60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

漢字書き分けと単語家族

2008-07-29 23:47:01 | 言葉と文字

 漢字の80%以上は形声文字といって、音を表わす部分と意味を表わす部分の組み合わせで出来ているといいます。
 たとえば「清」という字は水を表わすサンズイと音を表わす青(セイ)という部分から成り立っていて、「セイ」と発音する言葉のなかで水に関係するものを表わすという具合です。
 ところが青という字は単に「セン」という音を表わしているだけではなく、「青く澄み切った」というような意味を持っていて、青という音符のついた漢字には「すっきりとした」という意味が共有されているといいます。
 たとえば「清」は水が澄んでいる状態を表わし、「晴」は空が青く澄んでいる状態を示すといった具合です。
 「錆」は日本語では金属が錆びている状態ですが、漢字の意味は金属が青く澄んだ色をしている状態です。
 「倩」は日本語では「つらつら」という読み方をしますが、漢字の意味は人偏に青で、スッキリした男という意味だそうです。
 
 このように音を表わす部分に共通の意味がある文字を単語家族と呼ぶこともあるようですが、発音が同じで意味に共有部分があるということは、基は同じ単語で意味がいくつかあるということではないかとも考えられます。
 言葉は漢字よりも字ができる前からあるもののほうが多いのですから、澄んだ空と、澄んだ水を両方とも「セイ」といっていたのならこれは同じ単語だったと考えるのが普通です。
 漢字が出来て「清」と「晴」のように書き分けたので、いかにも違う言葉のようですが、漢字がなければ同じ言葉と思われていたはずです。

 同じように「戔」という字は小さいとか少ないと言う意味ですが、これを音符にした文字は「セン」あるいは「サン」と発音するだけでなく、小さいとか少ないという意味を持っているといいます。
 「銭」は小額の金、「浅」は水が少ないので浅く、「賎」は財産が少ない、「盞」は小さな盃といった具合です。
 すべての言葉が文字が作られる前にあったかどうかはわかりませんが、中国人でもムカシはほとんどが文盲ですから、漢字にして見なければ意味がわからないなどということはありません。
 漢字にしなくても音声を聞けば意味が分かったはずで、同じ発音なのですから違う言葉だと意識されることはなかったでしょう。

 単語家族というのはいわゆる音義説とは違います。
 音義説は音がそのまま意味を示しているというもので、音が同じなら意味が同じというのですが、単語家族というのは意味が同じである印を文字の共通性にも求めています。
 発音が似ていても別の意味なら音符が別になると考えるのです。
 ただ単語家族という考え方は、文字中心の考え方なので、文字の書き分けでそれぞれが別の言葉だとしているようです。
 
 日本語の場合もあとから書き分けというようなことをするようになったので、書き分けをすると別々の単語のように見えます。
 たとえば「とる」という言葉はもとは「手に取る」という意味で、そこから意味が拡張されて「取ってこちらに移動する、選ぶ、引き受ける、、、」といろんな意味で使われています。
 これを「取る、採る、撮る、摂る、、」などと書き分けると、漢字の意味を知らなければ意味が分からなくなります。
 漢字に書かなければ意味が分かるのに漢字にするとかえって分からなくなるということもあるというのは、カナなら音が分ったのに漢字にしたために音が隠されてしまうからです。
 


多義語と書き分け

2008-07-28 22:43:24 | 言葉とイメージ
 国語辞典で「あげる」という言葉を引くと「上げる、揚げる、挙げる」などと書き分けるように示されています。
 書き分けというようなことをするのは、日本語ぐらいのもので、中国語では上、揚、挙は発音が違い、別の語ですから書き分けるなどとは言いません。
 また「上」、「挙」などはそれぞれいくつかの意味を持つのですが、意味の違いに応じて書き分けのようなことをするわけではありません。
 日本語の「あげる」という言葉を書き分けようとする理由は、多義的なので「上、揚、挙」などと書き分けようとするのだと漠然と考えられています。
 
