せているので、じきに眼が疲れるので、長く見続けることはできません。

 平行法のほうが眼が疲れないのですが、なかなかうまくできない人が多いようです。
 平行法は焦点が画面の向こう側になるので、交差法のように指を焦点にするということはできません。
 画面の向こう側を見るような気持ちで見ればよい、というようにも言われたりしますが、それでは要領がつかめないでしょう。
 
 普通に見ると左の目にも右の目にも二つの図が見えるので、左眼で左の図を見て、右目で右の図を見るつもりでも、両方見えてしまうのでうまくいかないのです。
 そこで眼と画面の間に真ん中に画面に垂直に、ボール紙などを持ってきて左の目では左の図しか見えないように、右の目では右の図しか見えないようにして二つの図を見ます。
 そうすると二つの図が融合して真ん中の四角は奥に後退して見えます。
 このときボール紙を見てしまうと焦点が手前に来てしまうので、画面のほうを見なければいけません。
 
 もうひとつの方法は、そり眼(寄り眼の反対です)にしてみる方法です。
 そり眼というのは遠くを見るときの見方で、遠くを見てそのまま目線を二つの図の間に持ってくると二つの図が融合して見えるようになります。
 あるいは図の黒い4つの丸を同時にしばらく見て、真ん中に視線を移すと二つの図が融合して見えます。
 また4隅の白丸を同時に見て、それから二つの図の間に視線を移しても二つの図が融合して見えます。
 いずれも焦点を画面の向こう側に持っていくことで立体視を可能にしています。


伏目で見続けないようにする

2007-04-22 00:07:15 | 注意と視野

 左の図はシュルツテーブルといって、周辺視野の認識能力を高めるために使われるものです。
 真ん中の赤い点に視線を向けたまま、眼を動かさずに、注意だけを移動させて、数字を1から25まで順にたどるものです。
 どの文字もはっきり見えているような感じがするので、簡単にたどっていけそうに思いますが、実際にやってみると、なかなかスムーズにはいかないものです。
 
 たとえば左下の18の場合、注視している赤い点から一番離れているうえに、2桁の数字なので複雑度が高いのでわかりにくくなっています。
 それでも周りにほかの数字がなければ、より楽に読み取れます。
 文字が込み合っていると、一つ一つの文字を読み取るのが難しくなるのです。
 また、たとえば右上の5に注意を向けると、真ん中の17に注意を向けているときに比べ、6は発見しにくくなります。
 1から順に数字をたどるのではなく、上の行から順に1、25、13、、と順に注意を向けて読み取るだけならまだ楽なのですが、数字の順に追うとなると筋を探すの手間取るのです。

 真ん中に視線を向けたまま数字に注意を向けて読み取るのは、周辺へ注意を向けて、周辺部の読み取り能力を高めるのですが、焦点距離を近点に合わせたままなので眼が直に疲れてしまいます。
 焦点距離を遠めにすれば、眼筋の緊張が緩むので眼は疲れにくくなります。
 そこで右の字のように四隅の赤い点をを同時に見ようとすると、瞳孔が開くので左の図を見たときと比べ、図が大きく明るく見えます。
 
 図が大きく明るく見えるので、一つ一つのすうじが左の場合よりはっきり見えるような感じがするのですが、1から順に25まで数字をたどろうとすると、やはり簡単にはいきません。
 数字が込み合っているので探すのに手間取るためですが、それでも左の場合より全体が見えている感じがするので、次の数字を見つけやすくなっています。
 
 一点を注視している場合は、自然と伏目になっている場合が多いのですが、伏目になっていれば眼が疲れないような気がします。
 ところが伏目のまま注視を続けていると、近点に焦点が調節されたままなので、特に老眼の場合は、眼が疲れます。
 眼筋が硬直して調節力がなくなり、遠くを見るとぼやけて見えてしまいます。
 眼を開いて広い範囲を見ながら、注意を向けていくほうが眼は疲れにくいのです。


視線追跡

2007-04-17 22:53:44 | 文字を読む

 図は視線追跡装置を使って絵を見たときの視線の動きだそうです。
○のところが視線がとどまったところで、○の大きなところが注視した時間の多いところで、小さな○は少しの時間しか注視していないところです。
 スキャナーのように端から順に一定のペースで見ていくのではなく、視線は飛び跳ねるようにあちこちに跳び、注視時間も一定してはいません。
 見る側の意識としては全体をくまなく見たつもりでしょうが、主に注視している場所は5ヶ所ほどでほかの場所はわずかな時間しか注意を向けていないか、あるいはまったく注意を向けていません。
 実際、絵を見た後で絵を思い出そうとしても、細かいところは思い出せないでしょう。

 絵を見ているとき、意識的には全体的に見たという感じがあり、見落としている部分が多いなどとは感じないでしょう。
 実際に網膜には絵の全体が映っているのですから、全体的に見えたと感じるのは当然なのですが、後になって思い出そうとしてもはっきり思い出せないのが普通です。
 というよりは、写真のように万遍なくすべての部分を記憶しようとはしないのが当たり前なのです。

 視線があちこちに跳んでいますが、跳ぶときは次に跳ぶ先が目に入っているはずです。
 たんに目に入るだけでなく、はっきりは見えなくても無意識的に興味を持つという程度には見えているはずです。
 人間の目は視線を向けたごく狭い範囲しかはっきり見えず、周辺視野はぼやけてしか見えないのですが、次にどこに視線を向けるか無意識的に決めることができる程度には見えているのです。

