60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

漢字の読み方

2008-12-26 23:58:48 | 言葉の記憶

 明治時代にはゲーテ(Goethe)のことをギョエテとかゴエテと表記したということがおかしな話として伝えられています。
  いまはゲーテと表記するのが通り相場となっているので、明治時代にいろんな読み方で表記されたのを見て、ずいぶん滑稽な読み方をした人もいるものだと感じてしまいます。
 シカシ、ドイツ語など知られていなかった時代では、綴りを見てどのように発音してよいかわからないけれども、カナ表記しなければならないので、なんとか当て推量で表記したのでしょう。
 読み方が分からないでヘンな表記をするぐらいなら、原語のままアルファベットで表記すればよいと思うかもしれませんが、読みを与えないと頭に入らないので、無理にでも読みをつけてしまったのです。
 ヘンな読みを与えてしまっても、意味がかわるわけでなく、ギョエテと表記したところで、Goetheはファウストの作者であることに変わりはありません。

 漢字の場合でも、正式な読み方がわからないまま、当て推量で自己流に読んでそれが頭の中に定着してしまうという例があります。
 たとえば「生食」は「せいしょく」と読み、「なましょく」と読むと間違いとされていました。
 実際広辞苑などの国語辞典で、「なましょく」と引くと該当語がでてこないで、もちろん「生食」という語はでてきません。
 しかし実際には生のままで食べることを、現在では「せいしょく」というより「なましょく」という人のほうが多いようです。
 書き言葉では「生食」と書けばどのように読むにせよ「生のままで食べる」ことだと意味が伝わりますが、話し言葉では「せいしょく」ではわかりにくいという問題があります。
 「せいしょく」と聞けば生食だけでなく、生殖、聖職、青色、生色、声色、星食などといった語があって一瞬どんな漢字か迷ってしまいます。
 もちろん文脈を考えれば、「生食」と他の単語は意味が違うので紛らわしくはないといえるのですが、聞いてすぐにわからないという人も多いのです。
 そこで正規の読みではない「なましょく」いう読み方が導入され、この方が感覚的にわかりやすくて定着したのではないかと思われます。
 逆に「甘食」という言葉は、「かんしょく」ではなく「あましょく」が正解ですから、漢字の読みは難しいものです。
 「盛土」を「もりど」と読むのは間違いということになっていますが、正しいとされる「もりつち」よりも「もりど」という方がすっきりしているの、で誤っているはずの「もりど」という呼び方が広がってしまったのでしょう。

 最近、総理大臣が「踏襲」を「とうしゅう」と読まず、「ふしゅう」と読んでしまったということで、ずいぶん話題になりましたが、正式な読みが分からないでとりあえず当て読みしていたのが頭の中で定着してしまっていたのでしょう。
 もちろん意味がわからなかったわけではないのでしょうが、ほかから注意されないと間違ったままでいることになります。
 小説家でも「場末」を「ばまつ」と読んでいた人がいるので、こうした間違いは誰でもありがちなことかもしれません。
 総理の場合は、かなり前から間違い読みをしていたことが知れていたそうですが、地位の高い人には注意する人がいないため、直らないままだったものと思われます。
「踏襲」とか「未曾有」という言葉は、書き言葉で話し言葉に頻繁に登場するするものではないので、読み方の間違いには気がつかなかったのかもしれません。
 
 漢字は目で覚えられるといわれていますが、実際には間違っていても読みが与えられないと覚えにくいものです。
 たとえば子供にタケノコの絵を見せて、「筍」という字を同時に見せれば、筍という字を簡単に覚えるというのですが、この場合「タケノコ」という音声言葉を知っているから漢字を覚えられるのであって、知らなければ読みが分からないで漢字を覚えるのはずっと難しくなります。
 もちろん絵と漢字をつないで覚えるというやり方では、筍のほかの意味である「ほぞ」とか「かけざお」といった意味を覚えるのはさらに困難です。
 読みと切り離して漢字を記憶するのが難しいので、間違った読みであっても結び付けて記憶してしまうものだということがわかるのです。