 多義的といえば英語の場合も日本語に劣らず多義的です。
 「あげる」という日本語に対応する語としてはraiseとかliftといった言葉がありますが、raiseだけを取り上げてみても、図に示すように多くの意味があります(詳しい辞典ではもっと載っています)。
 これを見ると「上げる、揚げる、挙げる」のすべてをカバーしていますから、何らかの形で書き分けをしてもよさそうなものですが、英語では書き分けというものはありません。
 raiseという単語を聞いたり見たりしたとき、発音も文字も同じなのですから、どの意味なのかは文脈で判断するしかありません。
 だからといって、漢字のようなものを使って書き分けるべきだというようなことは、英語については言われません(他の言語でもたぶん)。
 どの言語であっても、単語が一つの意味にしか対応していなければ、ものすごく多くの単語が出来てしまって、覚えきれないだけでなく、意味にふくらみのないぎこちない言葉になってしまいます。
 したがって多義語が多いというのはどの言語でも当然で、だからといって書き分けをしなければならないということはないのです。
 
 漢字の上、揚、挙などを使って書き分けしようとすると、これらの漢字に含まれていない意味の場合もありますから、ムリに漢字の意味を拡張させなければならなくなります。
 たとえば「費用を**円であげる」とか「酔ってあげる」「得点をあげる」「叫びをあげる」「**をしてあげる」について漢字化しようとすると戸惑います。
 「上、揚、挙」などを漢和辞典で引いても適当する例が見当たらないからです。
 言葉は元の基本的な意味から派生した意味が出来、さらにそこからも意味が派生しますが、日本語と中国語では意味の派生の仕方が違うので、もとの意味での一致点が多くても、派生した部分では一致するとは限りません。
 漢字の訓読みというのは、漢字の日本語への置き換えで、翻訳ですから、文脈によって一つの漢字について訓読みが幾とおりもありえます。
 逆に日本語を漢字で書いた場合は、日本語の漢訳となりますから、幾とおりもあるのですが、簡単に訳せないこともあります。
 その場合は、日本人向けの文章であればすべて訳さなくても、訳しにくければ日本語のままにすればよいのです。
 

漢字の字源と日本語

2008-07-27 22:28:50 | 言葉と文字

 「明」という字は「日」と「月」からできているので、素人考えならば「日」つまり太陽と「月」をあわせて明るいと言う意味を表わしているなどと説明したりします。
 ところが明るいという意味を表わすというなら、太陽の明るさだけで十分なはずで、月まで出てくる必要はありません。
 実際に太陽の明るさの意味を持った漢字では「昭」「晃」などといった字があり、いずれも「あきらか」という意味で、日の光が照らすとか広がって明るくなることを示す字です。

 「明」のばあいは「日」と「月」が組み合わされているように見えますが、実は「明」のムカシの字体では図の上のような形になっていて、左の部分は「日」ではなく「まど」を表わしているといいます。
 したがって窓から月光が差し込み物が見えることを示しているといいます。
 つまり太陽の光で明るいという意味ではなく、暗くて見えない状態をつきの光で明るくして見えるようにするという意味だというのです。
 つまり字形が変化してしまっているため、本来の意味が分かりにくくなっているということになるのですが、そうすると漢字というのは意味を犠牲にして形が変化してしまうものだということになります。 
 あるいは形から意味を推測しようとすると間違いとなる場合があるということを示しています。

 解字というのは漢字がどのようにして作られたかを説明することで、その文字の意味をも説明しようとするものですが、それではその字が作られたときの当初の意味しか説明できません。
 言葉の意味は時代によって変化しますし、日本のように違った言語の中に取り入れられても変化します。
 たとえば「夜明け」というのは月の光で明けるのではなく、日の光で明けるのですから本来なら「明」という字は不適当です。
 また「明るい性格」などという場合のイメージは月明かり(月光)ではありません。日本語では「目明し」「打ち明け話」「年季明け」「らちが明かない」などといった使い方もあり、これらは「月の光で明るくなる」といったイメージで意味を解釈しようとしてもどうにもなりません。

