60歳からの視覚能力

文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために

「が」と「は」と冠詞

2008-03-02 23:06:20 | 言葉と意味

 日本語には英語のaとかtheのような冠詞はありませんが、養老孟司「バカの壁」では、日本語にも冠詞の機能をするものがあり、それは日本語では格助詞の「が」と「は」だとしています。
 たとえば①のような英文は「机の上にリンゴがある。そのリンゴは...」ということですが、この場合のan appleは特定のリンゴでなくリンゴという概念を指し、The appleは具体的な特定のリンゴを指すとしています。
 つまり冠詞のaとtheは概念と具体的なものを分ける機能を持っているのですが、日本語でもそういう区別をする機能があって、それは「が」と「は」と言う助詞が果たしていると言います。
 その証拠として②の文が上げられていて、最初の「おじいさんとおばあさんが」というときはまだ、どのおじいさん、おばあさんと決まっていないので、不特定の「おじいさんとおばあさん」(という概念)で、つぎの「おじいさんは」というときは、特定の「おじいさんとおばあさん」をさすので、「が」と「は」が冠詞と同じ役割を果たしていると言うのです。

 ところが例にあげられている文には、「山」とか「芝刈り」という名詞が出ていて、「芝刈り」はともかくとして「山」には英語なら冠詞がつくはずです。
 日本語のほうには「山へ」と「へ」という助詞がついていて、「が」とか「は」となっていません。
 この山がa mountainなら「山が」となり、the mountainなら「山は」となるはずですが、そういう日本語表現はありません。
 「おじいさんは山が芝刈りに」も「おじいさんは山は芝刈りに」も意味がわからなくなります。
 aとtheが「は」と「が」に対応するといっても、たまたまそういう例があったということにすぎず、短絡した説なのです。
 
 write a letter in the sandというのを「手紙が砂は書いた」と訳したのでは何のことやらわかりません。
 簡単なthis is a penにしたところで、「これがペンです」とは訳さず「これはペンです」と訳すので、aは「が」に対応するというわけではありません。
 またaが概念、theが特定のものに対応するというのも、一概に言えることではなく、③の例のような例では、aでもtheでもいずれも特定のものを示しているのではなく、[ビーバーはダムを作る」と一般論を述べています。

 冠詞は名詞の前に来るのに、日本語の格助詞は名詞のあとに来ているので、単純に考えても機能が違うことが予想できるのですが、著者は機能がまったく同じだとし、「ギリシャ語を調べると冠詞は助詞の後にきてよいことになっている」と主張しています。
 ギリシャ語がどうだからといって、日本語の助詞が冠詞と同じ機能だという根拠にはなりません。
 ギリシャ語などを持ち出されれば、普通の人はわけがわかりませんから「そんなものか」と思うかもしれませんが、こういうメクラマシは感心しません。

 ギリシャ語などまったく知らないので、一応ギリシャ語の解説書などをのぞいてみると、ギリシャ語には名詞+冠詞+形容詞という形もあると(名詞の後に冠詞が来るということとは違うようです)書いてあります。
 ただギリシャ語は名詞が格変化をするので、日本語の格助詞の機能は名詞の各変化の中に織り込まれているため、冠詞とは関係なく「が」とか「は」という意味を得ることができます(ギリシャ語では名詞がたとえば「おじいさんが」「おじいさんの」「おじいさんを」「おじいさんに」というふうに語尾変化するのです)。
 名詞ばかりか冠詞も形容詞も格変化するのでギリシャ語は、語順を変えても意味が通じるということで、さらに英語のthis is a penのaのような不定冠詞は使われないともいいます。
 
 英語のa,theと「が」「は」が対応しているように見える例がたまたまあったところからヒラメイた説なのでしょうが、ヒラメキが面白いとそれにに目がくらんで固執してしまい、付会に走るのはこまりものです。


「話せばわかる」は大嘘?