言葉の記憶と知能

2007-09-02 22:38:04 | 言葉の記憶

 子供が言葉を覚えていくスピードはとても速く、1.5歳ぐらいまではゆっくりですが、その後急上昇するといいます。
 1歳半から6歳ごろにかけては1日平均9語ぐらいという説もあり、非常に速いスピードです。
 どうして子供が速いスピードで言葉を覚えられるかという理由については、赤ん坊の頃からたくさんの言葉を聞いていて、1歳半ごろから記憶として固まる言葉が増加し、それを発し始めるということが考えられます。
 言葉をはじめて聞いて覚えられるわけではありませんから、何度か聞くうちに記憶としてかたまり、自分で発声できるようになると言葉を覚えたと判定されます。
 当然親から何度も話しかけられたりする言葉が先に覚えられるのでしょうが、親や周囲の人が話している言葉も耳に入っていますから、おぼろげな記憶として残っていて、聞く回数が一定の頻度に達すれば次々とはっきりとした記憶に転化するはずです。

 それだけではなく、言葉を聞き分ける能力と、発声する能力がつき始めるので、記憶の蓄積との相乗効果で言葉を覚える量が急に増えていくものと考えられます。
 赤ん坊が言葉を覚えるのは、聞いた言葉を真似ることから始まるので、言葉を真似る能力が必要です。
 言葉を真似る能力の前提となるのが、言葉を聞き分け記憶する能力と発声能力ですから、1歳半以降に急速に言葉が増加できるのです。
 
 言葉を聞く経験量、記憶力、聴覚能力、発声能力が言葉の獲得の条件であるとすれば、それらは生まれつきもあり、環境差もありますから子供の言語能力はかなり個人差が出てきます。
 幼児の記憶力とか聴覚能力を個別に測るのは難しいのですが、言葉のまねをどの程度できるかを比べると間接的に測ることができます。
 最近の研究では、3,4歳ごろまでは言葉を真似る能力の高い子供ほど言葉を覚える速度が速いそうですから、そうした子供は記憶力とか聴覚力、発声力が優れているものと考えられます。

 言葉を覚えるスピードが速ければ、知能指数も優れているのではないかと予測するのが人情ですが、そうとは必ずしもいえないようです。
 ウィリアムズ症候群というのは、知能指数が平均以下であるにもかかわらず、言葉が流暢で、覚えている言葉の数も普通の子供よりはるかに多いそうです。
 ウィリアムズ症候群の子供というのは調べてみると、聴覚記憶能力が普通の子供より優れていて、言葉の記憶量は多いのですが、言葉の意味のニュアンスとか、比喩とかの理解に欠けているといいます。

 子供の段階で言葉を覚えるということは、意味については当然浅いもので、極端な場合には意味を知らずに言葉だけを覚えていたりします。
 単に言葉を多く覚えてしゃべることができるというだけでは、言葉を獲得したといっても表面的なものなので、ともかく反復して暗記させるという教育法には問題があるのです。


記憶にあれば分かった感じ

2007-08-25 22:54:21 | 言葉の記憶

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり.沙羅双樹の花の色.盛者必衰の理をあらわす.」という平家物語の冒頭部分は多くの人の頭の中に入っています。
 しかし祇園精舎とはなにか、沙羅双樹の花とはどんな花かなど、分らないまま覚えているのではないでしょうか。
 「ずいずいずっころばし」という昔の童謡の歌詞にしても、江戸時代の御茶壷道中に関係したものだという風に解説されていますが、ほとんどの人は知りません。
 意味を知らないまま覚え、歌ってきていたのです。
 こうしてみると、わたしたちは多くの言葉を記憶していますが、同時にすべてその意味を記憶しているわけではないことに気がつきます。

 昔は漢文の素読というのがあって、意味が分からないまま何度も音読させるという教育法がありました。
 何度も音読するうちに独特の韻律と同時に、漢字や漢語を覚えこむのですが、最初から意味を教えたりしないので、一部の人を除けば、意味の分からないまま覚えているということも多かったようです。
 「門前の小僧習わぬ経を読む」という言葉があるように、経文の意味を知らないまま暗記するということにも別段不審を感じなかったようです。
 つまり言葉の意味を知らないまま言葉を覚えこむことがむかしは当たり前だったのです。