 こうした視線追跡の様子を見ると、文字を端から順に追って見ながら読むというのは、人間の自然ではないという感じがします。
 実際は文字を読む場合でもひとつずつ順に見ていくのではなく、飛び跳ねるようにしていくつか先の文字に視線を移していくのですが、この場合も次にどこへ跳ぶかは無意識のうちにきまります。
 無意識であっても次に視線の跳ぶ先が決まるということは、はっきりとではなくても跳ぶ先が見えているのです。
 この場合、視野が狭かったりすると本来自然に視線が跳べるはずの場所が見えず、すぐ近くの場所にしか跳べないので視線の動きが限定されて、目が疲れやすいだけでなく文章の意味もつかみにくいのです。
 


目を動かすより視野を広げる

2007-04-16 23:01:51 | 文字を読む

 図のように緑、赤、青の色を25分の1秒提示した場合、三つの色ははっきり見え、三つの色が何色だったかを記憶しています。
 ところが同じ場所に25分の一秒ずつ連続して提示した場合は、三つの色を分けて見ることができません。
 色が重なり合ってしまってここの色を見分けることができないのです。
 各色はそれぞれ25分の1秒づつ提示されるので、それぞれ別に見えてもよさそうなものですが、別の色としては意識されないのです。
 三つの色が25分の1秒づつの間隔で提示されるので色が切り替わっているように見えはするのですが、三つの色が混ざり合ってひとつの色が明滅するように見えるのです。
 このとき見える色は三色を重ねた色(白)ではなく、なぜかオレンジ色に見えます。

 色でなく文字を提示した場合はどうなるかというと、「試」「行」「錯」「誤」という4文字を20分の一秒だけ提示した場合、少し慣れれば読み取って記憶することができます。
 ところが同じ場所に25分の一秒づつ連続して提示した場合は読み取ることができません。
 最後の「誤」という文字がかろうじて見分けることができるかもしれませんが、途中の文字は混ざり合って見分けることができません。
 4文字並べて見た場合は25分の一秒で4文字を読み取れたのに、同じ場所に1文字ずつ提示した場合は各文字につき25分の1秒ずつで合計1秒間かかってもすべての文字を読み取ることができないのです。
 4つの文字のうちどれかが瞬間的に見分けられたとしても、前後の文字は見分けられないので、読取率は同時に示した場合の4分の一以下となります。

 このよう結果から見ると、文字を読む場合には目を速く動かして見るより、いくつかの文字を同時に読み取ることのほうが良いということがわかります。
 あまり目を速く動かして見ると、目に入った文字を読み取れないうちに別の文字が目に入ってしまうので、脳の処理スピードが目の動きについていけないのです。
 特に年をとってくると、脳の処理スピードが遅くなるので、視野を広げて一度に見ることのできる文字数を多くする法が有利となります。

 映画のフィルムは毎秒24コマぐらいになっているそうですから、1コマは25分の1秒程度の提示になります。
 1コマずつが独立に切れ切れに見えず連続的に見えるのですが、これは1コマづつが連続的な映像だから動いて見えるので、各コマの連続性がなければ何が映っているかわからなくなります。
 むかし、野球の川上選手はボールがとまって見えたときがあったそうですが、ボールが飛んでくる各瞬間が切れ切れに見えたわけではないでしょう。
 これはボールを打つタイミングの感覚とボールの一瞬の見えが一致する瞬間があったのそのように表現したのだと思われます。
 


意識的な情報処理

2007-04-15 23:12:00 | 文字を読む

 図はT.ノーレットランダーシュ「ユーザーイリュージョン」から。
 左の表はドイツのキュプフミュラーのまとめた表で、一秒間に意識的に処理される情報量を示したものです。
 人間が外界から受け取る感覚的な刺激による情報量は一秒間に1000万ビット以上とされていますから、意識的に処理された情報量というものははるかに少ないように見えます。
 このような数字を見ると、意識的な情報というものはごく限られたもので、無意識的に受け取っている情報を処理すべきだという意見が出てきたりします。
 また、意識的な処理は主として左脳によるもので、無意識的な処理を右脳が行っているので、右脳の情報処理は左脳の情報処理の10万倍以上とか100万倍以上とかいった主張まで飛び出してきます。

 人間が受け取っている感覚情報と、人間が処理している意識的な情報というのは同じくビット数で表現されているので紛らわしいのですが、まったく質の違った次元のものなので比較する意味がありません。
 たとえば視覚の場合、視神経は両目で200万本以上あっても、その一つ一つが受け取る情報を意識できるわけではありません。
 意識は色が赤いとか青いとか、形が四角とか丸とかいったふうに受け取ります。
 赤とか青とかに分ける分け方の数をビット数であらわして、そのビット数と視細胞の受け取る刺激の数と比べても意味がないのです。

 目が受け取る光の情報量ということで言えば、人間とサルにはほとんど違いがないことを考えれば、受け取る感覚情報の量にこだわるのは無意味なのがわかります。
 サルをことさらにバカにするわけではありませんが、意識的な情報の処理量でも内容を無視すればサルと人間と差があるわけでもありません。
 光刺激に対して特定の動作をするということで計るのであれば、サルも人間も変わらないことが心理学の実験から見て取れるからです。

 右の図はドイツのH.フランクによるもので、年齢によって一秒間に処理できる意識的な情報処理量を示したものです。
 たとえばなるべく速く音読をさせると思春期後半が一番速くできて、その後は年齢を重ねるにつれ遅くなることが示されています。
 この場合意味がわかるかどうかということは関係ありません。
 意味がわからなければ前に読み進めないということでは、個人差が出過ぎるので、年齢的な影響を調べるのなら、誰にでもわかるやさしい内容で読ませて速度を調べるということになります。
 あるいは意味の不明な文章を、わからなくてもともかく音読させてスピードを比べるというようなことになります。
 実際にものを読むときには、意味を理解することが目的ですから、単純な情報処理速度を比較しても意味がないのです。