漢字の80%以上は形声文字といって、音を表わす部分と意味を表わす部分の組み合わせで出来ているといいます。
たとえば「清」という字は水を表わすサンズイと音を表わす青(セイ)という部分から成り立っていて、「セイ」と発音する言葉のなかで水に関係するものを表わすという具合です。
ところが青という字は単に「セン」という音を表わしているだけではなく、「青く澄み切った」というような意味を持っていて、青という音符のついた漢字には「すっきりとした」という意味が共有されているといいます。
たとえば「清」は水が澄んでいる状態を表わし、「晴」は空が青く澄んでいる状態を示すといった具合です。
「錆」は日本語では金属が錆びている状態ですが、漢字の意味は金属が青く澄んだ色をしている状態です。
「倩」は日本語では「つらつら」という読み方をしますが、漢字の意味は人偏に青で、スッキリした男という意味だそうです。
このように音を表わす部分に共通の意味がある文字を単語家族と呼ぶこともあるようですが、発音が同じで意味に共有部分があるということは、基は同じ単語で意味がいくつかあるということではないかとも考えられます。
言葉は漢字よりも字ができる前からあるもののほうが多いのですから、澄んだ空と、澄んだ水を両方とも「セイ」といっていたのならこれは同じ単語だったと考えるのが普通です。
漢字が出来て「清」と「晴」のように書き分けたので、いかにも違う言葉のようですが、漢字がなければ同じ言葉と思われていたはずです。
同じように「戔」という字は小さいとか少ないと言う意味ですが、これを音符にした文字は「セン」あるいは「サン」と発音するだけでなく、小さいとか少ないという意味を持っているといいます。
「銭」は小額の金、「浅」は水が少ないので浅く、「賎」は財産が少ない、「盞」は小さな盃といった具合です。
すべての言葉が文字が作られる前にあったかどうかはわかりませんが、中国人でもムカシはほとんどが文盲ですから、漢字にして見なければ意味がわからないなどということはありません。
漢字にしなくても音声を聞けば意味が分かったはずで、同じ発音なのですから違う言葉だと意識されることはなかったでしょう。
単語家族というのはいわゆる音義説とは違います。
音義説は音がそのまま意味を示しているというもので、音が同じなら意味が同じというのですが、単語家族というのは意味が同じである印を文字の共通性にも求めています。
発音が似ていても別の意味なら音符が別になると考えるのです。
ただ単語家族という考え方は、文字中心の考え方なので、文字の書き分けでそれぞれが別の言葉だとしているようです。
日本語の場合もあとから書き分けというようなことをするようになったので、書き分けをすると別々の単語のように見えます。
たとえば「とる」という言葉はもとは「手に取る」という意味で、そこから意味が拡張されて「取ってこちらに移動する、選ぶ、引き受ける、、、」といろんな意味で使われています。
これを「取る、採る、撮る、摂る、、」などと書き分けると、漢字の意味を知らなければ意味が分からなくなります。
漢字に書かなければ意味が分かるのに漢字にするとかえって分からなくなるということもあるというのは、カナなら音が分ったのに漢字にしたために音が隠されてしまうからです。