 言葉の意味は変化したり、拡張したりするのですが、中国語として「明」という語の展開と、日本語の「明らか」とか「明ける」という語の意味の展開とは同じではありません。
 したがって漢字の「明」という字の字解をしても、日本語での「明」という字の使われ方の説明として有効とは限りません。
 字源解釈は学者によって異なったりするので、本当はどうだったかは一般の人間には分りません。
 それだけでなく、学問的に正しい解釈があったとしても、それが現代の使い方に適合しないばあいがあるだけでなく、ときとしてカえっ手意味の理解を妨げることすらあります。
 日本語に漢字を当てる場合はいわゆる書き分けにこだわると、迷ってしまう場合がありますから、ムリをせずヒラガナを使うか、あまりこだわらずに漢字を使うしかありません。


字源解釈と記憶術

2008-07-26 22:41:05 | 言葉とイメージ

 「朝」という字は草の下に日があり、そのまた下に草があって、横に月があります。
 そこでこれは草の間から日が出てきて、月がまだ沈みきらないで残っている状態で、朝のことを意味しているのだという解釈があります。
 この解釈だとちょうど万葉集の「東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ」という歌を思い起こさせるようで、説得力がありそうな感じがします。
 図は中山正實という画家が、この歌が歌われた情景を描いたものです。
 実際に狩が行われたという大和の阿騎野へ行き、歌の時期と同じ12月17日の朝を見たうえで描かれています。
 この絵で見れば東の空が明るくなっていますが、山は見えますが、草の間に日が見えるなどということはありません。
 野というのは草原というわけではないので、当然なのですが、日本の風景のなかでは草の間から日が見えるというような大草原はないので、草の間に日が見えるという説明はピンときません。

 もちろんこの歌は「朝」の字源解釈とは関係ないのですが、この歌自体にも不自然なところがあります。
 12月の17日ごろといえば冬の寒いときで、野宿をしながら狩をする、しかも狩の主人公が10歳の軽の皇子というのですから、現代人には理解できないところがあります。
 具体的な状況を想像しようとすると、この字源解釈はこの歌とは結びつかないのですが、このようにして結びつければ「朝」という字を覚えやすいということが出来ます。
 別の字源解釈では「月は月の字でなく水を表わす形の文字で、潮がみちてくる状態を示し、草の間から日が出て潮が満ちるときで、朝を表わす」というのもありますが、覚えにくく分りにくい説明です。

 あさ」を表す漢字としては「旦」という字もありますが、これは下の横線が地平線で、太陽が地上に現れることを示すというのですから、「朝」よりはストレートで分りやすくなっています。
 ただし、日本の場合はたいていの場合山が見えてしまって、地平線の上に日が出るということが無いので、感覚的にあわず、むしろ水平線のほうが経験しやすいと思います。
 地平線でも水平線でもいいのですが、この造字法なら朝でなくても日が沈む前の夕方でも同じになるのですが、なぜか朝の意味だけになっています。 つまり字源解釈というのは論理的ではないのです。
 日という字を使っても「昌」は日がふたつなので「あかあかと輝く」意味だとしていますが、日が三つの「晶」になるとなぜか日は星を表わすことになっていて「きらきらひかる」という意味になっています。
 「木」なら林、森と木が増えるにしたがってボリュームが増える感じですが、「日」も同じように考えるととんでもない解釈になってしまいます。

 漢字の字源解釈は首尾一貫しているわけではなく、ケースバイケースでかなり場当たり的なので、学者でもない限り、本当にどうなのかということを追求しても意味が無いのです。
 漢字の字源解釈は記憶術のようなものであると割り切ったほうが実用的であるように思えます。
 
 


文字の共用と転用

2008-07-22 22:44:12 | 言葉と文字

 どんな言語でも文字より先に話し言葉があったので、同音意義語というのは必ずあります。
 漢字は同じ音でも書き分けられるようになっていると考えられていますが、一度にすべての漢字が出来上がったわけではありませんから、同音語が同じ文字を共用することがあっても不自然ではありません。
 文字ができる以前は同音異義語であっても、意味の使い分けは出来たのですから文字を作ったとき、共通の文字であっても意味は通じたはずです。