 意味が分からないで言葉を覚えていても役に立たないではないか、というと必ずしもそうではありません。
 文章を読んだり、話を聞いているとき、知らない言葉ばかりが出てくると全体の意味が分りにくくなります。
 「分る」感じがするのは、聞いたり読んだりする言葉の多くが記憶と照合できるからです。
 読んだり、聞いたりした言葉を記憶と照合したとき、意味と照合できればよいのですが、中には言葉が記憶されているだけで、意味は記憶されていない場合があります。
 それでも見慣れているとか聞きなれているとか、記憶とうまく照合できると何となくわかったような気がして落ち着きます。
 要するにまったく知らない言葉にぶつかったときに比べ「分らない感」が薄れるので、全体の意味を把握しやすくなります。

 世の中が安定しているときは新しい言葉が出てくる量が少ないので、意味の分からないまま受け入れていてもそのうち消化できたのですが、最近のように激しい勢いで新しい言葉がでてくると消化できません。
 英語など外国語をカタカナで表記すると、とりあえずその言葉を受け入れることができ、何度か見慣れていくうちに抵抗感が薄れて分ったような気がしたりします。
 意味が分からないままに覚えてしまう言葉があまりに増えすぎれば、あたまの中が混乱してくるので、辞書を引く習慣が必要になっています。


類似色のストループ効果

2007-07-03 23:13:20 | 言葉の記憶

 ストループ効果というのは、文字を見ると自動的に音読しようとするため、文字の色を言おうとしても、文字の読みが干渉してつかえたり、間違えたりするとされています。
 文字の色を言おうとするのに、文字の読みが競合して干渉するというのは、文字の色を答えるの自動的かそれに近いということを前提にしています。
 「赤」「青」「黄色」「緑」のように、文字の色を見分けるのが楽に出来て、文字の色に注意を集中しなくても文字の色を答えられます。
 そのため文字の形のほうに注意が向けられ、それにつれて文字が自動的に読まれるため文字の色と競合してくるのです。

 もし色が簡単に見分けられないとすれば、どうしても色自体に注意が向けられますから、文字の読みのほうに向けられる注意は少なくなります。
 簡単に見分けらなければ文字の色を答えようとしてもすばやく出来なくなるのですが、これは文字を音読してしまいそうになるのを抑制しようとするからではありません。

 上の例では青系統の色だけを使っていて、文字の色を答えようとすると、詰まってしまって早くは答えられません。
 文字の色が似通っているのですばやく見分けることが出来ないためです。
 しかし文字の読みのほうはすぐに読めるからといって、文字を読んでしまうかというとそうはならないで、文字の色を見分けようとして止まってしまうのです。そのため、結果として文字の自動読みを抑制することになるのです。

 色というのは見ればすぐに見て取れるのですが、だからといってすばやく識別できるとは限りません。
 赤系統であれ、青系統であれいくつもの種類の色が名前をつけられて分類されています。
 似たような色が出てくるとそれらを見分けようとすると、自動的には出来ないで時間がかかってしまいます。
 そればかりか、色を見てその名前と結び付けるにも似たような色であれば時間がかかります。

 文字のほうは、意味が似ているからといって文字自体も似てくるわけではないので、そうした理由で読みに手間取るということはありません(漢字が難しくて読みがつかえたりすることはありますが)。
 ストループ効果といってもいろんな形態が考えられるわけで、文字の色が簡単に識別でき、文字が簡単に読めて、双方が自動的に処理できるときに、競合が発生するのです。


 


速聴と意味のまとまり

2007-03-31 22:44:33 | 言葉の記憶

 年をとると人の言葉が聞き取りにくくなりますが、これは聴力だけの問題ではありません。
 聴力が落ちて言葉が聞き取りにくいということのほかに、話のスピードについていけず、話が理解できない部分が出てくるという面があります。
 図はD.Cパーク「認知のエイジング」からのもので、音声を通常の話速の約二倍にした場合の理解度についての成績の低下度を調べたものです。
 高齢者は若者に比べ高齢者のほうが話速が早くなった場合(分即165語→300語)理解度が大きく落ちます。

 言葉が速くなると聞き取りにくくなるわけですが、単語と単語の間に無音の空白を入れて修復するとどちらの場合も成績が向上します。
 この場合空白を入れる場所を文節や文章の終わりに入れる統語修復のほうが、ランダムに入れた場合より成績は向上しています。
 単語の発音の速さが同じでも、文節や文の終わりなど、意味のまとまりに対応したところで空白を入れて、区切りを明らかにすれば理解しやすくなるので再生成績が上がるのです。