2008-03-01 23:28:01 | 言葉と意味

 「まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか。」と犬養首相は何度も言いましたが、「問答無用。撃て。」と青年将校らは犬養首相を銃撃。
 それでも犬養はしばらく息があり、駆けつけた女中に「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったといいます。
 犬養首相が銃撃されながらも「話せばわかる」と言ったのは、青年将校たちと立場が違っても、国のために尽くそうという点については共通の心を持つと考えたからでしょう。
 共通点があるから、話をすれば相手に自分の意志が伝わり、了解されると思ったので撃たれてからも「よく話して聞かせる」と言ったのだと思います。

 世の中には、「話せばわかる人」、「話してもわからぬ人」、「話さねばわからぬ人」がいるだけでなく「話を聞こうとしない人」がいます。
 こういう人は話せばわかるかもしれないけれども、話を聞くことを拒否するので結果としては「話してもわからぬ人」と同じことになります。
 犬養首相の時代には「話せばわかる」があたりまえではなくなり、「話してもわからぬ」場合が増えはじめたのです。

 養老孟司「バカの壁」と言う本には「「話せばわかる」は大嘘」」とありますが、こういう表現は何となく奇異な感じがします。
 ふつう「話せばわかる」というのは話者の判断であって、間違いだということはあっても、嘘だということでは必ずしもありません。
 「話せばわかる」というのが常に正しいということではなく、「話してもわからない」人がいることはたいていの人が知っています。
 ですから「話せばわかる」は大嘘だと言われても、何でことさらにそんなことをいうのか不思議に感じます。
 
 そこで本に書かれている内容を見ると、著者が「話してもわからない」と痛感した例として、某大学の薬学部の男女の学生にある夫婦の妊娠から出産までを詳細に迫ったドキュメンタリー番組を見せたときの、男子学生の反応を上げています。
 女子学生たちはは「大変勉強になった」としているのに、男子学生たちはみな「こんなことは既に保険の授業で知っているようなことばかりだ」と答えたのだそうです。
 男子学生は「出産」についての実感を持ちたくないので、ビデオを見ても積極的に発見をしようとしない、つまり自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっていて、ここに壁が存在するというのです。
 著者はここで「これも一種の「バカの壁」です」と突然「バカ」と言う言葉を出しています。

 「これも」というのでその前に例があるかと思って読み返しても、これが初めての例なので、「バカの壁」というのは普段からの著者の口癖なのでしょう。
 それはともかく「わかろうとしない」から「バカ」と決め付けるのはどういうことかわかりません。
 また、このことから「話せばわかるは大嘘」と結論する理由はわかりません。
 著者は犬養首相のように「話せばわかる」と対話を求めたわけではないようなので、男子学生がビデオから素直に学ぼうとしないことで、「話してもわからない」と判断したようです。
 
 この例を見る限りでは「話せばわかる」は、別に大嘘ということにはなりません。
 「話せばわかる」ということばの「話す」は一般的には、相手に話しかけるとか話し合うということで、ビデオを見せることではありません。
 また「わかる」は「了解する」と言う意味で、ビデオから学ぶと言うようなことではありません。
 「わかろうとしない」ということを知識欲がないという意味に短絡させたために「バカの壁」と言う表現が生まれたように感じます。

 


ことわざの説得力

2008-02-26 23:36:03 | 言葉と意味

 ことわざが人を納得させるのは、経験や観察から得られた真理とか知恵のようなものがあると思われるからです。
 ところが「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがあるかと思えば「船頭多くして船山に登る」などとちょっと矛盾するものもあります。
 「好きこそものの上手なれ」というかと思えば「下手の横好き」というものもあります。
 このような例から見るとことわざに含まれる真理というものは、大体において一面的なもので、状況に応じて適用されるような相対的なものであるといえます。
 ことわざは「あっ、そうかあ!」「分かった!」というような感覚をもたらすので、いわゆる「アハー体験」と似ている面があります。

 ことわざを文字通りに取れば短絡思考そのもので、「渡る世間に鬼はない」という場合でも、鬼のように薄情な人間ばかりと思っていたら、たまたま情け深い人に出会ったというような体験をすれば「そうか!」と思います。
 人の性は善だと思っていたらだまされてしまったという経験を持つと「人を見ては泥棒と思え」ということわざが見に迫るものとなるのでしょう。
 どちらも間違っているわけではありませんが、一面的であるという点では短絡的です。
 
 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」とばかり思い切ってやってみたら、失敗してしまってひどい目にあえば「君子危うきに近寄らず」といわれたりして納得してしまうということになったりします。
 いってみれば結果論で、結果に応じてもっともらしい理屈付けが用意されているといえないこともありません。
 ことわざが世間知として、人を説得したり屈服させたりするはたらきを持つ場合があるのは、表現力が豊かだからでもありますが、論理の一面的で断言的だからです。