 たとえば「沙」という字は「すな」という意味とそこから派生した「より分ける」という意味を持っています。
 「沙」が「すな」という意味の文字として作られたのは、石が水に洗われて小さく削られて「すな」になると考えられたからだといいます。
 ところが、この考え方はまわりくどいので、単純に石の小さいのが「すな」だとしたのが「砂」という字なのでしょう。
 「沙」の場合は石が水に洗われて小さく削られるということから、「より分ける」という意味が派生したのですが、「砂」からはこのような意味が派生しないので、「砂」は「すな」の意味だけに使われています。
 それでも「沙」の字も「すな」という意味を失っていないので、同じ意味の言葉に二つの字が対応しています。

 このような例は他にもあって、「女」という字は「ジョ」という発音の「おんな」という意味の言葉と、「なんじ」という意味の言葉で共用された文字です。 
 今通用している「汝」という文字は中国の「ジョ」という川の名前に使われていたものだそうです。
 これは川だからサンズイにジョという発音に当てられている「女」をつけたものですが、この文字ができたので「なんじ」という意味の言葉に対する文字にくっつけたのです。
 「おんな」と「なんじ」では紛らわしい場合もありますが、川の名前と「なんじ」のほうが紛らわしくないからでしょう。

 「求」という字はもとは「かわごろも」という意味で、その後「もとめる」という意味が派生したのが、かわごろもという意味をよりハッキリさせる裘という字が出来たので、「もとめる」のほうが主役になったそうです。
 「然」という字も元は「もえる」という意味の「ネン」という語に当てられた字で、「しかり」という意味の「ネン」という意味の言葉も同居したので、
「もえる」の意味の字を独立させようとして「燃」という字が出来たとのことです。
 そういえば「然」は下に火をあらわす「れんが」がついているので「もえる」という意味なのですが、これに火偏をつけた「燃」は火が二重になって不自然な文字形になってしまっています。

 発音が同じなら文字も同じでもとりあえずよいとするのは自然の成り行きで、何が何でも別の字を割り当てることはないのですが、できたら区別のマークをつけたいというのが人情です。 
 そこで共有部分に意味の別を表わす印をつける方法が考えられます。
 たとえば日本人が「くも」という字を作ろうとするとして「空のくも」を表わす「云」という字を「くも」と読み、雨をつけて「雲」、「虫のくも」なら虫偏に「云」をつけたような文字を作るという要領です。
 話し言葉の音が土台になって、意味の区別を暗示するマークをつけるというやり方で、いわゆる形声文字の造字法です。
 


漢字の書き分けと熟語

2008-07-21 23:31:10 | 言葉と文字

 「怨恨」という熟語を国語辞典で調べると「うらむこと、うらみ」となっていますが、この「うらみ」は漢字で書き分けてはいません。
 そこで「うらみ」という言葉を調べると「恨み、怨み、憾み」などと書き分け方が示されています。
 「憾み」は「怨恨」とは字の上でも共通点が無く意味も違うので、「恨み」あるいは「怨み」が近い意味になるのでしょうが、どちらか一方に決めるわけにはいかないでしょう。
 一方を取ると他方が棄てられてしまいますから、「怨恨」という熟語の意味は「うらみ」とヒラガナにするしかなかったようです。
 そうすると「うらみ」という語の漢字による書き分けは「怨み」「恨み」「憾み」のほかに「怨恨」があることになり、辞書を改定する必要がでてきます。
 実際は「恨み」「怨み」「怨恨」などをどう違うのか説明するのはむずかしく、ヒラガナで「うらみ」と書くほうがよいということになるでしょう。

 日本語を漢字に書き分けるというと、より正確な表現になるように思われ、書き分けの規則がきちんとあるようにいわれていますが、中国語のために出来た漢字が、そのように出来ていると考えるのは不自然です。
 「つく」という言葉も辞書による書き分けでは「着く、付く、、」となっていますが、それでは「つく」を漢語表現した「付着する」は「つく」とは翻訳できないのかという疑問がでてきます。
 「付着」は「付く」でも「着く」てもないので「つく」と訳すわけにはいかないということになるからです。
 こうした現象はいわゆる漢字の書き分けが行われる言葉について頻繁に見られる現象です。