 音声のスピードが速くても、意味のまとまりに応じて適当な区切りを入れて、処理時間を与えられれば、理解しやすいということなのです。
 つまり文章の意味処理にある程度の時間が必要で、その時間は文節や文の終わりなど意味の区切りの場所に取れば意味が理解しやすいということです。
 普通に理解できるスピードというのは、意味処理をする時間をとっても追いついていけるスピードです(話が難しければ処理時間が長くなり追いつけなくなりますが)。
 
 高齢者に話をするときは、単にゆっくり話せばわかりやすくなるというのではなく、意味のまとまりごとに間を入れることが重要ですが、高齢者サイドではなるべく速い音声スピードに慣れようとする努力が必要です。
 より速いスピードに慣れれば、意味処理をする時間を取りやすくなるので、意味がわかりやすくなり、話が聞き取りやすく感じるようになります。
 速聴の効果というのは、単に速い音声スピードで聞き取れるということだけでなく、意味処理をする時間を余分に得られることで理解力の向上がはかれるという点にあるのです。。
 


漢字の記憶

2007-03-26 23:44:56 | 言葉の記憶

 単語を漢字でどう書くかといわれて、すぐに思い出せない場合があります。
 思い出せないといっても完全に記憶がなくなったというわけではなく、漢字を見れば思い出すことができるのですから、記憶からうまく引き出せないということになります。
 それにしてもその漢字を見れば「これだ」と分かるわけですから、意識にはなくても意識される手前まで記憶が浮かんできているということになります。
 挨拶、折衷、怨恨、叡智、皆既日食、激昂など、書きなれていなければすぐに文字が出てこないけれども見れば読めて意味がわかるのですから、記憶はあるわけです。
 記憶されているけれども、うまく引き出せないか、あるいは記憶が明瞭でなく文字を見ることでしか確かめられないということです。

 記憶が不明瞭だと、読むときは書かれた文字が正しければ問題はないのですが、一部分が間違っていても気がつかないという場合があります。
 決選投票を決戦投票と書き間違ったものを見ても気がつかなかったり、自分が書く場合間違ってしまったりするのです。
 漢字は意味を表すということからすれば、読み方はあっているのに意味が違う漢字を当ててしまうというのはおかしいはずです。

 ところが、倦怠期を倦退期としてしまったり、厚顔無恥を厚顔無知としてしまったりするのは誤った字を当ててもその部分がそれなりの意味を持つので、元の意味を部分的に連想させることができたりします。
 元の意味をはっきり記憶していなければ、間違った字が当てはめられても、そこからの連想とつながれば納得できてしまうのです。
 ワープロの漢字変換が奇妙な変換となる話はよく話題になったものですが、熟語となればワープロのほうが間違えることは少なく、間違えるのは人間だけとなります。

 一つ一つの漢字の意味からの連想が得られると、単語の書き方は一通り以上が可能で、そうなるとどの文字を当てはめた場合が適当かわかり難くなります。
 最初は一通りの書き方であっても、別の漢字を当てたときそこからイメージされる意味が適当であれば別の書き方が間違いだと退けにくくなります。
 そうなると一つの単語について二つ以上の書き方を許してしまうことになります。
 同じ単語について漢字が一通り以上当てられるということは、外国人にとって難解なだけ出なく、日本人にとっても不便です。
 どれを標準的な表記とするかを決めれば、ワープロの場合はそれを記憶させておけばよいのですから、人間は迷わなくてすむようになりますし、標準的な表記を踏まえたうえで自由連想をすればよいのです。


連想と推論

2007-03-25 22:58:46 | 言葉の記憶

 「一、二、三角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いはうさぎ、、、」としりとり式に連想をつなげていき、最後は「光るは親父のはげ頭」というようにおかしな結果になる言葉遊びがあります。
 「いろはに金平糖、金平糖は甘い、甘いは砂糖、砂糖は白い、白いはうさぎ、」と始まっている場合もありますが、要するに連想をつなげていって、意外な結果に結びつけて面白がるというものです。

 連想をつないでいって意外な結果に結びつけるという点では「風が吹くと桶屋が儲かる」という話も同じです。
 「風が吹けば砂埃が舞う、砂埃が舞えば盲が増える、盲が増えれば三味線引きが増える、三味線引きが増えると猫が減る、猫が減ればネズミが増える、ネズミが増えれば桶がかじられる、桶がかじられれば桶屋が儲かる」というふうに連想をつなげていくと意外な結論が得られるというので面白がるのです。