 最近では「渡る世間は鬼ばかり」とか「二兎を追わねば一兎をも得ず」というふうに元のことわざを単純に伐り返したようなものがありますが、これらも意外と説得力を持っています。
 状況や立場が変われば「渡る世間に鬼はないとは限らない」というような論理的に正しいものより、一面的で断言的な「渡る世間は鬼ばかり」という言い方のほうが説得力を持つのです。
 切り返しのことわざが意外と説得力があるということは、一面的で短絡的で
断言的な表現が強い説得力を持つということで、説得力が強い説には一面的で短絡的なものが多いという例の一つです。


漢字の透明性というのは

2007-09-18 22:58:17 | 言葉と意味

 Aのような漢字熟語は文字の意味が分かるので、組み合わせて作った言葉の意味が分ります。
 「落葉」、「水草」などは「ラクヨウ、おちば」「スイソウ、みずくさ」のように音読みでも訓読みでも意味が分かります。
 「禁止」「釈放」などは音読みであっても「禁じ、とどめる」「ゆるし、はなつ」と一つづつの漢字の意味を理解していれば熟語の意味が分かります。
 「電気」「電子」などは意味がよく分らなくても電気に関係した言葉だということは見当がつきます。
 このような例から、漢字は表意文字なので文字を見れば単語の意味が分かるし、完全に分らなくても見当がつくので、漢字で表現された言葉は透明性があるというふうにいわれることがあります。

 ところが漢字熟語はこのようなものばかりではなく、文字を見ても言葉の意味がわからないものはいくらでもあります。
 「皮肉」は皮と肉で身体のことを言いますが、「あてこすり」という意味はいくら頭をひねっても出てはきません。
 「青年」は「青」を「あお」と理解すると意味が分からず、辞書を引いて「若々しい」と知って意味が理解できます。
 「先生」は「先に生まれたから」という解釈では皮肉になってしまい、「まず生きている」などとエスカレートしてしまいます。
 「ヤボ」「シンジュウ」「セワ」「ムチャ」などは読み方が分かれば意味は分るでしょうが、漢字の意味と言葉の意味は結びつきません。
 「キキョウ」「リンゴ」「ニンジン」「ボタン」などの植物名の多くは読みが難しく、読めたところでドウシテこのような漢字が当てられているか分りません。
 なまじ漢字で表現されているために何のことかわからなかったりすることもあるのです。
 こうした言葉は漢字から意味を理解して覚えるのではなく、言葉をどのような漢字で書くかを覚えるもので、漢字の透明性はありません。

 「簡保」「農協」などの略語は「簡易保険」「農業協同組合」のように略さないで書けば文字から意味が分かりやすく透明性があるのですが、略してしまうと意味が分からなくなり、不透明になります。
 略語ができたときはもとの言葉が頭にあるので略語の意味が分かるのですが、後から略語だけを示された場合は意味が分からなくなります。
 分りやすくても長い言葉を避け、分りにくいけれども短い略語のほうを使うようになるのは、漢字の透明性ということを重要視していないからです。
 「簡保」「農協」といった言葉がどんなものかを理解すれば、漢字の意味を追求したりしないで、「カンポ」「ノーキョー」などカタカナで表現したりすることさえあるのです。
 言葉としての意味が分かれば、漢字の意味との一致ということにあまりこだわらないというのが実情ではないでしょうか。


漢字の意味に無頓着

2007-09-17 22:56:44 | 言葉と意味

 「出処進退」とか「新陳代謝」といった言葉の意味は分っていても、「処」とか、「陣」、「謝」の意味は?と改めて聞かれると、たいていの人はハテナと改めて漢字の意味を知らずに言葉を使っていたことに気がつきます。
 熟語を構成している一つ一つのかんじの意味が分かってからその熟語の意味を理解したのではなく、熟語の意味を全体として覚えているのです。
 意味が分からない漢字が含まれていても、全体の意味が分かれば辞書を引こうとしないからですが、読みが分ると安心してしまうのかもしれません。