 書き分けに使われている漢字を組み合わせた二字熟語がある場合、そうした熟語の意味はどうなっているのかという問題があります。
 普通に考えれば二字熟語は二つの漢字の合成語なので、一つ一つの漢字の意味を超えた意味を持っているはずです。
 たとえば「変換」は「変」も「換」も訓は「かえる」ですが、「変」は「状態をかえる」、「換」は「とりかえる」意味で、「変換」は二つをあわせた意味ですから複合語としての意味を持っています(ただし「カナ漢字変換」というときはカナの部分を漢字に置き換えるので「カナ漢字置換」のほうがよさそうな気がします)。
 そこで「上昇」は「上」や「昇」とは違う意味を持たなければ、わざわざ「上昇」という言葉を作る意味がないはずです。
 したがって「のぼる」を「昇る、上る」と書き分けして、「上昇」を「のぼる」と翻訳したのでは辞書の役割が果たせません。

 「おさめる」は「収める、納める」として「納める」は「納税」のように「相手に入れる」「収める」は「収税」のように「相手から取って入れる」の違いがあるとされています。
 しかし「出納」という言葉では「出し入れ」は主体が同じですから、「納」は「相手に入れる」のではありません。
 また「収納」は入れたり出したりではなく、単に取り入れてしまう意味です。
 漢字の用法が整然と区別されていると考えると、意味が分らなくなったりすることもあるのです。
 
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錯視の原因

2008-07-20 23:10:49 | 視角と判断

 左の図はポッゲンドルフの錯視図として知られているもので、線aとb、cとdはそれぞれ一直線上にあるのですが、行き違っているように見えます。
 実際には一直線上にあるのに行き違うように見えるので、目の錯覚だとされるのですが、どうして錯覚が生じるかについては説明されていません。
 心理学では縦線と斜めの線が交差する角度が鋭角の部分が過大視され、鈍角の部分が過小視されるためだとしていますが、これではそれが原因なのか結果なのか分りません。
 それでも交差する角度の見え方を問題にしているということは、交差する部分に注意が向けられるということを前提にしています。
 斜めの線全体を均等に見ればaとbが一直線上にあるように見えるのですが、交差する部分に自然に注意が向けられてしまうので、aとbを同時に全体的に見ることが出来ないのです。
 
 そこで真ん中の図のように先端に赤丸をつけて二つの先端に同時に注意を向けやすくして見ると、左の図に比べ二つの直線は一直線上に見えやすくなります。
 また真ん中の図の下の線の場合のように、交差部分に赤丸をつけると二つの直線は一直線上にあるように見えます。
 これは線の交差部分の見え方が変ったためで、線cとdが行き違って見えるのは縦線との交差部分の見え方に問題があることが予想されます。
 交差部分は縦の線と斜めの線が近接しているので、交差点はどこなのかがあいまいになっています。
 赤丸をつけると線の交叉点が隠されてしまうので、錯覚がおきにくくなっているのです。

 右の図は斜めの線の色を変えてみたもので、線の色が変ると交差点の部分のあいまいさが減少します。
 そのため左の図に比べると錯視量が減って、斜めの線がそれぞれ無理なく一直線上にあるように見えるようになります。
 同色の線が交差すれば交差する点はあいまいになり、交差角が縮小して見えたり拡大して見えたりするので、目の錯覚であるというよりも、図の作り方に問題があるのです。
 とくに仕組んだというわけではないのでしょうが、交差する部分に注意がひきつけられることで全体的に見させなくし、同色の線が交差することで点をあいまいにするため錯覚しやすくしているので、目が錯覚してしているわけではないのです。
 


線と点の見きわめ

2008-07-19 22:39:59 | 視角と判断

 図はミュラー.リヤーの錯視図に一部描き加えたものです。
 矢羽に挟まれた軸線の長さが、矢羽が外向きのほうが内向きの場合より短く見えるというものです。
 図でいえば上の図の軸線abのほうが下の軸線uvよりも短く見えるというもので、確かに上の軸線のほうが短く見えるでしょう。
 なぜ上の軸線のほうが短く見えるかという説明として、上の図は建物の角を連想させ、手前にあるように見えるから短く見え、下のほうは部屋の墨を連想させるので、奥にあるように見えるから長く見えるというのがあります。
 いわゆる遠近法によって説明するもので、まだかなり広く信じられているようです。
 