 まじめな人はこういうのをこじつけの理屈の例として見ますから、「その理屈は風が吹けば桶屋が儲かる式の詭弁だ」などといって、相手の議論が非論理的であることのたとえにします。
 これが「風が吹けば埃が舞う、埃が舞えば眼病が増える、眼病が増えれば目医者が儲かる」というようになれば多少論理的になりますが、少しも面白くありません。
 連想が意外な結果に結びつくから面白いのですが、連想によるつながりを、そのまま実際の関係と思い込んでしまって、そのことに気がつかない場合もあります。
 
 たとえば、語源説には連想から得られた思い付きが、実際の関係だと思い込なれてしまっている例がかなりあります。
 「はたらく」とは、「傍を楽にする」というような説明は「はた」と「らく」という音韻から思いついたもので、面白がっているうちはよいのですが、感心しているうちに実際の語源と勘違いする人も出てきます。
 「たわけ」は「田を分ける、つまり子供に田を分割して相続させればすべての子供が貧しくなるからおろかな行為を意味する」というようのも語呂合わせからの思いつきですが、ほんとの語源と信じている人も多いようです。
 
 「はたらく」ことが自分本位でなく、他人の幸福につながるようにせよ、という教訓に結びつけるためにはこのような語源説は有効でしょうし、「たわけ」というのは「おろか」という意味だと記憶するには有効な語呂合わせです。
 面白く、印象が強いので説得力があり、信じられやすいのです。
 


プライミングと連想

2007-03-24 23:41:53 | 言葉の記憶

 「猫」という言葉を聞いてどんな言葉を連想するかといえば、ねずみとかキティ、犬、ペット、マタタビ等々いろいろでしょう。
 ところが前もって「骨」という言葉を聞いていれば「犬」という連想が出て来やすくなります。
 代わりに、前もって「ストーブ」という言葉が示されていれば、「コタツ」という言葉が連想されやすく、「鈴」という言葉が示されていれば「ネズミ」という言葉が出て来やすくなります。
 前もって示され単語に関連する意味が活性化するので、「猫」という言葉が示されたとき連想される単語が絞られるからですが、「犬」とか「こたつ」といった単語を連想するのが正しいということでは必ずしもありません。

 以前NHKで「連想ゲーム」というテレビ番組がありました。
 これはラジオ時代にあった「二十の扉」の延長上にあるような番組です。
 「二十の扉」はアメリカで人気があったクイズ番組をまねしたようなものだそうですが、これは「それは植物ですか」とか「それは食べられますか」などと出演者が質問していって答えを絞り込み、正解を推理するものです。
 連想ゲームの場合は、連想なので正解を求める必要はないと思うのですが、連想の面白さを引き出そうというのではなく、やはり正解を出させるクイズにしていました。
 (洋服、兄弟、順繰り)と三つの言葉がヒントとして示されれば、「おさがり」というのが正解という事になり、(反響、山)というヒントなら「こだま」というのが正解となります。
 
 このゲームではキャプテンが答えを知っていて、ヒントを出すごとに回答者が思いついた言葉をいい、正解でなければさらに別のヒントを出し、正解にたどり着く速さを競うものですが、ヒントによってかえって混乱してしまう場合があります。
 言葉に対する反応というものは人それぞれで、特定の言葉が示されれば必ず同じ言葉が連想されるわけではないのです。
 ヒントを出す側は、相手の反応を予想してヒントを出すのですが、相手の反応が予想外であったりします。
 回答者の反応に対応してそのつどヒントを考えて出すので、ヒントに一貫性がなくなり、回答者は直前のヒントに反応して混乱したりします。
 この場合の連想の意外さというのは、混乱によるもので連歌のように相手の言葉に対する連想から新しい発想を得るというものではありません。
 はじめに正解を決めておくため、面白さというは間違え方の面白さしか出てこないのです。