 個々の漢字について意味を確かめていないで、熟語全体の意味を覚えていると「出所進退」と誤記されてあっても気がつかなかったり、書くときに間違って書いたりする可能性があります。
 あるいは熟語の意味が本来と違って解釈されていても気がつかなかったり、違った解釈をそのまま覚えたりすることもあります。
 たとえば「直情径行」の「径」は「すぐに」という意味で、自分の思ったことをすぐに行動に動かすことです。
 周りや前後の事を考えずにすぐ行動に移すということで、本来は非常識あるいは野蛮な行動という意味ですが、「直情」のほうに注意が向くと、素直あるいは正直というようにほめ言葉として使われるようになります。

 漢字は一字につき意味が一つではなくいくつもあるのですが、よく使われる意味の場合は熟語もなるほどと意味が良く分ります。
 たとえば「陳列」の「陣」は並べるという意味で、「陳列」が並べるという意味だというのは明快です。
 ところが「陳腐」の場合は「陳腐」を「ありふれた」という意味だと覚えていても、「陳」がどういう意味なのか(「ふるい」)疑問に思わないままでいたりします。
 「同僚」の「僚」は「ともだち、仲間」の意味ですが「官僚」の場合は「ともだち」では変です。
 「姑」は「しゅうとめ」ですが「姑息」は「姑の息」ではありません。
 「姑」は「そのままにしておく」ということで一時しのぎのことです。
 
 「姑息」の場合は文字から言葉を覚えるよりも耳から覚える場合のほうが多いようで、「ひきょうな」という意味で理解している人のほうが多いようです。
 文化庁の調査では、もとの意味で理解している人はわずかに12.5%なのに、「ひきょうな」という意味と思っている人は70%にもなるそうです。
 同じように「憮然」という言葉の場合も「失望してぼんやりしている」という元の意味は16%なのに、「腹を立てている」という意味にとる人が69%もいるそうです。
 なぜこのようになるかを考えてみると、おそらくこれらは漢字よりも言葉の響きから意味を感じ取っているのでしょう。
 「コソク」は「こそついている」ように感じられ、「ブゼン」は「ぶすっと」しているように感じて、漢字の意味がわからないまま熟語の意味を理解しているのではないでしょうか。
 けっこう漢字の意味には無頓着なままに、漢字熟語を使っている人が多いところを見ると日本人はそれほど漢字に依存してはいないような感じもします。


言葉の音感で解釈する場合

2007-09-16 23:06:36 | 言葉と意味

 最近、政治家がよく使う言葉に「粛々」という表現があります。
 「粛々と国会審議を進める」とか「法案を粛々と成立させる」といった言い方や「派閥がまとまって粛々とこうどうする」などという言い方もあります。
 「粛々」といえば有名なのは「鞭声粛々夜河を渡る、、、」という頼山陽の漢詩の一節がありますが、この場合の「粛々」はひそかに音を立てないという意味です。
 上杉軍が相手に知られないように河を渡った様子を描写したもので、音がしないようにひそかにということです。
 政治家の言う「粛々」は「国会審議をひそかに進める」とか、「法案をコッソリ成立させる」などとなれば、これはもう議会制度の否定ですから、「静かに目立たないように」という意味で使っているのではないでしょう。
 
 文脈から判断すれば、「整然と着実に」といった意味で使っているらしいのですが、辞書を引いてみるとそれらしき意味は載っていません。
 おそらく「しゅくしゅく」という音感がなんとなく整然と前進するように感じたものと思われます。
 鞭声粛々というとなんとなく鞭の音が「しゅくしゅく」と鳴るように感じてしまって、同時に行軍の様子を表しているように感じたのかもしれません。
 漢字の意味でなく音感で理解したのでしょう。

 「職責にしがみつかない」という表現は漢字の意味からはおかしいのですが、「しょくせき」と発音したとき何となく「せき」の部分が「席」を連想させ、「席にしがみつかない」という発言をしてしまったものと考えられます。
 「職席」という言葉はなかった言葉ですが、誰かがうっかり「職席」というような表現をしてしまうと、熟語としてありそうな感じなので、聞いたほうも何となく受け入れてしまったのではないでしょうか。
 「しょくせき」という音感から「職席」というあるかもしれない意味を感じてしまう人もいるということなのです。