 ところでこの図形を棒や針金で模型を作り、目隠しをして手で触って長さを判定させると、やはりabのほうが短く感じられるそうです。
 目隠しをして手で触った場合は遠近感を感じるということはありませんから、abのほうが短く感じるのは遠近法とは関係ないだろうと予想されます。
 どちらが短く感じられるかという問題であれば、判断は視覚によるとは限らず、触覚による方法もありますから、最初に触覚で判断しようとしたら、遠近法による説明は出てこなかったでしょう。
 触覚で判断しようとした場合は、軸線の先端がabの場合は内側にあるように感じ、uvの場合は外側にあるように感じますから、abのほうが短く感じるというのは、矢羽と軸線の線端が接することで、線端があいまいに感じられるためだろうと思うでしょう。

 そこで視覚の場合も、軸線の線端のあいまいさによるのだということを示すために、描き加えたのが赤線mnとxyです。
 もし線abとuvが全体としてabのほうが短く見えるというのであれば、同じ長さでもmnのほうがxyより短く見えるはずです。
 ところが線mnとxyは同じ長さに見えますから、abのほうが全体としてuvよりも短く見えるのではなく、先端の部分に原因があるだろうと考えるようになるはずです。
 実際abからmnの部分を除いたam,nbとuvからxyを除いたux,yvを比べてみると、am、nbはux,ybより短く見えます。
 このことはmn、xyの長さを、長くしたり短くしたりしても同じように確かめることが出来ます。

 こうしてみると、abのほうがuvよりも短く見える主な原因は線端があいまいにみえるためだということが分るのですが、このことは幼児や高齢者のほうがよりこの錯視をする傾向があるという事実を裏付けるように思われます。
 幼児はものを見る力がまだ発達していないため、矢羽から軸線を切り離して見ることが出来ず、高齢者は視覚が衰えてきて切り離して見ることが困難になっているからなのです。


音読みの読みわけ」

2008-07-15 23:33:58 | 言葉と文字

 漢字の大部分はいわゆる形声文字と呼ばれるもので、意味を表わす部分に加えて音声を表わす記号が組み込まれているので、知らない文字でも読み方の見当がつくといわれています。
 たとえば「戔」を」センという音符と知ると、淺、踐、賤などを音読でき、さらに付箋、附牋といった字も音読は出来ることになります。
 ただし棧橋はサンバシ、殘念はザンネンで一筋縄ではいきません。
 読み方が二通りぐらいならば、まだ良いのですが何通りもある音符があるので、日本人にとってはとても厄介です。

 圭という字は「玉器」という意味の字で、基本的にはケイと読むのですが、これを音符として使った字はケイと読めばいいのかと思うとそうはいかない例があります。
 佳作、佳人、佳境などという熟語を思い出せばわかるように、佳はケイでなくカと読むことになっています。
 桑田圭祐、小椋佳などの「佳」はは「カ」と読ませずに「ケイ」と読ませていますが、これを間違いだときめつけられても納得は出来ないでしょう。
 桂馬とか罫線という用例を見ていれば、「ケイ」という読み方が確かにあるのだから既成の熟語から外れた単独の漢字としては「ケイ」と読んでもいいのではないかとも考えられるからです。
 圭を音符に使った読みかたの例としては他に占いの卦(ケ)、蛙はの音読みで「ア」というのがあります。

 矜持という言葉は「キョウジ」と読むのが正解とされ、「キンジ」と読むのは百姓読みとして軽蔑する人もいます。
 音符の「今」が「キン」と読め、衿(襟)の字に似ていることから「キンジ」と読んでしまったのが一般化したのでしょう。
 矜持の矜は衣偏ではなくて矛(ほこ)ですが、形が似ているので衿と勘違いしたのでしょう。
 矜という字じたいは「キン」という読み方があるので、「キョウジ」と読むのだと学習しない限り、「キンジ」と読んでもしかたがありません。
 「今」を音符とした字はほかに「ネン、ガン、ギン、タン、イン」など何種類もあってどういう場合はどのように読むか見当がつきませんから、個別に読み方を覚えるしかありません。
 