プライミングと掛詞

2007-03-20 23:41:06 | 言葉の記憶

 「この帽子はどいつ(何奴、ドイツ)のだ。そりゃおらんだ(俺、オランダ)」というように、音の類似性だけをとりあげると、駄洒落といって一度は面白がられてもあまり評価されません。
 「帽子をかぶるとアタマあったまる」などと同じ音のことばが飛び出してくるのは、一種のプライミング効果です。
 ただ単に同音異義語を思いついて言うのではなく、並べて関係付けることで面白がるものです。
 文学とか芸術という観点からは低級とされるかもしれませんが、いちがいにくだらないと否定すべきではありません。

 和歌などで多く使われる掛詞はまさに同音異義語の活用で、見方によってはダジャレといえなくもありません。
 「足曳きの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」など尾の長さと夜の長さをかけているので、意味的には「長々し夜を ひとりかも寝む」というだけのことです。
 「花の色は うつりにけりな いたづらに わがみよにふる ながめせしまに」という歌でも、「花の色、ふる、ながめ」が掛詞になっていて、実際に花を見ての感想から作られたのか、頭の中で作ったのかわかりません。
 「花の色」は比喩として女の容色を指しますが、この歌の中では花の色と二つの意味で使われて掛詞になってもいますから、掛詞が三つにもなっています。

 こうした場合には、言葉遊びに過ぎないというような否定的な評価をする人は少ないでしょうが、遊戯的な要素は確かにあるのです。
 万葉集とか古今集とか古典になると、ありがたみが出てしまって言葉遊びなどといえないのでしょう。
 「世の中に 蚊ほど(かほど)うるさき ものはなし ぶんぶ(文武)といひて 夜も眠れず」というように、狂歌になればこれは掛詞を使って、皮肉を言って面白がっていると評価できますが、古い時代のものには遠慮が出るのでしょうか。

 食べ物にしたところで、栄養にならないものはすべて無駄というわけではありません。
 楽しみとか、元気になるとか栄養以外の効用があるものも必要です。
 ダジャレのようなものも無意識のうちに出てくることで、潜在する言葉のつながりを表面化させ、活性化する効用はあります。

 当て字というのもダジャレの親戚ですが、最近の子供の名前付けのように、無理に当て字をこじつけるのは、子供には先々迷惑になる可能性はあります。


プライミングとダジャレ

2007-03-19 00:08:01 | 言葉の記憶

 「十回クイズ」というのがあって、「ピザ、ピザ、、、」と十回言わせた後「ここは何?」と「ヒジ」を示すと「ヒザ」と答えてしまう人が多いそうです。
 心理学ではプライミング効果と呼んでいますが、先に出てきた言葉が無意識のうちに、あとの言葉に影響を与えてしまう現象です。
 
 落語に鶴の語源というのがあり、「老人が唐土のほうを眺めていると雄の首長鳥がツーッと飛んできて松の枝にポイととまった後、雌の首長鳥がルーッと飛んできて松の枝にポイととまった。それまで首長鳥と思っていたが『つる』だなと思った」
 という説明を聞いたあわて者が、他人に聞かせようとして「鶴は首長鳥といったのが、鶴というようになったのは、雄の首長鳥がツーッと飛んできて松の枝にルッととまった。その後雌の首長鳥が、、、、」とつまってしまいます。
 あわて者の場合は最初に「つる」という言葉を口に出しているので、「ツーッ」といった後に、つい「ルーッ」といって失敗をするのです。

 これらの例は、前に言った言葉が後の言葉に直接影響を与えるので、直接プライミングというのですが、無意識のうちに言い間違ったりするので、マイナスのイメージでとらえられますが、必ずしもマイナスのものとは限りません。
 
 語呂合わせとかダジャレの類では、前の言葉につられて不意と出てくる別の意味の言葉を並べて面白がるものです。
 「あたりき、しゃりき、車引き」とか「車でくるまでもない」など語呂合わせでひょいと出てくるものを意識的に並べるだけで、特別の意味があるというわけではありません。
 「その手は桑名の焼き蛤」とか「おそれ入谷の鬼子母神」などといった無駄口も意味はこれといって結びつかないのですが、語呂合わせの面白さで使われてきた文句です。
 面白いといっても常套句をことあるごとに使われるとうっとうしくなったり、陳腐な駄洒落をやたらと聞かされると勘弁してほしいと思うこともあります。
 また言葉を論理や情緒の表現手段としてまじめに考える人からすれば、無意味にしか思えないかもしれませんが、余分なものには余分なものの効用があるので、全面的に否定するべきではないと思います。