 「檄を飛ばす」という表現にしても、激励する意味で使うのは間違いだとしばしば指摘されているのにもかかわらず、新聞記事などにもいまだによく見られます。
 「檄」は「ふれぶみ」という意味だということですが、「檄」という文字だけを見て意味が分かる人はそう多くありません。
 たいていの人は「げきをとばす」という言葉を聞いて音感から「激をとばす」という意味に解釈するのものと思われます。
 「檄」じたいはもう死語になっていて、「げき」と聞いて「檄」だと思う人は少なく、ほとんどの人は「激」だと思うのですから、そのうち「激を飛ばす」が正式となるでしょう。

 こういうふうに誤解の例を見ると、言葉というものは間違って覚えたりするのはよくあるものだということと同時に、同じ言葉についてすべての人が同じ意味で解釈するということはないということに思い至ります。
 だれでも思い違いがあったり、うろ覚えがあったりするだけでなく、推測や新解釈も加わったりするので、人によって意味解釈が違うということはありうるのです。


文字だよりの誤解

2007-09-15 22:49:37 | 言葉と意味

 上手投げといえば相撲で相手の腕の上からまわしをとっての投げ技ですが、野球では上から投げ下ろす投球を指すという事になっています。
 広辞苑には「オーバー.スローの訳語」となっていますが、英和辞典でover.throwを引くと、なんと「暴投する」、「ひっくり返す」とあります。
 上手投げに相当する言葉はoverhand.throwです。
 広辞苑の説はまさに「暴投」なのです。
 overhand.throwを日本語訳したのが「上手投げ」で、上手投げを英訳してover.throwとしてしまったために「オーバー.スローの訳語」となったのでしょう。
 日本語の「上手」は「手を上に持っていく」という意味でなく「上のほう」という意味なので[オーバー.スロー」と訳したものと思われます。
 下手投げも「アンダー.スローの訳語」とあるのですが、under.throwのほうはじしょにはなく、underhand.throwはあります。
 漢字にしてしまうと、もとの言葉の意味よりも漢字表現に引きずられて意味を解釈してしまうからこのようなことが起きるのです。

 「自然」という言葉は日本語としては「おのずと」あるいは「万一」という意味だったのですが、明治になってnatureの訳語として使われるようになりました。
 natureの訳語としては「天然」というのもあって、この方が現在の意味の「自然」にちかいのですが、「自然」のほうが訳語として定着しています。
 natureには「自然の法則」というように、予測可能というとらえ方だけでなく、地震などの自然災害のように人間には予測できないというとらえ方もあります。
 natureは「人工」と対比されることがあるため、「自然」を予測できないもの、「人工」を予測できるものというふうに単純に割り切る考えも出てきたりします。
 
 「命題」という言葉もprpositionの翻訳語で「真偽を判断する文」の意味ですが、「命題」という言葉の「命」という漢字から「使命」の意味を連想し、至上命題などという言葉が使われるようになっています。
 漢字表現は知らない言葉でも漢字を頼りに意味が推測できる場合があるため、便利ではあるのですが、かえって誤解を招くこともあるのです。
 「君子豹変す」という言葉の意味は、個々の漢字を知っているので、何となく意味が分かるような気がするでしょうが、一番多い誤解は「豹変」を「豹になる」と解釈するものです。
 何から豹に変わるかは分らないが、豹のような猛獣に変化するとなれば、凶暴な態度になると感じてしまうでしょう。
 辞書には「豹の毛が抜け変わって鮮やかになるように、君子が過ちを改めると面目を一新する」というふうに道徳的な解説となっています。
 豹が毛が抜け替わっても豹は豹ですからこのようにとってつけたような解釈はヘンです。
 「君子豹変」という言葉は「大人虎変」と一緒に出てくるので、大人も過ちを改めると面目を一新するというべきなのに、なぜか君子だけが問題になっているのは、君子といえば道徳的という先入観があるためです。
 「君子」を道徳的に優れた人と思い込んでいるために出てくる解釈なのです。
 


言葉の意味の読み込み

2007-09-11 23:08:50 | 言葉と意味

 アメリカの幼稚園でうまく工作のできた幼児に、それを見た先生が「Good job」と誉めたそうです
 それを見た日本人がいたく感心して、「いい仕事をしたね」と誉めることで、いい仕事をすることが喜びだということを幼児の頃から教えていると思ったそうです。
 「こういう教育を受けていれば子供は仕事が嫌いにならないだろう、働くのが嫌いになったりはしないだろう」とまで考え、日本との差に思いをいたしたそうです。
 