 漢字の読み間違いとしてよく挙げられるのが、「垂涎」(スイゼン)ヲ「スイエン」と読んでしまう例です。
 延は「延期」という熟語がポピュラーなので、「延」が入っている熟語を見れば「エン」と読んでしまうのは無理からぬことです。
 しかし誕生という単語は「エンショウ」と読まず「タンジョウ」と読めるのですから、垂涎はなんと読むのだろうかと踏みとどまっても良いはずです。
 ただ「涎」をみて「ゼン」と読むというのは思いつくものではなく、奈良って覚えるしかありません。
 それにしても「よだれをたらす」というのは「強くほしがる」という表現としてもよい表現とは思えません。
 いまどき「垂涎の的」などと表現されても、イメージを浮かべるとだらしが無い感じで感心しません。
 
 漢字の読みは、訓読みの場合は漢字の和訳になるので、いくつもあることは当然なのですが、音読まで何通りもあるので、記憶の負担が大きく、間違いが多いのも当然です。 
 中国語の発音の変化につれて日本でも読み方の変化が起こっていれば、それほど混乱は無かったかもしれませんが、日本に漢語が入ってきた時期の発音が残ってしまったりsいているので、新旧ごちゃ混ぜの読み方が並存しています。
 したがって読み方の正当性を厳格に決めることには無理があるのです。
 


漢字の読みわけ

2008-07-14 23:05:42 | 言葉と文字

 漢字の書き分けが日本語の漢訳にあたるとすれば、漢字の日本語訳が漢字の読み分けにあたると考えることができます。
 本来なら漢字は中国語のものですから、中国語式の読み方だけあればよいのですが、漢字を日本語の中に取り入れたため、漢字の日本語訳つまり、漢字の日本語読みのようなものができています。
 英語の単語などがカタカナ語などの形で日本語の中に入ってきているといっても、アルファベットの綴りが日本語として表記のなかに入り込むということはありませんが、漢字は日本語にまとわりついているので厄介です。
 
 たとえば漢字の「子」という言葉は、中国語としての読み(音読み}は「シ」ですが日本語の中で使われるときは「こ」と読みます。
 これは、たとえば「こども」という日本語の「こ」の部分に「子」という漢字を当てはめて書くために起きるからで、ひらがなで書くならば生じない問題です。
 訓読みする日本語の場合はカナ書きでよいという考え方もありますが、親子を「おやこ」とするような場合は良いとしても、不便な場合があります。
 「親方」に対する「子方」は「こかた」とか「親株」に対する「子株」を「こかぶ」としてはピンときません。
 犬の子を「こいぬ」と書くと小さい犬の「こいぬ」と区別がつかないというようなことも起きますから、単純にカナ書きすればすむわけではありません。

 「親」の場合は「おや」のほかに「したしい」「みずから」「ちかしい」などの読みわけがありますが、「みずから」、「ちかしい」の場合は「自ら」「近しい」といった別の漢字が当てられるようになっています。
 「近しい」と「親しい」は「ちかしい」を書き分けたようですが、どのように意味が違うのかわからないので、読みやすい「近しい」が多用されるようです。
 (辞書には「近しきなかにも礼儀あり」という句も「親(した)しきなかにも礼儀あり」と両方あって意味を同じとしています。)
 ところが「みずから」の場合は「自ら」が一般的に使われますが、「親書」とか「親展」といった熟語が普通に使われているので「親ら」も棄てにくい状態です。

 「上」という字の場合は「あげる」「のぼる」といった読み方の場合は「あげる」は「上げる、挙げる、揚げる」などの書き分けがあり、「のぼる」には「上る、昇る、登る」などの書き分けがありますが、「あげる」「のぼる」というかながきですみます。
 ところが「うわて」のように「上手」としか書きようのない場合のほうが漢字を必要とします。
 「うわに、うわね、うわば、うわぶみ、うわまい、うわみ、うわや」などは漢字がないとわかりにくくなります。
 それでも「上手」と書くと「じょうず、うわて、かみて」と読みが三通りあり、「上米」とあれば「じょうまい、あげまい、うわまい」と三通りあるので読みわけが必要です。
 「親(した)しい」と「親(ちか)しい」のように読みが違っても意味が同じであれば良いのですが、多くの場合は同じ文字でも読み分けによって意味が違うので、漢字の多用はどうしても記憶の負担が大きいのです。