 いわゆる「アメリカでは」「イギリスでは」といった「ではの守」の話の一例なのですが、言葉に普通の意味以上のものを読み込もうとする例でもあります。
 アメリカ人が日本人より勤労意欲があって、仕事熱心などとは一般論としていえないのに、なぜかアメリカの教育が優れていると思い込んでいるのです。
 「Good job」と言って幼児を誉めたのは「よくできたね」というのが常識的な解釈で、幼稚園の先生は工芸品の鑑定人ではないのですから、「いい仕事をしたね」などというわけはないでしょう。
 good morningだって挨拶としては単に「おはよう」と言う意味なのに、「よい朝」だと深読みをすれば、「アメリカ人はプラス思考で積極的だから挨拶の仕方が違う」などと言うことになります。

 なにかといえばアメリカの教育をよしとするのは、評論家だけのものではなく日本の大臣の発言にもあります。
 「アメリカでは小学校一年生の子供がto get a good jobと言って、いい仕事に就くために勉強している。動機付けが日本よりはっきりしている」と感心しています(この場合はgood jobは収入の多い仕事)。
 小学校一年生のときから有利な仕事の獲得を目指して勉強するというのは、日本の親の本音でもありますから、本音でなら日本の子供もアメリカと変わっていません。
 日本の教育制度はタテマエ上、子供の可能性を伸ばすとかいっているですが、本音のままのアメリカ式がよいとでもいうのでしょうか。

 言葉はもとの意味がどうであれ、現在使われている意味に解釈するのが常識なのですが、語源などを持ち出すときは、その人固有の意見が盛り込まれている場合があります。
 「いっしょけんめい」と言う言葉は、現在では「一生懸命」と書かれたりして、必死に努力するという意味で使われています。
 もとの意味は「一所懸命」で大事な土地(領地)というような意味ですが、現代人にはピンと来ないので、いまさらもとの意味を持ち出すのは地主かなんかかもしれません。
 
 一所懸命は実際の語源なのですが、「たわけ」のもとの意味は「田分け」だというような語源説になると、これはもとの意味にはなかった読み込みです。
 「田分け」というのはいわゆる分割相続のことで、田地の分割相続を繰り返せば零細化して没落してしまうので、愚か者を「田分け」といったというのです。
 「たわけ」は名古屋弁では「たーけ」といい、元来は「たはけ」と表記したので、「田をはける」というのはそれこそ「たはけ」です。
 「田分け」というコジツケ解釈は、農民あるいは地主からでてきた語源説なのでしょう。


分けると分るか

2007-09-01 23:14:38 | 言葉と意味

 人間は分けるのが好きで、言葉によってものを分類して名前をつけると言います。
 そこで、自然は連続で分かれているわけではないのに、言葉で名前をつけらると分かれているように見えてしまうということもできます。
 たとえば「首と肩はつながっていてどこからが首で、どこからが肩だか分らないのに、言葉では首とか肩とか分けてしまっている」というような言い方があります。
 つまり言葉は境目のないものでも切り分けてしまうというのです。

 しかしものを分けるというのは、言葉だけの性質ではありません。
 たとえばカエルはミミズや昆虫を食べますが、図のように視野の中に獲物が入ると顔をそちらに向け、両目で獲物を見つめ、舌を出して獲物を捕らえ呑み込んだあと口の周りを手でぬぐいます。
 言葉がなくても、獲物であるか獲物でないかを分けて、獲物であれば捕食するのです。
 自然の中にはカエルにとって獲物であるかどうかわからないものもあります。
 だからといって、目に入ったものが本当に獲物なのかどうか思い悩んでいては生きていけないので、適当に判断して捕食しているはずです。

 どんな動物でも好きとか嫌いとか、食べられるとか食べられないとか、敵かどうかといったことは言葉を持たなくても見分ける機能は持っていますから、分類能力を持っているわけです。
 分類するというのは言葉がなければできないということではないのです。
 人間はほかの動物と同じようにものを分類するのですが、言葉を持った結果分類して名前をつけるということをします。
 言葉によってつけられた名前は、多くの人間によって共有されるものなので、個人個人の経験や行動とは切り離されたものになります。
 
 人間は経験と切り離された言葉を使えるようになったおかげで、複雑なことを考えることができるようになったのですが、反面分らないのに分ったような気がするという問題もあります。
 子供は「あれなーに」と聞いて「あれは××というものだよ」と名前を教えられればそれで納得してしまいがちです。
 「どんなものか」ということの説明がなくても、名前を教えられるとそれで分ったような気がしてしまうのです。
 学校でも言葉だけを教えることができるため、分けのわからないまま言葉を覚えていて、それで分ったような気ですごしてきてしまったりします。
 こういう癖は大人になっても続いていて、新しいカタカナ語など最初はわけが分らなくても慣れてくると、いつの間にか分らないまま、それと気づかず自分でも使ったりするようになったりします。
 


分からないで言葉を覚える能力

2007-08-21 22:53:47 | 言葉と意味

 道具を使ってえさを引き寄せるといったことはサルでもすぐ真似をします。
 サル真似といえば、自分で工夫をしないで真似をして目的を達成するという意味で卑しめられますが、実際はサルは同じ道具を使っても自己流の使い方ですから、本当の真似ではないといわれたりもします。
 これに対し人間は方法もそっくり真似ようとして、どうかするとすぐに目的が達成されない場合もあります。
 サルが真似をするのははえさを手に入れるとか、気持ちがいいとか何らかの目的と結びついたときですが、人間はこれといった目的がなくても真似をします。
 なぜ真似をするかといった理由付けができなくても、つまり意味が分からなくても真似ができるのです。

 普通の人が覚える言葉の数は4万以上といわれていますが、これほどの数の言葉を覚えるのは大変なことです。
 なぜそれほどの言葉を覚えられるかというと、脳が発達しているからですが、意味が分からないままに人の言葉を真似る能力を持っているからです。
 日本には文字がなかったので漢字を取り入れた際に、たくさんの漢語を受け入れてきていて、中には完全に日本語化して気がつかないものもあります(たとえば、菊、梅、馬、気、絵など)。
 漢語を受け入れてきているといっても、意味が分からないまま使っているというものも結構あります。 
 たとえば卓袱(しっぽく)はテーブルクロスのことですが、卓袱料理といえばやや高級なイメージで卓袱台となればごく当たり前の低い食卓のことでいずれも卓袱の意味など知らないで遣っている人が多いようです。
 よく病コウモウに入るなどといいますが、コウモウというのはコウコウの間違いだなどと説明されてもソノコウコウの意味など頓着しません。
 知らなくても口真似で言葉を覚えてしまっているのです。

 かつては英語などのヨーロッパ語が入ってきた場合、いちいち漢字によって訳語を作っていたのですが、現在はストレートに英語などの単語を受け入れるようになっています。
 日本人は外国語を取り入れるのに抵抗が少なく、意味が分からないでも受け入れる能力があるのでいわゆるカタカナ語が急増しています。
 新しいことばが入ってくる場合はまだ良いのですが、最近は訳語があって、訳語のほうが分りやすいのにカタカナ語にする例があります。
 
 たとえばガバナビリティなどという言葉がどういうわけか使われ、しかもご丁寧に反対の意味に使われたりしています。
 辞書ではガバナビリティとは「統治されやすさ」ということで日本人はガバナビリティが高いなどといわれたら、大変屈辱的です。
 どうやら統治されるという意味でなく、統治能力と誤解して、政府のガバナビリティなどというような使われ方をしていますが、いったいなぜこんな言葉を使い出したのか不審です。
 
 コンプライアンスという言葉を使うのもいやみな感じで、辞書ではcompliance with the lawといえば法令遵守のことですが、コンプライアンスだけでは従順とか追従つまりおべっかのことでイヤなことばです(ついでに和英辞典で「お世辞」をひくと、complimentというのがでてきます)。
 普通の人はガバナビリティとかコンプライアンスとかいわれてもぴんとこないまま受け入れているのですが、政治化とか役人がこういう言葉を多用すると、国民に従順になれとかいうことを聞かなければいけないと、コッソリ説得しようとしているように感じてしまいます。